気の狂わんばかりの一面の白。
狂気とも思われる潔癖さをあらわすように、純白の壁はどこまでも続いていた。
施設の周囲をぐるりとかこみ、まるで常世とは完全に分離した、別世界であると宣言しているかのようである。
敷地は、想像を絶するぼうだいな広さだった。一市街がまるまる入りそうなぐらいある。
その広大な敷地にすら、ところ狭しと研究室が林立し、それらを連結する通路がつづいていた。
まるでそれ自体が、奇妙な生物のようであり、不思議なほどの静けさにつつまれていた。
無情に自己完結をしてしまった、稀代の哲学者のようであり、退廃的な自己主義の科学者たちの思惟のようで、まったくの不気味さばかりである。
人の背丈の五倍はありそうな壁の先端には、よくみると鋭くとがった鉄条網がひかれ、先から青白い光が放たれていた。硬質な光はぞっとするような不気味な色合いで、見ているだけでも気分が悪くなる。
重々しい鉄門が森射たちの目の前で自然に開かれた。
彼女たちがやって来るのを知っていたように、まるで寡黙な執事のごとく丁重に招き入れているかのようである。
地獄の入り口からは激しい歪みをもった波動の圧力がおしよせ、息をふさいだ。
建物の頭上にうずまく暗雲がニヤリとわらい、ここへ踏み込めるかというように挑戦的にみえる。
森射たちは、まったくそれら妖魅たちの悪戯など相手にもせず、まっすぐ瘴気うずまく施設のなかへと進んでいった。
すぐにその場にいられないほどの怖気が這い出してきていた。
助けをもとめるような、つらく痛々しい声が、もうずっと耳にこびりつき、森射の鼓膜をふるわせていた。
ここへ来てから絶え間なく、過去に縫いとめられた憐れな魂や、残留思念までもが彼女に助けてほしいと救いの手を求めているのだ。
森射はそれらの永遠の解放と、救いを、拒むことは出来なかった。
もしそれらを放置すれば、このまま進んだときの、すべてのものの未来がその姿なるであろうことを知っている。一つの事象はすべてにつながっている。
イサナの先導で、中央にある研究室のなかでも、ひときわ巨大な建物の中へとむかっていった。
そのおごそかないかめしい建物さえ、鍵もなく簡単に入ることができた。
守衛のひとり、いや、その施設や、愚かしい実験の機密をまもるために導入した器具類のなにひとつ作動すらしない。
そこには一国の財政がかたむくほどの莫大な費用がついやされていたはずだった。
森射は罠であるとか、なにかの企みがあるなどと、もはや気にもせず、急くように先をいそいでいった。
聞こえてくる声があまりにも大きくて、懸命なので、他のことが一切頭からぬけ落ちてしまう。母親に助けを求めるようにすがってくるものが、森射をつきうごかす。
もし森射のこのような性格を読んでしかけた罠ならば、非常に彼女を熟知した、恐ろしい相手ということになるだろう。
建物の中もまた、精神がおかしくなりそうになるような無機質で真っ白い壁におおわれていた。一分のずれもなく直角にたてられた曲りや、継ぎ目ひとつない壁に、足音が不気味に響きわたる。
気の狂った学者のいたずらか、所々に、人間の髑髏でつくられた灯りがおいてあった。呪わしいにおいがしていた。人間の皮脂をしぼった油を焚いているのだ。
人間と人間が絡み合ったような、それでいて、ひとつの物体ともみえる、おぞましいオブジェが並んでいた。それは奇形の像だった
もちろんそれは本物である。
目玉だけで作られた絵画、少女の首の置物。打ちかけられた敷物は、染色された皮膚であり、髪の毛はじゅうたんとして織られている。
怖気がたつような悪趣味さであった。
森射は自分をおしころし、わめき、怒りになにもかも壊してしまいそうにはやる心をなだめるのに必死であった。
壁から浮きあがった顔の羅列から目をそむけ、死者を弄ぶおろかでおぞましい者どもへの憎しみに体がわなないている。
火見華も青ざめこぶしをにぎっていた。日巫女の名をもつものとしての、はじめての試練にどうにか耐えようとしている。
一段と空気が冷えた。洞窟の地下につくった冷凍室に入ったような感覚だった。
最も重要だろうと思われる施設の扉をゆっくりあけて、森射は一瞬足をとめる。
前に進むことができなくなってしまった。
屍の山だった。
何もかもが、死んでいたのだ。
だぶん実験室だろう。そこには見たこともない不思議な道具が壁一面にならべられ、そのまえで、器具を操作していただろう白い服をまとった者たちが、口から赤い糸を引き、目を驚きにまなこをみひらく凄さまじい形相で立ったまま息たえていた。
脇にある鉄の檻でしきられた各部屋にも、折り重なるような死体が積まれており、通りや廊下、物置のような場所まで、それらが無数に倒れているのである。
そこに死んでいる大半の者は、実験動物としてあつかわれていた者たちであった。
半分だけしか人の姿でない者や完全な異形の姿をしている者もいた。
どれもが表情をうしなって久しいのだろうか、死の瞬間までも、顔の筋肉がピクリとも動きもなかったように、むしろ安らかな死に顔をしているのが、せめてもの救いに見える。
無数の者たちが倒れ、すべてが死んでいた。
そこは、もはや死の館だったのだ。
科学者もキメラたちも、だれかれなく死んでいた。命の気配は微塵もなかった。
森射に助けを求め慟哭していたのは、無惨に殺された魂たちの残り香だけ。
生々しい感情は、こんなに意味もなくいたぶられ、傷つけられ、さらにあっけなく殺されてしまったことへの無念の情だったのである。
森射はまだこの巨大な施設に、だれか生きている者がいるのではないかというように、まるで憑かれたように走りだしていた。
道筋に死骸がならび、なかには手術室で、頭蓋骨の頭部をすっぽり切り取られ、脳に電極を埋めこまれている手術中のものもいた。
抑え付ける男たち、暴れ苦しむ哀れなキメラ、醜く皮膚がくさる痛みにたえ、虫にくわれてゆく恐ろしさにもだえる者、焼かれた皮膚が壊疽し、眼球をくりぬかれ、そこに何かの機械を入れられている、様々な姿があった。
みなの心は、すでに殺されていた。
どれも死に対する恐怖をもたず、まるでやっと長き旅をおえた旅人のように見えた。ただ楽しみに躍起になっていた、研究者たちだけが、永遠の苦痛の死を味わっているのみである。
「学者どもは、俺たちが生きていて同じように笑ったり、話をしたりする人間などとは少しも思っていなかったんだ。娯楽のように面白がり、ただ実験をくりかえしては切り刻んで、使用済みとばかりに投げ捨てていた。みずから死ぬこともできない者が苦しむさまをみて、言葉でなぶり、醜い気持ち悪いとさんざん痛めつけ、悲鳴をあげるのを聞いて、残虐な野獣の本能をみたしていたんだ」
今まで、一言ももらさなかったイサナがうっそりと口をひらいた。
イサナはここで八才の年まで同じ目にあってきていたのだ。ここに居る者たちとなんらかわらない苦行を強いられてきた。
並ぶ試験管のなかに宿っているのは、受精させられたばかりの卵子であった。
人工的に受精し、最終的には遺伝子操作をほどこして、自分たちに都合のよい生物を作ろうと研究をすすめていた。
奥の部屋のなかには、母体から取り出した胎児を、人工羊水のなかでそのまま育てる実験まで行っていた。何体もの胎児が、培養するための電気を送られずに死んで、ぽっかりと浮かんでいる。
見ればもう、おぞましいことにきりがなかい。なにもかもが残酷で恐ろしい。
こんなことを平気でできる人間がいるのだろうか。いや、それらは悪魔以外のなにものでもない。同じ組成の、同じ同胞だとは、絶対に言わせはしない。
森射はイサナに痛々しそうに目をやった。こんな地獄から、残虐非道な洗礼をうけながらも、かれは必死ではいだしてきたのである。
森射と出会うことができた。
奇跡なのか。――いや、もはやそれを運命といわずして、なんといえよう。
目を背けたくなるような姿をした実験体や、数々の標本にされた者たちの中に、もしかしたら混じっていたかもしれないイサナと、生きて逢えた。これ以上のことがあだろうか。
股のあいだに顔がつき、首の上に性器がついていた姿の男や、前後に顔があり、手足が四本づつある者。鼻がのめりこみ、眼がひとつしかない子供や、皮膚がすけていて、脳が丸見えの胎児まで並べられている。
森射は呼吸をし、乱れる鼓動をただしながら、屍の群れをとおりすぎた。
隠し扉がわずかの隙間をひらき、その存在をみせている。
森射が手をかざすだけで扉はひらいた。
胸がこおりつき、もはやその光景のいたましさに痛みすら感じてこない。傷みはすぎると脳が判断を拒否してしまう。神経が焼ききれるまえに感覚をなくするのだ。
森射はようやく誰に呼ばれてここまで来たのかわかった。
彼らである。
幼い子供たちばかりがそこにいたのである。
まだほんとうに幼い、母の腕に抱かれ乳の甘いにおいにくるまれ、生まれたことを喜び、慈しまれているであろう年頃のはずだった。
本来ならば、人生でも最も幸せな時間を過ごし、おしみない無償の愛を全身にあびて当然である時なのだ。
いや、むしろ愛情を浴びなければならない人類の至高の宝が、いかな罪によって、このような殺され方をしなければならないのだろう。
どれもが胸が痛むほど愛らしい表情をしているではないか。
こぼれんばかりの笑みをうかべあどけない仕種で遊んでいたなら、どんな非道な悪鬼であっても彼らを殺すことはできないはずだ。
それがなぜ、こんなにたくさん――。
この世で最も安心できる存在と引き離され、心細さで泣きわめき、その涙さえ枯れ果てた彼らの表情は、大人たちとおなじ、人形のように透明であった。
ただ生理的に流れた涙だけが生物だと表現しているようであまりにも哀れすぎる。
彼らはきっと自分に落ちてきた運命の重さも理解できぬまま、誰を恨むことも知らず死んでいってしまった。
母の名さえも知らずに、どうしてこんな所にいるかも知らずに――。
「なぜこんなに子供たちを……」
森射は顔を伏せ、手でおおった。
体をつきぬけてもれた心の泣き声が空間をゆるがした。
「この子たちは多分、俺とおなじ身の上だろう」
イサナの静かな声がした。
「親の存在も知らないし出生さえわからない者たちだ。ただの卵子と精子の結合からうまれてきた産物。これからの実験に必要な『実験生物』にすぎない存在だったんだ」
権力者や貴族たちの要望にあわせ、臓器を作り変え、それらを体で培養させられてから、もぎ取られる。そのあとの体には、細菌を植え付けられたり、脳をいじくりまわされたりして、ありとあらゆる凄惨な行為が彼らを待ちうけていた。
むしろここで今のうちに死んでいたほうが、しあわせだったかもしれない。
森射は泣けなかった。
こんなに眼がいたむのに、いたくて焼きつくようなのに、それを流し鎮めてくれる涙さえ、でてこない。眼窩がきしむように痛くて、焼け溶けるようである。
「彼らの悲鳴が聞こえる。生まれてきながら、愛のひとかけらも与えられず、そのまま逝かねばならなかったあわれな穢れない魂の悲鳴が、聞こえてくる」
ぐっとこらえ、立ちあがった。
「どんな恐怖がもたらす叫びだって、子供たちが最後にあげる悲鳴には及びはしない。未来へつながる希望から流された血で空が赤くそまり、赤く染まった空は人々の心に血を降らせる。そんな未来など、絶対にいらない!」
たとえ、恋人を失ったときであろうと、花の咲かない春であっても、子供の笑い声が消えてしまったときほどの深い嘆きを生み出しはしない。
森射は、空洞のようになった胸のなかに、ひとつの音楽が流れてくるのを聞いていた。まるで子供たちが流した涙から生まれてきたように、清く澄んだ旋律だった。
森射は自分を止めることができなかった。
歌はこころからあふれた。
葬送の歌でも鎮魂歌でもなく、ただひたすらいたわりと愛情、それから日の光にあふれた不思議な音色を奏でていた。
歌いながら、一歩一歩さらに奥へと進んでいく。
森射の足もとで子供たちの骸が、青い炎につつまれ、光の粒となって消えゆく。
「花嫁を迎えるために敷つめられた花々を浄化の炎で燃やすとは、さすが我が妻だ」
森射の腕にあった痣が、いままさに掴まれたかのような血の色に浮かびあがった。
幼いころに伊邪那岐がつけた、約束の印だ。
闇の中からうかびあがってきたのは、背幅のおおきい、みるからに体格のよい壮年の男だった。
眼窩がおちくぼんで頬骨がうきあがっている。浩々と光っているのは蛇のように執念深そうな瞳が森射に向けられる。
日向王、あな阿那だった。
いや、そこにいるのは阿那の骸であり、王の皮をかぶった、魔界の王、伊邪那岐であっる。
「よくきた森射よ。おまえから我の御許へやってこようとは、我もまんざらおまえに嫌われおるわけでもないとみゆるのう」
蒸せるような淫猥な笑い声をたてた。
もっているものの質量が圧倒的に違うとしれるほどの重圧感が、森射たちにのしかかった。
まさに邪念のもつ欲望の大きさのように、質も重みもこの世界のものは桁がちがう、異次元の虚無だ。
「しかも土産つきとは嬉しいかぎりよ。イサナだけではなく、年若い、上質の巫女の魂まで供えようとは。それだけあれば、我も十は若くなれるであろぞ。これで臥所ではさぞおまえを悦ばせてやることができる、花嫁よ」
耳元に口がさけたかとおもうほど邪淫にみちた笑いをうかべ舌でなめずった。吐き気がするような眼差しだ。
その隣りにいたイサナが炎のようなまなざしでにらんでいた。伊邪那岐は残虐にいたぶるような喜悦に輝いたった。
喜びに高ぶったエネルギーに、肉体としての形成に終わりを迎えていた阿那の体が、ととう耐えきれず、目の前で分解をはじめてしまった。
伊邪那岐の影が、それほど力を持つにいたるほど、互いの次元が重なりつつある。
高天原の門が開きかけていた。
「時空を開く鍵が帰ってきたぞ。森射、おまえは賢い。人には惜しからん才と美貌は、まさにわしの妻にふさわしい。宇宙の女王として、その美しさのまま永久に生きようぞ」
「永遠の命などいらない。それは輪廻の法則を犯した愚かな行ないだ」
森射はおぞましくてたまらぬように吐き出した。
「そんなものに何の価値もない。死を恐れる醜く卑小な心、それ自体がおまえの存在の低さだ伊邪那岐。私は悪魔の花嫁になどなりはしない。この命をもってしても、悪魔は悪魔に相応しい冥府へかえらせてやるまで」
伊邪那岐のエネルギーが阿那のからだから炎のようにひろがり沸き立った。
精神エネルギーが、高熱のあまりに阿那の体が一片まで溶かし去ってしまったのだ。
「そのような愚かな戯言を言うておられるのも今のうちだけじゃ。すぐに我の足元に跪き、命乞いをはじめるようになるだろうぞ森射」
逆巻くエネルギーが人の顔をかたちづくる。
何度も夢にみた悪夢の男――伊邪那岐そのもののおぞましい顔である。
「人間などみな我のため死ねばよい。所詮、低俗な種族は、低俗にしか生きられぬ。家畜は家畜らしく、我ら高貴な生命体の糧となればよいのじゃ。進化をいくら重ねようとも我らのように優れた種にはなれはせぬ。ならば進化など必要ないであろう。火具土の血をもつ救世主などましてやいらぬ。おとなしくわしの餌になっておればよいのじゃ」
「おまえの最終的な狙いは、火具土様だけなのだろう」
森射など、ほんのお遊びであり、この国の人間を屠るのなど、どうでもよいことなのだ。
伊邪那岐がどれほど火具土と、火具土の血をひく子――射王の腹にいる救世主をおそれ、意識し、またその力を欲しているかしれない。
口に出す一言でわかってしまうほどの執念が感じられる。
「もはや時は満ちた。あとは鍵があればよいだけのこと。――イサナよ、おまえが高天原の門をひらけばすべて終わりじゃ」
高天原の門をひらく。
それはつまり、イサナの体に内在している高圧エネルギーを究極まで高め圧縮させ、原子を核分裂させて、爆発したその熱と電撃波によって、次元をねじまげ、次元の異なる高天原とこの葦原の国をむりやり融合させようというのである。
「この葦原の中ツ国はおもしろい。大宇宙にあってさえも、特殊な国。森射、おまえのような、生まれながらにして生命の秘密を知る、まさに高次の存在をも生み出してしまうのであるからのう。我なぞはその秘密を追い求めるだけで、数千年の月日を経たというのに。まったくわからぬことじゃわい」
森射をみる目に、もっともおぞましい欲情がのぼってくる――食欲である。
「また我が高天原の神の種族にさえ恐れられた、あの火具土さえを、なんともあっさり受け入れおった。それだけでなく、やつの固く閉ざした心をも、簡単にとりこみ、おのが種族の進化の礎にしようとしておる。――愚かにも、超常の力をちょっと示してやるだけで、こうも簡単に人の心を捨ててしまう者もおるというのに」
あざけるように笑った声には、不気味で胸底から気分が悪くなるような醜悪さがあった。吊りあがった口の端が悪魔そのものだ。
伊邪那岐の精神体が巨大化していった。
建物全体の壁がふるえたように感じられた。まるで苦しみ悶えているようだ。
歌声が聞こええてきた。
空気の質がその瞬間に激変したようである。
「姉様、あれをっ!」
火見華が正面の壁をゆびさした。
グニャリと伊邪那岐のはいごの壁が歪曲した。
いや、歪曲というより、粘土のように柔らかい物質が、意志をもって押し開いたかのように、空間をひろげはじめたのである。
突き当たりの部屋に、ぼんやりと白い人影が浮かびあがった。
薄闇にもわかる透けたように白い肌をした、異国の女性だった。
三人はその姿におもわず慄然とする。
これは本当に、生命あるものなのか。
女性は顔をあげた。
表情に生気はなかった。ぜんまい仕掛けの人形のように虚ろで、意志も思考もなく、ただそこにあるだけの存在であるかのようにみえる。
彫の深い、異国の美姫とみえる流麗な美貌が、よけいに生命を欠いたうつろな存在の恐ろしさを際立たせていた。その陶器製の芸術品に生命があるとは思いたくない。
その理由は、彼女の体が壁に――壁一面に配されている、複雑かつ、怪奇な配線の機械と、内臓のように脈動している物質のなかへ、完全につながれているからである。
壁の真中に、彼女の下半身と背中が埋めこまれていた。美しい顔のすぐそばから脳にうめこまれた管が突きだし、かろうじて手だけが動くようにはなってはいたが、それも力なくだらりとたれ下がったままだ。
かすかにさえうごく気配も意志さえない。
むきだしの上半身に垂れている茶褐色の髪から、白い乳房がのぞき、光を発していた。
まるで体内にある激しい熱量をもった動力炉が稼動し、透けて見えているようである。
イサナがおもわず前にふらりと歩み出ていた。
顔面が蒼白だった。
「イサナ?」
森射が声をかけるのも聞こえていないのか、身をのりだしていた。イサナのよろけた足音が、奥の部屋まで響いたそのとき、女性がゾロリと眼をひらく。
黄金の輝きを放つ、美しい、黄水晶の瞳。
「――イサナと、同じ目?! 」
おもわず森射がつぶやいた。
生気こそ失われているが、その瞳の色は、まさにイサナの瞳と同じ色であった。
その透度といい輝きといい、まるでうりふたつなことに、ひどく驚く。それだけ美しい貴石がこの世に二つとあろうか。
「おまえの母親の歌鈴じゃよ、斑命。懐かしいであろう。たとえ、遺伝子学上の母だとしてものう」
伊邪那岐が悪戯を楽しむように、そしてイサナの驚嘆と苦悶の表情をゆかいがり、笑いさざめきそう告げた。
イサナがギリッと睨みつけた。
だがその顔は苦悩と悲痛さに歪んでいる。
「おまえが逃げたからじゃ。おまえが生贄にならず逃亡してしまいおったゆえ、歌鈴はこのような醜い能力増幅装置につながれなければならなかったのじゃ」
「増幅装置だと?」
イサナのねめつけたまなこが赤く切れ上がっていた。あまりの怒りに肌から光がピリピリと発している。
「さよう。歌鈴のうたう歌の旋律には、特殊な力が備わっておる。恐ろしいことに、万物の元素を、そのまま転換をしてしまえるほど高次のエネルギーである。この者は、歌うことによって時空を操ることができる稀有な存在。むろんおまえほどではないがな、イサナよ」
伊邪那岐はねばりつくヘドロのような声音で言った。
歌鈴のあまりにも無惨なすがたにひどく衝撃を受けているイサナに満足した、高らかな哄笑が不快さをさらにあおる。
エネルギー体の姿が崩れていく。
「歌鈴の生体エネルギーを最大限に高めるために、この増幅装置につないだのじゃ。愚かで馬鹿げた科学者どもは、わしの教えてやったほんのお遊びのような知識をつかい、玩具をもらった子供のように夢中で作りおったわ」
歌鈴はアトランの科学者どもによって捕らえられ、ここまで無理やりに連れてこられたのであった。
もともとは大陸の生まれであり、天と地のあいだに存在するという神を奉る高貴な血筋の巫女姫であった。
彼女の部族は自然と精霊を友にし、大地の掟と、天地の理をよく理解した古い部族であった。名は違えこそ、たしかに国津の神々――八百万の神をあがめていたのだ。
歌鈴はその部族の守り巫女ともいえる存在だった。失われた儀式を伝え知る選ばれた者――森射とおなじ特異な存在でもあった。
彼女は無意識に、どうすれば空間をひらき、またそこへ死者の魂を浄化させ、送ることができるかを知っていた。
体内のなかにある生体エネルギーを活性化させ、病人を治すこともできたし、意識なくおこなっていた神業は、まさに小さな体に巨大な竜をすまわせている、恐るべき才能の持ち主でもあった。
そうして彼女の部族は、巫女姫と王とで、繁栄をきづき、営々と何百年の月日をかさねてきたのだ。
だが、悪魔にとりつかれたアトランの、愚かで酷薄無情な王と、その配下の貴族や科学者、凶々しい力をふるう技術者によって狂わされ、彼女の部族の者より捕らえられ、差し出されてしまった。
なんとそれはただ歌鈴の能力をわがものとし、その不可思議なエネルギーの所在を解明して、自分達のために使わんとして行われた策略であったのだ。
「こやつの歌声は特殊な波動と磁力をもっておる。それ自体が響きあって強力なエネルギーとなる。さらにそれだけではなく、他者のエネルギーにも干渉することができるのじゃ。――その意味がわかるか」
ニヤリと笑ったようにみえた。
「おまえたちにとって、これがいかに恐ろしいことであろうかのう。使い方によれば、不必要に過活性化させ、細胞組織を変換させてしまう。急速に老化させてみたり、そのまま死に至らしめることさえ可能なのじゃ。これほどの魔力は、どのように精巧な機械でもっても、生み出すことはできぬ。さらにそれを増幅させれば、高天原ほどの膨大な質量を持つ時空であっても、開き、呼び寄せることができるであろう」
「なんてことを――っ」
森射はギリッと奥歯をかみしめた。美しいまなこが伊邪那岐だけはゆるせぬと、赤く閃く。
「では、あの吉備の――老化させられてしまった者たちの病も、やはりみなおまえが起こしたことだったのだな」
若者たちの嘆きと、切ないまでの悔しさが思い起こされた。その無念さに心がいきりたった。
すべては黒い風によって侵入した伊邪那岐のせいであるとはわかっていたが、まさか歌のせいだとは、思わなかった。
「ただの座興じゃ、どの程度の魔力かをほんのちょっと調べたまでよ」
「――ほんのちょっとだと?! あれほど大勢の人をくるしめ、悲しませ殺すというのに!こんなおぞましい装置などに人間をつなぐとは、なんという冒涜だ!」
愉快そうに笑う伊邪那岐に、森射は怒りの叫びをあげた。
多くの者のいたみと怒りが彼女の中をかけめぐり、肢体がバラバラになりそうなほどきしんでいた。
なにより尊く、愛しいはずの命が、ここではなんと軽く、はかない存在でしかないのだろう。
森射の怒りのオーラをあびながら、イサナはまた立ちすくんだまま女性をみあげていた。
血縁上だけの関係とはいえ、母となる女性とはじめてあったのである。
目をみかわし、見つめあったままだけれど、歌鈴の表情にはなんの色も感慨もない。
それでもなにかは感じているのだろうか、瞳だけはイサナをみつめている。
「おまえが逃げるからじゃイサナ。おまえの体には今までの研究、すべての技術の粋が凝結させておるというのにのう。そのかわりを、もはや新たに生み出す時間なぞない。なれば歌鈴ぐらいしかおらぬであろう。こうなることは仕方ないことであったはずじゃ。おまえさえおれば、このようなモノにつながなくとも、次元を簡単に開けることができたのだ。薄情にも母を捨て逃げよりおるから、こうして増幅装置につながねばならなかったのじゃぞ」
まるで責めるようにイサナをなじる。陰湿でなんとも嫌味な嘲笑が耳につく。
「我はこの者の歌が気にいっておる。まこと細胞が活性化し、人肉など喰わねども、若返ってゆくようであるわ。ほかにも様々な用途はあったがの、まあ何にせよ、面倒なので、まず脳手術で感情を消しておいた。我が意のままに動いてもらわねばならぬからのう」
「伊邪那岐、きさまっ――!」
イサナの髪がブワッと逆立った。
牙が剥きだされ野獣のような咆哮があがった。
空間がグラリとゆれた。
すさまじいエネルギー量だった。部屋全体の壁がヒクヒクとふるえイサナの衝撃波で疼いているようである。
さすがに驚きに顔をゆらしながら伊邪那岐が歪んだ唇をおおきく広げる。
「気をつけるがよい。この部屋すべてが彼女の体なのじゃぞ。おのれの力で、母の体を傷をつけていかにする」
さらにイサナは怒りに猛りながらも、やはり放出される力は小さくなっていった。だがねめつける双眸だけは厳しいままだ。
「伊邪那岐っ!きさまのそのおぞましい、地獄そのもののような心持ちだけは決して許さぬ。その息の根を止めてやる。絶対にだ!」
森射が哀しみにゆれる面持ちで、問わずにいられないように云った。
「なぜおまえはそこまで人を傷つけたり害することができるのだ、伊邪那岐。おまえには他者との共存がまったくない。奪うか奪われるだけの、消費のみの生命体ではいずれは破滅するだけだ。おまえだとて人の子の親のはず。生みだす喜びを知っているのではないのか。なにゆえに破壊のかぎりをつくす。なぜ、おまえはそんな風に存在しているのだ」
森射はまるで歌鈴の痛みがおのれの痛みであるかのように、心底その存在がわからぬと問うていた。
「なあに、生み出したからとて、子供などいくらでも替えのきく我身の分身にしかすぎぬ。殺すも生かすも我の勝手。ましてや望みもせぬのに発生してきた異物など、殺すが当然のことよ。我が妻伊邪那美を奪いおった者など、まさに許せぬ存在じゃ。我にとってはこの身以外はすべて他者。この高尚で高貴な生命体を生かすための餌さにすぎぬ。欲しければ生命など幾らでも作ることができるし、消し去ることもできる。我の能力に不可能はない。なにもかも滅びればよいのじゃ。この世のものはすべて、我のために儚い命を散らし、楽しませる運命なのじゃ」
轟々と逆巻き、呪いの歌でもうたうように伊邪那岐のエネルギーは楽しげに燃え狂った。
その熱量によって作動させられはじめた歌鈴の歌声が、大きく聞こえだした。苦しげにビクビクと身をよじっているが、むろん壁からは逃れられない。
「見よ森射、おまえの守りたがっている人間こそが、歌鈴をこのようにおぞましい悪夢に縛りつけたのだぞ。奇異な動物と融合させたり、わざと奇形の赤子をつくったりしておるではないか。髑髏の机をつくらせ、人間の皮で張った椅子に平気で座っているのは、それでも人間といえるモノか。あやつらは生命を無尽蔵につくり、そして殺し、また作りだす。我はたしかに知識を与え、超常の力を垣間見せてやりはしたが、あとは人間どもが勝手にはじめたことだ。同胞を傷つけ、切り刻み、あやつらこそが貪欲な魔獣ではないか。そう、歌鈴の遺伝子から、イサナのような怪物をつくりだすことさえ、平気なのであるからな」
それもまた、たしかに、事実である。
このような恐ろしい研究を繰返していたのは、ほかならぬ人間なのだ。
「累々と折り重なった屍のやまは我からのこころばかしの贈り物よ。気に入ってくれたか、森射よ。我がおまえのために良かれと思い、花嫁を迎えるために花を敷いて待っておったのじゃ」
呪われた歓迎。
すべてが伊邪那岐のなかで狂っている。
「さあ、我がもとに来い。我とともに宇宙の秘密を解きあかし、永遠の夢をまどろもうぞ。我のかたわらにきて、すべてを差し出せ。我の腕に抱かれてみるがよい、この世のものとは思われぬ無上の快楽が得られるぞ、森射」
「黙れ汚らわしい!おまえのものになど決してなりはしない。どうせ最後はおまえに、とりこまれ消え去ってしまうだけなのだ。おまえは自分意外誰も愛していない。おまえの宇宙は自己愛によってできた利己心のかたまりだ」
伊邪那岐の巨大な顔がブワリと稜線をはみだし崩れた。森射をいまにも取り巻きそうだった。
「――愚かな、まったく愚かな娘じゃ。それほど聡明な頭脳をもちながら、なぜ人などという枠にこだわる。やつらに肩入れをしても、しょせんは虫けらのような下賎な存在だ。我らのような選ばれた存在とは違う。家畜はただの家畜。家畜は人とは相いれぬ。弱者は強者によって支配され、愚かな者は選ばれたものの導きがなければならぬ。――家畜を殺して何が悪い。きやつらは食われるために生まれた者。限られた時間をもつ死する者ならば、我らに食われ死するも同じ。――愚かな人の子よ、この死骸の群れをみて、まだなにか言うべき言葉があるか」
増幅する伊邪那岐のエネルギーが姿を濃くしてゆく。森射たちを圧迫し、のしかかってゆく。
死者のエネルギーをすいとり、伊邪那岐はどんどん力を増していた。空間が歪みかけ、時間の嵐が遠くで聞こえてくる。
「滅びればよいのじゃ。滅びてしまえ。人間など残酷で愚かな種族は早うに一掃してしまわねば、取り返しのつかぬことになる」
憎悪と破壊と崩壊の思念があれ狂った。暗黒のエネルギーが森射の体をおおい、包みこもうとする。
「森射――っ!」
「姉様、伊邪那岐の眼を見てはダメ。心をとじて、早く!」
二人が叫ぶのもむなしく、森射に流れ込むように覆い被さり、彼女のからだが死にゆれる。
「死者を浄化させ、また、再生さえ可能にしてしまう、運命の女神よ。我が妻となりその身をさしだせ。ともに生命の密をつかみ、とこしえの時を謳歌し、享楽のかぎりをつくすがよい。すべてのものの王となり、支配し、服従させるのだ。大宇宙の女王となるがよい、森射」
「森射!やつの呪術に惑わされるな、しっかり意識をたもち心を閉じろ!」
イサナが、森射をおおう伊邪那岐の精神波に剣を抜きはなち、斬りかかっていった。
跳ね飛ばされ床にうちつけられる寸前に一回転し、もう一度斬りかかる。強い壁のようなものに阻まれ、刃先さえ届かない。
はげしく焦りをかんじたイサナは、口から、おそろしいばかりの破壊力のある言霊がもれそうになった。
そのとき――。
「……私は愛している。それでも、私は愛しているのだ……」
煌くせせらぎのような森射の声が流れた。
「私は知っている。草も木も人も、みなが一生懸命に生きているのだと。すべてのものがみずからの命を輝かせ、生きていて、喜び悲しみも学び、感じ、そのなかにこそ本当の希望の光を見つけようとしていることを」
森射はこらえきれないように、つむっていた瞳をあけた。
赤い光がはなたれ、伊邪那岐の黒い思念を押しのけるように放出されてゆく。母親がだきしめてくれる体温のように心地良く、あたりに深々と伝わってゆく。
「私の愛する神は、私を慈しんでくださり、また人々に慈しみの心を与えてくださった。鳥や獣、昆虫や、魚、草花や樹木から、目に見えないような小さな微細な生物にいたるまで、等しく愛してくだっている。宇宙でまたたく巨大な星々や、はるかかなたの次元のかなたの神秘とおなじく、この世に存在するすべての生命は神様の愛によって生まれてきたのだと、私の奥深くにある記憶はたしかに覚えている」
まぶしい銀の波のように心の中にどんどん満ちてくる、この無量の思いはなんなのであろうか。
イサナは剣をおろし、森射をじっとみつめていた。
うすく発光している森射は、恒久の果てなる場所に存在する星のようで、あまりに繊細であまりにも憂いをおびていて、見ているだけで涙がこぼれそうになってくる。
「なんて眼を、イサナ……」
火見華が隣にたつイサナをみつめ、つぶやいた。
イサナは一心に、もはや地上のなにもかもをわすれ、森射だけを見つめていた。それほどまでに強く求める心の内は、いかなる思いであふれているのか、もはやわからない。
「ふん、なにを世迷いごとを言うか、こざかしい。神というのは、だれでもない、我のことじゃ。我がこの宇宙を支配すべき偉大な神であり、大王ぞ。この地球なぞ、我にとっては、ほんの小さな小石ほどの存在でしかない。これから手がけてゆく野望に比べれば、ただ足がかりにしかすぎぬ、思いあがるなっ!」
森射の燐光をおしもどすように伊邪那岐の乱暴な波動が爆発した。
わきたつ影が、森射をしめあげてゆき、腰の剣に触れたとたん、動揺するようにザワリっとゆれる。
「これはっ?! ――まさか、まさかきさま伊邪那美に逢うたというのか!」
「伊邪那岐、森射からはなれろっ!」
一瞬のひるみをイサナは見のがさなかった。
イサナの怒号の声が魔力をおびて炸裂した。
伊邪那岐の幻影が爆風にさらされるようにえぐられ横にたなびいた。
森射は身をかがめ、伊邪那岐の魔の手からくぐりぬけ、闇を跳ねのける。
伊邪那岐であったものがザワリと分解した。それはかすかに色あせていたが、中空で簡単に融合していった。
だが融合は完全でなかったようであり、イサナから吹き出しているエネルギーによって、伊邪那岐の顔がおかしな風にねじれていた。
「どうやら、まだこちらの世界では、イサナの力のほうが上のようだな」
森射の容赦ない指摘に、霧のような顔が怒りふるえる。森射のひかりはとまらず、伊邪那岐をおし戻す。
「……やはり、この国の人間はすべて滅ぼさねばならぬようじゃ。まこと、我が妻、伊邪那美にまで逢うておったとはな」
悔しげにクワッとまなこを剥いた。
「我がいくら冥府の扉を叩こうと、かつての妻は、我に、姿すらあらわさなんだ。それをきさまが会うことを許され、そのうえ、まさか、剣までをも手にいれようとはっ!きさまらをこのまま放置してはおかぬ。さらなる進化など、けっしてさせようものか。どのような生物になるか想像もつかぬ……我を脅かす存在は何人たりとも許しはせぬ。我こそが、世界の王なのだからな!」
剣呑とした口調が、感情の噴出しに押さえきれなくなり雄叫びのようになった。
伊邪那岐の双眸の険が邪悪さをます。
「歌え、歌うのじゃ歌鈴!死者にエネルギーを吹きこめ、虚偽の生命で生きかえらせてやれ。死ぬことのない戦いと争いを撒き散らし、やつらに切り刻まれ、心の臓器が止まるまで、傷みと恐怖をあじわう地獄をみせてやるがよい!」
伊邪那岐の叫びが合図のように、歌鈴を抱きこんでいる壁が火花を散らした。
悲鳴のような声をあげた歌鈴は、電撃にうたれ身をよじりながら、光の粉のような声で歌いはじめた。
五感をつらぬく、なんともいえない不快な空気がただよっていた。
森射もイサナも、また火見華も鳥肌がたつのが押さえられなかった。
愉悦にみちた笑みをたたえている。伊邪那岐の視線の先に、三人はかたまる。
そこに輪廻の法則を破ったおぞましい姿をみせられてしまった。
子供たちがたちあがっているのである。
親の愛も知らず、ただ無残に殺されていった可哀想な魂は、やっと得たはずのやすらぎの場さえ、行くことをゆるされず、逝きかけた道を引き戻されて、安らかな死にムチうたれていた。さらに邪悪な魔と化し、酷使されようとしていた。
森射がふりかえり、鬼神のようなおもてで伊邪那岐をねめつけた。
「伊邪那岐!おまえは死者の魂をいくら凌辱すれば気がすむ。死は彼らだけのものだ。それを奪うことはだれにも許されはしないっ!」
「どうせ我によって造られた命じゃ。我がその秘術を教え、号令をかけねば産まれおちもせなんだ未熟な命よ。それを我がどう扱おうとも勝手。それ、そのものたちもそう申しておろうが」
子供たちは無表情のまま森射たちに殺気をはなち近づいてくるのに、森射はいたたまれないように蒼白になった。
それを面白くてたまらぬように目をほそめ、森射の最大の弱点とばかりに楽しんでいる。
「姉様、哀れではありますが、この数でこられては――とても無理ですわ」
前にふらりと歩み出そうになった森射をおさえ、火見華がとっさに浄化の祝詞を唱えた。わずかばかりの死者の魂をおくり、清めの結界を引く。
「それに、ここら一帯にただよっていた浮かばれぬ哀れな魂も、どんどんこちらに惹き寄せられていますわ」
その霊たちの力こそが、伊邪那岐の破壊の力となっているといっても過言ではない。
「森射よ、生命が愛しいか。命が大切か。ならば、おまえの命をもって、そのものたちを満足させてやればよかろう。そやつらは生命にみなぎる、強いエナジーを欲しておるのじゃ。力にみちた美しく気高い生命を食らうことこそ至上の喜びとし、そして安らぎを得られる唯一の方法なのじゃ」
神経を逆なでするような含み笑いがよけい苛立たせる。
理性も知能もない。ただの野獣の群れとなった子供たちの化け物が、いずこからあつまるのか、ワラワラとそこらかしこから湧くように現れてくる。
森射は火見華をうしろにかばい、呪われた波動を避けながら、ふとそのものたちの表情に何か大切なことをみつけ、眼をみひらく。
死の臭いをはく息から届くわずかな波動に、森射は言葉をうしなった。
言葉がみつからないように、ただイサナをみあげた。
「この子たちは……」
「そう、よう気がついたのう。忘れておったが、そやつらは歌鈴の卵子から発生したモノたちじゃ。まあ失敗作であるから、廃棄するにしても、そう惜しくもなかったがの」
歌鈴と同じ卵子――。
それは、イサナと同じ血であり、同じ遺伝子を引き継ぐもの。兄弟だということであもある。
イサナはやはりという顔をしていた。
そこから感じるのは、同族の波動だとすでに気づいていた。たとえ闇に落ち、黄泉の色にそまっていたとしても、同じ血がさわぎ、色めき立っている。同じ発生の、同じ血の兄弟たちの臭いがわからぬはずはない。
「伊邪那岐ッ!」
目にもとまらぬ速さだった。イサナが剣を抜き伊邪那岐に飛びかかった。
その衝動はだれにもとめられない。イサナと同じ血と、同じ遺伝子をもつ者の心の悲鳴が、かれの身体を突き動かしている。
伊邪那岐をかたちづくる波動の波は、イサナの剣に簡単に切り離され分解するが、また、くっつくだけである。
「おまえが逃げるからじゃと言うておろうがイサナよ。おまえのかわりを造らんがために、こうして幾ばくともなく試みたのだ。だが何故にか失敗ばかりでな、おまえほどのものは造れなんだ。まさに偶然の産物、偶然の奇跡。いや、それとも産まれるべくして産まれた能力者なのであろうかのう――いずれにせよ二度とおまえのような遺伝子をもつ子は造りえぬ。おまえでなくては、すべてがつながらぬのじゃ」
「悪魔め!」
イサナは狂ったように伊邪那岐に向かっていった。何度切りつけても、わずかに伊邪那岐の波動が消滅し、その場での伊邪那岐が小さくなるだけで、本体にはなんら損傷はない。むやみにエネルギーを消費させるだけだとわかっているが、今はとめられない。
この残酷で無慈悲な行いに、誰が心をいためないであろう。望んで産んだわけではないにしても、歌鈴という母親のまえで子を殺し、またその子を母の呪力によって生き返らせ、道具につかっているのである。
「キャアッ!」
火見華の悲鳴があがった。
イザナはハッとして森射たちをみる。子供たちが森射と火見華にむかい、魔性の牙をむき、襲いかかっていた。
どうにか火見華をとりまいている子供たちだけは、張られた結界に阻まれているが、それでも少しでも気をぬくとたちどころに襲われ、喰らいつくされてしまうのがみえる。
「火見華、大丈夫か!」
イサナはあわてて駆け寄ると、火見華の周りの子供をなぎ払った。イサナの言霊と剣で切り裂かれ、コロコロと転がるが、また立ちあがりやってくる。
「森射――?!」
夢中で払いながら、森射の姿に目をやったイサナは、思わず我が眼を疑い、茫然とたちつくしてしまった。
イサナの動きがとまったのにもかまわず、子供たちはなぜか森射のほうにどんどん増えていく。どうあがいても止められぬほどに。
森射は抵抗していなかった。子供たちの黒だかりに、ついにうずもれていった。
飢え餓えた子供たちは、人の、温かくて新鮮な肉を食うことで、身体だけでなく、心の飢えまで癒そうというかのように食らいつき、はんでいる。けれど森射は、それを拒みもせず、ただなすがままにされているだけだ。
子供たちは無心で、すがりつき噛みつき、まとわりついて森射を貪ろうとしていた。まさに無邪気な顔をした悪鬼そのものだった。
森射はだがそれらの子を慈しみ、まったくはらいのけもせず、まるで我が子を愛しんでさえいるように抱きしめている。
「なん、で……?」
イサナが声にならない悲鳴のような叫びをあげた。
結界をはることすら忘れた火見華が硬直したまま、息をするのさえ忘れて立ちすくんでいた。
森射のからだからから光がもれはじめた。それはなにか気高くて、敬虔なひとつの信仰のような光景に思われる。
「私には、この子たちを傷つけることはできない」
森射は目をつぶっていた。
「これほど傷つけられ、恐怖に凝り固まっている魂など、知らない。どんなものも生まれてきた喜びと希望をもっているというのに、ここにいる魂たちはその喜びや楽しみのかけらすらない」
黒だかりが益々増えて、森射がうもり、姿が見えない。
「おまえと同じ血を、私は傷つけることはできない。イサナ、この子たちはもう二度と傷つけられてはいけないんだ。――私はやっとわかった。やっとこの剣の意味、伊邪那美様の剣……それは自分が愛する者たちを守るために、誰かが愛する者を傷つけてはならないという封印のことだったんだ」
「――ならば森射よっ、そのまま餓鬼どもに身体を与えてみるがよい!幾らきれいごとを言おうとも、現にそなたの身体は食われておるではないか。魔物に食われ、志もはたせずむなしく死ぬことこそ、愚かだと知るがよい。見てみい森射、もうすぐ内臓が食い破られるぞ。血がすすられておるぞ、その流れ落ちる血の一滴までも、ヤツらは意地汚く、争いながら食いつくすであろう」
イサナがたまらず叫んだ。
「森射、もういい、いいんだ。斬ってくれ、やつらは人間じゃない。俺と同じ、人造物なんだ。ただの物だ、斬れ――!」
森射の体はそれでも動かない。飢えた子供はますますあつまり、争うように、まるで森射の身体が愛情そのもののように必死ですがり、食らおうとする。
火見華はその残酷で悲しいすがたを見ることに耐えかね倒れかけた。それをどうにか支えるイサナですら、足が地上に縫いとめられたように動かない。
闇が広がっていった――
伊邪那岐の闇の身体がふくれあがり、森射を飲み込んでいった。
歌鈴の歌声がさらに高まり、その声もまたしだいに聞こえなくなってゆく。
全身を呪縛し、声にひそむ刃がイサナのオーラと弾き合い、火花をちらしているのが遠くで見える。
立ちすくんでいたイサナたちは、闇が去ったそこから、すべてのものが消え去ってしまったことに、ただ茫然としていただけだった。
Copyright(c) 2006 all rights reserved.