炎の娘

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13




 だれかが歌っている――
 その心地良い歌声に耳を澄ませていた。
 やさしい音色だった。まるで生まれて初めて聞いた、母の子守唄のようにやさしくて、甘く切ない。
 森射はずっとその歌声を聞いて育ってきたような気がしていた。
 あるときは母が歌い、あるときは森の木々が輪唱していた。またあるときは風がささやいてくれたりもしていた。
 動物たちは森射のひざで眠り夢を共有し、星は昔語りを教えてくれる。
 淋しいことなど少しもなかった。
 いつだって、みんながそこにいて、手をさしのべてくれているのがわかっていた。森にいるかぎり、森射はなにより大きな愛につつまれ守られている。流れる小川も、空を横切る雲も、みんな森射の友達であり親兄弟なのだ。
 愛が森射を育てた。
 たしかに、父親のわからない穢れた子、森の魔性との契りをもってうまれた魔女の子と云い責められたこともあった。
 目と髪の赤さが人間のようではないといって気味悪がられることもしばしばだ。
 さすがに幼いころの森射は、父の名前を聞きたいとおもっていた。
 それに、口数が少なく、いつも寂しそうな瞳をしていた美しい母の心のなかを、自分で一杯にしたいと願ってもいた。
 それでも母の沈黙は破られざる聖域だと思い、口をとざした。むやみに踏み込んではいけないのだ。
 どこにいってもみんなは森射を遠巻きにながめていた。
 目をあわさないように小声でささやくだけ。だが、森射は母の話しを聴かない以上、なにも反論できなかった。
 なにも言わないことで余計に不気味でかわいげのない子供だと、大人たちに厭われようともかまわなかった。森射にはむしろ、それは自分だけの時間を与えてくれる好意にさえ思うようになっていた。
 いつもからだの内から聞こえる声と対話していた。邪魔されたくなかった。心おきなく自然の教える叡智に耳をかたむけられるのだ。
 そんな中で唯一森射を気にかけ、話しを聞き、子供だと馬鹿にしたり、いい加減な態度をとったりはしなかったのが温羅だった。
 対等に対話し、さらに心を傾け砕き、自分だけをみつめてくれた。
 まるで本当の父親のように抱き上げては、自然ばかりが友達ではいけないと云い、人々の輪に連れてゆくと、森射のペースでゆっくりと人に慣れさせ、辛抱強く心をひらくのを待っていてくれた。
 森射は彼のぬくもりがすきだった。温羅のゆったりとした話し方が心地良くて、いつもそばにいてほしいとずっと願っていた。
 彼の温もりに守られているだけで幸せを感じられたし、同じような目をして見ている母をみるのは、もっと嬉しくて幸せになった。
 そんな幸福そうな彼女を、森射は自分といるときに、決して見たことがなかったのだ。
 だから、もしかしたら母の目に映る彼の姿を追っているうちに、母の思いにとりこまれ、必要以上に好意を抱いたのかもしれない。
 温羅の大きな愛情につつまれていたい。そんな風に誰かを愛し、愛されたい、そう思うようになってしまったのだ。
 奪いたいなどとは一度も思わなかった。
 ただ一度でいい、温羅の心を自分だけで占領してしまいたかった。吉備のことも、母やその他のどんな煩雑なこともすべて忘れ、ただ森射だけを思い、心を一杯にしてほしかった。
 望んだのは、本当にそれだけ。たったそれだけだったのだ。
 森射の瞳から涙がこぼれおちた。
 涙は宙に舞い、そのまま光の無数の粒となり、ふわふわといつまでも空間を浮遊していた。
 森射はいつからか、蒼く輝く美しい球体をみおろし、漂う星々にまぎれて四肢をなげだして、宇宙空間を漂っていた。
 自分を食む餓鬼のような子供たちの影がどんどん肉を殺ぎ落とし、あまたに存在していた浮世のしがらみを食いちぎってくれた。それらに絡めとられ、もがき息がつまりそうなのを、解き放っていってくれたような気さえする。
 心がひろがっていった。
 隠し抑えていた思いも、心も――過去の残像の何もかもが、もはや留まるところを失い体からあふれだしてゆく。のびのびとたゆたい、心地良く消えてゆく。
 目のまえの宝玉かとおもうような星さえも、まるで生まれてきた誰もがもつ心象風景のように幻想的で、あまりに遠くて、どこか物悲しさをさそっていた。
 子供たちは、とうとう骨までむしゃぶりつくし、よほど飢えていたお腹と心をみたしたのか、ようやく満足げにまどろんだ表情をして、サラサラながれ明滅しながら消えていった。
 彼らの残したたったひとつの未練のような、よじれるほどに悲しい音色がきこえてきた。
 もうずっと耳の端でそれを捕らえていたのだ。
 誰が歌っているのかもわからないかすかな声は、ここに来てから絶えることなく聞こえていた。
 ――私はこのまま消滅するのだろうか……。
 森射は歌声にまどろみながら、あらゆる痛みも感覚も、もはや過去へとすぎさってゆくもののように感じていた。
 もう自分がどんな姿なのか、どこまで食われ、どこまでが残っているのか、生きているのか、死んでいるのかさえわからない。
 なにかとても大切なことがあったような気がするのに、記憶がかき消されている。
 そんな風に思っている意識さえもが、本当に自分なのかどうかさえわからない。
 森射という固体が、なにをもってそう呼ばれ、存在しているのかあいまいになっていく。
 ――森射よ、心を解き放ち、我のもとにくるがいい。
 光におおわれたまばゆい空間の果てには、漆黒の闇が開かれていた。
 なにもない真っ黒な深淵の闇は、生きとし生けるものすべての生命の火を食らいつくし、消し去る無限の暗黒のようだった。
 その空間の闇は、まるで生物のようにのそりとよじり、森射にささやきかける。
 ――森射よ、もはやすべての心を開きはなち、最後のひとかけらまで我に見せてみるがよい。さあ、すべてを我に投げ与え、この偉大で無限の力をもつ神の一部となって安らぐのだ。
 『神の、一部……?』
 ――そう。おまえにはそれだけの力と叡智がある。生命の秘密を知るおまえこそが、この大宇宙の女王となる資格がある。我がもとに来い、人間の小さな枠から飛びたて。森射よ、ためらわずに参るがいい。
 闇がうごめき、先ほどに比べると、ずいぶん巨大になっているような気がする。
 無慈悲で冷たくて、震えるほど恐ろしいのに、心騒がされずにはいない何かが、どんどん近づいてきている。
 ――森射よ、我に秘密を与えるがいい。輪廻の枠さえ飛び越せるおまえの歌を、我に聞かせよ。まことのおまえがなんであるか、本当に理解し受け止められるのは我だけぞ。おまえのなかの闇は、我が闇と同じだけ大きくて昏い。そう、おまえは光を知っている。だからこそ、闇もまた大きいのだ。
 『そうだ、私は知っている。闇の大きさは光の大きさと同じだということを。人々は闇の中にあって、初めて光の美しさと尊さを知ることができる。胎内の闇はどんなにやさしくて温かいか。夜の母は、命の海だ。我々はそこから生まれてくるのだから――』
 闇は大きく震え笑った。
 森射の言葉は彼に力をあたえていた。
 ――もっと歌え森射、大いなるものの秘密を語り、我を満たせ。
 『私は知っている。私は、生命を愛している命の根源が、何で出来ているか知っている。それは、それはア――』
 催されるままに口を開きかけた森射はふと、そこに漂う光の群れに気をうばわれた。それは子供のかたちをしていて、愛らしく動いている。
 光りの子供は無心の笑みをうかべ、森射をじっとみつめていた。
 それはなんと、森射のすべてを食い奪いつくし、喰らいつくした、あの憐れで悲しい餓鬼たちではないか。
 だがあのときとはあきらかに違っていて、目に染みるようなやさしいエネルギーを放ち瞬いている。
 森射はその子供たちに手をのばした。抱き上げて欲しいのだとわかった。
 子供の愛おしさに惹かれ、もはや自分に残された、たったひとつの拠りどころのようなせつなさに胸がしめつけられた。たまらず光の子供に腕をまわし抱きしめる。
 もはや手も足も、体の一片の細胞さえない彼女にとっては、それは抱き上げたつもりだっただけかもしれない。
 けれど、確かにそれらは抱かれ、まばゆく心地良いぬくもりが森射をつつみ、潤わせる。波打っていた心が穏やかにさざめくのを感じていた。
 ――我がもとにこい森射。我とともに永遠の生命を手にし、世界を支配するのじゃ。
 声はまだ耳鳴りのように、森射の耳元でさやいた。
 ――妻となり、我の願いを聞き届けよ。いまこそ宇宙の秘密を暴け、語れ、さあ、我に力をあたえよ。
 その声は、心にわずかな波紋も起こさなかった。もはや微風さえも感じられない。
 どうしてこの声が、あれほどの甘露のごとき甘さで心の内側を疼かせ、鍵を開かせそうになったのだろうかわからない。
 光の子供たちを抱いている森射にとっては、胸に灯る柔らかなあたたかさよりも心地よいものはありはしない。
 半分同化していて、ふわふわしているのに強い意志を感じさせていた。森射に託された大勢の者たちの希望の光が、目覚めよと声をたかくしているかのようだ。
 ――その光を手放せ、それは不吉なひかり。我らの野望を阻むであろう愚かな存在じゃ。
 いくら誘っても中々なびきそうにない森射に、声は苛立ちはじめていた。だが、苛立てば苛立つほど、森射の胸の光は増してゆくばかりである。
 ――愚かな、まったく卑小で愚かな光じゃ。その光はつねに我の偉大なる野望をさまたげてきた。にっくき力の源よ。それを捨てろ森射、捨てさえすればおまえはいつだって楽になれる。心よりの安楽を得られるのじゃぞ。
 『いいえ、この光は私の友達。私を癒し、満たしてくれてきた大切な存在。そう、この光こそが、私のなかの真実なのだから』
 ――おまえは知らぬだけだ。もっと大きな光がすぐそこにあるのだ。おまえのすぐそばでおまえが受け入れるのを待っている。おまえの散った肉体などすぐに再生できるし、望むなら、以前のおまえよりずっと美しく、どんな美姫さえかなわぬ至上の美が手にはいるのだぞ。いや、もっともっと素晴らしいおまえは望むものなんでもが手にできる。さあ、そんな愚かで瑣末な光などすててしまえ。おまえを差し出せ。
 『だめだ。この光は私自身。これをなくしたら、きっと私ではなくなってしまう』
 ――ええい頑固な娘じゃ。なんど言えばよい。そのような小さな光に固執せずとも、もっと大きな力があるというのに。何故手をのばさぬ。それさえ手にいれれば、すぐにでもおまえは全てを満たされるであろう。第三の目が開かれ、すぐにすべての条理を理解しよう。戯言をもうすな森射、さあそれを捨てて我のものとなれ。
 闇はまるで恫喝するかのように荒々しく波だった。誘いに乗ってこようとしない森射にひどく苛立ち怒っているのを、必死でおさえようとしている。
 荒ぶる波間から、わずかにのぞいたそのおぞましさに森射はおののき、いっそう光を強く抱きしめた。
 『だめ。だって私はこの光を失ったら、もはや人間ではいられないもの。闇はやさしくて心地良い母様みたいだけれど、光はつねに私を導き鍛えあげ、もっともっと高みへと押し上げてくれる。私は忘れることは出来ない。私は私であり、そして多くの人たちの希望と未来を背負ってここまで来たのだ。救いを求め待っているひとがいる。願いをかなえなければならない。だって、私は吉備の――』
 森射は抱きしめていたはずの光が、いつのまにか胸のなかで燦然と輝き息づいていることに気がついた。
 驚いたことに、なんと光っているのは自分であり、光が自分であった。
 食われつくしてしまったはずの体はそこにあった。些少の肉さえなくなったはずだったのに、森射はそこにいて、体にはわずかの遜色もない。
 あれほど酷くおぞましい姿となり、死人のごとく腕から足から内臓――ひいては髪の毛や眼球に骨にいたるまで貪り食われ、もはやこの世にはいられなくなったかと思っていたのに、では、あれは幻だったのだろか。
 痛みに気が狂いそうだった。肉を咀嚼する音が震撼し、おぞましさのあまりに気が遠くなった。
 そのあいだも、ずっとあの歌はきこえていた。慰めるように、励ますように聞こえ、身にぴったりと寄り添っていたのだ。
 あれは、森射自身が歌いさざめいた、祈りの声だったのだろうか。
 宇宙の羅針盤に反射して歌声のように聞こえていたのかもしれない。
 闇は失敗したのを悟った。
 もはや隠すこともないとばかりに、猛りうねりながら伊邪那岐の姿となった。
 何重にもからめとり脳を直接攻撃する、強力な暗示をかけていたはずなのに、森射はどのようにしてか、破ってしまったのだ。
 「ようも、あの暗示から抜け出したな。やはりおまえは恐ろしいおなごよ」
 暗示にかかりさえすれば、みずからの力で己を殺してしまう。それほど恐ろしい呪縛であったのだ。そんな力をもつ者は伊邪那岐の他にはいない。
 「したが、それほどまでに我を拒むとは、愚かなり、森射!」
 「私は屈しはせぬ伊邪那岐!」
 「おまえの意志などもはやどうでもよい。おまえを食らい、おまえの遺伝子からすべての記憶と情報を読みとってやるのみじゃ。そののちにおまえの体を再構成させ、我の傍らで意志も感情もなく微笑んでいる人形となり、慰み者となるがよい!」
 伊邪那岐の火焔が巻きあがり、森射に撃ちつけられた。
 森射の胸で輝いていた光が大きくなり、楯となって抱きしめて守る。
 森射はその光のなかに、安伎人や火見華、大ババに日巫女、そして、その他大勢の人々の存在を感じていた。
 そして一番強く大きな輝きとなって森射をかたく守っているは、誰でもないイサナである。
 「忌々しくも、こしゃくな光だ!だが我の前にあっては所詮こどもだましよっ」
 伊邪那岐は膨れあがり、みあげるばかりに巨大化していった。
 それは本性をむきだしにして、何はばかることもなく、八つの頭をもつ蛇身へと変貌をとげてゆく。
 八岐であった。あの天地想像のときより宇宙に蠢く不吉な影。あの呪わしい大蛇である。
 大蛇である伊邪那岐は森射に巻きついてきた。
 光の楯などものともせず、その光ごとひねりつぶさんとせんがごとくに、ギリギリギリギリと締めつけていった。
 光の楯が、まるで爆発寸前のように八方にむけて照射し、森射は大きくもちあげられて八つの頭の真上にかかげられる。
 瞳がぎらぎらと光っていた。
 八つの長く赤いおぞましい舌が、森射の頬を足をなめまわす。
 「最後にもう一度だけきいてやる。我が物となるか、森射よ」
 「否っ!おまえのものになど死んでもならぬ、闇の大魔王よ!」
 「よう云うたっ!」
 ギリッと力がつよまり、光の楯がわれた。
 「ああッ!」
 森射の口から悲鳴がもれた。
 宇宙にひろがり、星々がふるえた。
 力は容赦なくしめあげ、目のまえが、白く大きく歪み、無限にひろがる赤い無明地獄へと吸いこまれてゆきそうになる。
 バチっという音がした。
 森射を捉えていた尾っぽがビクついたように何度か振動し、わずかだがしめつけが緩まる。
 ――森射
 誰かの呼び声が聞こえた。
 一瞬イサナかとおもったが、違った。
 では安伎人か……。
 いやそれも違う。
 オズヌだ!
 「森射、しっかりするんだっ!」
 目に見えぬほどの高速で印を切り、錫杖のつえを投げつけてきた。
 首の一つが怒ったようにそれをはじきかえし、こざかしいとばかりに牙をむき襲いくる。
 オズヌは身をかるく翻すと、矢のような素早さで森射のもとまでとびすさり、緩んだ尾から森射を引きあげた。
 先ほどの小さな衝撃は、小角が森射を守るために放たれていた飯綱たちが弾かれたものだったのである。
 小さな霊獣たちは森射の危機を察し、最後の力を振り絞り、主の命令を守った。
 しかも自らの爆破により、伊邪那岐のつくりあげた異空間をひらいて、呼びかけるオズヌを導いていたである。
 「オズヌッ?!なぜっ――?」
 「そんなことはここから脱出したあとだ森射!」
 「いったい、ここはどこなんだ?」
 オズヌの腕に抱かれたまま、森射は茫然とあたりを見まわした。
 「ここは伊邪那岐のひらいた異空間、すなわち想像の世界だ。おまえはやつの幻術によって取りこまれているんだ。ヤツの想像の力を破れ森射、願うんだ。このおぞましい空間を破壊すると強く意志をかざしてみせろ!」
 森射はオズヌの銀色の角をみつめながら、何かが体のなかでパリンと割れるような不思議な感覚がした。
 空間が揺れた。
 森射が、そのことに気づき始めたからだ。
 「こしゃくな鼠め!どこから入りおった、けっしておまえらを逃しはせぬぞ!」
 「急げ森射!」
 森射の胸のなかから思いが吹き流れた。
 会いたい。
 みんなに会いたい、そして帰りたい。この孤独で虚無にみちた暗黒の世界から抜け出し、みなのもとに――イサナのもとにどうしても帰りたい。
 光が差し込んだ。
 光は一瞬のうちに一杯になった。
 ――おのれ…おのれ……っ!
 忌々しそうなこえが響く。踏み出した数歩先が現実世界だ。
 夢中でそこへ飛び込んだ。
 「危ない!」
 とっさにオズヌが森射を庇い、横に飛んだ。伊邪那岐の八つの首から光が放たれていた。
 光はオズヌの背を焼き、避雷針のようにひたいの角が火花を散らした。体内で燻っている電気を放電しているのだ。
 そのままぐったりしたオズヌを森射は抱きかかえる。
 「オズヌ!」
 それでも森射はオズヌのからだを引きずり、そこからもぎ離れた。
 地上に倒れ、草むらにころがる。
 森射を飲み込んでいた異空間は、小さな穴となり、固定磁場をうしなったかのように、黒い触手を未練のように伸ばしながら急速に遠ざかっていく。
 森射は倒れたまま動かないオズヌを抱きおこし、顔をのぞきこむ。
 「オズヌ、オズヌしっかりしろ!」
 銀の角はまだパチパチと青い光をあげていた。
 背中の肉がひどく焼き爛れ、まるで熟した瓜のようにぐしゃぐしゃになって縮れひきつれている。ひどい臭いだ。
 みただけでも、もはや命はたすかるまいというような壮絶な傷だった。
 オズヌはわずかでも動けば痛みが前進を貫くように、今にも気を失わんばかりに蒼白になり、耐えかねるように食いしばりたえいる。歯のあいだいから、うめき声が漏れだしている。
 「森射!」
 疾風のごときはやさで駆けつけてきたのはイサナだった。どんなときでも彼は一番に森射をみつけ、駆けてくる。
 イサナは、森射のうでのなかのオズヌの姿を見ると、眉をひそめたが、すぐにそれは驚愕の眼差しに変わった。
 「どうしたんだこれは?!なぜオズヌが?!」
 「伊邪那岐に取りこまれそうになったところを彼が助けてくれたんだ。私をかばい、伊邪那岐の放った光を浴びてしまった――」
 イサナはむごたらしい背の傷をみて舌を苦く鳴らした。それからようやく、オズヌの額にある異物に――角に気がついた。
 「なんだ……角?!」
 痛みに白んだまなこを、オズヌはイサナにむけた。
 「俺の、犯してしまった重き罪の証だ。愚かであさはかな利己心の結晶なのだ」
 誇り高い彼の悔しさが、背の傷よりふかくこころを傷つけている。
 「俺は伊邪那岐の甘言にだまされ、吉備の結界を解き放ってしまった。高天原を呼び寄せてしまったのは、この俺なのだ」
 そのために大勢の者が死に、死よりいっそう苦しい運命につきおとし、苦悶と呪いにうめいている。
 「姉様!姉様こちらにおられますの?!」
 イサナからだいぶ遅れて火見華が駆けつけてきた。必死で走っているようだが、どうしても本気で走るイサナにはついてゆけない。
 「ま、まあ、オズヌ様?!」
 驚き声をあげる火見華に、オズヌもまた驚き目をみひらいていた。
 彼にもまた火見華の存在が変わっていることがわかったのである。
 日巫女の名を受け継いだことによって、火見華は巨大な霊力と、重き運命により、急激なる成長をとげようとしている。その変化を仔細にかんじられる。
 なにかを言おうとして、森射はゾクッと身をふるわせ思わず空をふりあおいだ。
 天空に開かれかけている高天原の門が、ひらきかけている。
 いや、すっかりひらき、その雲間から、おぞましい全貌をゆっくりと現しかけているのだ。
 みなそこをみつめ、釘付けになっていた。吐息さえつくのを忘れているかのように身をこわばらせていた。




 「ここもだめだ、崩れるぞ」
 ため息をつくように言った。
 イサナは建物を軽くたたきつけると、はらはら落ちてくる木屑と土塊から身をかわした。
 ぐったりとしたオズヌを背負い、すこしでも落ちつけるところを探していたのである。
 一応の救急処置を、火見華の癒しの祝詞によって行なってはいたが、みるからに体力の消耗が激しい。
 常人ではとうてい行き着けぬであろう空間に、他者の――しかも太古から息づく神の空間に無理やり侵入したのだ。
 それだけでなく、さらにそこから森射をつれだし逃れてきた。並大抵のことではなく、しかも生きているほうがおかしいほどの傷を負ってさえ、まだ意識を保っている。その生命力のほうに驚嘆すべきものがある。
 森射もまた、疲労の色を濃くにじませていた。
 伊邪那岐ほどの邪悪な存在に心をかき乱され、乱暴に犯されたのだからしかたがない。
 疲労困憊どころではなく、狂気の残滓(ざんし)は、森射ほどの気力のもちぬしでさえ、狂っても仕方がないほど精神力を磨耗させていた。
 イサナは森射をすこしでも休ませてやりたかった。森射だからこそ、悪魔の誘いを跳ね除け、戻って来られたのだ。誰よりあの悪魔を知っているイサナは、森射の肉体がいかに弱っているかよくわかっている。
 だがどこに行っても、どこにひそんでも、敵がやってくる。街は破壊され、空気はよどみ、邪悪な意志によって濁されていて、隠れる場所さえままならない。
 「こっちですわ――」
 ずっと考え込んでいたかのようにみえた火見華が、いきなり顔をあげて走りだした。
 透視をこころみていた彼女の瞳に、まだ光を失っていない喜びの色がともっていた。
 迷路のようにぐるぐる回る小道をはしり、火見華はそこへ一直線にむかっていく。近づくごとに強くなにかを感じているのか、興奮するように声が高まる。
 「こっち、こっちよ、ほらっ!」
 建物に隠れるようにしながら、火見華を迎えていた者がいた。巫女だと思われる者の姿であった。
 年は若そうではあるが、火見華の念波を受け取ったらしく、はっきりと意志をもって待っているのがわかる。清浄な精神をもつ、澄んだ目をしている。
 森射やイサナの顔もわれ知らず明るくなった。
 むごたらしく惨殺されていった多くの仲間たちのなかにあって、まだかれらは死にもの狂いで生き残ってくれていたのだ。
 「こちらです火見華様。こちらでみなが、あなたのお帰りを待っていたのです」
 声こそひそめていたが、喜びもあらわに頬が上気していて鮮紅色になっている。初めて会う火見華を、まるで旧知の友のように歓迎していた。
 それでも感激をおさえ、先をいそぐ。小動物のように足音もなく先導してまた走りだしてゆく。
 火見華は疑いもなくついて行った。彼女の目には、もはや何もかもが見えているのだろう。森射たちもまたそれについて走る。誰もかもが、わかったように無言である。
 森の奥へと入っていった。
 張りめぐらされていた結界の鳴子が反応した。ピリッと空気が肌を刺したかとおもうと、いきなり目の前に洞窟のような入り口が顔をだしてきた。
 それまで誰ひとりとして気づきもしなかった。木が生い茂っている普通の森の風景だけだったのである。完璧ともいえる目くらましの術が、結界とともに張られていたのだ。
 火見華たちは、巫女の招きにそのまま中へと入っていった。
 「日巫女様――っ!」
 火見華は人々のむれの中央に、その毅然とした誇り高い老巫女の顔をみつけると、夢中でかけよっていった。たまらぬよう日巫女の膝に思わずすがりついてしまう。
 気を張っていた火見華は、師の顔をみたとたん、自分のおさえがきかなくなってしまったのである。
 彼女から名を受け継ぎはしても、まだまだ幼すぎる。彼女には学ぶべきことがやまのように残っているのだ。
 名に負けまいとしていたずっと気負い緊張したままだったのだと、ようやく森射たちは気づいた。
 日巫女は椅子にすわったまま、火見華の背を凪ぐようになでた。最小限の動きであったが、それが精一杯なのだ。彼女には火見華の気持ちがわかっている。そんな幼子に無理を強いているのもまた、よくわかりすぎている。
 「日巫女様、よくご無事で――」
 森射もまた、ほっとしたように言った。
 知らず知らずに、体から緊張がぬけていた。
 彼女の存在はなんと大きいことだろう。そこにいてくれるだけで、目に見えない不安が掻き消え、安堵さえおぼえてくるほどである。
 心の支えとなる、それこそが巫女たちの母といえるべき私質なのだろう。
 「そなたらこそよう無事であった――と、いいたいところだが、あまり元気でもなさそうだのう」
 日巫女は森射の顔色をみあげ、その疲れに衰弱した姿に痛々しげに言った。
 きっとなにかしら感じているのだ。並々ならぬ、人間にあらざる者と闘ってきた身であれば、その残り香だけでも、恐ろしいものがあるだろう。
 「なんの力にもなれぬ老体を許してくれよ。本来なら、この身を砕いてでも食い止め戦わねばならぬはわしのはずなのに。すべてそなたらに背負わせてしもうた。動かぬわが身が口惜しい。日向の国がおこした不始末、我らがとめるべきであるのにな」
 「いいえ日巫女様、伊邪那岐はいずれにせよこの葦原の国、全土を狙っているのです。その順番が最初だっただけのこと。それに、いにしえ古深き地だからこそここまで持ちこたえてこられたのです」
 森射は言って、首をふった。
 日巫女が護っていなければ、きっと早くに滅せられていたはずである。
 そしてバラバラになり散ってしまっていた人民の心を、彼女はまたこうして、ここまで終結させているではないか。
 たとえ体力が消耗されていようと森射の中に輝いている希望の光はなにも変わっていはいなかった。
 いや、伊邪那岐と戦うことにより、かえって彼女の精神はより高められ、より磨かれているとさえいえる。
 緋色の姿は目にまぶしいほど意志強く光っているのだから。
 「すべては意味があって起こっていることです。神はこの国の民がこれほどまでの苦難でさえ、耐えしのぎ、希望を失わずに向かっていくと信じ、選ばれたのだと思います」
 国津の神々は、高天原から、二度とその地に戻ることを捨ててまで、次元を越えこの地に足をおろしたのだ。
 そして民とともに困窮のつらさを味わいながら、大地を切りひらき富ませてくれた。
 日巫女のそばに控えていた大勢の者たちがなぜか目を細めまぶしそうに森射をみていた。まるでその太古の光景を見ているようである。
 表情がしだいに明るくなり、失いかけていた気力をとりもどしていくのがわかった。精気をよみがえらせ、心の底に眠っていた、日向族の誇りを、いままさに甦らせている。
 日向の人々は、思慮深く、忍耐強い質実な人々だった。
 そんな民から選ばれた巫女たちは、神々の妻でもあり、民と神をとつなぐ絆でもあった。
 その一番はじめに選ばれ、そして最も稀有な力を持ったのが日巫女なのである。
 神に信頼され、愛された、すべての人の母なる巫女、その日巫女をだからこそ深くかたく信頼しきっている。
 偉大なる巫女が、おぞましい神である伊邪那岐に乗っ取られた阿那王により連れ去られ、いずことも知らぬ地へ監禁されてしまったときには、どれほど酷く狼狽したことか。
 それでも彼女の帰還をひたすら信じ、必死に耐えしのんで待ちつづけていた。
 神職に就くものたちだけでなく、心正しき農民や商人、それに闇に取り囲まれてさえ光を失わず、戦いつづけてきた心強き者たちが集まり、手をたずさえて、自分たちを導いてくれるだろう、その人の帰りを待っていた。
 そこにはもはや身分も職種もなく、大人と子供の差もなかった。
 ただ、ともに闘い、助け合うもの。心に迷いがない心正しい者だけが強くいられるのだ。
 「だが、もはや我々にも限界がきておる。伊邪那岐は愚かな科学者どもをつかって、次元を開くための『鍵』を自らつくりだし、手に入れてしもうた。もはや我々にはあの怪物を止める力はない。こうして我が声を聞きつけた心正しき者たちを集め、すこしでも逃れられるように、身をひそめておることしかできぬ」
 「これだけ波動の狂っている中で、なお、心を乱されず、濁らずにいられた人々がいることのほうが、私は驚きです。また敬服もいたします。きっとまだまだ心を乱された者たちのなかにも、人にたち戻ることができる者がいるはずです。そのものに呼びかけることができるのは、日巫女様に率いられた巫女たちであり、彼らの同胞である、あなたがた日向の人だけです。闇に狂わされながら、彼らだって、苦しんでいるはずなのだから」
 そこにいた誰もがハッとしたように顔を見合わせた。
 そんなことを今まで考えつかなかった。自分が逃げ、生きることに必死であった。
 まだ自分たちにできることがあるのだという喜びと期待に、消沈していた顔に笑みがのぼってゆく。
 「人々の誰しもが、自分のなすべき役割を持ち、生まれてきたはずです。神はそう定め、そう行うことを信じておられる。ときに天の道に外れた事をした者がいても、悔い改め、やりなおそうと誓い、本当にそう行動した瞬間に、人はいつだって許されるのです。またふたたび天の道を歩むこともできるのです。だからあきらめてしまわないで欲しい。どんな人だって、救うことができるのだということを」
 巫女たちに傷の手当をうけていたオズヌが思わず顔をあげた。
 森射の声を、まるで自分の罪のことを言われているかのように、耐え切れず泣きそうな顔をしてきいていた。
 まぶしいものを見るように森射をみつめ、オズヌは背中に貼りつけていた薬草がずれ落ちたのにも気づいていない。
 「森射……」
 森射の言葉を黙って聞いていたが、イサナはふと驚くように洞窟の入り口をみた。
 遠くから、なにか巨大なものが押し寄せてくるような音がして、彼の鼓膜をふるわせた。それにつられるように気づいた敏感な幾人かのものたちが顔をあげた。
 激しい揺れがいきなりおそった。
 地面が悲鳴をあげのたうち、波打っていた。
 人々が悲鳴をあげ、こぼれおちる砂利や小石から頭をかかえ身をひそめる。壁にすがりつかねば立っていられず、転んだり、体を岩にぶつけたりしている者がいる。
 子供を抱える母親は一緒に身をふせ、庇うように揺れに身をまかせていた。小さな岩からかばい、若い男が女の頭をだき寄せたまま小さくなった。
 かなりのはげしい衝撃だった。
 しばらくしてから、揺れが多少ゆるんだが、まだまだゴウッゴウッという地鳴りの音は遠くに聞こえている。
 「このままここにいては危険だ。外へ早くにげろ!洞窟が持たないかもしれないぞ!」
 イサナが叫んだ。もっと大きな揺れが来るのをイサナの本能が察知している。
 洞窟自体がその揺れに耐えられるかどうかわからない。いや、今の揺れでヒビが入った鍾乳石は、次のもっと大きなゆれで割れ、落ちてくる。
 イサナの叫びに、人々のなかにこもっていた恐怖の堰きがきれ、ワッと外からさす光の方へとむかって駆け出していった。
 とっさに日巫女を庇っていた森射は、外へつれだそうとかけつけた巫女や神官たちよりもいっそう素早く、日巫女を軽々とかつぎあげると、走りだしていた。
 危険の匂いを敏感に感じとっていた巫女たちも、子供の手をひき連れ出している。
 ミシッといういやな音がして、キレツが天井に走った。
 人々が抜け出すのを待っていたかのように、つららが折れて、槍のように地面に突きたち、破片を跳ねあげながら、落ち崩れて、開いていた口をしめていった。
 みな息をするのさえわすれ、呆然とそれをみていた。
 わずかでもおそければ、一斉につぶされていたはずだった。
 空をふりあおいだ女がヒッと悲鳴を短くあげた。
 真昼だというのに薄暗く、空は薄墨をながしたようにどんより曇り、不気味にところどころ赤紫色に明滅しているではないか。
 再びはげしい地震がおそった。
 さっきよりかなり大きい。
 あちこちで足もとの地面が割れ、木々が割れ目に吸い込まれていった。地すべりを起こした山の斜面がくずれ、怒涛のようにながれおちてゆくのが見える。
 遠くにみおろす街並みも、すでに倒壊した建物が、さらにこれでもかというように崩され、家々がなぎたおされて火の手があがる。あっというまに燃えひろがり炎の海となっている。
 地獄絵巻が繰り広げられていた。
 だが、これは伊邪那岐の求める地獄図のほん一部にすぎなかった。本当に地獄の魔王が求めている世界は、もっとおぞましい壮大な呪いの世界なのだ。
 いたるところで悲鳴と呻き声がこだましていた。ねっとりとした空気が膚にまとわりつき淀んだ風が喉にやけついてゆく。
 日巫女をかこっている人々は、恐怖にひるんでものも言えず立ちつくしていた。もはやわきあがりかけていた希望の光さえ、いまはどうあがいてもみつからない。
 森射は上空に広がりつつあるものをみあげ、指さした。
 「高天原の門が広がっている」
 そこから悲鳴をあげ悶え苦しみながら飛びこんでくる魂たちが目にうつった。
 悲痛な声をあげ、憎しみと苦しみに満ちた邪悪な影は、かつての人であったものとは思えぬおぞましい悪波動を噴きこみ、大気を切り裂いている。
 高天原で家畜として無惨に殺され怨霊と化した者たちの魂が、永遠に行く場所がみつからず、さまよいあぐね、苛立ちと憎しみをぶつけ、それでもまだ無念をはらすこともできずさまよい続けているのだ。
 それらが噴きこみ、狂気の悲鳴をあげるのにあわせて、歌声がきこえてきた。
 ひき込まれるように流麗な歌声だった。
だがそれは驚嘆するほどの力にみちていて、この世とあの世の次元さえとりはらうだけの魔力を秘めていた。響きのある言霊が朗々と天空をゆらしている。
 「歌鈴――?」
 森射がつぶやいた。
 その声、その波動。
 この世に二つとない歌鈴の歌声をきき間違うことなどありえない。
 イサナはたまらず鋭い犬歯をみせ唸りをあげた。
 同じ血を持つ彼には我慢ならぬほどのはげしい刺激であり、気をぬくと、その声に誘発され、体内原子炉が暴発しかねない威力なのである。
 「なんて声なの……。なんて力なの。これは神へ捧げるための、神聖な呪歌だわ!」
 火見華が身をふるわせた。
 巫女たちに伝わる秘歌のひとつであり、外国語ではあるが、それがいかに神聖であり、大切なものであるかわかった。
 それを護るために巫女姫の座が代々にわたって継承されているようなものなのだ。
 巫女姫ならば、たとえどんな目にあわされても歌いはしないだろう。そんな大切な歌を、無理矢理に歌わされている。これだけ力を解放すれば、もはや命はない。限界値の声だ。
 「歌鈴……」
 イサナがつぶやいた。
 それが間違いなく自分の母親の声なのだと思い知らされていた。
 ここに来るまで顔を会わせたこともなかった、ただの遺伝学上の母体であり、卵子提供者にすぎないと思っていたのに、彼の中に流れる血はこれでもかというほどその歌に反応している。
 体中の機能が活動をはじめ、力を増幅させ、湧き上がるようなエネルギーをいまにも放出せんと駆け巡っている。
 歌鈴のもとにかけより、母として抱かれたい。
 一度でいい、その存在を味わってみたい。
 イサナはどうしてそんなことを思うのかわからず目眩がした。
 「イサナ、大丈夫か・・…」
 森射が気遣うように声をかけた。
 イサナはわからなかった。どうしてこんなに懐かしいと思うのか。それが伊邪那岐のわなだとしたら、なんとも残酷で、無慈悲なものだろう。
 歌鈴はもはや道具として捉えられ、心を奪われたまま歌っているだけである。イサナの存在を知っているのかどうかすらもわからない。
 一度だって抱きしめられたことはなかった。子供がいることすら、歌鈴が知っていたかあやしい。
 互いが互いに囚われ、遠い身のうえだった。
 なのに心が、無意識に求める強い恋慕の情と、それと同等の憎しみがわきたちイサナを混乱させてゆく。
 「森射、俺は……っ」
 森射にはイサナの気持ちがわかっているのか、幼いころよくしたように手を背にかけ抱きしめた。気持ちにつられて増幅した高圧のエネルギーが、荒れ狂うように体内を巡回し、逆流しそうになっていたのに、たったそれだけのことでおかしほどに凪いでゆく。
 「空が、割れ……星が墮ちる……おおっ!もはやこれまでなのかっ?!星のはなつ断末魔の悲鳴が、わしの鼓膜をつきやぶるぞ――」
 巫女たちに支えられながら、ようやく立っていた日巫女が、その手を振り払いヨロヨロと前に歩きだした。空をみあげ、絶望の色を隠すこともせずに哭くようにいう。
 「来るぞ、来るぞ、空が、おちるっ!」
 「日巫女様」
 火見華もまた、なにかを感じたかのように蒼白になっていた。嘆きに目をとじる日巫女と同じ方向をみている。
 日巫女の指が小刻みにふるえ、苦しそうな息を吐いた。顔つきが厳しくひきしめられる。
 とうとう決断の時がきたのだ。まるで最後の最後まで苦悩し、決断を考えあぐねていた王のように、身長に、重々しく口をひらく。
 「もはや、この方法しかない……。我々が救われるやもしれぬ可能性の、最大の方法は……」
 なにかを言おうとしたのに、日巫女はなぜか最後まで言葉にしなかった。
 その重大な決断をくだすのは、自分ではないということに気づいたようだった。毅然としたまなこで火見華をみた。
 「火見華、わしの前へ」
 「は、はい」
 日巫女のこえに火見華はビリッと身をふるわせたが、即座に反応した。
 足元に膝まづいた。
 「空を見上げい。目と心を澄まし、宇宙に呼びかけろ。おまえの目は肉体にとらわれ、物質界の近隣までしか見えぬであろうが、心の目は何ものにも囚われはしない。わしらの体はただの器じゃ。自らのエネルギーがわずかだとしても、器には幾らでもエネルギーを取りこみ吸収することができる。おまえは自由じゃ。すべてをみわたせる。さあ見てみよ、その類稀な能力を有する器のすべてをつかい、そこまで来ているものがなんであるかを、たしかめよ」
 日巫女の言葉は巫女としての基本であった。
 だが、その重みはだれに言われるよりも火見華の魂にしみわたってゆく。言葉のもつ波動に体中が共鳴し、エネルギーが滔々(とうとう)と無限に溢れだしてゆくではないか。
 火見華の瞳は距離という物質界の理をこえて宇宙(そら)へとまっすぐ上昇していった。
 闇にかがやく無数の星々が、明瞭にみわたせ、火見華は自分が無限の世界にいることをしる。
 ――これが、宇宙?これが、世界?
 足下にひろがる青くおぼろげなベールにつつまれた美しい球体。青くやさしく、母なる慈愛にみちた気高い星。
 ――ああ、森射姉様だ……。
 火見華は無意識につぶやいた。
 そのつぶやきすら分っているのかどうかしれない。
 我々生物はすべて等しく、地球という広大無辺の愛につつまれ生きていた。そこにいるすべてのものが共鳴しあい、助け合い、関わりあってこそ、生きて互いに進化している。生命は循環し、互いが互いをたすけ、消費し、うみだしている。
 だが、火見華はその淡く美しい地球の真上に、身ぶるいがつくほど邪悪で狂暴な漆黒の闇がのしかかろうとしているのを見た。
 大きさはさほどでもないのに、その質量は測れぬほど巨大であり、そこに吸いこまれたら一瞬にして命など微塵にけしとぶだろう。
 赤く放電している一点があった。
 かさならぬ次元を無理矢理ねじ曲げひらこうとしている。
 ――高天原の門!
 地球も必死でこらえていた。けれどその力もいま、歌鈴の歌によって弱められ、息もたえだえに悲鳴をあげている。
 宇宙が振動する。
 火見華は振り返った。
 ――星っ!ああ、星が、星が地球に墮ちてしまう……っ!
 長く青い尾をひいた星が、真っ直ぐこちらに向かい墮ちてくるのがみえた。物凄い速さでまるで宇宙を切り裂くように荒々しく流れてきている。
 ――止めて!止めてお願い!それを引寄せないで!
 火見華は声の限りをつくして叫んだ。そこにいる長い尾っぽをもち、トグロを巻いている生命体に呼びかける。
 それはゾロリと動いた。にやりとわらった。
 おぞましさに火見華は体が縮こまり震えるのがわかった。急速に自分が世界からとおざかってゆく。
 「見えたかえ、火見華」
 「日巫女様!」
 火見華は目を見開き、おもわず叫んだ。
 見知った人々の顔が心配げに覗きこんでいたのにもかまわなかった。
 「火見華、大丈夫か、真っ青だぞ。何を見ていたんだ」
 森射の声に火見華はすがるように顔をむけた。森射から放たれる青い地球と同じ息吹の匂いに、どうにかふるえながら息をつく。
 「星が、きます」
 「星?」
 火見華がキリッと顔を引き締め、表情がかわった。
 日巫女の名を受け継ぎはしても、まだどこかたよりなげだった彼女からその危さが消えている。いまこそ火見華は、日巫女の名を受け継ぐものが、つなげてゆかねばならぬ記憶の扉をあける鍵をうけとっていた。
 「星です姉様。空に輝く星のひとつが、この地球に墮ちようとしているのです」
 森射が空高くみあげるのに、みなも一斉に空をあおいだ。
 「この青く美しい星を打ち砕かんために、いま悪魔が次元の壁を無理矢理開こうとしています。我らの生命の星に、遊星であるはずの彗星をぶつけ、その衝撃を利用するつもりなのです」
 日巫女はもはやすべてを受けとり終えたというように深くうなずいた。
 「星を墮とす――そんなことをしたら……」
 ことの重大さがわかったのか森射は最後までは言葉をつなぐことが出来なかった。
 悪くすればすべてのものが砕け散り、この地球すべてが破壊破滅してしまう。
 日巫女がいう。
 「我らが地球はもう、何度もその試練を潜り抜けてきたのじゃ。はるか遠い昔にも、星はこの母なる大地をかすめ、時に多くの人間の命を奪い、死滅に至るほどの衝撃を与えたこともあった」
 「我らはその試練をくぐりぬけてきたものの末裔。子孫が邪悪な侵略者に負けぬよう、正しい道に導かんとするために、魂の伝承がおこなわれてきた」
 火見華が言う。
 もはやそこにいるのは吉備の巫女姫であり、森射の可愛い火見華ではなかった。
 森射の愛した小さな若木が、いま枝をのばし葉を繁らせ、巨大な大木になったことに気づく。
 「星がぶつかり合うときそこに、凄まじい衝撃が起きます。その未知なる衝撃によって、わずかの間ですが、ありとあらゆる次元が混ざりあい混沌とするのです」
 「次元が混ざりあう――。では、伊邪那岐はそれを狙って星を引寄せたと?」
 森射の問いに火見華はまさにそうだと頷く。
 「高天原は死の国。生ある者を羨み、嫉妬しています。この生命あふれる星を飲みこみ吸収し、自らの力の糧にしようとしています」
 「星を避ける方法は、もはやないのか」
 イサナが問うた。
 「星の軌道は、我々人間の関わることのできる法則の上にありません。それにもう、変えられるほどの時間が……」
 それを聞いていた人々の悲鳴のような絶望の声が流れた。一瞬騒然とした。
 「では我々は滅びるのか?!」
 「わたしたちはこのまま伊邪那岐に殺されなければならないの」
 空をみあげとび起きる者、言葉をなくしうなだれる者、膝をついて泣きだす者。それぞれにその悲嘆をあらわしながら、わずかな希望にすがり生きてきた緊張のタガがはずれるように、絶望感へと脱力してゆく。
 「我々は伊邪那岐の玩具として殺されるのか。結局は、悪しきものとはいえ、神にはかなわないのか」
 男が苛立ちにまかせ吐きだした。
 「いいや、ちがう!」
 イサナが男の言葉をかき消すように怒鳴った。その声の強さに、みなのざわめきがピタリと止まった。
 森射はイサナの声にやどる言霊の威力がわれしらず高まっているのを肌にひしひしと感じた。おもわず彼をだけを見つめる。沸き立つ霊気がオーラとなって人々のうえにひろがってゆくのがわかる。
 「まだ残されている。一つだけ、方法がある。星が墮ちるときにあわせ、それと同じだけのエネルギーをぶつけるんだ。同じ質量のエネルギー同士がぶつかり合えば、互いに弾き反発しあう。陰と陰、負と負のエネルギーは互いに相反し混じりあうことはない」
 「――そして、そのときこそ、まったく異世界の、別の次元の口がひらく可能性もある。高天原をそのはるか彼方の次元に押し出すことができれば、あるいは助かるやもしれぬのう」
 日巫女が感情をともなわぬ声で言う。
 「でもそんなエネルギー量がどこにあるというのです。星が落ちてくるエネルギーと同じだなんて……」
 考えるように言いかけた森射は、じっとみつめるイサナの瞳にうかんでいるある意思を読み取り、言葉をうしなった。
 言葉などもはや必要ないように、ただじっとイサナは森射だけをみつめ、思いを告げている。
 「俺の体のなかにある体内原子炉を最大限に高め、それにぶつければいい。あの星を呼んだのは歌鈴の歌声であり、彼女の言霊に反応した星がこの地球に導かれやってきたんだ。俺は歌鈴と同質のエネルギーを有している唯一の者だ。そして、それは悪魔たちの実験の繰返しで――多分、彼等が予想していたよりも、ずっと莫大で巨大なエネルギーを生みだすことができるはずだ」
 その恐ろしいエネルギーをかかえ、イサナはずっと生きていた。
 森射によって、愛と勇気を教えられ、慈しむ――それが例え醜いものであろうと、人々が忌み嫌う影であろうとも――心がいかに大切かを、ずっと見続け、学んできた。だからこそ、イサナの中にあるのは、ただひたすら愛情だけなのだ。
 深くてひろい、生命の源ともいえる海のような、青く透明な愛情の波は、絶えることなくいつまでもひたすらに森射へ、そそがれていた。
 森射が願うなら、イサナはどんなことでもする。
 たとえ身が砕け散り、思いの一片すら残らなくなっても、細胞のひとかけらすら残らなくたって、森射が生きて幸せになってくれれば、それだけでいい。
 「イサナ……っ」
 森射にはかれの気持ちが痛いほど伝わっていた。彼は森射に何も要求もしなければ、愛情を押しつけたり、欲しがることもなかった。ただひたすらの愛情をそそぎ、森射だけを見ていた。
 イサナは幼い子供のころから何ひとつかわらない。純粋で一途な感情だけで森射の傍らにたたずみ、無言という優しさの被膜でおしつつみ、守ってくれるのみだ。 
 「イサナ……」
 森射は彼の思いに絶え切れないように切なく呼んだ。それだけで、イサナには森射の深い感情と心が伝わっていた。
 「まだ、もう一つだけあるぞ」
 日巫女の低い声がした。
 「もう一つだけ、まだこの国が助かる方法があるやもしれん」
 「えっ?!」
 みなが顔をむけた
 だがすぐには口を開かなかった。
 年老いた高潔な顔は、それを口にすることすら恐れるかのように青ざめていた。多くの民衆を率いここまできた影の女王さえ、それはかなりの意志力を必要とする決断である。
 「それは、星が降りそそぐであろうそのときにあわせ、この偉大なる王国、日向の国――倭国を沈めてしまうことじゃ」
 「沈める?!」
 さすがに森射もそれ以上口をひらくことができなかった。思考を止め、ただじっと日巫女をみつめ、その真意を問うように次の言葉を待つ。
 イサナも同じように、じっと日巫女を見つめ次ぎの言葉を待っている。
 だが、火見華は横目でイサナをうかがい、すぐにまるでたまらないように目を伏せてしまった。
 多分、彼女にはわかっているのだ。どちらにしても、イサナという犠牲なくしては、それらの行為は成り立たないということが。
 その残酷さを知りつつも、彼女もまた、あえて頼むよりほかにないと直感的に悟っていた。
 「伊邪那岐の放った怨霊や悪霊ども、またそれらに乗っ取られ人の心をなくした輩、悪波動にとりこまれた哀れな死人たち――それら人の形をした野獣どもを、この倭国にできるだけおびきよせ、いずれやってくる空から降る神の炎でやき清め、この国ともども海に沈め清めるのじゃ。……かれらはもう二度と人に戻ることができぬ。輪廻の枠をはずれた者たちにとっては、魂のすべてを抹消し、消滅してやる以外には、救われる方法はない」
 言い切った日巫女に、だれひとりうなだれ声を上げるものもいなかった。
 「それだけでも、この地上にかかる負荷は軽くなる。星をひきよせ、伊邪那岐なる邪悪な使徒がくることを妨げられるであろう」
 森射はそれよりほかに方法がないのだと思おうと努めていた。拳をにぎり無力な自分が悔しげでたまらぬように焦れていた。
 「どうかわかっておくれ。わしとてこのような決断をすることは、つらいのじゃ。だが、この国を伊邪那岐のはなった悪霊や怨念に染められ、乗っ取られるだけでは終われぬ。この日向の国が滅びようとも、本州さえ助かれば、また新たにやりなおしができるであろう。幸いにもヤマトの王が心をとりもどし、吉備の国々とともに手をたずさえ、ストーンサークルの修復に専心してくれておる。石たちの力がわずかでも戻り、葦原の中津国をとりまく生命維持機能が修復されれば、きっと伊邪那岐の悪念や星々の怒りの拳にも耐えられるであろう」
 ――いや、耐えられると、信じていたい。
 「心正しき者たちを率い、助けられる可能性のある者はすべて助け、本州に逃げるのじゃ。時はもはやすくない」
 「日巫女様……」
 巫女たちがたまらずしくしくと泣きはじめた。
 自分たちの国が、たとえどんなに荒廃しようと、生まれ育ってきた誇り高い日向の地域にある国々が、これから海に沈んでしまうというのだ。
 心が引き裂かれるような痛みがそこにいるすべての者にのしかかる。沈痛な空気がながれてゆく。
 「どうか、みなわかっておくれ。これは逃げるのではなく、希望に向かっての、新たな前進なのじゃ。これからはもっともっと己を強くして、邪神の誘惑に負けてはならぬ。絶望してはならぬぞ。負の想念はいつでもおまえたちを欲望の海へひきずりこもうと待ち構えている。だが邪悪な心は伊邪那岐に力を貸すだけ。破滅へと自ら導く道標にすぎないのじゃ」
 さとすような日巫女の声に、頭を落とし泣いていたものたちが涙に濡れた顔をあげた。日巫女の顔は疲労の色をうかべてはいても、最後まで毅然としたすべての人々のなかで輝く、燦然とした女王のままでいた。
 「火見華」
 「はい」
 「火見華、まず、おまえが皆を率い脱出せよ」
 「わたくしが――?何をおっしゃいます。わたくしはここに残ります。この地に残ってみなとともに戦います!」
 「ならぬ!」
 きっぱりといった。
 「そなたはこれからに必要な人間。人々を束ね、新たな希望の道へと導かねばならぬ。『日巫女』の記憶と知識のすべては、これから先の、はてしない未来の世において役に立つであろう。それまでどんなことがあっても、受け継いでゆかねばならならぬ。幾百、幾千の時がすぎ、いつ何時、伊邪那岐が攻めてこようとも、この日巫女の記憶があれば、どうにかなる。必要なのじゃ。すべての人々に警告を発し、道をみつけねばならぬ者が。そのためには知識と智慧はどうしても要る。王の力で人の体を縛ることはできても、人の心まではそうはゆかぬのだからの」
 「日巫女様……」
 森射やイサナをみつめる。身が切られるようなつらさが火見華をおそう。
 「この地にいるべき巫女は、わしひとりで十分。それにわしは絶対に、須佐之男様の愛したこの地を離れるわけにはゆかぬのじゃ。あの方にこの国の行く末を託された身。ゆえに最後まで見届ける義務がある」
 神に愛され、信頼され、託されたのだ。どうして離れられよう。
 「火見華、どうか先に吉備に戻り、この国の状況と伊邪那岐がこれから起こそうとしていることを真人王に伝えてくれ」
 森射が言った。
 「近隣諸国の王たちとともに手をたずさえ国をどうか守ってほしい。これから起こりうることはいままでにないほどの衝撃をあたえるだろう。その災害に備え少しでも多くの人々を避難させ、そしてこれからまだまだ逃げてくるだろう人々を助け、受け入れるんだ。ともに力を合わせて各地の巫女たちと連結し、守りの結界を張って、本州を――私たちの帰る場所を守っていてほしい」
 あくまでも未来を信じている森射の声に、それでも火見華はつらそうにうなずく。
 「姉様……」
 少女の聡明な思考は、もはやそうするしかないと分かっていながら、決して無事ではありえない行く末を思案し、あえぐように息を飲んだ。
 森射は火見華のなかのこたえが決まっているのを見て取ると、勇気づけるように微笑する。
 そして、森射は一人の男のよこにひざをつき、顔をのぞき込んだ。
 男は地に顔を伏せ、己の苦しみに耐えるように歯を食いしばっている。オズヌは、ゆっくりと泣きそうな顔をあげ、森射をすがるように見る。
 そっと手をかけるとオズヌは愚かな自分の罪を耐え忍ぶように身体を堅くした。彼はもうどれほど永く、悔い苦しみ、おのれを恥じていることだろう。
 彼こそが高天原を引寄せる原因をつくったという自覚が痛々しい。
 「オズヌ、おまえは火見華を守り、無事吉備に送りとどけてほしい。そして安伎人に会い、すべてのことを伝え、火見華の指示にしたがうように助言してほしい」
 「森射っ!なぜ俺にそんな大切なことを頼むのだ。俺は、俺こそが高天原を引寄せ、そのせいで多くの者たちを亡くし苦しめた張本人なんだぞ。罪の深さが俺をこんな異形の姿にまでしたのだ。もはや人前に出て、さらに誰かを説得するなんてそんなことは無理だ!」
 「それでもおまえは行かねばならない。ある意味、おまえが一番辛い宿命を背負っているのかもしれないな、オズヌ。だが、おまえはすべてを見てきた身でもある。闇にも落ち、また、光の大切さも学んだ。――そのことが大切なのだと思う。きっと、おまえのせいではない。それが、おまえの使命であり、この星の運命だったのだから」
 オズヌは肩にかかった森射の手を握った。うなだれていた顔をあげ、したたりおちる涙に、オズヌの懺悔の心がひかっていた。
 「俺はすでに人ではない。……だが、おまえが信じ望んでくれるのならば、人になろう。人のために、生きてみよう」
 立ち上がったオズヌの背に塗ってあった軟膏がポロポロとぜんぶ落ちた。
 その背はすでに肉が盛り上がり、皮が張っていた。
 伊邪那岐に焼かれて爛れていたというのに、あまりの治癒の早さに目を疑う。額の角がいっそう大きくなっている。
 「体の細胞の質が、我ら人のものとは異なっておるのじゃ。その角が宇宙の気をあつめ、その体を受容体として満ち、身体を活性化させておるのであろう」
 日巫女が鋭い眼差しで、オズヌの全身をつらぬくように見た。罪も苦しみも見通したような目にはすべてが映っているのか。
 「その者は死なぬわけではなく、年を取らぬわけでもなかろうが、それは常人よりも非常にゆるやかであり、緩慢であるのじゃ。異次元の力を浴び、神の気まぐれか、深い智慧の御心をいただいておることが、せめてもの救いよのう」
 この身をさらし、まだまだ生きねばならないという苦悶の試練に、オズヌはしたたかに打ち据えられるように全身をふるわせた。
 が、すぐに神妙にそれを受け入れたように目をつよく見開いた。
 どこかで彼は理解している。異常に回復が早いことも、気味が悪いほど、身体に力がみちていることも。
 「この常ならぬ力、この常ならぬ体――そうであるならば、残りすべてを森射と人々のために使わねばなるまい。皆をなんとしてもここから無事連れだし、本州に脱出させてみせよう」
 だが、とオズヌが問うよりもはやく、火見華が口をひらいていた。
 「でも姉様は、一体なにをなさる気なのですか?ここに残って、何を――」
 「私は、邪念に食われた魂を呼び寄せるつもりだ。本州のほうにまで散ってしまった悪霊どもすべてをここへ終結させるための、おびき餌になる」
 「森射!」
 イサナが抗議するように声をあげた。何をするつもりなのか彼にはわかっている。
 「私は死の祭文を知っている。そしてまた生の秘密も。それらがよきことか悪きことかも知っている。生の秘密を知る者は、また死の秘密も死っているものなのだ。だからこそ、死者は私のはなつ生の呪文にひかれ、この地に集まってくるのだ。私の力が大きければ大きいほど、私にひそむ呪力を奪おうとする力も大きい。私のなかに潜む闇の心は、誰よりも強く彼らを集めることができるのだから」
 そして、一緒に沈んでゆく。
 その哀れな救われない魂を抱いて――。
 言葉にこそださなかったが、森射は決めている。
 誰にも愛されなかった憐れな生命と、懸命に生きようとしたのに、魔物に食われた哀しい心の叫びを、まるで我が子のように抱きしめ、身も心もあたえて逝こうというのだ。
 そうせねば、彼らはなにひとつ救われるところがない。あまりにも哀れすぎる。
 彼女の心の声はイサナたちに聞こえていた。森射には可哀想な魂を見捨てることはできない。彼らに呼ばれ、この地に来たのだから。
 森射はイサナの兄弟や分身たちですら離せなかった。
 不憫で憐れな歌鈴の子供にわが身をすべて与え、一度は伊邪那岐の闇に落ちかけた。そんな彼女に、この地に渦巻く苦しみの怨霊を見捨てて行けるだろうか。自分だけが逃げることなど絶対にできない。
 「ゆけ、火見華。もはや一刻の猶予もならぬ。おまえの心の声を放ち、まだ残っている多くの心正しき人々を救いだしながら、本州へと逃げるのじゃ」
 日巫女がもはやこれまでと、奮い立たせるような大声で言った。
 「火見華、オズヌ、どうかみんなを頼むぞ。吉備やヤマトと協力して、少しでも多くの人を助けてくれ」
 森射の頼むという言葉に、火見華は涙をこぼすまいと必死で耐えながら強くうなずいた。
 森射はわかれの歌をうたうように美しい調べを口ずさんだ。
 「たとえ悪霊どもに侵され穢された大地であっても、そこから生えてくる草の芽は清く美しい。どんな姿であっても、奥底に潜んでいる魂のエネルギーはだれにも犯すことができない崇高さをもっているは。私はあきらめない。だからこそあきらめず、人を信じつづけてゆく。どんなに裏切られても、その心の奥に潜む大切なものがこわれていなければ、何度だってやりなおすことが出切るのだから」
 「姉様……」
 「森射様……」
 人々が泣きながら森射から分けられた魂の一部をだきしめていた。
 「さあ行きなさい。行って自分のなすべきことをみつけなさい」
 火見華は心を切りさくような未練をきっぱりと断ち切った。まっすぐ吉備にむかい、毅然とした誇り高い顔をあげる。
 「行きましょう、みんな。さあ!」
 「森射……」
 オズヌは口を開きかけたが、フッと笑うと頭をふり、イサナを見た。イサナのはっきりとあらわれている強い思いに微笑した。
 「行こう火見華」
 オズヌは火見華を腕に抱きあげ、片手でかかえた。
 彼女の足では間にあわぬということもあるが、それより火見華は、まだ己を見失っていない人々に呼びかけるための祈りに専念しなくてはならない。決してなだらかではない行程を歩みながら、それは難しい。
 まず最初に、火見華の念波は吉備の大ババに発せられ、そこから各地の巫女に受け継がれてゆくだろう。
 王族諸侯で、まだ聞く耳をもち、現在の状況を把握できる者へと伝えられ、心をあわせ、その時に備えはじめてゆく。
 人々は老人の手をひき、子供を背負った。火見華と、そのまわりにいる巫女たちは九州全土にいる同胞へと呼びかけながら、歩きはじめた。
 「行け、火見華――いや、たったいま生まれたばかりの新たなる巫女の女王、日巫女よ」
 雄々しく進みはじめた幼子を見送りながら日巫女は言い、少しばかり疲れたように岩のうえに腰をおろした。
 生ぬるい風が吹きぬけていった。
 森射は吉備へと進んで行く人々の群れを見送ると、なにかしらの重荷が落ちたような、どこかすっきりとした顔をイサナにむけた。
 手をさしだす。
 「イサナ、行こう」
 まぶしいほど鮮やかな笑み。きっと永遠にイサナはこの笑みを忘れはしないだろう。
 「行こう森射。おまえが望むならどこへでも――」
 二人が手をとりあい、なにもかも分かり合っているかのように微笑あう。
 日巫女はこの稀有の力をもち、数奇な運命を背負って生まれてきたふたつの魂を、感慨深そうにみつめていた。
 二人には言葉を交わしあわずとも、これから起こるであろう、すべてを理解し、また己のなすべきことを悟っている。
 まるで神はこれらのことが起きるのを予測し、二人の戦士を遣わしたかのようである。生命自体を慈しみ、さらなる高みに登ることができるのだということが、信じられてくる。
 「ゆくがよい、お前らのなすべきことをなせ。わしはここで最後の仕事を終らせてから、逝こうぞ」
 「日巫女様」
 「もはやその名はわしのものではない。わしはただの年老いた巫女、日女(ひるめ)じゃ。須佐之男様の寵愛をうけた妻、日女」
 本当に日巫女がほしかったのは、妻という普通の女の名前だけだったのかもしれない。
 いまこそ彼女もまた、重い枷からやっと解放された。
 「わしはここで、もはやどこにも行くことのできぬ不者具の者たちをあつめ、最後のその時まで導いてゆこうぞ。そして、少しでも星が墮ちるのを遅らせるように、また、少しでも地球からずれてしまうように彗星自身に呼びかけておる。この地が、たとえわずかであっても救われるように先祖たちの御霊に、いつまでも祈っておろう」
 「日巫女様……」
 どんな姿になろうと、故郷は故郷なのだ。どこに行こうと、どこで暮らそうと、ここで生まれ育った魂はいつもここへ帰ってくる。
 そして、日巫女にとってもここはなにより大切な、思い出の場所なのだ。見捨てる事はできない。
 「わかりました。我々は、なすべき事を行ないます。我々にしかできないことを全力で――」
 「森射」
 イサナの呼びかけに、森射は日巫女に――いや、日女に一礼した。
 駆け出していった。
 のびのびと、イサナと二人がかける姿は、まるで森へ放たれた二匹の白鳥のようにみえた。魂の叫ぶままに消えて行く。
 日女はなぜか清々しいようなきもちで、二人の姿が消えるまで背を見つめ、祈りの呪文をいつまでもつぶやき続けていたのだった。



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