炎の娘

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12




 ――安伎人……安伎人…
 夕凪のようにおだやかで心地良い声が安伎人の名をまろやかに呼んでいた。
 ――こちらにおいでなさい、安伎人。
 甘いにおいが優しくだきあげた。
 母のひざは柔らかく、美しい手が幼い安伎人の髪を梳いてくれる。ちょっと恥ずかしくて、くすぐったいのがたまらなくて、この上ない幸せをあたえてくれる。
 母のつけている上質の白粉の匂いをかぐのがすきだった。
 安伎人はのぞきこむ母を見上げ、微笑む麗しい顔をまぶしそうに見上げた。
 ――安伎人……わたくしの可愛い可愛い吾子(あこ)よ。
 滑らかな手が頬をなで、首におりる。
 身をゆだねていた安伎人は、ギョッとする。
 彼女の表情が一変し、首をしめあげたのだ。
 鬼女そのもののごとくおそろしい表情となり牙をむき出し、眼がこれでもかというように赤くつりあげられている。
 ――安伎人、安伎人こちらに来よ。
 声は地獄の底から響くおぞましさにみちていた。
 爛々とひかる瞳の奥にあるのは悪夢だろうか、それとも本当に地獄なのか。
 ――聞け、安伎人。おまえの中にながれる我が血の叫びを思いおこせ。本能が要求するまま、心の願いのままにその身をゆだね、己をさしだすのじゃ。
 (ああ……)
 ――安伎人よ、我が世界へ参れ。天津の血をもつ者だけが入れる、高天原の最上の世界へ帰ってくるがよい。選ばれた者だけが許される、至高の世界じゃぞえ。
 その顔はもはや母のものではなかった。
 安伎人が知っている顔――
 黒媛だ。
 不意に、周囲のざわめきが戻った。
 安伎人はゆっくりとまぶたを開け、忙しそうに働いている人々の姿を見て、まだ夢からさめやらぬ顔のまま、どこか意識を遠くにして呆としていた。
 ――また、あの声だ。
 おぞましい、地獄へいざなう血の叫び。
 ここのところ安伎人は頻繁におそわれていた。
 ヤマトに帰り、活発化している邪悪な気をたくさん浴びすぎているせいかもしれない。少しでも気をゆるせば、容赦なくいざないにやってくるのだ。
 黒媛のささやきはしびれるように甘美でまろやかだった。
 安伎人の闇の心をしるかのごとく誘惑し、そして隙あらば、あちらがわの住人となすがために、おそろしい力でもって飲み込もうとする。
 「安伎人様、大丈夫ですか?顔色があまりすぐれませんが。やはりお疲れがたまっていらっしゃるのでしょう」
 幕屋のなかで休憩をとっていた安伎人に、声をかけたのは腹心の部下である菟田であった。
 連日連夜にわたって人々の先頭にたち、休みなく働き、指揮し、采配をふっている安伎人のことをひどく心配していた。
 また安伎人を惑わす心の声についても、彼はいくばくかは知っているかのようであったし、時々もれ聞こえるうわごとのようなあえぎ声があまりにつらそうなので、眠りが安伎人を苦しめ疲れさせていることに、気を病んでいた。
 安伎人はことさらなんでもないようにふるまい、椅子から立ちあがった。
 「少し転寝(うたたね)をしただけだ。皆がこれほど懸命に働いてくれているのに、俺個人のことなどかまってはいられぬであろう」
 「ですが、あなたはこのヤマトの大群を率いてゆかねばならぬ大切な身。あなたのかわりはもはやどこにもおらぬのです。ご自分のお体を第一にお考えなさいませ」
 「心配するな菟田、俺はいまほど心身ともに充足しているときはないんだ。走らねばからだが燃えだしてしまう」
 いまこそすべての民が立ちあがり、闘おうとしている。
 男も女も、子供も老人も、足萎えや(めしい)、病の者までもすべてが立ちあがり、己が出来ることをやりはじめている。そんなときにこれくらいのことで立ち止まっているわけにはいかない。
 それに決起してくれたのは、なにもヤマトの民だけではなかった。ヤマトからの伝令をうけた国々が一斉にたちあがり、見えない巨大な敵に立ち向かおうと必死でたちむかっていた。
 安伎人の雄叫びの声は、死者どもの襲いくる闇のなかに起こった、ただひとつの灯火ともいえた。
 各地にちらばる聖職者や、心正しき者たちには、迫りくるものたちの正体がなんであるかを、本能的に理解していた。
 生命の根源をおびやかす最大の敵が、本当にすぐそこまで押し寄せてきているのである。人類が犯してはならない神の領域と、天地の法則をすべて無視し、踏みにじり犯そうとしている。それを絶対に許してはならない。
 驚異的な力をもつ呪われた者どもがもしこの世界へはいったらならば、そこにあるのは、おびただしいばかりの死と混乱と破壊であろう。
 そして永遠に救われない、もっともおぞましい穢れによって輪廻の枠からはずされ業火の苦しみに焼かれつづけるのだ。
 いまでもやつらは破壊的な力でもって死者を蘇らせ、生前の意思も感情もうばい、ただの道具として酷使している。家族親族、親兄弟、恋人までもがその辱めをうけている。
 各地にいる巫女や神官、行者や占者、ありとあらゆる能力者が結束し、空にできた裂け目をふさごうとけんめいに結界を張っていた。
 彼らの指導のもとに、昨日まで普通の人間としてくらしていた者たちが、出来ることを懸命におこない動いている。
 ある者は弓矢を造り、錆びた剣を砥いだ。
 またある者は真名石を探し、ある者は香木を焚いて負傷者を清め、治療にあたった。食事の支度をする年より、けが人の世話をする子供、手の不自由な女が薬をせんじる薬師の手伝いをしている。
 「たしかに皆は、ほんとうによく働いてくれております。でも安伎人様、それは安伎人様がいてくださればこそのことです。あなたの上げた旗のもとにみながあつまり、心をひとつに束ねているのです。そのあなたがお倒れになったら、困るのはヤマトだけではありません」
 出雲や蔵王、熊野、箕輪(みのわ)東日流(つがる)荒吐(あらはばき)……その他もろもろ、諸国のすべての民が、行くべき方向を失い、道に惑うであろう。
 安伎人のみが、諸国の王や民、また術者のなかにあって、真実の敵を知り、またそれを退ける方法をも知っている。
 体の中にある闇のことを、彼以上にしる者はいないのだ。
 「わかっているさ。――それよりストーンサークルの再建のほうは進んでいるのか。各地のパワースポットの連結をはやめたほうがいい。このところ一段と闇の波動が濃くなっている気がするからな」
 たしかに南の空にある割れ目が、目にみえて大きくなっている気がする。吹き込む邪波動も肌をつきさすほど強いではないか。
 「各地に派遣した神官と兵たちによって、少しづつですが進められているはずです。が、なにぶん邪魔も多く、破邪の火矢も、数が格段に足りないそうなので」
 穢れをしらぬ乙女たちの手によって、清められ祈りを込められた矢に、富士の山からとってきた火口の(ほむろ)を灯した矢だけが、確実に死者である戦士たちを浄化させることのできるのだ。
 彼女たちはそれこそ不眠不休で作りつづけているのだが、その使用頻度からいっても、数がとうていおいつかないでいる。
 安伎人は幕屋を出て、働く人々のあいだを励ますように歩きながら、不承不承でついてくる菟田に言った。
 「彼女らも人の子、そうそう無理もさせられぬしな。それこそ倒れられてはことだ」
 「それは安伎人様もおなじです」
 またもや言われたのに、安伎人は苦笑する。
 「安伎人様、もうお休みになられなくていいのですか?」
 真名石を砥いでいる男が気さくに声をかけた。以前と違って民のなかへたびたび入っていく安伎人に、みな親しそうに声をかけるようになっていた。安伎人もまた、いかんなくそれを受け入れていた。
 「そうですよ安伎人様、昨日も寝ていらっしゃられないみたいじゃないですか。今のうちにお休みくださいな」
 「そうですとも。少しはお体をおいたわりくださいませ」
 みながあまりに休まない安伎人に、心配そうに様子をうかがっている。
 「ありがとう。俺のほうは大丈夫だ。それよりおまえたちこそあまり無理をせぬようにしてくれよ」
 何ともないように声をかけながら、安伎人は食料庫の向こうがわで自分を呼ぶ影に気づく。なにくわぬ顔で足早にすぎてゆく。
 人目から完全に姿が隠れると、控えていた男が膝をつきながら上目遣いに顔をあげ、安伎人の鋭い視線に、ゆっくりうなずいた。
 「見つかったのか?!――それは、どこに?」
 待ちかねていたとばかりに言った安伎人は、声が大きくなりそうになったのを抑える。
 男はそれでも心配そうに一応あたりをうかがいながら小声で言う。
 「三輪山の神山、鷹栖(たかす)にある御神木のウロ(・・)の中です。五十狭彦様のミイラとおぼしきものが座らされておりました」
 「鷹栖?そんなところになぜ……」
 「座禅を組まれたお姿で、まるで生きて、このざわめく地上を見下ろしていかのようであらせられました。何人かの行者たちとともにウロ(・・)から出そうとしたのですが、少しでも触ろうものなら、風に散って壊れてしまいそうで……まったく手がだせぬ状態です」
 「出ぬのか。まいったなぁ」
 安伎人は神妙にうなった。
 隠密で探りに出していた者たちは、選りすぐった行者のなかでも、さらに術にたけた信頼の最もおける者たちである。
 彼らに動かせぬとなると、ヤマトでは、もはやだれにも手出しができぬということだ。
 「よし、これから状況をみにゆこう。あの魔女を再び封印できるのは五十狭彦だけだからな。なんとしてでも手に入れなければならぬ。しかも早急にだ」
 それが最後の要だとでもいうべく、安伎人は菟田が止めるまもなく、そのまま後の作業を他の者にまかせ、鷹栖へと赴いていたのだった。




 さすがの安伎人も、それを見下ろしながら、どうしたものかとおもわず思案にくれていた。
 案内の者の報告どおり、五十狭彦の身体はすっぽりと杉の巨木の根元にできた堅いウロにおさまっていた。
 どう計算したのか、見事といえるほどわずかな隙間さえなく、まるで木の幹にできた模様のようであり、自然がおこす悪戯のひとつのようにみえた。
 五十狭彦は身体こそ干からびミイラとなってはいたが、骨組みはがっしりしており、体格も目をみはるほど素晴らしく、生前はどれほど鍛えあげられた有能な戦士であったかをうかがえさせた。
 座禅を組み、眼下に広がっている地上で、人間たちが苦しみあがきながら戦っている様を、まるで泰然とした自然の神のように見守っている。風景に溶け込んで、一見しただけでは見逃してしまいそうである。
 安伎人はその姿にだれかを彷彿とさせられていた。
 姿格好といい、座禅を組んでいるところといい、ミイラといえど放っている気の質量が常人とはかけはなれている。
 なにか訴えかけているようであり、ひきこまれるようでもある。もしかしたらそう感じているのは安伎人だけもしれないが、胸に迫りくる威圧感がある。
 ただ残念なことに、安伎人ではまだ役不足だとでもいうのか、彼が伝えようとしていることが受け止められない。五十狭彦からの念波を許容するだけの力量がおのれにないのが口惜しい。
 「温羅か……」
 安伎人は思いだした。
 あの吉備の幽谷で、丘のいただきにすわり、ミイラになってまでたったひとりで結界を張っていた、温羅の姿と同じであったことを。
 「そういえば、この二人が好敵手だと聞いたことがある」
 温羅はみずからミイラと化すほどの情念をもって、ただひたすら吉備を守っていた。
 吉備最強の戦士でありながら、射王と吉備のために、そして森射のためだけに王位をまで捨てた。
 五十狭彦が温羅と違っているところは、五十狭彦には胸に槍のつきぬけた痕があるということだけだ。すなわち、彼は愛する女のために死んだのである。
 彼女を救うために、それ以上罪をかさねさせないために、おのれの体を封印として、永劫はなれぬ約束とともに眠りについた。
 その女――黒媛が、いまや無理やり目覚めさせられ、伊邪那岐がこの世界にはいるための道標として使い捨てられようとしている。
 彼女が、自分で気づかぬままにどれほど心虚しく苦しんでいるか、いつか伊邪那岐に裏切られ殺されてしまうであろうことも、ここでみつめている五十狭彦にはわかっているのかもしれない。
 「ここからヤマトを守っているのか、温羅と同じように」
 ふとそんな考えがよぎった。
 安伎人のなかにながれる、遠い五十狭彦の血によって、心に共鳴してしまったのかもしれない。
 「五十狭彦様が、ヤマトを見守っているのですか?」
 つぶやきを聞きつけた菟田が不思議そうに言った。だが、そのとなりにいた行者の一人はその意味を解したのか、なるほどと頷いてみせた。
 「そういわれれば、まことこのウロのなかに自らの意志でおさまっているかのようでございますな」
 「この方から発せられている膨大な霊気が、この巨木によって増幅され、幾百となくひろがる枝々の先端で複雑に編まれて、ヤマトの地へ発せられているのが伝わってきます」
 もうひとりの行者もあわせて云った。
 「まことに神妙な、世の不思議事でございす」
 ゆうるりと流れていた風が止まった。草木の呼吸が止み、空気が重くとざされてゆく。
 「安伎人様――」
 四人の行者が身構え、安伎人と菟田を守るように囲んだ。
 いつのまにか死者たちに囲まれていた。
 ご神木のまわりをぐるりと一周するようにして、じりじりと輪をちぢめはじめていた。
 死の戦士たちは野獣の殺気と穢れた気をはなち、目に染みるような死人の腐臭がつよくたれこめてくる。
 ゾロリと這いよるのは、呼吸をもはや必要としない者たちだ。
 青黒い皮膚には死斑がうき、ウジが歩く度にポトポトおちている。切り刻まれた無数の傷跡からは腐肉が垂れて、ときには内臓や骨がのぞいている。
 片手がぶらりと垂れ下がり、皮一枚でつながっていた。黒媛の怨念によってつくられた死者の戦士たちは剣呑な、どこか鬱屈した怒りが秘めている。
 高天原から送られる負のエネルギーが無理やり彼らを黄泉からひきずりだし、生ある者をすべて喰らいつくすまでは、けっして呪われた進行をやめさせはしない。無限地獄である。
 空間が閉じられていくのがわかった。
 空には暗雲が渦巻き、まるで蛇がとぐろをまくように安伎人の頭上に重くのっていった。
 死者たちが重い足を引きずり、握られている剣が暗雲をうつして、黒光りした。
 カッと熾烈な光炎が、蜘蛛の巣のようにはなたれて空一面にほとばしった。
 雲が逆巻き、渦の眼が、ゆっくりと開いてゆく。
 それが合図のように死者たちは一斉に飛びかかってきた。
 狂ったような猛攻だった。行者の念波によって弾き飛ばされ、黒炭となっていくが、そのあまりの激烈さに驚かずにはいられない。
 「安伎人様!我々のそばから離れないでください!」
 錫杖手にした行者の一人が援護をうけながら前にでた。
 浄化の祭文をとなえる声明が朗々と流れ、残りの三人があわせたように錫杖をふりつづける。
 普通なら、これだけでも動きが鈍り、逃げて行くというのに、かなりの超音波となっている声音にも気づかず、みじんの怯む気配もない。
 「敦賀様……真野様までも……」
 菟田が我が目をうたがうようにつぶやきをこぼし名を呼んだ。
 その邪鬼のむれにまぎれているのは、かつての右大臣や、勢力をほしいままに誇っていた安伎人の家臣たちではないか。
 かれらは黒媛の色香にいち早くとり込まれ、いいように使われて黒媛を要職につけると、そのまま使い捨ての道具のように捨てられた、哀れな骸たちだ。
 「安伎人様のお帰りを待てなかったばかりに。なんと哀れなお姿に……」
 当時の権勢を誇っていた彼らでさえ、死せばただの死の野党のむれとして、野山を駆けずりまわされる骸の一つにすぎなかった。魂は誰のものだろうとかわらない。そう、今世で身につけた衣装がちがっただけなのだ。
 だが、どこまで人間の尊厳を辱め卑しめればきがすむのだろう。
 「あの『眼』だ!」
 安伎人は天空の切れ目を見上げ、指さした。そこからエネルギーが放出されだしていた。
 ぱっくりと開らかれたそこは、まるで本当の眼がひらいたようであり、自分だけを見つめる心地わるさと不吉さがおしよせる。
 オオッと低い野獣の唸りをあげた。死の戦士たちは色めきたった。
 飛びかかっては牙を剥き出し、狂犬のごとく噛みつかんと顔をよせるのに、行者たちがその頭蓋骨を砕き、応戦していく。
 かなりの能力者たちであり、また各地で死者の戦死たちとの死闘をくりかえした熟練者たちばかりであったが、この度はかなり勝手が違ってか、ひどく戸惑っている。
 数もさることながらその強さが今までの比ではない。
 圧されているのをみながら、安伎人は頭上に広がるそれから目がはなせずにいた。不快であるのに、惹きつけられずにいないような、なんとも言葉にしがたい血のうずきのような、呪われた胎動を感じている。
 「安伎人、安伎人、妾の血をうけつぐ愛しくもかわゆらしい吾子よ、妾のもとに来よ」
 わずかにひらいた切れ目から顔がのぞいた。入道のように巨大な、女の顔である。
 「ヒッ」
 おもわず菟田が腰を抜かししりもちをついた。五十狭彦のミイラのほうへいざるのも安伎人は気づかず、ただそれを茫然とみていた。
 化物だとしかいえない女の顔は、もはや以前の美しい黒媛の相貌とは、まったく似ても似付かないほど悪変していた。
 狂ってしまっているのだ。
 伊邪那岐から直接闇のエネルギーを受けつづけ、首を刈ることで貯め続けた生命エネルギーがどんどん増えていくうちに、蓄積したそれにとり込まれ、いつしか黒媛は己を失うほどおぞましく変性をとげていた。
 自己を失い、魍魎と成り果ててもただただ首を狩り、魂を欲する化け物になっていた。
 今の彼女の中には、正気のかげりも愁いもなく、きっと、愛する五十狭彦の姿を目にしたとしても、それが誰だかわかっていないだろう。
 「妾のものとなれ安伎人。血の叫びを聞け」
 蛇体がうねるようにして安伎人に向かい降下してきた。
 チロチロと先の割れた舌をのぞかせながら、まるで絡めとろうというように赤い目を危険に光らせた。
 安伎人は備前刀をぬく。通りすぎる寸前、それを弾いた。
 刀身が火花を散らせ、蛇体は悲鳴をあげて、さらに身をうねらしながら安伎人へ猛撃してきた。
 続く攻撃をなんどかかわしているうちに、安伎人はそれが、鋼鉄のような黒媛の髪だとわかった。絡めとり、食おうというのか。
 身をかわした安伎人をすりぬけ、背後の木にぶつかりそうになった。黒媛の目に、ウロに坐している五十狭彦の姿がうつった。
 身をよじり、天に旋回しながら、鼓膜を突き破るような悲鳴があがった。
 「そのもの、妾に不快をあたえるそのものの存在、許せぬぞえっ!」
 その言葉が安伎人の胸をえぐった。
 人の姿ですらない黒媛は、いまや彼女のもっとも大事なものさえわからない。伊邪那岐の邪念で動くからくり人形にすぎないのだ。
 それでも本能的な痛みだけは五十狭彦からうけるらしく、攻撃は安伎人から五十狭彦に移った。毒の液を吐きながら何度もウロをめざしておそってくる。
 「やめろ黒媛、それはおまえのたったひとつの良心なんだぞ!」
 「ええい気にくわぬ!気にくわぬ気にくわぬっ!妾は不快じゃ、たまらなく不快じゃ胸が苦しくなる。ああ、不快じゃたまらぬわ!」
 安伎人はその不快さが憐れだった。
 きっと本当はどこかでわかっているのだ。
 その、だれかを愛しいとおもう思考にさえ蓋をした伊邪那岐が憎かった。思考と身体が分断されて、わけもわからず身悶え、必死で攻撃する彼女があまりも可哀相すぎる。
 安伎人は備前刀を額の前に一文字にかまえた。
 体が沸騰するかのように熱くなり、まるで炎につつまれたような気がした。
 未知なるエネルギーが体に満ちて、とどまるところを知らぬ荒波のように極点にまで高まってゆく。
 これこそが、主をもった妖刀、備前長船の力であった。
 おそるべき刀は、刀自身が呪力をもち、主の命を必ず守るという。
 そのかわり、持ち手として相応しくない者が手にすれば、気を増幅させたまま暴走し、自力をすべてつかいはたさせ殺してしまう、恐るべき魔剣にもなる。
 「黒媛、あなたを救いたかったが――」
 安伎人の脇をかすめた黒媛の蛇体が、ザクリと無惨な音たて青く光った。
 堅い鱗が跳ねあがり、肉が焼けこげる臭いがした。ドロリとした液体が安伎人の腕に垂れおちた。
 黒媛は燃えるような怒りの形相をむけた。だが、恐ろしいまでの早さで蛇体のその傷は修復し、結合していく。真っ赤な唇が耳まで裂け、牙がのぞいた。
 「どういうことだ――?! 」
 安伎人は恐ろしさのあまり首の毛を逆立てた。
 そのままなんども切り込み、そのたびに黒媛の身体はバラバラになりはしたが、しばらくするとふたたびそこは紡がれ、立ちはだかる彼女に傷ひとつない。
 「あ、安伎人様……っ!」
 菟田が悲鳴をおもわずあげた。魔剣でさえ通用しないということは、もはや他の方法はないではないか。
 「どういうことだ、これは」
 巨大な黒媛の身体がとぐろを巻き、安伎人を勝ち誇ったように見下ろす。嘲笑はいかにも愉快そうだ。
 「妾がそのようなまやかし物で切れると思うか。そなたらのような三次元の低級な物質などが、妾の身体をつらぬきはできぬわ。妾は高天原の波動により進化をしておるのじゃ。無駄なことよ。伊邪那岐様がおられるかぎり、妾を倒すことなど叶わぬとしれ」
 「伊邪那岐か!やはりそのおぞましい体をつくったのは、やつなのか」
 森射のことがふと頭をよぎる。
 伊邪那岐によって、わずか力を与えられただけで、こんな魔女のような存在が出来あがるのだ。なのに、その本体と闘おうとしている森射の身が案じられる。こんな時なのに胸騒ぎがする。
 死の戦士たちを防いでいた行者たちに、疲れの色が見えはじめていた。
 いちいち浄化させねば、何度でも起きあがってくる、ゾンビたちに技も体力も消耗するだけで、虚しく時が過ぎていくばかりだ。
 一刻の猶予もない。
 気をはりつめている状態にも、限度がある。すでに行者も一人二人とやられ食われてしまい、死者たちは鼻の先にまでつめよってきていた。
 「安伎人様――っ」
 必死の行者が、よもやこれまでかというように名をよんだ。
 安伎人は苦しげに眉をひそめながら、うつ手だてを失い、黒媛の攻撃をけんめいにかわしていた。
 「安伎人よ、おまえは月読様の復活に邪魔じゃ。妾のもとに来ぬのであれば、死んでもらうしかない、妾は惜しいと思っているのであるがのう」
 鎌首をもたげ、残忍で酷薄な眼が燦々と燃えあがらせた。
 空気がうなった。
 安伎人のからだについた無数の傷口から、噴水のように血があがる。いつの間に安伎人を庇ったのか、行者がバタリとたおれてゆく。
 ザクッという木の折れる音がした。
 振り返った安伎人は、木のウロのなかにいた五十狭彦の体が崩れていくのをみた。
 「馬鹿な、そんなっ――!」
 ミイラと化した五十狭彦のからだは、まるで黒媛の手にかかるのを待っていたかのように分解してしまった。
 愛するひとのために命をすてた彼は、なぜ何もいわず、そう簡単に逝ってしまうのだろう。
 これで、本当に、黒媛をとめられる最後の塞を失ってしまった。
 あまりの衝撃に茫然として安伎人は動くこともできず、血がふきだす傷そのままに、ただたちつくしていた。
 黒媛が牙をむいた。今、まさに襲いかからんばかりであった。
 その動きがふと、ピタリととまってしまった。
 おかしいほど周囲がしずまりかえる。
 死者たちも、空も、風も、まるで作り物の人形の世界に迷い込んだように固まっている。
 「おお、おお、ついに時がきたぞ」
 黒媛の、感にたえいるような歓喜の声があがった。悦びにみちた顔で南の空をみあげている。
 雲の向こうからでも見えるほど、光明にひかっていた星は、いまや本当の姿をあらわしている。
 天空が裂けてぱっくり口をあけ、異物が混入しようとしているのだ。
 倭国から遠くはなれたこのヤマトの地であってさえ見ることができるほど、それは邪悪で、巨大で、虚無の波動にあふれていた。
 「日向が――倭国がっ!」
 「高天原の門じゃ。門がついに開くのじゃ!」
 安伎人はまさか、とひどく青ざめた。
 それでは、森射たちは間にあわなかったということか。
 いや、それよりも彼女の身になにかあったのではないか。でなければ、そんなことがそう簡単に起こるはずはない。
 「花嫁じゃ。伊邪那岐様が新たな花嫁を迎えられるのじゃ。おお、めでたいぞ、めでたいぞ。伊邪那美さまの復活じゃ」
 黒媛はまるで美酒にでも酔うたように頬を紅潮し、歓喜のさけびをあげた。
 伊邪那岐から送られる波動がさらに強まり、まだまだ不完全であった身体をより強固にし黒媛は実体化をはじめている。
 「グッ!」
 突然、高笑いがとまった。その表情が苦しげにゆがんだ。
 「ギャ――っ!」
 つんざくような凄まじい悲鳴があがった。
 黒媛の蛇体がみるみる膨れあがり、それが耐えきれぬように一杯になったかとおもうと、いきなり弾けた。
 今度は反対に、突然すぼみだし縮んでいくのだ。
 「グエェェ――ッ!」
 のたうちあがき、なぜだっと信じられぬばかりに毒の血を吐き暴れている。尻尾が森を裂き、地面を割り、木をなぎ倒してゆく。
 「なぜじゃ、なぜじゃっ!なぜ王は妾からエネルギーを吸いとるのじゃ。月読様のためにと集めてきた妾の首級のエネルギーまで、なぜに妾から奪うてしまわれるのじゃぁ!」
 死の戦士たちもまた、黒媛が苦しむのに合わせてばたばたと倒れていった。
 そんなことも気にせず、呪いの叫びをあげながら、黒媛は逃げるように雲間に消えていってしまった。
 あとに残った安伎人たちは、何が起こったかもわからぬまま、呆然としてそれを見上げていた。
 安伎人はだがすぐにゾクッとしたように身をふるわせた。
 霊気が、恐ろしく不快で呪わしい邪気が強まっている。
 「森射……っ。まさか、あのイサナがついているというのに、そう簡単には……」
 まるで、森射の身になにも起こっていないと思い込ませたいかのように低くつぶやいた。
 青ざめた心配げな顔を、いつまでも空の裂け目へむけていたのだった。




 「火をたやすな、少しでも気を緩めるとヤツらが襲ってくるぞ!」
 「だめだっ!第三塞が全滅させられたらしい。こっちに真っ直ぐ向かってくる!」
 人々のはげしい怒号が飛び交い、慌てふためいて走りまわっていた。喧騒と混乱で、各地に置かれていた指令所は沸きかえっていた。 
 あの呪うような天空の裂け目ができた日以来、すさまじい殺戮と混乱が起こっていた。
 黒媛は伊邪那岐によって無残にもエネルギーをすいとられ、狂ったように人を殺しまわるようになっていた。
 まるで奪われたエネルギーを取り返さんがために必死になり、餓えに身悶え狂った狼のように首を駈り求め続けている。
 それまでに黒媛によって集められ、封印させていた、黒媛の妖力の源ともいうべき何千もの首塚の首たちも、もはや何の力ももたぬただの骨となり、残骸場となっていた。
 聞く話によれば、あの日突然に、蓄積されていたエネルギーがきえたためか、今まで目の前から隠されていたその呪わしい首塚が、突然姿を現わしたそうである。
 信じられないほどの負の波動によって、空にかかった雲はいつまでも黒くたれこめていた。切れることも薄まることもなく、ねっとり重くからんだまま空気に沈殿し、人々の神経を引っかきたかぶらせている。
 つねに緊張を強いられる毎日に、そうでなくとも疲れていた者たちは、さらに疲れ苛立たされていた。
 安伎人はさらに多忙をきわめ、まるで憑かれたように動いているばかりだった。
 わずかな仮眠と、動きながら食べる食事も軽食であり、それは何か巨大な恐怖をおそれていて、それを無理やり忘れようとしているかのようでもあった。
 蟻の一匹さえ見逃しがないように指令をだし、乞われれば視察にゆき、結界の強化をつとめるように準備させた。
 誰の目からも彼が疲れ果て、倒れるのも時間の問題のようだと思われた。
 安伎人はたしかに絶望にちかい感情をいだいていた。
 黒媛をとめることが出来るはずだった、唯一の希望である五十狭彦の身体がなくなってしまったのだ。
 かなりの痛手どころか、激化している黒媛の呪わしい行為をとめることもできず、さらに被害が増大しているばかりではないか。
 どうすればいい。何をすればあの妖女を滅っすることができるというのか。もはや暗中のなかにほおりだされたようである。
 「安伎人様……」
 「大丈夫だ、かまうな」
 険しい顔の安伎人に、側近の一人が声をかけた。安伎人は顔も上げずそっけなくあしらう。
 「でも顔色が本当にお悪いですよ」
 安伎人はこたえなかったが、じつは腕の傷がかなり痛んでいた。
 黒媛と闘ったときに受けたものだった。彼女の血がかかり、そこが燃えるように痛む。それをさとられまいとして、つとめて平然としていたが、この痛みかたは尋常ではない。
 「……そうだな、悪いが、ちょっと休憩することにしようか。少し一人にしておいてくれ。ああ、半時したら起こしてくれよ」
 「もっとお休みください安伎人様」
 「そうだな。とにかく頼む」
 安伎人はそのままふらりと外にでたまま幕屋にはゆかず、人気のない山裾のほうへとむかっていた。
 周囲に誰もいないことを確かめると、山から流れてきている小川に腕を浸した。以前ほどの冷たさはないが、ほっと息をつく。
 腕は真っ赤に張れあがっていて、いかにも痛そうである。
 ――安伎人…安伎人……。なぜ首を狩らぬ。
 「うるさい!天津の邪霊どもめ、黙れ!」
 ――おまえが心と違うことをするから腕が痛むのじゃ。素直になれ、安伎人よ。心のままに人々を殺し、血を浴びてみるがよい。
 「おまえなどに惑わされぬ。どれほど闇の世界に誘い、苦しめようと、俺は貴様らのいうことなど、絶対にきかぬ」
 ――安伎人、首じゃ首じゃ……血じゃ…ホホホホホッ。
 不気味な笑い声がこだました。腕の肉をえぐられるような焼きつくいたみが襲う。
 なんという残酷な苦しみか。
 得体のしれぬ、なにやらおぞましくも卑しい生物が、安伎人の柔らかい体内に牙をたて、引っかきまわし、食い荒らしてゆくようだ。
 一番奥底に、たいせつに秘めているものを不用意に荒らし、大事で綺麗な思いを踏みにじり、犯してゆく。
 安伎人は目に見えない妖魔によって、自分という人格が食われ、失われて行くような感覚にあえいでいた。
 堅牢な足かせをはめ、縛りあげていた安伎人のなかの化け物が、全身をひくつかせ、開放の時を待っている。いまかいまかと雄叫びをあげ胸をふるわせている。
 ――殺せ、殺せぇ人間のエネルギーを食ろうてみよ。おまえがかつて、わが子供を殺したように、腹を裂き、内臓を抉り出すのじゃ。
 「いやだ、絶対にいやだっ……っ!」
 妻を傷つけ苦しませ、医師までもその劇場の余波で殺してしまった。
 あんな胸の裂けるような思いをするぐらいなら、自らを切り裂いたほうがいい。
 もう、だれも傷つけたくない。殺したくはない。
 「俺は……けっして、おまえたちのような卑劣なやつらの思い通りにはならぬぞ」
 安伎人はあらく息をつきながら立ちあがった。よろめきながら腰から剣を抜く。
 ままよとばかりに天を仰ぐ。
 「おまえなどに支配されない。天津の血など、身体からすべて流しだしてやる!」
 赤くはれあがった右腕にむかって思いきり振りおろした。
 空気がザクリという鈍い音をのみこみ、剣が地面につきたった。
 赤い血が流れるかわりに、安伎人は体当たられるようにつよく抱きしめられた、一緒に転がった。
 「なりませぬ安伎人様!自分の内なる声に負けてはなりませんっ!」
 聞きなれた冷涼なその声に、安伎人はそれこそ背後から刺されたかのように固まった。
 生唾を飲み込みながら、恐る恐るふりかえる。
 「あ、あす……は……っ」
 そこにいたのは、まぎれもない妻、明須葉の姿である。
 まだ痛々しくなよやかな首や腕のあちこちに、いくらか包帯を巻いていたが、それでもしっかりとした強くて美しい瞳に涙をため、必死で安伎人にすがりついていた。ダメだと首をふった。
 「安伎人様しっかりなさってください。お願いです、自分を傷つけたりなさらないでください。大丈夫です、安伎人様はおひとりではございません。わたくしがいつだってついております。あなたのそばにおります。そのような闇のいざないなど、あなたには振り払う力があるはずです。己の内にねむる闇の血を、きっと支配することができるはず」
 すがりつくように言い、まだ本調子でないのか、明須葉は肩で息をついていた。
 安伎人が隠密の使いに様子をみさせていた報告では、まだ彼女は床にふしているという話だったはずだ。
 その明須葉は、誰からか、苦戦している安伎人の大変な状況を聞き、いてもたってもいられなくなり、無理をしょうちで起きあがりここまできたのだった。
 彼女は嘘も隠しもなく、安伎人が抱ええている重く巨大な野獣を知っていた。
 呪いの戒め、その試練がいかに大きいかも、わかっている。
 誰に聞いたわけでもないが、女の本能が、――肌を交わし、その愛するものの命を宿した全身で、それを理解していたのである。
 「負けないでください安伎人様。わたくしがついております。どうかお心を強くもって」
 「明須葉……」
 安伎人は本物かとうたがうように、そっとふるえる手をのばした。
 怯えながら触った手は、いたましいほど痩せていて、あれほど美しくしなやかな腕や肩からは、自分のつけた傷跡が赤くのぞいている。
 思わず目を伏せた安伎人に明須葉は首をふった。目に見える傷など、たいした事はないのだ。物質的な傷はいつか必ず癒える。
 けれど心の傷は癒してやらないかぎり、いつまでも治らず膿みつづける。そして本当の愛でなければ癒されない。
 「安伎人様、お会いしとうございました。あなたが闇の心をおさめお帰りになられるのを、ずっとお待ちしておりました」
 そのために吉備にゆき森射に出会った。
 いまならばわかるが、すべては神の導きであり、必要な道のりだった。
 森射に会い、そして杜璃に会って、自分のすべき役割や指名を理解した。やっと受け入れる覚悟ができた。
 安伎人は明須葉の頬に指をすべらせた。温かくて、わたのように柔らかかった。
 あんなに冷たくなって血を吐き、本当に殺したかと思ってしまった。血まみれの明須葉が動かなくなったときには、きっともう助からないのだと絶望した。
 その恐怖が安伎人をさらに狂わせ、血の猛りのなかに突き落としたのだから。
 「よく……よく生きていてく――っ!」
 「……はい、安伎人様」
 たまらぬように歯を食いしばった。
 言葉にならないほどの強いおもいが痛いほどわかると、明須葉はなんども頷いてみせる。
 抱きしめる小さな明須葉の身体からやさしい鼓動が聞こえて、安伎人を癒しなぐさめてくれる。
 安伎人はなにか大いなるものに抱きしめられているような気がした。
 明須葉という平凡な普通の女に抱きしめられながら、もっとおおきな、深く温かい、母体そのもののようなやさしい手が、何もかもを許してくれる。
 顔をあげた安伎人は、目の前に森射の顔があることに驚いた。
 だがすぐ違うとわかった。目をしばたく。
 明須葉もない、森射でもない、明須葉にだぶってみえるその顔は、誰ともいえないのに、森射に似ている気がする。微笑む表情のまろやかさにはなんともいえぬ柔らかさがある。
 それは人の子の、母となったことがあるものだけがもつ温かさだった。かつての明須葉がよく浮かべていたあのまなざしだ。
 安伎人はその慈しみにきらめく笑みに、そこに射王の魂がいるのを知った。神の子を宿し、救世主の生まれるその日まで戦い続けているという気高き戦士、射王の心が安伎人を案じているのだ。
 安伎人は抱きしめられ、その明須葉の腕から、射王が体の中に入ってくるのを感じた。
 違和感も不愉快さもなく、ただ、底のない泉がいつまでも水を沸き立たせるように、心と体の痛みがひき、かわりに光で満ちてゆく。
 安伎人は愛されていた。
 大いなる愛だった。
 人はどんなときであっても、孤独ではない。
 いつだって愛はそこにあり、降り注ぐ陽光のひざしのように、神は愛を惜しみなく与えつづけてくれている。
 ただそれに気づけるかどうかだけであり、いつだって神は人々を平等に愛し慈しんでくれている。人はその愛をうけとり、満たされて、ようやく他人を愛することができる。人を満たせるようになりえるのだ。
 胸の中が大きく膨らんでいった。
 恒久のときを刻む宇宙の星は、人の心のなかから生まれ、どこまでも膨張してゆける。
 安伎人ははるか遠い宇宙の空と、自分の内なる宇宙が同じであることを知った。
 そう理解したそのとき、彼の内宇宙に森射の姿がうかびあがってきた。
 彼女はたくさんの愛に包まれながらも、たった一人で、もっと前へもっともっと先へと前進しようとしている。
 昏くて果てしない道のりのようであったけれど、彼女は臆することなく、心の不安と恐怖をかくし、誇り高い顔を毅然とあげて必死に希望にむかっていた。
 安伎人は森射の孤独な戦いがどれほど苦しいのか、ほんのわずかだがわかった気がした。
 彼女のことをずっと特別な人間だと思っていた。
 普通の人間のように怯えることもなければ、迷うこともない。神の守護うけ、先を見据えた優れた目と才で人々を導くのだと。
 安伎人は、射王の姿に森射がかさなって見えた。 
 最も美しい、二つの影は、まるで最後にみるという幸せな夢のようなきがした。
 どこからともなく歌声が響いてきた。
 胸があつくなった。懐かしさがこみあげてくる。
 安伎人は泣いていた。
 おおいなる憐れみの心が胸にしみ、菩提心がおとずれて、安伎人の目をひらいたていったのである。
 ――悪意には善意でこたえ、憎悪は愛で癒すのだ。おまえが侮辱されれば慈悲をあたえ、害意には憐れみの心をかけてやればよい。それだけなんだよ、安伎人。
 「森射……いや、射王?」
 歌声が安伎人を包みこみ、心を澄ませてゆく。
 「この歌……森射が、あのとき歌っていた歌だ」
 初めて出会ったあのとき、森射が口ずさんでいたものだった。
 彼女の手の中で命の羽ばたきをとめたはずの蝶が、歌声にあわせるかのようにまた舞いあがっていった。
 「安伎人様?」
 はっと意識をもどした安伎人の瞳をとらえたのは、心配そうな明須葉の顔だった。
 その中にも、安伎人のみてきたのと同じ宇宙がある。
 「あなたの魂がどれほど苦しみ傷ついているのかは、もはや存じ上げております。療養の床に伏せていたわたくしに、この世の方であるとはとうてい思えぬほど美しい、緋色の髪とをした高貴な御方がおとないくださり、すべてを見せてくださったのです」
 「……射王が?」
 安伎人はなぜかすぐにわかった。何もかもがいきなり明瞭になり澄み渡った頭のなかへ素直に入ってくる。
 すべての混乱が払拭されて、安伎人のなかに『空』ができていたのだ。
 『空』があってこそ、他者の心を受け入れることができる。
 安伎人の耳に、だれかが絶叫をあげているのが聞こえてきた。
 その叫びは、空一面に広がり、我をわすれたような苦しみに喘ぎながら、狂気となってだれかを探し求めていた。
 泣いている迷子が母をさがし求めながら、その存在だけが、自分を救える確かなものだといいわめき、あたり一面を傷つけている。
 空気が不浄に黒く染まっていった。まるで心の爛れが膿み、たれ流されているかのようだった。
 安伎人は泣き叫んでいるが誰だかすぐにわかった。いつも安伎人の心をかき乱そうと呼びかけ、いざなっていたあの憎々しい存在。黒媛の狂気の孤独のあえぎが、波動の歪みとなり、伊邪那岐の邪念によって増幅されているのだ。
 すべての苦しみの根源が孤独であり、内なる恐怖であった。
 黒媛自身、そのことがわからず、ずっと伊邪那岐に利用されていたのだ。
 「憐れな魂だ。あの人の魂が安らぐことができねば、だれも安らぐことはできないだろう……」
 安伎人は、はじめて黒媛の平穏を心から祈っていた。
 憎しみや苦しみから救いをもとめるための祈りでもなく、心の底からわいてくるような、愛情による真摯な祈り。
 黒媛を救いたい。
 自分を苦しめる天津の血を与えたあの女性を助けてやりたい。憐れで一途で、気の毒な女性の孤独を癒し、いまこそ帰るべき場所へ逝かせてやりたい。
 愛する者との眠りを奪われ、無理やり目覚めさせられたのだ。
 黒媛は、伊邪那岐がこの世界へのりこむための道具として、今まさに使い捨てられようとしている。
 『安伎人よ』
 安伎人は誰かが名を呼びながら、光のつぶとなって体の中に入ってくるのを感じていた。
 まるで安伎人の祈りに答えるように、それは彼のなかにできたばかりの、心地よい空をみつけ、ゆっくりとその場へ凝固してゆく。
 ――五十狭彦……か…?
 光の粒からかんじる彼の幻影は、どこか安伎人の面差しに似た、背の高いがっしりした男だった。
 『安伎人、おまえの体を借りるぞ。俺はおまえの目が開かれるのを待っていた。あの人の本当の嘆きが見えるようになるのを、ずっと待っていたのだ』
 砕け散ったはずだとおもっていのは、五十狭彦の体だけだった。
 魂は、体という枷をぬけだし、もうずっとまえからそこにいて、安伎人が受け入れてくれるのをひたすら待ち続けていた。
 彼が愛する人の苦しみを放っておくはずはなかった。誰よりも助けたいと願い、その時が一刻も早く来るのを祈っていた。
 五十狭彦が手をさしだすのに、手をあわせて、二人の魂がかさなる。
 あのように、生まれながらの悪女のような女でさえ、なにを思ったのだろうか、気まぐれにまかせ王宮の端で、親にも見捨てられ病に死にかけていた五十狭彦を救い、自分のもとで養ったのだ。
 ずっとそばに置いて育て、気まぐれに愛情さえかけた。どこに子供を養うような心根があったのだろうかと、疑うようでさえあるのに、猫の目のようにコロコロかわる気ままな愛情は、王がきまぐれに抱いたはしための子だとて捨てられた五十狭彦を満たすのには十分であり、彼女のかたわらから、本当にかたときも離れないようにして成長したのだ。
 美しく野望にみちた黒媛のために、五十狭彦は必死で強くなった。
 そして彼女の欲することはなんであろうとした。それが例え同胞の人間をころし、白を黒としようとも、微塵もゆらぐことのない忠誠心と真心をもってつくした。
 それは利発で、理性的で聡明な彼の心に、どれほどの苦しみをあたえたかわからない。それでも黒媛のためだけに、自分をおしころしてまでも与え続けた。
 そしていつからか、彼の無垢な情熱と、純真な思い、そして地獄の果てまでついてゆくというほどの永劫の愛によって、あのおそるべき魔女の心すら、溶かしてしまった。
 天空にのたうつ蛇体が現れるのを安伎人はみていた。
 黒媛は、まさに五十狭彦の呼びかけに答えるようにうねり現れいででた。
 安伎人は自分の体が中空に浮かびあがるのを感じていた。
 恐怖心も抵抗感もなく、まっすぐ黒媛の目のまえまで飛んでゆく。
 しっかりと向かいあう。
 黒媛の目にはひとかけらの正気の光もなかった。ただ本能だけが、哀れにもきっと五十狭彦の存在を理解し、助けを求めるようにやってきたのだろう。
 黒媛は尾っぽをもたげ攻撃して打ちつけてきた。
 毒の液を吐き、まるで網のようにひろがり捉えようとしてくる。五十狭彦は容易にそれをかわし、見切ったように泰然としたまま、彼女が落ち着くのを待っている。
 すでに弱っている黒媛の動きはずいぶん緩慢になっていた。安伎人でさえ先が読める。
 彼女の命の火は無理にかきたてられ、変化させられたうえで酷使されたため、もはや残りが少なくなっているのだった。
 ほっておけばそのまま燃え尽きたであろうが、もはや二度と暗黒の世界から抜け出すことは出来ず、伊邪那岐のつくった地獄におちて苦しみつづけることになるだろう。
 いましかない。
 五十狭彦は刀を抜いた。そのまま迷いも躊躇いもなく飛びだした。
 いつのまにか彼は安伎人の体からぬけだしていて、実態をもったまま黒媛の蛇体の前にでていた。
 腕をひろげ、その化け物をだきかかえると、その醜い殻の中からひとつの魂を抱きあげた。もう二度と離さぬように、強く強く腕に抱きしめている。
 『今だ安伎人、刀でつらぬけ。俺ごと黒媛を射止めるのだ!』
 五十狭彦との叫びが全身を雷のように打ちつけた。安伎人はただもう夢中で、渾身の力をこめて二人をつらぬいていった。
 「ギャ―――!」
 虚空を突き破るような悲鳴があがった。
 蛇体であった黒媛が燃えあがり、はしから消滅して、とけてゆく。
 目をあけた安伎人は地面に立っていた。
 空をみあげるが、なにもない。
 すべては、心の中の戦いだったのかだろうか。
 いや、安伎人の目は、はっきりと天空に燃えている黒媛であったものの残骸をみていた。
 そして、彼のとなりにある二つの穏やかな魂存在もまた、はっきりとかんじていた。
 『ありがとう、安伎人。――我が愛しき子孫よ』
 五十狭彦は黒媛の魂を、今度こそしっかり抱きしめていた。二人でうれしそうにみかわし、昇天してゆくではないか。
 黒媛のなんともいえない幸せそうな、安らいだ顔はやけに印象的だった。五十狭彦の胸に顔をうずめて甘えている。
 「なんて穏やかな美しい顔をしているんだ、本当の黒媛は、なんて優しい――」
 やっとみつけたのだ。やっと、本当に求め、探していたものを――五十狭彦の手を、魂を彼女はみつけることができたのだ。
 もはや二人の魂が分たれることはないだろう。
 宇宙の果てへと戻っていったのだから。
 明須葉がとなりにたたずみ、安伎人の腕をそっと握った。彼女もまた目を大きくして茫然と空を見上げている。その神秘的な風景を、彼女がどこまで見ていたのかはわからない。だが幸せな風がほほを撫でたのだけは感じているだろう。
 「あの方たちが、あなたのもうひとつの血を呼ぶ方だったのですね――」
 「……そう、だがもうそれも終いだ。邪悪な血がもはや俺を騒がすことはないだろう。血は清められ、ひとつに重なったのだから」
 五十狭彦のたましいが、黒媛を抱きしめ、愛で満たした。彼女のながい独が永遠に終った。
 その二人の愛が、安伎人のなかに燃えさかっていた荒ぶる血を純化し、清めてくれる。闇は二度と呼びはしない。
 安伎人は明須葉に真摯な顔をむけた。
 「おまえのおかげだ明須葉。おまえが俺を受け入れてくれたから、俺はやっと気づくことができた」
 気遣うようにそうっと抱いた。
 腕の中の温もりが不思議なほどいとおしくて切ない。
 (わかったぞ、森射。俺にとってのおまえの存在が。おまえと俺が出会ったことの意味が。――森射、おまえは俺だったんだ。俺のなかのもうひとつの血族だ)
 心の中で安伎人はつぶやいた。
 だれより近い存在。
 鏡にうつしたもう一人の自分。
 そして安伎人の飢えきった心は、二人の女の愛によってようやく満ちたりたのだ。
 森射のいい続けていた意味を安伎人はやっとうけとる。
 「森射……」
 「安伎人様、どうかされましたの」
 安伎人がぼそりと不吉そうに名をよぶと、体が突然ふるえだした。明須葉がいぶかしそうに顔をあげた。
 毛穴が逆立ち、冷たくふるえ青ざめている。
 「森射!」
 安伎人は森射の悲鳴が体をつらぬくのがわかった。
 今まで聞いたこともないような、森射の絶叫だった。
 高天原の門が邪悪な光を放ち、増幅しはじめた。禍々しい邪気がなだれこみ、地上を覆いはじめる
 安伎人は思わずそちらへ向かって手をさし出した。
 「森射、しっかりしろ!」
 安伎人は夢中で叫んでいた。
 耳にかすかにとどく声が、今にも波に飲みこまれんばかりに小さくなってゆくではないか。
 ――安伎人、安伎人、手を……力をかしてっ!
 森射の叫びが消えた。
 安伎人はあらん限りの力をこめ、森射にとどくように祈る。
 手のひらが熱くなり、その熱が少しでも届くように、手をさしのべる。これまでにないほどの嫌な胸騒ぎが全身を総毛だたせる。
 自分の手のとどかないどこかで森射はいまどうしているのだろうか。
 助けなど一度も求めたがことがないのに、その声は、はっきりと救いを求めていたではないか。
 安伎人はいやな予感をふりはらうように、たまらずに大いなる神火具土、そして母なる射王に助けを求め、必死に祈っていたのだった。

 


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