炎の娘

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10




 静かで、冷たい空気がながれていた。
 天井から突き出したとがりから、垂れおちるしずくの音が岩肌にこだましていた。地下に水脈でも通っているのか、水が流れるような音がかすかにきこえる。
 「よう来たのう」
 闇の中で声が迎えた。
 満ち石がイサナの手のなかで燃えあがり、いかめしくさびついた鉄条が、岩の天上から下ろされ、空間を仕切っているのが見える。
 その向こうに見えたのは、小さな白銀の髪をした老女だった。
 老女のしっかりとした意思の強い目は、漆黒の闇よりさらにまだ黒くつややかだった。まるで至宝のように澄み、透徹した威厳のような何かをひそめている。真実しか映し出されない神々の鏡のようである。
 それでも、そこには枯れることをしらない源泉のごとく、愛しみがあふれていた。
 許されていると感じずにはいないその優しさは、強さにほかならない。
 老女の腰は曲がってはいたが、思わずこちらが膝を折らねばならない尊者の風格があった。彼女の前にあっては皆、幼子のような心持ちになる。母なるものの御名を語るには、彼女ほど深くて大きな、心の水がめをもっていなくてはならないのだろう。
 白い鴉が肩に止まっていた。
 にっこりわらった顔は皺にかざられてはいたが、それすら美しい装飾品のひとつだった。
 「日巫女、様?」
 火見華の声がうわずっていた。
 にっこり笑ってうなずく表情には、待ち望んでいた愛し子たちが、ようやく無事に辿りついた安堵がみてとれた。
 「よう来てくれた。おまえ様方が来るのを、首をなごうして待っておったぞ」
 本当に、どれほど長い時を待っただろうか。しびれるような思いのたけがふくまれていた。
 我が子同然であるあわれな巫女たちの苦しみの声が、どうしてこの偉大なる巫女に聞こえないであっただろう。
 無念のうちに死んでゆく魂をみまもり、それを救える者を一心に呼び、解放してくれるのを待ち望んでいたのは、だれもない彼女なのだ。
 子供たちの涙する悲鳴は、彼女をさいなみ心を痛めつづけていた。それに耐えるには、もはや年をとりすぎている。
 腕の鴉が煙のようにきえると、彼女から弱々しい老女の色がすべて払拭された。
 才気あふれる鬼道の創始者、日の光のごとく気高い巫女――日巫女となっていた。
 「もはや、間に合わぬかと心急いておったぞ。ほんによう、遠いところからわしの呼び声に応えてきてくれた。感謝申す」
 「遅参つかまつりました、日巫女様」
 森射が頭をたれた。
 「このまま、あのおぞましい邪悪の主神の陰謀どおり、世界が滅びさるのかと、心騒いでおったよ。だが運命の子は道を違えることなく、真っ直ぐここまで辿りつくことが出来た。ならばまだ、希望はあるというものじゃ」
 天井から垂れ下がった氷柱石から、雫が彼女の頬を伝っておちた。イサナのともす炎を映して輝き、まるで日巫女のながした心の涙のようみえた。
 かつてのうるわしき美貌の幻視者として、名を馳せた巫女姫のすがたを、いまだ容易に彷彿させている。彼女がどれほど素晴らしい術者であり、また人々の心をときめかせた美女であったのは瞭然だ。
 よくみると、あたり一面が、鍾乳石がつらなっている洞窟であった。
 神秘的ともいえる美しく芸術的な造詣をつくり、何万年の時を超えて磨きあげた、複雑な美の彫刻である。
 その自然のもつ力に畏敬の念さえおぼえるのだが、そこはまた、一筋の日の光さえささない暗黒と湿気の世界でもある。
 じっとりして一度も乾くことのない湿気と水分は、人間にとってどれほどおぞましいことか。身も心も殺す、まさに生きたまま腐らせてゆく、残酷な死刑場でもある。
 重そうに体を移動させた日巫女の体は、あきらかに病んでいた。
 長い裾の羽織からのぞいてみえる足は、いつからか腐り病にかかっている。見れば、日巫女が閉じ込められているそこは、水が流れ、つねに足を水につけていなければならない状況になっていた。 
 「日巫女様ほどの巫女が、何故このような場所に。ましてこの国の王や、貴族たちはなぜ黙っているのです。国の護りの巫女として、王と並ぶべきものの尊称をうけているはずではないですか」
 火見華が悲痛に目をほそめ、言った。
 自分たちの憧れともいえる女性の、このように痛んだ姿など、決してみたいものではない。日巫女はその心を受け止めながら、それでも落ちつき、火見華を励ますように云った。
 「なあに、わしのこの国での立場は、いまや反逆者なのじゃ。王や貴族どもの政策に反対する一番不穏な存在、目の上のたんこぶよ。よほど邪魔をしてやったからな」
 「それは、王も――?」
 森射がきいた。もっと深い意味での問いだ。
 日巫女は黒曜石のようななまこをキュッとつよめた。
 森射がおさえ眠らせている巨大な力の一端を見てとろうとするように、眼力をつよめてゆく。
 真実を語るものとして、答えた。
 「王はもはや邪悪の王、伊邪那岐によって魂を食われ、肉体を乗っ取られた、ただの入れ物じゃ。アレはすでに人にあらず、魔王の傀儡(くぐつ)――伊邪那岐の操り人形じゃ」
 「王までが……」
 ならば誰に伊邪那岐の――この国の狂った貴族や科学者をとめられるだろう。
 あの闇の盟主は、ただの自分の欲望をみたすために、この葦原の中ツ国を壊し、エネルギーを吸い取り、人間たちを殺すことしか願っていない。
 「王はあせっておったのよ。対外的には神の降臨されたもうた初め地として、見栄や自負心で虚勢をはってはいても、事実は、袂をわかち、本州で国をひろげている新参国のヤマト勢力に圧され、ともすれば滅ぼされるという恐怖におびえておったのじゃ。また心中の虫は――貴族どもは、己の宿主を無視し、自分たちがいる場所もわきまえずのさばり、いつのまにか内政、外交にまで口だしはじめておった。やつらは倫理も道徳も乱し、礼儀すら忘れていった。ただ金に目がくらみ、権力と名誉にしがみつき、血で血を洗うような骨肉の戦いがくりひろげられていったのじゃよ」
 それをどれほど諌め、心正すよう何度もなんども説教をしたか
 「醜い権力あらそいに貴族豪族どもはあけくれ、おのれらの欲望のままに女を犯し、酒池肉林のらんちき騒ぎを毎日のようにくりかえしていった。さらに各国のめずらしい食べ物や酒を争ってとりよせ、あさり、贅沢の極みをつくしておるばかりであった」
 官僚や大臣、主要な貴族たちのあいだでは、汚職や賄賂、裏工作はあたりまえのこととなり、人心はますます政治からはなれていった。
 もともと複雑混迷していた政務は、改善策をはかろうとすればするほど、手がつけられぬ袋小路におちいっていたし、結局は、税をむさぼり、市民を苦しめるだけであった。
 また巨大な生物のように膨らんでゆく都市や街々も、異国からの移住者や、一旗あげようとおしよせる各地からの来訪者、それによって生み出される浮浪者やみなしご、遺児、または失業者などであふれてゆき、そのための対応策などで、さらに財政は圧迫されていくばかりであった。
 しかも王もかなりの高齢であり、その寄る年波には勝てなかったのか、正しく導こうと頑張っていた心の綱が切れてしまった。
 伊邪那岐から送られていただろう、微量な邪念は、意志の鎧で強固に守られていたはずの心に岩をうがつ雨水のように入りこみ、徐々に、そして確実に王の心を狂わせていった。
 心を統べる克己心をうしなっていった王は、みずから貴族たちを扇動するようになってしまい、さらなる汚職や不道徳の道へとそまっていったのである。
 「それでも埋まらぬ心の飢餓が、科学者どものおろかでおぞましい策略にとらわれ、夢中になっていったのじゃ。ついに言われるまま、伊邪那岐の誘いのままに、手を貸し金をだしてゆくようになったのだよ」
 「それが、あの研究所だ」
 イサナが激しい怒りを抑えきれぬように言った。
 日巫女は沈痛なおももちで言った。
 「みだらで無意味な延命術や、わけのわからぬ薬を製造し、莫大な費用をかけて怪しげな機械をつくっておった。それらはすべて、最終目的であったろう、不老不死となる方法を求めるためじゃ。すべては闇にかくし秘密裏におこなっておった。そしてもう、わしらが気づいた時にはそれを止めるすべをもたなんだ」
 自らの力不足を歯噛みするように唇をかんだ。
 「やつらめは、わしら巫女、国津の神々を崇拝する者たちを、いきなり排除しはじめたのじゃ。大なり小なり文句をいいたて、反対ばかりしておったからのう。だがそれでもわしが、もっと早ように、どんな強行手段をとってでも、それらを止めるべきであった。うすうす何をしようとしているのか知っておったのに、王や権力者たちの弾圧に患わされ、身動きできぬようにされて、日を重ねすぎてしまった――」
 「日巫女様……」
 火見華には、その立場の複雑さが良く理解できた。彼女には、守らねばならぬものがあまりにも多すぎたのだ。
 「何千何万というという巫女や、信徒のものがわしを頼っておった。この厄災をかんじとり不安に思うものたちを守るのにかまけすぎておった。――いくらいうても、すべては言い訳にしかすぎぬがの。わしも、王たちと同罪じゃろう」
 懺悔をするようにいった。
 目の前で、邪魔者や、王のすることに反対を唱えるものたちは無慈悲に排除されていくばかりであった。あらぬ罪を着せられ、処刑されたり、財産を没収され、国外追放にされていた。
 そうしてできた土地や財産でさらに巨大な施設をつくり、アトランからの商人から、人間を買い、生命を冒涜する実験の数々を行っていったのだ。
 日巫女は、自分の力がいたらなかったことを詫びながら、いたたまれぬようにうちひしがれていた。
 イサナに目をむけると、彼の怜悧な相貌から何かを思いだしたのか、ハッしたように言う。
 「アトランからの娘が……」
 つぶやき、イサナが訝しげに顔をしかめるのを凝視したままである。
 「そうじゃ、王の狂いは激化をましてゆき、研究所をますますひろげ、国の財すべてをそこにつぎ込むようになった。そこに、アトランから超常能力を身にそなえた娘を連れてきたという話しが我らの耳に入った。――だがその時にはもうすでに遅く、高天原の異空間が、この九州全土の頭上に、覆い被さるよう影をおとし、こちらへ重なりつつあった」
 「その娘の力が、呼び寄せたとでも?」
 森射は日巫女がいいあぐねている核心を口にした。
 日巫女はちからなく首をふる。
 「――それは、わからぬ。だが、その大きな要因になったことは、否めぬであろうがの。ただこの倭国には、それまでにあまりにも多くの、ありとあらゆる者からの負の想念や、苦しみや悲しみが集まり、ひとつの化け物のようになっておった。波動が歪んでいたことも見逃しはできぬ」
 かつての繁栄を、ふたたび手中におさめようと夢みた王の野望は、いつのまにか、まったく違った方向へとむかってしまった。
 歪み狂って悪魔を呼び寄せるだけだったのだ。
 「わしの制止もきかず、科学者どもは狂ったように生命を弄びおった。そのツケがまわってきたのじゃ。神からいただいた生命は――人が、人の命に手を加え、傷つけることなど、絶対に許されぬというのに!……伊邪那岐は新しい玩具をみつけたがごとくこの葦原国に魔の手をのばし、人々を魔物の横行する恐怖の世界へと導こうとしておる。その様をみて楽しんでおるのじゃ」
 「伊邪那岐は地上の人間すべてを滅亡させるでしょう。人間を、自分の欲望のために存在する家畜としか思っていない。この美しい国を、第二の高天原にするわけにはゆかない。神とその神子が目覚めるその日まで……」
 森射は伊邪那岐をみすえるような強い視線を彼方にむけていた。日巫女は、もはや時が新たに流れだしたのを知ったようであった。
 「すべてを知っておるのじゃな、運命の子供たちよ」
 森射は日巫女に顔をあげた。
 時をみまもる女神のように、日巫女は誓いをたてるように謂った。
 「人間はあくまで自然の一部にしかすぎぬ。他の生命との共存共栄がなければ、人間という種族そのものが存続などできぬ。倭国王はそのことを忘れ、欲望に心を奪われ、物事の法則をねじまげてしもうた。その隙をつかれ伊邪那岐によって、この世界ははや死の病にとりつかれてしまった。我らは選ばねばならぬ。このまま伊邪那岐の目論みどおり、死ぬか、それとも心を改め、また新たすべての命と手をつなぎあわせ、生への輝かしい道をたどるか。今こそその瀬戸際じゃ。わしは皆に――ありとあらゆる命に生き、喜び、成長してもらいたいと思うておる。まだまだ先に進める、進んでゆくと信じておる」
 だからこそ、倭国の巫女(おとめ)たちは最後まで悪魔をしりぞけ、イバラの道をえらび死んでいったのだ。
 「物事には法則がある。それを無理に捻じ曲げ変えようとしてはいけない。無理をつづけていれば、いつかは、その反動がかえり、しっぺ返しにあうだろう。そう、いまの日向のようにな」
 言いながら、何をつたえているのかイサナをみつめていた。
 イサナにはその言葉の奥にある声が聞こえているのか、悔しそうに唇を噛んでいだ。
 「この国はもはや助からぬであろう。アトランと同じ、死の国と化してしまった――。だが伊邪那岐だけは、なにがなんでも倒さねばならぬ。いや、あの偉大な邪神を倒せぬとしても、絶対に、高天原と、この国の次元をかさねることだけはならぬ。もしそのようなことがあれば、あの恐ろしげなる次元から忍びこむ死霊と悪霊の闇の波動によって、この葦原の国は、死の国となってしまうであろうぞ」
 濃度のこい塩水が、うすい塩水のほうへと移ってゆくごとくに、高天原の高次元から、この葦原の国の低次元の世界へと、悪霊や破壊の波動が流れ込み、おしつぶしてしまう。
 高天原で殺された者どもの恨み未練は、並大抵のものではない。
 生きた人間をみつけると、新たな人生をやりなおしたいと入り乗っとり、狂わせる。
 死者はもはや誰であろうとも、人生をやりなおすことはできないのに。
 生きているからこそ、何度でもたちあがることができる。間違えれば方向をかえ、行き先を修正して、前進することができるのだ。
 「どうすれば、伊邪那岐をたおすことができますか?」
 森射がおそろしく慎重に口をひらいた。
 誰かの唾を飲みこむ音がして、しばらく重苦しい沈黙が漂っていた。
 日巫女がようやく口をひらいた。
 「おそらく――あの超人たる悪魔を倒すことは、人の力ではかなわぬであろう。いや、ヒトという枠に閉じ込められた魂ならば、あの強大な力と無尽蔵にふくらむ邪悪な思念のまえにあっては、踏み潰されてしまうしかない。最後の闘いは、結局は心と心じゃ。――ひとりひとりが持っているもの、そのすべてがどれほど深いか、そしてどれほどの愛に支えられているかで決まるであろうかのう」
 森射が考え込むように言った。
 「私は、なにも持っていない。けれど、それでも人を愛し、自然を愛するこの気持ちだけは偽りはない。たとえそれが伊邪那岐の闇の波動に押しつぶされようと、この心の奥底に眠る熱い思いだけは、誰にも汚すことはできません」
 どんな苦境でも、けっして道を失わないよう、真っ直ぐ前をみつめている。
 そんな森射に、日巫女は皺深い口元にわずかに笑みうかべた。
 彼女の決断がどれほどの重圧のなかでおこなわれ、どれだけの人々の願いの多さと責任の重さに耐えて立ちあがっていることか。
 彼女はそれらに圧倒されるのではなく、さらに気高く勇気に燃えたたせているのだ。
 「おまえの決心の深さは、このわしにもようく伝わった」
 どこまでも深い海底にしずんだ迷宮のような瞳が、逆らいがたい不思議な感覚で森射をとらえた。
 「邪神であろうとも、神は神。わしなどに伊邪那岐を倒す智慧はありはせぬ。だが、おまえならば行けるであろう。唯一、あの強大で残酷な、宇宙創造の時をしりたもう伊邪那岐神を倒す術をしる、あの御方のみもとへ」
 森射は日巫女の口が形作るその名前に、心が吸いこまれるのがわかった。
 冥く果てしなく長い道を歩むごとくに、心が一直線にすいよせられてゆく。
 懐かしいものの名前。
 すべての国津、天津の神々の母であり、もちろん吉備の偉大なる神、火具土の母でもある。
 「伊邪那美(いざなみ)様じゃ。あの魔界の帝王、伊邪那岐の妻として名を轟かせておった、すべてのものの女王じゃ」
 伊邪那岐もまた、いまほどには生命と力、権力に執着していなかった遠い過去の世にあっては、伊邪那美という最愛の妻がいた。
 彼女の諌めた言葉にだけは、耳をかたむけていた。乱暴で我儘な王は、まだ人の心をわずかにやどしていたのである。
 そこのころはまだ高天原が普通の国として機能し、邪悪さに彩られていなかった。それも火具土を産み、とうてい人の子とは思われない力をそなえた赤子のオーラによって、ホトを焼かれ、伊邪那美は、死の国の住人になってしまった。
 そのことで腹をたてた伊邪那岐は、火具土を目の仇にし、生を受けたその日からずっと、命を狙い続けているのである。最愛の妻がうんだ、最強の憎しみなのだ。
 「あの方は()堅州国(かたすくに)におられる。ご自分の罪を、あの聡い御方は悔いておられるのじゃ」
 夫をいさめ続けていたとはいえ、伊邪那美もまた、他者の命を食い物にし、生命を長らえてきていた身でもあった。暴走する伊邪那岐を止めることも出来ず、多くの命を殺めてしまったのだから。
 「ゆくがよい、森射。おまえならば伊邪那美様に会い、帰ってくることができるであろう。火具土様の守護を受けている、おまえならば」
 「えっ?! 」
 そう言い、何かを問おうと口をひらきかけたきり、森射の体がたおれた。
 イサナが抱きとめた森射の精神は、すでにそこにはいなかった。




 足元がグラリとゆれた。
 ひどく不安定なところだった。
 なにが起こったかわからないほど突然のことに、森射はまごつきながらも、それでもゆっくりと前に進みだしていた。
 足場もさだまらず、道らしきものもないまま、そこが広いのか狭いのかまた何がいるのかもわからない、水面に浮かぶ泡のうえにいるような、そんな奇妙な感覚だった。
 小さな光が近づいた。
 数人の子供たちのようだった。
 キャラキャラと楽しげに笑いながら、森射の横を通りすぎていった。
 よく見ると、森射と同じ赤い髪をしている。
 赤い瞳が森射とぶつかった。
 はっとしてふりむいた森射に、ひとりの子供も同じようにふりむいていた。
 ひきこまれそうに美しい子供である。
 にっこり笑うと、子供は自分が走ってきた向こうがわを指を差した。まるで昔からの知り合いのように親しい、なつかしさが胸にわいてゆく。
 ――あなたは、誰なの?
 森射の心の問いは、まるで月琴(げっきん)の音のように響き、広がっていった。
 薄暗かった空間が、途端に薄紅色に輝きだしあかるくなった。
 『森射、わたしの子供。炎の娘』
 「えっ?」
 子供だと思っていたのに、あっという間にその子は大きくなってしまった。
 すぐ目のまえで笑っているのは、目にまぶしいほど神々しいあの人――射王であった。
 射王は微笑むと森射に手をのべた。
 触れるか触れないかの寸前で、なぜかその像は消えてしまった。
 けれどそのわずかの、伝わるかどうかというほんのまばたきする一瞬の間に、森射は自分がだれかの強力な守護の手に、ずっと守られていることに気がついた。
 そのひとはいつでもそこにいて、森射でさえ気づかぬうちに、正しい道へつねに導き、守ってくれている。
 森射は指差された方向をみた。
 黄金に輝いていた。
 希望のひかりのようだった。
 「――わかった。ここは『思い』の世界なんだ。私の思いがすべてここに反映されているんだ。会いたいと思えば、だれにだって会える。――そう、だから伊邪那美様にだって会える。道は、いつだってひらかれているのだから」
 光の方角に気強くすすみながら、森射はただひたすら真摯に祈っていた。
 勇気づけようとするかのるように温かい風が肌に感じられていた。
 「どうか、どうか伊邪那美様に会わせてください。伊邪那美様の御許へ導いてください」
 何度目かのつぶやきが終わったときだった。
 光の粒子が嵐のように拡散し、まばゆいばかりの空間が森射をまねきいれた。
 気づくと、そのさきに一人の麗妙なる貴婦人が座っていた。
 なんとも物憂げに遠くをみつめ、甘露のような時をはいている。
 森射の視線を感じたのか、この世で最も美しいおとがい(おとがい)を森射にゆっくりかたむけ、視線をなげかけた。けぶるような睫毛のむこうにある瞳が森射の存在をみとめると、うっそりとはかなげに微笑む。
 「久しぶりの客人(まろうど)じゃ。妾をおとなうのはいずれ久しい。なに者である」
 白い裾のながくゆったりとした衣に身をつつみ、まるで深海でひっそりと眠っていた真珠のようにおもわれた。高貴さのあまりあわく輝いて霞んでいる。
 森射は大きな声では驚かしてしまうのではないかと思い、息をつくのさえ躊躇うように問いかけた。
 「伊邪那美様、ですね?」
 「いかにも――。だがそれは、妾が天界に在りしころ、人の心を持たぬ魔物の妻としての名前じゃ」
 森射は即座に膝をついた。
 恭しげにこうべを垂れ、こころからの敬意をはらうと、名をなのった。
 「私は森射と申します。聡明なるうるわしき奥方様に、お尋ねしたいことがありまして、ご迷惑とは存じましたが、このようなところまでおしかけて参りました。どうぞしばしの間、ご休息を邪魔することをお許しくださいませ」
 森射は乞うような必死のおももちで顔をあげた。
 「どうぞ奥方様、ご慈悲を賜りくださいますように。我ら愚かな人の子を些少なりとも憐れと思し召しならば、貴方のなかに眠る深い智慧を私にさずけてくださいませ」
 つと興味をひかれたように伊邪那美は森射をみると、わずかに目をほそめた。
 「……森射と申したな、そなた」
 「はい」
 「そなたを、妾は懐かしいと思うておる。この気持ちはいかにしたことか……。そなたをみておると、なぜにか妾の産んだ最後の子供の面影が重なってくる。おまえは……おお、おおっそうじゃ」
 ぼやけていた視点が段々さだまってゆくように、まなこが見開かれた。
 伊邪那美のまわりを包んでいた薄いベールが剥ぎとられ、像がはっきりと浮かぶ。彼女の緩んでいた思考がやっと結ばれたのだ。
 「おおっ、人の子よ、なぜにそなたがこのようなところにおる。葦原の者が、この根の堅州国にいる妾のもとを訪ねて来たのははじめてのことじゃ。――あの道のりをよう迷いもせず、真っ直ぐ妾のもとに参ることができたものよ」
 根の堅州国でも、さらに奥底の、懺悔の海底に彼女は眠っていたのだ。
 「道を開いてくれた方がおりました。多分その方は、いまのこの地上で最も力のある賢明な巫女でありましょう」
 「――日巫女かえ。妾がいる場所をしる人間といえば、彼女ぐらいしか、今はおらぬ」
 どこか懐かしそうに口元をゆるめる。
 「人にしては、賢くも美しい巫女であった。かの世にあっては、唯一妾をいさめ、そして慰めてくれた女子じゃった。初めは気に食わぬとずいぶん苛立ちもしたが、今となってはかの者の意見が正しかったと知らされておる。妾の心を知ってか、時々はなぐさめの祝詞を歌うてくれもしたしな。妾も最後には、とうとうみとめずにはおられなんだわ。さすが我が息子、須佐之男の選んだ花嫁じゃと」
 「日巫女様が、須佐之男命の花嫁――?」
 「さよう。須佐がはじめてこの葦原の国に降り立ったときより仕え、そばに連れ添うておった女子じゃ。天地の理をよう知っておった娘であったが、このような混沌の時を向かた今となっても、まだ夫に忠義をたて仕えておるのかえ」
 国津の神のなかでも最もはやく葦原の国に降り立ち、人間とともに時をあゆみ苦労してきたのが須佐之男命だ。土地をひらき、国を豊かにせんと人民を導いていた。
 その傍らにいつもあり、神と人間とのあいだをとりもってきたのが日巫女の存在であった。神の言葉を正確に人々に伝え、人民をつねに導いてきた。須佐之男の心をよく彼女は理解していたのである。
 「気の強い娘であった。妾がついつい、あだしごころをもってアトランに手をくわえ、余計な知識を与えはじめたときには、あの者はどれほど妾を諌めたことか。――まだ人には早すぎる、人には過ぎる知識だと申してな。たが妾には、日巫女の申しておることは何一つわかっておらなんだ。我らの国でのほんの戯れ事でさえ、進化の枝が違っておるこちらの世界で、はどれほど大きな災いとなって現れるかを。――妾は驚いた。幼き人々の心がこうも簡単に悪に傾くとは思いもせなんだのじゃ」
 後悔の思いは、谷底につき刺さり重くしずみ、周囲の空気まで昏くなった。
 「あの都市――アトランは、結局は高天原の縮小版、それこそ模造品のようになってしもうた。妾はまだ、この世に介入すべき存在ではなかった」
 アトランの地で、守護女神と崇められ、求められているうちに、ほんの気まぐれに接してしまった。
 本当に幼くて未熟で、あまりにも無知なので可愛くなってしまったのだ。
 余計なことを愛情と間違えて教えてしまった。問われるままに知識を与えやり、彼らは面白いほどそれを発展させたり、形をかえていった。
 だが愚なことに、それはだんだん歪められてしまった。扱えぬ高等な知識は、だたの毒にしかならなかったのだ。
 「ならば、もはやこの国に起こりつつあることはご存知なのですね」
 森射の問いに、伊邪那美はうなずいた。
 「この豊かな瑞穂の国を、我が夫、伊邪那岐が欲していることをであろう?妾はすべてをしっておるぞ。輪高天原とこの国の次元を重ね、この世界のエネルギーあまさずすべて己がものとし、さらなる次元への飛躍を狙うておることも。それだけではなく、嘆かわしいことには、我が子、火具土の力を自分のものとし、宇宙最大の覇者とならんという、大それた野望を燃やしていることをも、なにもかもな」
 「――それを止める術を教えてもらうわけにはいかないでしょうか、伊邪那美様」
 森射は懇願するようにいった。
 「どうぞご慈悲をたまわりください。人の子は、いまは愚かに迷うている者もおりますが、きっとまだ先へと進めるはずの存在なのです。いや、いまこそ進もうと必死になっているのです。地上は混迷し、死せる者たちの進入によって、人々は心を失いかけたり、ひどく乱暴になってはおりますが、それを食い止めようとする者は、それらよりもっと大勢いるのです」
 森射はざわめきたつ心をおさえようと胸に手をやった。熱い心がうすい皮膚をつきぬけ噴出しそうに感じている。
 「私は愛しているのです。人のためにばかり働く不器用な人間もいれば、自分の欲望が抑えられず、暴走すまいとして苦しんでいる人間もいる。私はそんな彼らを、闇も光も同じように愛しているのです。……闇は、けして悪ではない。人は光のみによって生きているのではない、夜という母の御手にだかれ眠るからこそ、人はつねに来る昼の明るさを知り、感謝のなかで生きてゆけるのです。生と死が隣り合わせにあるように、人々の心もまた、闇と光をとなり合わせている。私はそんな人を愛しています。彼らの尊厳を犯すような無惨な殺されかただけは許せないのです。その人の生はその人自身のものなのだから――」
 森射の全身はうすく緋色に瞬いていた。
 その姿を、伊邪那美はうっとりとみつめていた。
 「具土の血をもつ娘――。あの偉大な力を持ってうまれたあの子が、貴くもあわれな我が子こそが、このおろかな母を救ってくれたのじゃ。あの子の清浄なる炎が、わが身の穢れを焼きつくし清めてくれた。そのおかげで、妾は穢れを払えたのでもある。罪にまみれた妾の産んだ、最後の良心。――夫、伊邪那岐は、妾をあやめたといってひどく怒り狂ったけれども、妾にとっては救いであった。罪と穢れにみちた現世のしがらみである肉体から、妾の魂を解き放ち、焼き清めてくれたのであるからのう」
 火具土は母を殺した罪人としてずっと苦しみ、苛なまれきたというのに、母である伊邪那美は、彼に感謝していたのだ。
 そのことで姉や兄、ひいては父にまで嫌われ憎まれ、宇宙で最強ともいえる超常の力をもつことで、よけいに嫉妬をかい、厭われてきた。
 それが彼の悲しみのひとつであったというのに、母は我が子の浄化の炎に滅せられ喜んでいた。
 「こうして妾は根の堅州国に降り、ひとり懺悔の涙にくれておる。だがそれを可能にしてくれたのは我が子、火具土。妾は火具土にほんとうに感謝しておる」
 ゾゾッと空気が動いた。
 伊邪那美が、空気をすべるように歩きだし、膝まづいている森射の前でとまった。
 「あの子の血をひくものが、妾の教えを求め、このように遠くの世界にまで来てくれた。どうして妾がそれをむげに退けられるであろう。妾はすでに伊邪那岐とは袂を分つ身。庇ういわれもないことよ」
 伊邪那美は森射を立ちあがらせた。
 森射は、彼女の姿が透けているのに気づいた。
 それは伊邪那美という精神体の断片がいくつも寄り集まり、後悔の念によってよりあわさってできている幻影なのである。
 「葦原の国は、あらたな時代を向かえる時の節目にきておる。それを越えんがために、より大きな力を蓄えておるのじゃ。伊邪那岐はその未知の力を手にいれようと策を労してきた。高天原とこの国の時間は、螺旋のごとくからみあい、互いに急接近してしまった。異なった流れの融合は、時空をひずませ、裂け目を生じさせる。そのわずかな隙間の一点にむかい、高天原で殺された無念の怨霊が獏として流れこもうとしているのじゃ」
 森射は、彼女の瞳に心がすいこまれ、同化してゆくように思われた。そこにある光は、なんと哀しいのだろう。
 「邪霊や妖魅たちは、家畜として殺され、快楽のために辱められてきた。嘆きと怒りと憎しみに悪念悪想をまきちらして、地上の人間に争いの邪念をうえつけ、心を狂わせてしまう。異次元の力がしのびこみ、この国をかき乱し、すべての生物が変調をきたして互いで互いを傷つけあうようになってゆくであろう」
 すでに倭国がそうなったように、伊邪那岐を王として向かえたその時、終末の鐘が鳴りひびく。
 この国の終りになるのだ。
 「伊邪那岐だけは、絶対に降りたたせてはなりません。我が子、火具土が眠りから目覚める日まで、そしてその数奇な運命を定められし子が、そなたたちを導き歩み出す時まで、葦原の国を守ってゆくがよい」
 火具土と、救世主が目覚める日まで。
 森射は、未来を迎えるために、すべきことの覚悟はできている。
 きっとそのために生まれたのだから。
 ――そう、イサナと同じように。
 「この国の民はサナギの段階を終えようとしておる。そして、きっと目覚めたその時こそ、われら天津族とおなじ次元にまで進化をとげておるであろう。毛虫が内部に形成されている蝶の身体に気づかず、生れながらにもっている羽の知識さえ知らぬと同じように、そなたたちはただ気づいておらぬのじゃ。羽のことさえ、飛行をはじめるまでその意味を理解できぬであろう。そなたはその可能性を最も秘めた神の卵じゃよ、森射おまえはな」
 「私が――?」
 「そう。……そなたは、女の姿をこそしているが、そこには猛々しい男の心がひそんでおる。けれど誤解してはならぬぞ、おまえが女の姿で生まれ出でたということは、そのための意味があるのだから。――女こそは、人の痛みをだれより敏感に感じることができ、女であるからこそで、自然とさらなるつながりをもつことができる」
 伊邪那美は自分の下腹をなでてみせた。
 そこは、子宮であった。
 「男より、女のほうが格段に霊感が強いのも、巫女が神の声を聞くことがやすいのも、それは女がここに宇宙を内包しておるからのこと。女の子宮は宇宙じゃぞ、森射。ゆえに、男よりも、よりたくさんのものを受け入れることが出来ると知るがよい」
 森射はまるで自分のそこに、子を宿す宇宙が内在していることを忘れていたかのようでに見た。
 下腹をなでる。
 母が森射をそこに宿し、またはるかかなたから母たちによって、命の火が受け継がれてきたように、森射もまた、そこに生命の海をやどしているのである。
 伊邪那美はひろくゆったりとした袂から一振りの剣を取り出した。いや、剣のかたちをしたエネルギー体である。
 「これはわが身を焼き尽くしたおりに、できあがった剣じゃ」
 「伊邪那美様の体を焼いた炎?」
 「妾の魂は、もはや醜くて重い受肉の鎧にとじこめられてはおらぬ。この形質でそなたに相対しておるのは、そなたの思考が、この姿を選んだからのこと」
 微笑んだ伊邪那美の長い黒髪の先端がサラサラ空気にとけてゆき、空間に同化している。
 「火具土によって妾の体は三年間燃やされ続けられた。穢れにみちたこの体を清めるためにはそれだけに時間がかかった。宇宙に生まれた魂のひとつにしか過ぎぬ、この瑣末な身のために、何千――いや、何万といわぬ者たちの血がながされていったためじゃ。そのものの悲憤と怨念の穢れは妾にこびりつき、清めるためには、細胞のひとつひとつ、いや、原子にいたるすべてを燃やされ続けねばならなかった」
 その言葉に反応するように、ボウッと伊邪那美の体に火がついてみえた
 「妾の体には蛆がたかり、声はしゃがれて醜く溶解していった。頭から胸、胸から腹、そしてホトにいたる細部まで――雷のような炎の剣が妾をつきぬけ、懺悔の涙が枯れはて、意識が変性されるまで、それはつづいていった。妾は何もかも燃えつき、その穢れの灰の中から、ようやく解き放されたそのときに、この一本の剣がうまれた」
 剣はまるで伊邪那美の心を映し出すように膨れあがった。
 「健御雷(たけみかづち)の剣じゃ。これは、魔と化した魂だけを切ることができる再生の剣。高天原から入りこんだ悪霊たちに憑かれた者たちであっても、いまだ魂を喰われていない者ならば助けられる黄泉の剣となろう。――森射、これをそなたに授ける。しかれどもよく聞くがよい。この健御雷で、一人の者も殺してはならない。たとえそれが魔の国の者であってもじゃ」
 「剣で、だれも殺さない?それではその剣はなんの為に、どう使えば……」
 「魔の国に生まれていようとも、みな同じ人間。進化の族が違うだけで、根本は同じ人である。世界のすべては、両極となるものから成り立っておる。天と地、火と水、男と女。世界はその意味において、悪鬼の棲む冥界と現世とは、切りはなして考えることはできぬ。よき者と荒々しき者の両方があってこその生命。荒らしきものをみとめなければ生命ではない。ひとは影なしでは生きてはゆけぬ。それをなくせば、もはや人ではない」
 剣が巨大化した。伊邪那美の感情のゆれを現しているかのように、森射の身長をこえるほどに燃えあがると、まるで飲みこむかと思うように輝き、突然消滅した。
 伊邪那美の姿もまただんだんと薄れ始めていった。
 「伊邪那美様!」
 「そなたは賢い。自然の最もふかき秘密を手にし、また生命の尊さと同じだけの闇の尊さをも理解しておる。森射――神を()つことができる娘。そなたの体は未だ不完全であるけれど、もう一つの魂――二つに分たれた片方の魂は、きっと男体化してそなたのそばにおるはずよ。その者とおまえが真に和合したとき、おまえたちはひとつの完璧な光をみるであろう」
 伊邪那美の姿はもはやみえなかった。
 声だけが空間を振動させるように広がっていた。
森射は温かくつつまれてゆくのがわかった。意識が、遠くはなれていった。




 抱きしめる腕の温かさを背中に感じていた。温かく力づよい脈動が、森射の疲労し衰弱していた心身に猛るようなエネルギーを浸透させていった。
 心配げな瞳がじっと見ていた。
 その瞳を森射は昔からよく知っている。
 熱くあまく胸がうずくようなぬくもりに森射はやさしくつつみこまれていた。
 その感覚をもうずっと感じていた。それはいつもほんとうに心地よく、羽毛のようにふわりとして森射を守っていて、いたわりながらも決して邪魔をしたり、引き止めたりするようなことはなかった。
 いつもそうだった。
 この瞳に見つめられていると、つまずき倒れそうになっても、立ちあがる勇気をわきおこってくる。信じきった強い力がながれこみ、叱咤さえしてさらに遠くへと駆けてゆく元気を起こさせる。
 あたたかな朝日のようなまぶしさが、ひらかれた両の目に突き刺さった。
 視界はイサナでいっぱいであった。
 まるで、もうこの世には彼しかいないかのような錯覚がおこり、心があつくて、あらゆるものに満ちてあふれゆき、世界中のすべの祝福を聞いているような気がしてくる。
 森射はそれにつよく抱きしめられた。
 「――イサナ、おまえだったのか?」
 温もりは胸に灯った。
 ここにいた。
 まだほんの小さな子供だと思っていたのに、なんと大きくて、つよい腕になったのだろう。
 鳴門の海で助けあげたあの幼子は、ひどく傷つき、誰にもなつかぬほど心を閉ざし、おびえていた。ともすれば威嚇し噛みつきそうだった。そのまま心を開かず、絶望をいだいたまま死の旅路へむかうのかとおもわれた。
よもや彼が笑みを見せてくれるようになるとはその時は考えもしなかった。
 人を恐がり、憎しみ、おびえる。そんなふうにならなければならないイサナの過去に何があったかを、想像するだけでも恐ろしくなるほどだった。人をこれほど絶望させてしまうものとはどんな闇か。
 ただ消すことのできないほどの傷を心に負っていることだけがひしひしと伝わり、その哀しさが森射の憐れと慈しみの心でいっぱいにし、一心に思いをあたえ続けた。
 すべてを与え、そうやってようやく心を開いたイサナは、それでも森射にだけしか心を開かなかった。
 風変わりな子供であったし、なにかを隠していることもわかっていたが、聞きはしなかった。それを聞き出したとしても、心の傷はいえるわけでもなければ、また、彼自身が癒されるのでもない。彼の苦しみを本当に救い消してやることはできないのだ。
 それを口にだすことなく癒せるのなら、そのほうがいい。言いたくないのに傷を広げるまねはしたくない。だから自ら口にする以外のことは何も知らない。
 イサナと名づけたのは森射だった。弱っていたとき、彼がそうつぶやいたように聞こえた。
 イサナはその時からずっと森射だけを見つめてきた。
 彼女の語らぬ苦しみも、背負っている闇さえもともに受け入れ、ひたすらにじっと耐えて、見守ってくれた。
 森射が語らぬことを、彼はまるでわかっているかのようであった。それでも森射の聖域には、無断で立ち入るような無粋なまねをしたりはしなかった。そっと外から羽のようにふわりと包み、傷が大きくならぬよう、傷まぬようにと守ってくれていたのだ。
 彼の瞳が、母を慕う子供のものから、愛しい者を、おのれの全存在をかけて守り、慈しみ、すべてさえを捧げられる至高の存在として見つめはじめたのは、いつのころだっただろう。
 ――あなただけが俺を殺せる。あなたが生きてもいいといったから生きているんだ。
 いつもそう言っていた。すべてを投げ出してきた。
 その言葉は森射をなぜか不安にさせた。なぜイサナを殺さねばならないのか。なにを彼は恐れていたのか。
 だがいまならわかる。
 彼は自分の中の力に――それが無理やり植えつけられた苦悩の結晶であるとしても――怯えおののき、暴れ出さないように抑えつけていたことを。その力の恐ろしさをだれより理解し、危惧していた。
 二人はあまりにも似ている。
 深いふかい魂の底の部分で、人間をかたちづくる根源までもが、きっと同じものでつくられているのではないだろうか。
 「甘えていたんだ、私はおまえの気持ちに……」
 森射の長いまつげふるえた。
 緋色の瞳から溢れでたのはなんの涙であろうか。
 まばたくのにあわせて光がはなたれ、イサナの黄金の瞳にそれは宿ってゆく。
 過去という、変えられない時間への憎しみと怒りに彩られていたイサナの瞳から、氷の刃が溶けおち、かわりに狂わんばかりの孤独を癒してあまりある愛情がともる。
 「愛情とは、常に無償であり、ただただひたすらに与えるのみだということじゃ」
 神聖なものでも見るように、ふたりを見つめていた日巫女が口をひらいた。
 「期待せず求めず、そしてなにも願わなければ、結果がどうであれ、怒りや憎しみなどは感じはしない。たとえ裏切られても、騙されてもその心は傷つきはせぬ」
 イサナはいつの日だったか、安伎人に尋ねられたことがあった。
 森射になにを求め、どうしたいのかと。なぜそんな風に、みつめるだけで満足しているのかと。
 安伎人にはわからないだろう。イサナがどうしてそこまで見返りを求めず、尽くすことができるのかを。彼の内面にひそむ炎の意味が。
 『俺はあのひとなにも求めようとは思わない。森射は森射でいてくれるだけでいいんだ。俺にとって彼女はすべてだ。俺自身よりもっともっと大切な存在であり、あの人の光があるから、俺という影が存在することも許されるんだ』
 その想いは今もかわらない。
 イサナの身体中が、烈火のごとく燃えあがり、炎のような熱さにおそわれた。
 いままで心に燃えつづけていた逆巻くような呪いの熱ではなく、痛みなど微塵もともなわない喜びに体がふるえるような灼熱のたぎりだった。
 怒りに凝り固まっていた心が氷解し、エネルギーの滞りが消え、すべての経絡の流れがいきなり正されてゆく。活発に動きはじめたかのようだ。
 体内にある高圧エネルギーが変化をおこししたのか、脈打つ鼓動の音までがかわり、イサナの表情もまたかわっていった。
 立ちあがった森射は、抱きかかえられていたイサナが隣に立つのに、いつの間にそんなに大きくなっていたのかとあらためて驚きみた。
 いつも自分こそが見あげられていたのに、こんどは森射のほうが彼をみあげているのだ。まるで見知らぬ男を見るように森射はイサナをみつめる。
 胸を焦がすようにあつい眼差しをかえすイサナに、そして心の意味に、ようやく気がついた。
 「姉様、剣が――」
 火見華の声に、森射は今度こそ、はっきりと我にもどった。
 目覚めてから、ずっと彼女はイサナをみつめ、彼だけを感じていたのである。
 森射は腰に佩いていた剣を手にとると、狭崎からうけとったはずの草薙の剣が朱色に変色していることに気づいた。――伊邪那美の剣、健御雷の炎で鍛えられた剣と同じ波動をはなちながら輝いているのではないか。
 「どうやら伊邪那美様に無事会えたようじゃな、森射よ。剣をもらいうけたか」
 森射は檻のなかの日巫女にその剣を捧げるようにひらめかせ見せる。
 「よき剣じゃ。あの方なら、おまえがどのような存在かはわかってくださると思うておったわ。善哉、善哉」
 「日巫女様の導きがあってのことです。かの高貴なお方とお顔見知りだったようでしたので、どうにか願いを聞いていただけたのです」
 「根の堅州国にまで辿りついたは、おまえの力よ。よもや人として堅州国に赴き、また帰ってきたものはおらぬといわれておる。あそこは黄泉よりさらに遠い国。そのうえ奥方様にあい、話まで開いてもらえた者は、おまえが、多分はじめてであろうぞ」
 入り込んだとしても、一生その場にまどい、出ることも叶わず、死ぬこともかなわず、永遠の時をさまようのである。
 そのうえ伊邪那美に逢うことなど、まさに奇跡にちかいことであった。
 「伊邪那美様はいまだあの地で、身の純化をはかられておる。地球の鼓動を聞き、地球のもたらす愛情によって、より心を磨き癒しておられるのじゃ。我らが住まうこの星は、星辰界の大宇宙にあってさえ特別な存在なのじゃぞ、森射よ」
 だからこそ伊邪那岐が欲し、火具土が眠っている。
 「伊邪那美様に逢えたのなら、もはやアトランで起こっていたことも、高天原のことも存じておるであろうな」
 「はい」
 「この地上のすべてのことは、すでにもうひとつの世界――高天原で起こっていることによって影響をうけて、起こっておる。だがそれだからといって、未来は決まっているわけではない。人々の意識によって変えることができるはずじゃ」
 森射は拳をかたくにぎる。その手を、イサナがそっと、まるで自分がここにいることを忘れるなというように握りしめた。
 「ここまで生きてしもうたわしの運命は、おまえたちを導くためのものであったのだろう。さあ、先へ行くがよい。わしも再び渾身の力をふりしぼり、決起しよう。この老体にムチ打ち――きっと、最後の戦いにまみえようぞ。須佐之男様のご寵愛をいただいた巫女として、かの神の名を恥ずかしめはせぬ。いまこそ使命をまっとうせねばならぬ」
 よろめき立ちあがった日巫女の体が、倍よりもおおきくみえた。
 奮いたった存在感と力強さは、とうてい年齢とはおもえぬ威光をはなちだす。
 それは最後の決意だった。燃えつきる寸前に見せる、蝶の最後のはばたきのように。
 彼女は手に印を結ぶと、なにかの呪文を唱えはじめた。
 火見華がハッとしたうように慌て、それについて同じように唱えはじめる。
 二人の韻律が上へ下へと、絡まりあうように響きひろがって、洞窟のなかで微妙にこだまし溶けていった。
 師と弟子の間にくりひろげられる問答のようでもあり、最後に贈る師からの、贈り物を弟子が必死に受け取ろうとしている、心の交流のようでもあった。
 ピシッと弾けるような硬質な音がした。
 一瞬にして日巫女のまえにあった鉄条が粉々にはじけてとびちった。
 ゆらり、と歩きだす。
 火見華があわててかけより、ささえるのに、日巫女は幼い彼女の肩を抱き、おごそかにささやいた。
 「我が名を、そなたに与えよう火見華よ」
 「えっ?」
 「そなたに我が名を授けよう。――わしはもはや、これより先は大勢の者を導くことはかなわぬ。年も取りすぎたし、それだけの体力も気力も、これで最後となろう。この体とて不死身ではないのじゃ。すでに中身は藻屑に等しいのだからの」
 いわれてみて、火見華はようやく気づく。その体は見た目から比べるとあまりにも軽すぎる。火見華でさえ、それほど小さくはない彼女の十分にささえられているのだ。
 「わしはこの名を引き継いでくれる者をずっと待っておった。吉備に送った巫女(わがこ)から、それに相応しい者がおるとずっと聞きいておった。わしはおまえが来るのを待っていたのじゃよ。火見華、おまえならばきっと人々を正しい道へ導くことができる。希望の掛け橋となることができるであろう。吉備の神と森射に育てられ、イサナの深い愛を見てきたおまえならばのう」
 「そ、そんなこと……っ、わたくしはまだ未熟です。あまりに若すぎます。どうぞ日巫女様、未熟なわたくしをこれからも見守り、お導きくださいませ」
 日巫女は愛しそうに、不安げにすがりついて言う火見華の、幼い頭をなでた。不思議なほど安らいだ顔をしていた。
 「我が名をそなたに授けよう。炎の神と語り、日の神をみる選ばれし希望の娘よ」
 日巫女の口から発せられた言葉が火見華をしばっていった。
 言霊にかけられた魔術によって、『日巫女』という偉大なる存在は、容赦なく火見華を次代の主に選びとってしまう。
 火見華はそこに含まれる日巫女の思いの大きさに、おののきながらも、それを拒むことはできなかった。運命は、いつだっていきなりやってくるのだ。
 「幾久しくお受けいたします。この身の果つるその日まで、貴方の願いと期待にそむくことなきよう、我が使命をはたし努めます」
 火見華の口は、まるで勝手にうごいているかのようだった。
 言い終わらぬうちに、小さな体に力が漲り、そして新たな記憶が潮のように満つる。
 まだやわらかさを残していた少女のやさしい相貌に、凛とした、人を導き教えを授けることのできる者だけが有する、独特の、おごそかで聡明な威厳が、気高くやどった。宇宙の叡智を知ってしまった誇りたかい表情だ。
 どこか森射に似ていた。
 美しく気品にみちた緊張感と、それでもかくしきれない孤独のにおいがする。それこそが、自分の進むべき道のはるか彼方をかいま見てしまった者の、重みに耐える表情であるのかもしれない。
 火見華は森射とはまたちがう重荷を負ったのだった。日巫女のもっていたすべての記憶を、彼女はその名を威光のもとに引き継いでしまった。
 「日巫女様、これを――」
 火見華は首にかけていた赤い真名石の首飾りを日巫女にわたした。吉備から持ってきたなかでも一番美しく、力に満ちた宝玉でつくられているものだ。
 弱った細胞を活性化させ、さらに未知の力をあたえる。地球そのもののような高波動にみちている。
 火見華にはもう、それは必要なかった。弱りくずれかけた日巫女にそっと呪文をかけた。
 うなずく日巫女に迷いなくいう。
 「行ってまいります、日巫女様。あなたの名に恥じぬよう、森射姉様とともになすべきことをまっとうします」
 火見華は名を与えてくれたその恩師の心が痛いほどわかっているのだ。こんなところでグズグスしている暇はない。
 「火見華、いくぞ」
 「さあ」
 イサナが言い、森射が手をとった。
 老女が指し示す方向へ、洞窟の奥深くへ向かって進み出していった。 
 


 
 「森射……」
 痛んだ体を引きずりながら歩いているのはオズヌであった。
 オズヌは単身で森射のあとをどうにか追い、その姿を求めていた。
 あのとき、森射たちがむかおうとしていた黄泉比良坂に飛びこみむのをみて、慌てて一緒にとびこみ、決死の覚悟でもって、どうにか日向の国にまでたどりついたのだった。
 招かれた森射たちとちがい、無理やり介入していったオズヌにとっては、あの回廊はまさに無限の闇と、地獄のような場所であった。
 神の残した波動は、オズヌを異端として認識し、そのために排除しようと化け物のようにわきたち、次元の挟間に何度もなげこまれそうになった。
 自力でそれらと闘い、何度も死に直面しながらもどうにかくぐりぬけてきた。無我夢中で、それこそ全身全霊の力をふりしぼって、オズヌは森射の気配だけをひたすらに追い求めてここまで来たのだ。
 それは執拗な執念であった。
 あの不思議な回廊を抜けられたのは、何万分の一の奇跡としかいえない。並々ならぬ精神力ではないだろう。
 彼のもつ超常の力など、あの無限の世界にあっては、大海にうかぶ小さな木切れほどにも満たない存在であった。
 オズヌは、その波にもまれながら、どれほど自分は愚かであり、驕り高ぶった小人であったかをおもい知らされた。厚い傲慢な皮をむかれていった。
 井の中の蛙であった恥ずかしさと心苦しさに、彼の自尊心はこなごなに砕かれ、短絡であさはかな、野獣のような行動と無知とを、いやおうなくつきつけられて、恥ずかしさのあまり憤死してしまいそうになってしまった。
 そこではあまりにも無力だった。あれほど自分の非力さを感じたことはなかった。
 ずっと自分は選ばれた人間だとおもっていた。いつだってだれより早く術を覚え、岩を駆ける足を持ち、呪文を身につけ、つねに人々を足下においてきたのだ。
 だがそんなものなど一体なんだというのだろう。
 森射への劣情で狂い、踊らされてとんでもないことをしてしまったではないか。あれほど自分にうぬぼれることを重々諌められていたのに。簡単に唆されるとは思いもしなかった。
 どれほど多くの者が苦しみ泣き叫んでいるかわからない。その声は日々オズヌを苦しめ絶望の淵へと追いやってゆく。
 この額にできた角の意味を、やっと、なんとなくだが理解しはじめていた。
 自分の犯した罪は、かならず自分に跳ね返り、絶対に清算しなくてはならない。その証拠に、黄泉比良坂でめちゃくちゃにいたぶられ、ひきまわされた体の無数の傷は、驚くはやさで癒えてゆき、すでにもう治りかけているのだ。
 もはや自分は人ではなくなってしまっている。
 悪魔に心をうばわれたあの時から、罪を拭いさるまで、この修行はおわらない。
 きっといま森射と話しができたなら、彼女の言っていた難解で様々な言葉の意味が、理解できたであろう。森射の見ている世界の、ほんの一部であるかもしれないが、彼もまた覗いたのだから。
 オズヌは異形の者たちが蠢く森を、気配を殺し、どうにか過ぎてきていた。
 ところどころに転がる屍に目をやり、目を背けたくなるような哀れな姿におののき、そうならざるをえなかったことに恐怖をいだいた。
 こここそが、おのれを闇にまどわせおぞましい行為に手をそめさせた悪魔の本拠地なのだ。世界を危機に追いやり、彼の最愛のものである森射を手に入れようとしている。森射の聖なる力を破滅に使おうとし望んでいる。
 「それだけは絶対に許さない。俺がなんとしてでも、森射を守る!」
 オズヌは心にちかっていた。どんなことがあっても、森射にだけは触れさせない。彼女の身を必ずや守ってみせると。
 それだけが、いまオズヌが存在することを許しているたったひとつの理由だとしか思えない。
 「森射……」
 守りの呪文のように、オズヌは何度も何度もつぶやいていた。
 額の角が、やけに痛むのは、それまでも森射の存在をもとめているかのような気がしていた。



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