黒い岩肌を、滝が勇壮にながれおちていた。
水が白くにごり、飛びちるしぶきに一面がけぶっている。
昨日まで降りつづいていた雨を木々たちは充分にすいあげ、糸をつむぐように水蒸気を放出し、高い山の峰々に、きりのような雲をたなびかせていた。
たちならぶ巨木はどれも堂々としていた。
澄みわたった空気にそびえるあまりの雄大さに、そこに踏み込んだ者ならば、きっとどんな人間であれ、敬虔な気持ちをいだかずにはいられないだろう。
神々しいばかりの木々に見下ろされていると、隠していた悪しき念を見透かされるようで、耐えがたいような苦しみに胸がさいなまれてしまう。
草花が風にゆれた。
ふっと、人影が動くのがみえた。
ひとりの女性だった。
風景にすっぽりととけこんでいるかのようであり、意識しなければ、目に映ることもないかもしれない。
赤茶けた、というよりもっと赤味のある長い黒髪をうしろで無造作に束ねていた。なんとも簡素で実用的な男物の服を着ている。
少女というには、幾分年上にみえた。
優しい笑みを浮かべている表情は、まろやかな寒露のごとく甘やかで、うっとりするほどに美しい。どこか神秘的な雰囲気をかもしだしている。
湿原を思わせるようなしめった風が流れていった。
白い花に、紫色の斑点をある大きな蝶が羽根をやすめ、朝露に濡れていた。
どこか弱々しげに羽をゆらし、まるで最後の呼吸をするかのように大きく動くと、そのまま花びらから落ちていった。
女性は包むように手をのばし、そっと柔らかくうけとめた。わずかな身のこなしなのに目を惹くような優美さがある。
女性はささやくように蝶へなにかをつぶやいた。
かすかな歌声のようでもあったし、また何かの呪文であったかもしれない。
ふたたび手をひらくと、蝶がフワリと空に舞いあがった。
陽光を浴び、ひらひらと燐紛をまきちらして彼女のまわりをひとめぐりすると、蝶はそのままなにごともなかったかのように、森の中に消えてしまった。
名残を惜しむように、黄金のきらめきだけが、彼女のまわりにいつまでも舞いつづけていたのだった。
眺望のよい、山腹にひろがる草原を風が走っていった。
あおくしげった草に波紋がひろがり、葉すれの匂いがすがすがしく香っている。
目の前にひろがった高い山の嶺を、大鷲が悠々と飛んでいた。人間には見えない風をつかまえ、戯れているかのようである。
ひときわ強い風が走りぬけた。
イサナは真っ直ぐ顔をあげると、風が走りさった方向へまよいもなく走りだしてゆく。
まだいくぶん幼さをのこす顔立ちは、少年と青年の端境期特有のあやうさと、これから何にでもなれてしまいそうな未知のエネルギーがみなぎっている。
どこか異国的な鋭さのある整った顔だちがひどく印象的だった。なのに、淡々とした表情はあまりにも薄くて、世のなかの酸いも甘いもかみわけてきた大人のようでさえあり、なにかしらの違和感がつきまとっている。
イサナはふっと何かに気づいたようにつぶやいた。
「こっちだ。こっちに森射がいる――」
すこしだけ後ろを気にするようにふり返ったが、そのままあっさり駆け出した。
かなり後方に、遅れて走っていた少女が走り出したのに気づき、たまらず叫ぶ。
「ちょっと待ってイサナ!そんなに速くは走れないわ――」
「ゆっくり来い火見華。すぐそこだ。先にいっている」
「あっ……もう!イサナったらっ!」
気にするふうもなく行ってしまった背後に、不満の声だけがとりのこされてゆく。
イサナはまるで風に乗ったかのようだった。
その目には、すでに探し主がいる場所が見えているかのようである。
木立をぬけ、明るい日がさしこんだその場所へ一直線に向かう。
「森射!」
名を呼ばれた女性はゆっくり顔をむけた。
森のなかへと優雅に舞ってゆく蝶をみつめていた視線がイサナをはっきりと映しだした。
まるで誰が来くるのかわかっていたかのように、彼女は微笑む。
あまり感情のあらわれないイサナの表情にあわい月あかりのような笑みがうかび、森射に吸い寄せられてゆく。
この地上で、その笑みが受けられるのは彼女ただひとりだけだ。
金の燐光が、森射の頭上キラキラとまっていた。陽光をうけ、あまりにもそれは幻想的すぎて、イサナはその光景に惹きこまれそうに目をほそめた。
金褐色にみえる赤い髪が柔らかな風にたなびいていた。
スラリとのびた手足がながく若柳のようであり、女性の色香ともちがう清々しい精霊のような繊細さである。まるで天上にすむという天女のようでもあるが、ただそれにしては、あまりにも質素ないでたちであり、髪にも服にも年頃の女性らしい宝飾品ひとつない。
だが、それがかえって彼女の美しさを際だたせ、彼女自身が宝石そのものであるかのようである。飾る必要性さえ感じられないのだ。
森射はいたずらをみつかった子供のように笑った。
「おまえにはいつもばれてしまうなイサナ」
イサナは共犯者のような意地の悪い笑みをかえす。
「俺がどんなものを見たとしても、けっして他人には言わないことを、森射のほうが心得ているからだろう?」
ふたりは視線をかわしあい、何もかもをわかりあっているような微笑みで了解しあった。
金の燐粉はきえた。
二人の背後で火見華の甲高い声が追いついてきた。
「もうイサナったら!いっつもわたくしをおいていってしまうんだから、ひどいじゃないの!」
一生懸命駆けてきましたとばかりに息をきらした火見華が、いきなり抗議の声をあげた。
上気した頬が紅色にいろづき、まだ幼い、十才かそこらの少女であるというのに、すでに咲き誇る華のようである。
ぷっくりとした餅のような肌は白く柔らかで、切りそろえた黒髪が、長く腰にまで垂れていた。まるで人形のようだ。
くっきりとした意志の強そうな眉と、深い色合いを秘めた漆黒の瞳の底には、人というよりは、神仏の領域に近い崇高な輝きがひそんでいた。、彼女が黙って見つめれば、それだけで他者に膝をつかせてしまう威厳さえ感じられる。
「火見華」
ご機嫌ななめだったはずの火見華は、森射に名をよばれると表情をあっけなくやわらげた。
たったそれだけで、秀麗すぎて作り物じみた顔が、年相応の愛らしい少女へと変貌する。
「森射姉様、ずいぶん捜しましたのよ。ババ様が呼んで来てほしいっておっしゃるものですから――。ほんとに、毎度毎度、森にいる姉様をさがすのはひと苦労ですわ。森の中に入った途端に気配が消えてしまうんですもの。さしものわたくしでも、お手上げです」
困ったことだと、わざとらしく肩をあげてみせる。
森射は苦笑しながらあやまった。
「すまないな火見華。いつもずいぶん手間をかけているようだ」
「本当にそう思ってくださると、ありがたいんですけれどね」
火見華はどうせ口だけだというようにため息をつくと、こんどはイサナに冷たい視線をおくった。先ほどさっさと置いていった仕打をとがめるように口をとがらせる。
「それに、唯一、姉様の居場所がわかるイサナは、わたくしをおいてさっさと行ってしまうし――。本当にひどいんだから。イサナはきっと、そうね、わたしと姉様とが崖から落ちそうになって苦しんでいたら、絶対姉様を先に助けるのよね」
絶対間違いないと言いきる火見華に、森射のそばでイサナは困ったように頭をかいている。助けを求めるように森射をみるが、だがその問いに否定はしない。
「やっぱり姉様をさがすのはイサナに任せておくべきだったわ。森射姉様のことでイサナにかなうものはいないもの」
「火見華、もし火見華が崖から落ちそうになっていたら、私が死に物狂いで這い上がって助けてやるから安心しろ。それに火見華だったらまず崖から落ちるなんてことはないだろうし……」
言いかけた森射は、なにか目に見えない気配でも感じとったかのように、鋭い視線を森の奥へむけた。
ピクリと眉がひそまったかとおもうと、いきなり走り出してしまった。
「姉様?! 」
「森射――?」
二人の声が後ろであがるのも気にせず、森射はみるみる森の中へと消えていった。
こんなふうに真剣な顔で走る森射にはどんな駿足の男でもおいつけない。
草をわけて疾走する姿はまるで小さなつむじ風のようであり、野生の動物よりもまだ音をたてはしない。
したばえのからまる小道も、草やつるがまるで自ら道を譲るかのように身を縮めていた。張りだした木のこずえや潅木のしげりさえ、森射を傷つけないようにかわし避け、そのあいだを空気一つゆらさず、森射はくぐりぬけてゆく。
普通の人間が入りこんだらどれほどやっかいな山腹ですら、なんら彼女の足かせとならない。
「こっちか?木々がいやにざわめいている」
つぶやくと、木の枝の向こうにみえる真っ青な空をみあげた。
かすかに聞こえる葉擦れの音が、風の通り道とはちがう方向できこえてきている。
そのまま獣道をぬけると、切り立った斜面があらわれた。
ここら一体は、まるで人間を排除するためのような複雑で奇怪な地形をしていた。
茂みの向こうがわがすぐに崖であるとか、底の見えない穴がところどころにうっそりと昏い口をひらいているのが当たり前なのである。
それがあまりにも危険なため、地理にくわしい里の者であっても滅多に近寄らない場所となっていた。
森射は走る勢いをゆるめもせず、そのまま崖をすべりおりた。すりきれる草の青い匂いが鼻をついてくるが、森射の尻のあたりを、まるで見えない手が支えてくれているように、わずかに浮いていて、衝撃すらあたえていない。
降り立ったさきには、若者がうずくまっていた。
この崖に気づかずに転げ落ちたのだ。
森射は駆けより抱きおこすと、若者はウッと小さくうめき、苦渋に表情をゆがめた。
「大丈夫か?! 」
男は返事もままならぬようにうすく目をあけたが、視界にはなにもうつっていないようだった。
こめかみからながれている血がほほを伝い、まるで赤い涙をながしているようにみえる。
たしかめるように森射は手足をそっとなでた。
時々つらそうに声をあげたが、幸いにもどこも折れてはいないようだった。だが打撲がかなりひどく、崖にえぐられた切り傷も無数についている。くいしばった口の端までが切れて血がかたまっている。
森射は青ざめた顔にかかる長い前髪をはらった。痛みによるじっとりとした冷たい汗と血で髪の毛ははりついていて、それでも苦鳴をもらすまいと唇を噛んでいるところをみると、どうやらかなり強情な気性のようだ。
胸を抱えているように丸まっているのに、森射はそっと手をほどかせた。服の前胸をはだけ、顔をしかめる。
首から斜めにざっくり切られていた。どうみてもそれは刃物による傷である。
森射は足にある短剣に目をやった。血糊がべったりとついている。
わずかに顔をしかめ、若者をみたが、彼はその傷よりも腹を抱えてうなっているのに眉をあげる。
服をめくりあげると、そこが赤黒くなって腫れていた。落ちたときに腹を岩で打ったのだ。
「――内臓か」
厄介だな、と舌を小さくうった。
若者の苦悩にゆがむ顔には、はっきりと死の影がうかんでいる。
傷もひどいが、生きる気力が感じられない。この短剣で自らの首に傷をつけたことはどうやら否めないであろう。
森射は自分の服のすそを切り裂くと、首の傷にまきつけた。傷に手をそわせ簡単なまじないの呪文をつぶやくのに、若者が身をふるわせる。
年のころは森射と同じだろうか、多少年上かもしれなかったが、その顔は、端正というよりは、ひどく上品で整いすぎ、繊細さのためかあやうさが感じられた。身なりからしても、卑しからぬ身分の者らしい。
森射は自分より頭ひとつ高い青年をそっと背にかついだ。わずかな振動にも痛そうにうめくが、自殺をする覚悟があったなら、多少かまわないだろうと手を首元に固定する。
腹の中の傷はかなりひどそうなため、一刻もはやく手当てをしなければ危険だ。
細くしなやかな体格には似合わぬ、しっかりとした足取りで森射は急斜面を登っていった。途中途中でのびている蔓をつかみ、なにかの助けでも受けているかのように、驚くべき速さで登っていく。
それでも彼女にしてはめずらしく息が乱れ、走る速度がおそかった。
背からずっしりとした重さを感じる。若者の体重だけではない、別のいやな負荷でもかけられているかのように、それはねっとりとしている。
森射はそれにもかまわず、すばやい足取りですすんでいった。
たが、黒い影がムックリと浮かびあがり、青年の頭上から、それはまるで、その時を待っていたかのようにふくれあがると、細い触手をのばし、まるでたわむれるかのように森射の首へまきつこうとした。
森射は歩みをとめもぜず低く云う。
「この者に剣をとらせたのはおまえか?」
それは一瞬ビクッと動きをとめた。が、すぐにうねりだし、答えるかわりに冷たい氷の棘をもった腕をのばして森射の首を刺激する。
おそれぬ森射を威嚇しているのか、だんだん大きく膨らんでゆく。
森射は鋭い視線を背後にむけた。赤い目がひかった。
「死を運ぶ影よ、災いのもとよ、この神聖な森から去るがいい!」
言葉がおわらぬうちに、影は色をうすめ、分裂していった。頭上から完全に消えると、青年が正気づくようなうめく痛みの声をあげる。
森射は歩みをとめた。
青年を背からおろした。膝をかかえ、腰の竹筒から水を口に含むと、そのまま渇いた青年の口に注いでやった。
喉が水を嚥下するのにあわせ、長いまつげが生気をとりもどすように震えた。まるで死の淵からもどってくるのを助けるかのように、彼の冷たいほほに森射は手をあて温めてやる。
ゆっくりと瞼が開いた。
澄んだ泉のような瞳をしていた。
目は心の窓というが、思いかけず美しいのにおどろいた。純粋なまなざしは、まばたきする瞬間だけ我をうしない、飾りのない彼そのものを映し出している。
だが、しだいに甦るにつれ、荒々しい魂の鼓動を刻みはじめていた。
「大丈夫か?」
「あ……」
青年はようやく森射に気づいたのか、じっとみあげた。潤んだ瞳に、彼女の姿が炎のように明るく灯る。
「……あ、あなたは?」
かすれた声が不安げに問うた。
森射は安させるかのようにそっと手を握ってやった。
「すぐに私の村につれていってやる。心配するな。なんのわずらいもない」
微笑むのに、若者は吸い込まれるような無垢な視線をむけた。
ぼんやりという。
「あなたは、人間――?」
「私は森射だ。吉備の里にすんでいる。ここは吉備の守り深き、神の森。だれもお前を傷つけはできないよ、安心して休むがいい。……おまえはどこから来た、名はなんという?」
「俺は……俺はアギト。ヤマトから――ウアァッ!」
ためらいもなくすべるように言いかけたアギトは、不意になにを思い出したのか、耐えかねたような悲鳴をあげた。
怯えるように頭をかかえうずくまった。なにか呪わしい恐怖でもみているかのような苦渋のさけびが森全体をゆらす。
肩に手をかけた森射に、アギトは怯えすがりついた。
必死で救いをもとめてつかむ馬鹿力はなみのものではなく、森射の体がきしむ。
「アギト落ちつけ。落ちつくんだ。もう大丈夫。なにも心配はいらないんだ、ここでは誰もお前を傷つけはできないのだから」
あれほど静かなやさしい目をしていたのに、彼の顔に浮かんでいるおぞましいほどの恐怖とは一体なんなのであろうか。
森射は痣がつくほど抱きしめられる腕を払いのけもせず、何度も何度も、穏やかな声音でゆっくりとくりかえした。
「アギト、大丈夫だアギト。私がついている。誰にもお前を傷つけさせはしない。何も怖くない、大丈夫だ落ちつけ」
「助け、助けっ――アアッ!頼む、頼むから俺を殺してくれ、殺せ!」
己を殺してしまいたいほどの恐怖。ガタガタふるえながらアギトは本気で言っている。
祈るように森射にくりかえし言いつづけながら、とうとう痛みと疲れに崩れおちてしまった。森射の温かな胸の膨らみに顔をふせ気をうしなっていた。
「アギト……」
森射はそのまま抱きしめていた。
アギトの異常なまでの怯えの根源でも探るかのように、意識を研ぎ澄ませ、魔物から守るように胸につつみこんだまま、見えない闇を睨みすえている。
「森射どうした――?」
茂みをわけイサナが顔をだした。やっと追いついたのだ。
走り出した森射のあとを夢中で走り、顔や腕に引っかき傷をつけている。小枝や藪などは、森射のように木々は道をあけてくれない。
ようやくみつけたと息をついたイサナの姿に、森射はほっと緊張をといていた。イサナが運んできた新鮮な風に流されて、彼らをとり巻いていた闇が消えていったのだ。
イサナはそれでも、魔性の残り香に気づいたらしく、険しく表情をひきしめた。油断なくあたりをうかがう。
駆け寄ると、森射と、腕にかかえられている男をみた。
「この気配は……この男、どうした?」
「そこの崖から落ちたんだ。ひどく腹を打っているようだ。ちょっと危ないかもしれない。それに、切り傷やらいろいろあるしようだしな」
「よりにもよってこんなところに迷い込むなんて。他所者だな」
吉備にすむ里のものなら、けっして踏みいろうとはしない危険地域のひとつだ。こんなところにむやみに立ち入っても無事なのは森射ぐらいだろう。
イサナは男の顔をまじまじとのぞきこみ、不快そうに眉をしかめた。
「見たことない顔つきだ。この目鼻立ちからいくと、ヤマト方面か――。それにしてもさっきの気配はなんだったんだ、森射」
そちらの方がよくない、と思案げにいう。
「悪いがイサナ、先に帰って火見華たちに怪我人のことを伝えてくれないか。ちょっとした呪いをしなければならないだろうからな。満ち石も大きいのが十数個は必要だと思うし、薬草も……ああ、火見華につたえれば勝手に用意するか」
稀代の巫女姫に、よけいな口出しは不必要だったと、森射はうすく口元ゆるめる。
イサナは少しばかり不満げな視線を男にむけたが、言われるままに走りだした。なにかいいたそうに口をむっつり曲げたままだ。
どんなときでもイサナは決して森射の決めたことに口を出さなかった。彼はいつだってそれが正しいと知っているし、もし違っていても、それは正せばすむ話だとも思っている。ほかの者たちのように、よけいな手間をとらせはしない。
みるみる消えてゆくイサナの後姿を目にしてから、森射はアギトを背に担ぎなおした。
死人のような土気色の顔を心配しながらゆっくり歩きだす。
ますます青ざめ、ひどい打撲によるショックで体温まで下がりはじめている。かなり危険だ。
しかも意識なくすべてを投げ出している大人の男の体は、冷たい氷の岩を運んでいるかのように重く背にきしむ。さしもの森射も、一見、足取りはかわらないが、汗がにじんでいる。
それでも自分よりずっと重い体を、まるですべるように、わずかもゆらさず走りだしていた。
二人が去った後にのこる不吉な影がうっそり揺らめく。
小鳥は敏感に反応し飛び立ち、まるでそれは、不穏な影が吉備の里へもぐりこもうとするかのように、不快で生ぬるい気配をさざめかせ、薄く広がっていったのだった。
祈りの宮では、イサナからの火急のしらせによって、巫女たちは忙しく駆けずりまわっていた。
簡易ではあるが、正式な祭壇がもうけられ、その前には、怪我人をねかせるための寝台をつくり、傷にさわらないよう全体を柔らかな布でつつんでいった。
その周囲をひとかかえはありそうな石を何個もならべて囲った。軽い結界のような力の場をつくっているのだ。
裏山からもどった数人の少女達は、刈り取ったばかりの薬草を仕分けし、それぞれに煎じたり潰したりしていた。また煌々とした火が起こされ、聖なる泉から湧きだした清水が大量に焚かれて、爽やかな湯気をたてている。
それらすべての準備にぬかりがないよう的確な指示をだしているのは、もちろん火見華であった。
森射の言葉をうけた彼女は、かえってきたイサナの言葉をきくなり、祈りの宮にいる巫女たちを呼び集め、儀式が出来るように準備をはじめたのだ。
百人近くはいるだろう巫女たちのなかには、かなり年配の者もいたし、祖母とおぼしき年齢のものもいた。ほとんどが火見華より年上であるにもかかわらず、だれひとりとして彼女の言葉に逆らう者もおらず、いらぬ口を挟む者もいなかった。
それどころか、まるで彼女たちの態度は、知恵ぶかい賢者に仕えるかのようであり、歴年の老巫女、または崇拝すべき聡明なあるじの言葉でも聞いているかのような従順さで、与えられた仕事をただ黙々とこなしているのだった。
「火見華、水はもうこのくらいで十分だろう」
清水を汲んだ桶をかかえイサナが入ってきた。もう何度となく山と宮のあいだを往復していた。
火見華はうなずく。
「そうね、それくらいでいいわ。今度はこの石を並べてちょうだい」
大きな樽になみなみと水がそそがれて一杯になると、今度は祭殿の宝物庫からもってこられた「満ち石」と呼ばれている、特殊な霊力を含んだ石を祭壇のよこに積みあげていった。
イサナや他の者たちも、もはや手馴れたとばかりに、さっさと仕事をこなしている。
女の城ともいうべき祈りの宮で、イサナだけが自由に出入をゆるされている唯一の男であった。
幼いころからここで過ごしてきたせいか、巫女たちの手には余る力仕事を、ずっとこうして手伝い、それを役割としていた。
彼はべつだん、巫覡になろうという気もなく、またそうしたことに興味ももちあわせていないようにみえた。
今のところはなにも顕著な才能もしめしていないうえ、巫女たちもまた、一緒にすごしてきたイサナについては、そうしているのが当たり前で、ここにいることすら疑問に思う者もいなければ、異を唱えようともしない。それに男手というのはずいぶん助かるものなのである。
「森射が帰ってきた」
イサナが顔をあげて言った。
働いていた者たちの手がとまり、イサナが飛び出していくのに、一斉に顔をむける。
山道を下ってきている森射が見えた。よくこんな遠くからわかるものだといつも感心させられる。
イサナは、こと森射のことに関すると、驚くまでの勘をはたらかせ、まずは、はずれたことがない。
彼は森射とともに育ってきたのだった。いや、森射によって彼は育てられた、といったほうがより正確かもしれない。森射にもっとも近い存在といえば、イサナに他はないだろう。
二人は火見華のそばまでくると、一呼吸おかないうちにアギトを肩からおろす。森射が間をおかず言う。
「火見華、すぐにはじめてくれ。かなり危ない状態だ。すでに体温がさがりはじめている。下腹が特にひどい。血のたまりに膨れだしているからな。傷み止めに煎香木を焚いておいて。それから魂結びの祝詞を唱えられる巫女もいるだろう。――ああ、そうだな、年の若いほうがいいかもしれない」
森射はかなりの距離を走っただろうはずなのに、疲れもみせず、矢継ぎ早に指示をだした。
火見華はそのままの他の者にそう告げると、ふと不思議そうにいった。
「若い巫女のほうでよろしいのですか。上級巫女の、しっかりした熟練の者ほうが効果が高いのではありません?」
「この男、どうやらすこしばかり厄介なものを連れているみたいなのだ。ひょっとしたらソレが暴走するかもしれない。感触からいって、精気の充実した若い者のほうがいいだろうと思う。年配の者だと、万が一にも魂の結び目が弱まっているところを食われかねない」
「――わかりました」
なにを言いたいかは心得ているらしく、火見華は準備させていた中堅どころである年配巫女たちをさがらせ、かわりに年が若く、だが実力の十分ある若い巫女たちを呼びよせた。
煎香木とよばれる薫りのよい薬草の生木を石の上にのせると、火の気もないのに、ゆっくりと煙がたちのぼりはじめた。
爽快感をさそうかおりが白く部屋をけぶらせはじめ、場が清められてゆく。
イサナはアギトを真中の寝台の上によこたえた。
それが合図のように、囲むように円になって座った少女たちが、鈴のような硬質で透きとおった声をあげた。祝詞が唱えられはじめる。
それは不思議な響きをもった言葉であった。
歌のようでもあり、風のそよぎのようでもあり、遠くで鳴く動物の呼び声にも聞こえれば、天女のかなでる琴の音のようでもある。
聞いているだけで懐かしいくも、もの悲しい、そんな切ない気持ちになってくる。言葉のもつ響きのなかに吸いこまれそうな気がして、心がどんどんすいつけられてゆく。
――魂結びの祝詞。
言葉の霊力により病を癒し、切れかけた魂の緒を結ぶといわれる、癒しと再生の呪文であった。
その主旋律を奏でているのが火見華であり、その優美でたえなる声にあわせて、首にかけている赤い珠の首飾りが、リーンという高い音をかきならしていた。
それに先導されるかのように、少女たちがあわせて詠唱しているのだった。
この祈りの宮を実質上で治めているのが、このまだ幼い火見華であった。病気でひきこもった座主にかわり、すでに大概のことはひとりで判断し、責任を負っている。
それだけの力は十分あった。
火見華の常ならぬ霊力は並大抵のものではなく、すでに六歳のころには異彩を放ち、周囲の者を圧倒していた。通常の生活にさえ支障をきたすほどの才気と明敏により、祈りの宮の長によって見出されたのだった。
火見華は幼いながらも、大人ですら耐え難いといわれる幾多の厳しい修行をすべておさめていた。
今では、大ババと呼ばれる祈りの宮の長老であり、座主の補佐役兼代行として宮をおさめ、すでに次期座主としてのあかしである、「朱の首飾り」まで受け継いでいる。
すでに隠棲している大ババより、そのためのすべての教育を受けて、終わっている、いう話でもあった。
祝詞の声が大きくなり、波のように寄せたり返したりを繰りかえしていた。
青ざめ痙攣するように時々ピクピクとしていたアギトの体から、苦しげな強ばりがわずかずつだが減っていった。辛苦に喘いでいた気配も、緩みはじめているようであった。
煙はいっそう増していた。みれば石から炎のような明るい光が漏れ出てはじめているではないか。
薬草はどれも、美しい緑色から赤へと変色し、ついには炭化しはじめていた。まるでそれ自身のもつ精気を、煙としてわきたたせて、命を与えてることで役目をおえて、土に返ろうとしているかのようでもある。
巫女たちにまじって祝詞をあげていた森射が立ちあがると、満ち石から赤い炎がもえあがった。石の炎は、普通の炎とちがい床を燃やすこともなくただ熱と光を発しているのみである。
「満ち石が足りないな。もう少し増やして」
森射が言いおわらないうちに、すでにイサナが脇に積んであった石を炎のなかへくべていた。
森射は用意されていた石を一つ手に取ると、アギトの額の上にのせた。
「帰って来いアギト。まだ、お前は自分の役目を果たしていないのだろう。あきらめるのはまだはやい。自分の中の闇に負けてはいけない。――そう、誰しもが、その闇と戦っているのだから」
謎めいた言葉をささやくのに、アギトの体はふるりと応えるように揺れた。
森射が首についている刀傷を撫でると、黒い血が生き物のように垂れてながれ落ちた。
それから、目に見えるほどアギトの様態が回復の兆しをみせはじめた。
巫女たちの詠唱が終わってからも、アギトはさらに魂ごと清められてゆくかのように生気を取り戻していくのがわかった。
ただ満ち石と呼ばれる、不思議な石だけが発光し、まるで癒しの幕屋であるかのようにアギトをどんどん包みこんでいった。
「もう大丈夫ですわ。あとは、引き石で焚いた湯で体を清めてやれば、体内にたまっている毒素と血が全部出てゆくことでしょう」
火見華は、首飾りをはずすと、ほっと息をついた。
きびしい呪(まじない)いごとをする大人の顔から、少女の顔へともどる一瞬だ。いかめしい老齢さよりも、やはり花のような愛らしさが、彼女にはよく似合う。
祝詞を唱えていたそれぞれの巫女たちも疲れきった顔をし、ひと仕事を終えたという満足感に肩の力をぬいた。力を使い果たしていた。
よく休むようにいって火見華は彼女たちをねぎらうと下がらせた。各々の部屋へかえってく彼女たちを見送る火見華の肩に、森射はそっと手をおいた。
「ごくろうだったな火見華。ありがとう。後は私がするから、おまえも、他の者たちも休んでくれ」
「あら、大丈夫ですわ。わたくしも手伝えます姉様」
「火見華が一番疲れているはずだろう。おまえの体はおまえだけの者ではないのだからね、ちゃんとお休み。私は私のできることをするだけだ。気にすることはない」
「でも……」
ちょっと考えるのに、
「そうですわよ火見華様、明日もお早いんでしょうから、どうぞお休みくださいまし」
「あとのことはわたくし達でも十分手伝えますよ、ねえ森射様」
年配の巫女たちが声をかけ、森射がうなずくのをみてから、火見華は素直にうなずいた。
「そうね、ではお言葉に甘えて休ませてもらうわ。でも姉様、何かご用があったら、遠慮せずに呼んでね。なんだかわたくし、この人のことが、とても気になるの。なにかが意識のおくに引っかかっているみたいな、胸の奥の方がこう――。はじめて会うはずなのに、なぜだか知っているような気がするようで……」
ふいに考えにしずみ、巫女としての表情にもどりかけるのに、森射が声をかける。
「そのことについては、アギトが目覚めてから詮索してもおそくはないだろう」
「ええ、そうね。そうですわね……」
火見華ははっとしたように息をつき、それでも湖面にかかる朝もやのような幻想的な表情を思考でけぶらしながらアギトを見ていた。
森射に肩をおされてから、火見華はようやくのろのろと部屋へさがっていったのだった。
「さてと、石の力も弱まってきたことだし、とりあえず清めの水で体を拭いておくか。――イサナ」
呼びかけようとすると、すでにイサナはひとりで黙々と片付けはじめていて、どうせそうなるだろうといわんばかりに、ほぼ仕事を終えていた。
残りの数人の巫女が最後の始末をするように、バタバタと湯を運んだり清めたりしだした。
それを目にしながら、肉づきのよい巫女長が、忌憚ないはっきりした口ぶりで森射に言った。
「まったく森射様は、すぐにどこの誰とも得体の知れない者を拾ってこられるんですからね、困ったものですよ。満ち石をこんなに使って、まったくもったいない話です。心得てくださいましよ」
「ああ、すまないな」
あまりにも隠しがないので苦笑しながらこたえる。口やかましいことで有名な巫女長の八束だが、そのぶん裏表もなく、後をひくようなことはない。
森射はもっともだというように苦く笑いながらうなずく。
「そうだな、いつも迷惑をかけてすまない。反省しているよ。とくに巫女長には手間ばかりかけさせてしまうしな。――もうあとの片付けはやっておくから、適当に仕舞いをつけておいて。みな仕事が途中だろうからね」
「癒しが必要な怪我人のために、儀式を行なうことは、巫女として当たりまえです。わたくしはそのようなことを申しているのではありませんよ、森射様。つまり、言いたいことは、あなたはどうしてそう得体の知れぬものばかりを拾ってくるのか、ということです。イサナのときといい、この若者といい、どこの誰ともわからぬよそ者を、このように気軽に連れてこられると、我々は、まこと途惑ってしまうのです。もし万が一にでも、連れてきた者があなたに仇為す者だったらどうなさいます。まして貴重な満ち石をこれほど使うだけの価値があるのかどうかもわからないのに、本当にあなたときたら……」
「わかった、わかった。でも八束、石はなくなったらまた捜せばいいが、なくなった命は戻ってこないよ」
「それは、もちろんそうですけどもね、でも、石もこのごろは少なくなっておりますゆえそう簡単には手に入らないでございましょう」
「そんなことなら大丈夫よ。森射姉様は、だれよりもよくご承知です」
明瞭に言った火見華だった。さがったとみえて、なぜかまたまいもどって来ていたのだ。
「森射姉様はわかっておいでです。そしてわたくしたちには計り知れない、運命の法の上で動いているのから。余計な口出しは無用にしてちょうだい、八束」
火見華にピシャリと言われては、さすがに白髪まじりの巫女長といえど何も言いかえせない。
すべてを見通すといわれた炯眼の持ち主、火見華の姫巫の女言葉に、恐れ入るように頭をさげただけだった。
もちろん、火見華もわかっている。不思議な霊力を秘めた「満ち石」を探してくることがどれほど苦労であるかも。八束の不安や、またそれらを思い気づかってくれるということも。
こと「満ち石」は、特別な者たちによって――石の声を聴くことのできる者――たちでなければ、みつけだすのは叶わぬ作業であり、石のある場所も、特殊なところであることが多いのだ。
木々のうっそうと繁った深い山奥や、急流の川べり、滝の落ちる水辺など、森そのものといえる生気の満ち溢れた場所にしか存在しない。
その扱いかたもむつかしければ、「満ち石」と「引き石」をまちがえて使用すれば大変なことになる。
石たちはそれぞれの能力によって、使い道がわけられているのだ。
なかでも満ち石はそのものが本来もっている力を増幅させたり、活性化させりすることに使われる。その反対に、引き石は、必要以上に膨れ上がったエネルギーを沈ませ、余計なものや邪悪なものをぬぐい去ってくれるという特質を持っている。
それらは巫女の唱える、霊妙な言葉のひとつひとつの響きで、石の力を振動させ、共鳴させて、力を拡散させてゆく。自然が人間の言葉の波動にこたえてくれるとき、万物の霊魂がめざめ、力を貸し与えてくれるのだ。
「八束は石のことを言っているのではなくて、私を心配してくれて言ったんだ」
森射はとりなすように言った。
「みんなの心配は、よくわかっているよ。ありがとう。――ああ、もうほとんど片付いたな。あとは私とイサナだけで十分だ。ご苦労様」
心から労をねぎらう森射に、八束はもうなにも言うこともなく、頭をさげた。他の巫女たちにも自分たちの仕事に戻るよう指示し、その場から去っていった。
それを黙って見ていた火見華は、森射をみあげ、
「姉様がなにもおっしゃらないから、彼女達にはよくわかっていないんだわ」
「みんなそれでも力を貸してくれるんだ、感謝しているよ。火見華も苦労性だな、その年で。そのうち白髪になってしまうぞ」
森射は愛しくてたまらないように火見華の絹のごとき髪を梳いた。
「ううっ……」
寝台のうえにいたアギトが身をわずかによじり、うめいた。
彼を囲っていた光の幕が弱まりはじめていたのに反応しているのだ。
「目覚めるまえに、引き石の水で清めてしまおう。これは私とイサナでするから、火見華はさがっていてくれ」
引き石の負の力が溶けこんだ水をあつかうには、巫女の手は清浄すぎる。
森射とイサナが水をかけたはしから、アギトの服の布がみるみる茶色くそまっていく。
「かなり痛めていたようだな――体も、心も。よくもこんなに出てくるものだ」
濡れて張りついた服の下からは、ほどよく引き締まった筋肉ですら隠すことのできない、傷や、打撲の具合がわかる。森射はそうっと首の傷をなでる。
「後はもう俺がやっておく。水も俺が捨ててくるから、森射はまだこの男に触るな」
邪気が焼かれて、周囲の空気を穢しチリチリしていた。心弱ければとりこまれかねない。
「そうだわ姉様、この方を今夜はどちらにお泊めすればいいのかしら。一応ここは女の宮だし、他の者もこの方の気を感じて恐がっているみたいだし……」
責任者である以上、あまり特例は許されない。
ことに若い巫女たちがこのあまりにもつよい邪気に乱されないとは限らないのだ。
「この男なら、私の小屋へつれていく。あそこならみなの働いている宮からはだいぶ離れているだろう。まずなにがあっても影響はないだろうからな」
「森射、本気か?! 」
アギトの体をふき、服をとりかえおえたイサナがさすがに抗議するように森射の名をきびしく呼んだ。
「私が連れてきたんだ。私が面倒をみるのが当然だろう?」
なにも疑問などないとばかりの森射に、イサナは大きく息をつき、それでも言い出したらきかない森射に譲歩案を出した。
「――いいだろう。そのかわり俺もこの男につきそうから、いいな」
それ以外は受け入れられない気迫に、火見華も賛同する。
「そうよ、絶対そうしてください、姉様」
二人の強い視線にあてられて、さすがの森射も笑って頷いた。黒い瘴気がアギトの頭上で薄くゆれ、きえていった。
薪のはぜる音がして、ふとアギトは目をさました。
薄暗闇のなか、空気ににじむような炎が囲炉裏のなかからぼんやりと浮かびあがり、やわらかくけぶる香の匂いがアギトをやさしく包みこんでいた。
深々とふける夜の帳だけがしずかに舞い降りていて、かすかに歌声がきこえる以外は、なんの物音もしない。
炎の向こうにだれかが座っているのが見えた。
その人の歌う小さな歌声にあわせて炎はゆらりゆらりと踊っているかにみえた。まるでなにかの幻術をみるように、魂をうばわれぼんやり見いっていた。
重くくすぶっていた胸のつかえのような息が、ほうと口から出てきた。心地良い温もりが体にわきだしひろがってゆく。
だれかに許されているという安心感でいっぱいになった。
アギトはただ、そのうっとりとした光景をいつまでも見ていたいと思い、目眩のするような陶酔感に身を任せていた。
小さな部屋で火をたく光景は、忘れ去られていた懐かしい郷愁をかきたてる。
血のみが覚えている、はるか昔の記憶なのだろうか。歌っているその内容をアギトは理解できなかったが、そこには深い愛と、なにかしらの深く敬虔な祈りがあるような気がした。
「蝶が――」
アギトはつぶやいた。
くるりくるりと舞う炎が、まるで蝶のようにみえた。ある記憶を呼び起こした。
「蝶が、生きかえった……たしかに、あれは……夢かと思っていたのに」
炎をみていた女性がこちらに目をむけた。
アギトはゆっくり体を思わず起こした。
彼女の紅い目は、ただひたすらに深くやさしく微笑む。アギトは自分が、あの生きかえった蝶のような気がしていた。
絶望感にさいなまれ、森を何日も何日もさまよいつづけていた。もはや生きる希望も執着もなく、苦しみのもとであるこの命を断ってしまおうと、ついに己に刃をむけた。
そのとき、偶然見てしまったのだ。
まさかあのように奥深くの森に人がいるとは思わなかった。
花びらから落ちかけた蝶は、白い手のなかで、再び命をふきかえしと飛び立ったのだ。
「目が覚めたようだな。気分はどうだ?」
「ああ」
アギトは声をかけられ、やっと自分がどうしたのかを思い出した。
それからふらふらと森をさまよい、ついに自らの首を切ったひょうしに崖からおちて、岩で思いきり腹をぶつけたのだ。
いぶかしむように腹に手をやってから、やはりそれがたいして痛くないのに驚くように目をむけた。それからはっとして首に手をやる。
「包帯が……」
丁寧に巻かれた包帯のしたの傷は、触っただけでもわかるほど、ふさがりかけていた。痛みもほんのりとしかない。
「俺に、なにをしたんだ?」
驚愕のまなこで森射をにらみつけた。まさか森に棲むまやかしに謀られているのではないかと疑っているようだ。
「心配する必要はない。祈りの宮の巫女たちが、みなしておまえを助けてくれたのだ」
「巫女?医者ではないのか?」
「医者の術では、そこまで急速に治りはすまい。満ち石という石をつかい、消えかけていたおまえの魂緒を結いなおし、治癒力を高めて内側から治していったのだ」
わけがわからずアギトは眉をひそめた。いきなり聞いても理解しにくい話である。
「だが、まだしばらくは傷が痛むだろう。それだけおまえは自分を傷つけたのだからな。しばらくここでゆっくり治してゆくがいいアギト」
「なんで俺の名前を知っているんだ?!」
「おまえが自分で名乗ったんだよ。覚えていないのか?」
「俺が……」
まさか、とその表情はいっていた。自らそう容易に名乗ってしまうほど、この女性に心をひらき信用したとでもいうのか。
アギトに強く残されているただひとつの記憶は、木陰からのぞき見ていた森射の手から飛び立ったあの蝶の美しさだけだった。
「私は森射。ここは吉備の村であり、また祈りの宮という吉備国の斎院だ」
「ここは、では吉備なのか?」
「そう。そしてこの地は吉備の聖なる場所だ。といっても巫女たちの勤める宮からはかなり離れているがな。私の東屋だから心配することはない。ゆっくりしているがいい」
「俺は山をこえ……」
クッと眉根が歪んだ。
なにを思い出したのか、身を縮めるように固くした。小さな子供が泣くのをこらえるような、そんな表情で唇を噛んでいた。
「俺は、なぜ生きているんだ……」
「アギト?」
「どうして、あのときそのまま死なせてくれなかった。なぜ放っておいてくれなかったんだ」
抑揚のない声だった。
炎が一段と大きく燃えたち、それからみるみる小さくなっていく。
ほむらにうつるアギトの眼窩が、急速におち窪み、やつれたようにみえる。夜のしじまが不意に近寄り、目に見えない陰気な気配が闇にまじりはじめたようだった。
「俺は……死なねばならなかったのに。俺が生きていては、駄目なんだ」
やさしい顔立ちに浮かんでいた少年のような素直さが消えた。
何かがアギトのなかにしのびこみ、薄皮一枚の下にひそみ、それこそ仮面をかぶったように変化してゆく。
体の底にひそんでいるおぞましいものが、鎌首をもたげるのを必死でこらえるように震えると、徐々にだが、禍々しい狂乱の表情がじっとりと浮かび上がりはじめる。脂汗が額ににじんでいる。
「なぜだ。なぜ俺のいう通りにしない」
低い呪われたような声だった。
「アギトっ?」
「なぜ俺の邪魔をするのだ。許さないぞ、俺の邪魔をするやつは許しはしない――」
ユラリと立ちあがる。剣呑な光が目に宿っていた。
「――殺してやる……殺してやる、その腹かっさばき、皆もろとも殺してやるっ」
アギトは野獣のような唸り声をあげた。別人になったような殺気である。
森射はおびえもせず、真っ直ぐアギトをみあげると、薄い朱色ともみえるその瞳で、アギトのなかにひそむ闇の正体でも見極めようとするかのように見つめた。
「なにをそんなに怯えている。ここでは誰もおまえを害しもしなければ、責めたりもしない。アギト、おまえはおまえでしかないのだ、己の心も思いもすなおに受け入れろ」
「うるさいっ!おまえには何もわかりはしないのだ。俺がどんなに――」
「どんなに逃げようとしても、影はおまえを追ってくるだろう。おまえを救うことができるのは、おまえ自身だ。その影を本当に消すことが出来るのは、アギト、おまえでしかないのだ。恐がっているばかりでは駄目だ」
森射は野獣のように牙をむいたアギトが近づいてくるのにもかまわず、ただそこに座っていただけだった。
「希望をもて。希望さえもっていれば、いつか憎しみや悲しみは消すことができるだろう。もしおまえが笑うことを思い出せば、救いようのない苦しみだって、やわらぐ」
「うるさい!」
彼の頭上には、森射の首にまきつこうとした邪悪な、あの影が薄くただよっていた。影からのがれようとあがくように、アギトは自分の首をつよく押さえる。
森射は歌を口ずさんでいた。
歌声だけがアギトにむけられた。そのたえなる調べは、しっとりとアギトをおしつつんでゆき、耳から肌から、そして髪の一本一本にいたるすべてに染みわたり、心に溶けこんでいくように思われた。
森射の目の前にたちすくんだままアギトはそのまま動けなくなり固まっていた。首の傷に食い込んでいた手が力を失い、ダラリとたれた。
「その歌を……どうして知っている…」
それは、いまは亡き母がうたっていた歌ではないか。
「俺の母が、小さいころに口ずさんでいたものだ。なぜおまえが知っているんだ」
森射を、今更ながらに、まるで誰であったか思い出さんとするかのようにつよくみつめる。
「おまえは誰なんだ。おまえを見ていると俺は不安になってくる。心がたまらなく乱されてしまうのは、どうしてだ」
燃える松明に手をのばし一本抜き取ると、森射にかざすように向けた。まるで森であった魔物に見入られまいとするかのように怯えてかまえる。
だがその手は振り下ろすことはできなかった。うしろからつきつけられた刃物が喉笛に食い込んでいたのだ。
「森射を傷つけたらおまえを殺す」
音もなく忍び寄っていたイサナだった。少年とは思えない気迫には本気の殺気がある。
「クッ!」
「いいんだイサナ。アギトはただ自分の影をみて、怯えていただけなのだから」
イサナは厳しいまなざしのままで、ゆっくりナイフを離した。それにあわせてアギトの手から松明が転がり、手のひらが焼けて赤くなっていた。
座り込んだアギトの手を森射がやさしくとった。
「おまえはおまえの魂と対話をしなければならないようだ。恐怖をふくんだ心では、なにも見えてはこないだろうからね」
火傷で膨れあがった手をなでた。燃えるような痛みがひいていったのに、アギトは黙って自分の手をずっと見つめていた。
そのまま夜の闇だけがしずかにふけていったのだった。
満ち石の作用によって、急激に高められた治癒力が、アギトの体のすべてのエネルギーを使い果たしたため、それを補わんとしてか、彼は昏々と眠りつづけていた。
ようやく目を覚ましてみると、四日もたってからのことだった。
アギトはすっきりとした、みょうな爽快感をおぼえていた。
食事もとらず、夜も昼も眠りつづけていたので、体のなかに潜んでいた毒素がぜんぶ排出され、かえって再生力がたかめられ、砥ぎすまれた野生の精気がみなぎっているのだ。
部屋の中にいたのはアギトだけだった。
森射も、イサナもいなかった。
部屋はずいぶんこじんまりとしていて、不必要な物などなにひとつなく、寝具と身のまわりの生活用品がほんの少しあるだけだった。
年頃の女性が身につけるだろう宝石や優麗な服などなにひとつなく、紅という以前に、鏡ですら置かれていないようであった。
奇妙なほど静かだった。
窓からさしこむ木漏れ日が、初夏の風にあおられながらアギトにそそがれていた。
青くさい緑のにおいが、なぜか森射の腕につつまれていたことを思い出させ、鼓動が急にはやくなる。
「あの人は、どこに行ったんだろう……」
起きあがり、悪いことでもしているように、そっとしのぶように入り口の戸を引いた。昼前の太陽が白い空にかすみ、おだやかな空気をつくっていた。
そうしてしばらくしてから、アギトは自分が無意識に森射を捜していることに気づいた。まるで母親の姿をみうしなった子供のような自分の姿に、自嘲的な笑いが浮かんできた。
会ったばかりの、しかもどこか不思議な雰囲気をもつ女性。なのにどうしてこんなに慕わしく思うのだろう。
多分年はそう違わない。きっと二十歳をいくぶんすぎたくらいのはずだ。
妙齢の女性にしては飾り気ひとつなく、むしろ男っぽいしゃべり方をしていた。それが似合ってもいるし、行動力もまた、並みの男にも劣らない素早さと強さをもっている。
けれど、それでも彼女が目をひくほど美しい女性であるということに間違いはない。その美貌は、素直に美しいと口にすることが当たりまえなほど自然なものであり、花を見ていてふっともらしてしまう、そんな感覚なのである。
「人間が、美しい人のだ……」
森射の言葉はこころのなかに響いてくる。
胸の中で荒れくるっていた狂気の竜を、暴力ではなく、満たしうるおす方法で鎮めようとする。それを消すのではなく、それを認め、制御しろというのである。
「何者なんだろう、巫女ともちがうようだが」
不思議だった。いままで逢ったことがない人だった。
しばらく歩いてゆくと、笑い声がもれ聞こえてきた。
斎場らしき屋代がたちならんでいる。どうやらそこで、巫女たちが朝の作業をしているようだ。
年若い少女が裏庭にでて、交代で薪を割っていた。ひとりの少女がどうしても上手く割れないようで、変形したり、微塵にくだけたりしている。
だがよくみていると、その割りかたは普通とちがっていた。
それを力任せに割るのではなく、触れるか触れないかでの寸止めにしている。薪を割るのは斧ではなく、刃さきのまるい、ただの石なのだ。
「ほら、ちがうわよ貸してみて――石の気を、丸太の幹の流れにそってあてるのよ。あたる直前に、石の気を最大に高めるの」
軽く振りあげ、ただ下ろしただけなのに、丸太はきれいに四等分されていた。たった一回だけで、三度は振り上げなければならないまき割りの作業がおわっている。
その向こうから、山で汲んだ新鮮な水をかかえて少女達が帰ってきているのが見えた。ずいぶん重かろうはずの桶を、三人は頭のうえで上手にささえ、軽々とした足取りで歩いてきている。
彼女たちは社殿の近くまでくると、なにかを唱えていた言葉をやめ、ガクンと体がしなり、急におもそうに水桶を手にぶらさげて、社殿の中に入っていった。
アギトは興味を引かれるように近づき中をのぞいた。格子になった窓から見えたそこには、数人の女性たちがいた。
年の若そうな者たちばかりだったが、彼女達になにか伝授しているらしい年配の女性がひとりいて、少女達をみまわしている。目のあたりの皺がつねに微笑んでいるようであり、やさしい顔立ちであった。
巫女たちは彼女の指揮のもとに、それぞれが土をこね、器用に複雑な模様のうつわをつくっているようだった。
「そう、土にこもっている霊気を損なわないように心をこめて作るのですよ。心の乱れや邪気の入った土器は、つかう者の気持ちをそこねます。またすぐに割れたり、その破片で手を傷つけたりしてしまいますからね。こうしてわたくしたちに土をあたえてくれる山に感謝し、土に感謝し、そのすべてを与えてくださった吉備の神に感謝することが大切なのですよ」
歌うように、何度も何度もそうくりかえし言っていた。
「いいですか、最後の仕上げのときには、聖なる木の『命』を土にうつすのですよ。これが一番大切なことです。植物たちの繊維を張りつけ模様を写すことで、木の強い生命力を与えるのです。これはただの装飾ではなく、うつわをつかう人々の生活を、様々な悪霊や邪念から守るためでもあります。心をこめて、愛情と平和とを刻み、そしてわが吉備の神の与えてくださる聖なる火で焚きしめ完成させるのですからね」
「あッ」
手を滑らせ、器の形を崩してしまった少女に、先生は日溜りのような顔をむけながらたしなめる。
「最後まで気を許してはいけませんよ。精神を統一させ、すべてのものに感謝をする気持ちを忘れてはなりません。われわれは木々や水、動物や昆虫のたった一匹にすら、助けられて生きているのです。われわれは自然の一部なのです。すべてのものに感謝と愛を、それを与えてくださいました神に感謝をするのです」
「すべてのものに感謝と愛を。それを与えてくださいました神に感謝を」
少女達全員がくりかえし詠唱しながら器を作っていた。
みていたアギトは奇妙な気分になっていた。うつわを作っていた巫女たちの行為が、ただの形式的な作業ではなく、本当に木々の命をうつしとっている呪術のように思えてきてしまった。
「すべてのものに感謝する……」
そんなことをアギトに教えた者はいただろうか。いまだかつて、聞いたことがない。
ただ人の上に立ち、侮られないよう、足元をすくわれないように周囲をかため、気をはりめぐらして、人々に号令をかけることや従わせることだけで精一杯だった。
「ずいぶんよくなられたみたいですわね」
アギトはギクリとしてふりむいた。
真後ろに火見華が立っていた。
アギトはいつ、といいたげに目を見ひらいた。彼だとて、けして剣豪とまではいかなくとも、人並みよりはすぐれた武術をたしなみ、身につけていると自負していたのだ。
ましてかなり敏感な性質である。足音はおろか気配すら感じることが出来ず、あっさりと背後をとられてしまうとは信じられない。
「そろそろ目が覚めるころだと森射姉様がおっしゃっていたわ。どうやら本当のようね。お気分はいかがかしらアギト様」
「あ、ああ」
美しい深淵の瞳に、アギトは飲みこまれそうになっていた。
魅入る輝きに硬直したまま顔をそらせもできない。いまだ蕾ではるが、相当に美しい少女には未知の可能性が潜んでいるかのようだ。
火見華はにっこり笑った。
「お腹がおすきでしょう。遅いですけれど朝餉の用意が出来ていますので、こちらへどうぞ」
それだけ言うと背をむけ歩きだした。呪縛がとかれたようにアギトが息をつく。
「食事がおすみになったら、お着替えになってください。大ババ様がご挨拶申し上げたいそうですわ」
「大ババ様?」
「わが祈りの宮の座主であり、吉備国の守りの巫女と称される、最高位の巫女姫です。御歳、百五十六歳を迎えられる最長老でもいらっしゃるわ」
置いてゆかれそうなのにきづき、アギトは慌てて後を追う。
「大ババ様は、かつてはかの日向地方の倭国にいらっしゃる日巫女様のもとで修行された方。天地創造よりの古の物語を記憶されている数少ない語り部でもいらっしゃいます。それゆえ賢者とも、知恵の源とも呼ばれていらっしゃるわ」
そして、その記憶をいままた受け継ごうとしているのが、この火見華である。
「……そんな偉大な大ババ様が、なんで俺に会いたがるんだ」
わずかに警戒の色をにじませアギトはいう。
「存じません。だたお話があるとおっしゃられていただけですから」
そっけなく応えたのに、アギトはむっつりだまった。なにを考えているのか、その顔が心なしか青ざめきつく強ばっている。
もしかしたら触れられたくないことについて言及されるのではないかという、恐れが彼の頭に浮かんできたのだ。行きたくないという思いが強くうかびあがっている。
「こちらへどうぞ」
本殿へ連なる回廊が続いていた。屋敷の中でも、最も大きい殿舎だった。
巫女たちが礼拝を行っている講堂や社殿が幾塔もならび、立派な本殿が隆々とそびえたっていた。
斎宮の背後には、巨大な山が悠々とその尾根をひろげ、美しい姿をあらわしており、鋭気をはなった林木が輝いてみえる。
山はまるで整形されたかのような美しい三角の形をしていた。それ自体からエネルギーが放たれているのであろう、信仰をもたない者のにすら、敬虔な思いを抱かせずにはいない。木々の一本一本に神が宿っているかのようだ。
今までアギトはそんなことを感じたこともなかったが、たしかに連なる霊峰や、木々、植物にいたるすべてが神聖なもののようにみえてきた。心根の弱い者なら、気をのまれてしまいそうな無限の力を感じる。
「こちらです、お入りになって」
踏み込んだ屋敷のなかは、外にくらべて格段に涼しく感じられた。薄ぐらい廊下は黒光りがして、時折どこからかそよそよと風がはしりぬけてゆく。
ずいぶんと人の気配の少ない場所であった。閑散とし、なにか独特の雰囲気が漂っていた。
アギトはそのまま別室に通され、朝餉を接待される。食べ終るころには、着替えが用意されており、ひと息つくと、また火見華が迎えに来ていた。
給仕をしてくれていた女性は、その間、けして口を開かなかった。そう命令されているのかどうかわからないが、アギトもまた、なにも問いかけはしなかった。口を聞くのさえ、はばかられるように感じられている。
火見華に案内されるままにアギトはすすみ、この少女がただ少しも足音を立てないことに気がついた。
もちろんただの子供ではないことはわかっていた。年若い者から、中年、年老いた巫女まで、みな彼女にたいしては恭しく接していたし、その指示に逆らうことはなかった。
それだけの威厳をもち、また権威を有するということは、その人間をずいぶん孤独にさせることだろう。それは人の上にたつ者だけがもつ、深遠の孤独でもある。
この少女はこんなに幼いのに、すでにそれを受け入れている気がした。アギトもまた、常に感じていたものだ。急に火見華を身近に感じてくる。
静かすぎる重苦しい沈黙だけがまいおりていた。かなり宮殿の奥にまで来たようなのだが、まだまだ複雑に廊下はつづいている。
アギトは耐えられなくなったように、口を開いた。
「どこまでいくんだ。森射は、どうしたんだ?」
朝からずっと聴きたかった質問だった。まだ一度も彼女の顔をみていない。
「姉様ならすぐに会えるわ」
そっけなく言われたため、言葉が継げられなかった。
長い回廊にはたくさんの部屋がならび、通りすぎる一室のなかには、なにかの儀式を行なうのかと思うような祭壇がしつらえてあった。
そこにはきれいに磨かれた石がならべられ、まるでなにかの法則にのっとり、描くように正しく敷きつめていた。
「そういえば、ここではよく石を使っているな」
「石といっても二通りのものがあります。ただの普通の石と、力を持った真名石。能力をもった真名石は、それぞれに応じた力をもっているもの。ここに使われている石は、古い(いにしえ)からの物語を記憶させているのです」
語り石から、火見華はあまたの物語を学んでいる。石の記憶を読み勉強しているのだ。
「石が記憶するだって?そんな馬鹿なそんな話はヤマトでも聞いたことがないぞ」
アギトはまさか、と首をふる。常識では考えられない。
「でも本当のことよ」
火見華はふりむくと、アギトこそ何も知らないのだと同情するように笑った。
「石は様々な力をもっているもの。石の組み合わせによれば、莫大な力を生み出すこともできるし、あなたを癒してくれたように、治療にも使えもするのだから」
「治療に石が使えるだって?」
「では、どうしてあなたはそんな急速に治ったのかしら?」
アギトはその返事に押し黙った。
たしかに、どう考えてみてもおかしい。自分で内臓が破裂したと分かるほど腹をうったのに、いまでは青い痣となって残っているばかりなのだ。
いや、それよりもはっきりしているのは、首の傷がもう包帯もいらぬほどに、消えかけているではないか。
「それは……」
「人は新しいものを受け入れるとき、どうしても自分の常識をあてはめ、反発してしまう。けれど、それでは何も新しいものを取り込むことは出来ないわ」
自分よりはるかに幼い少女に諭されるように言われるのに、アギトは言葉をかえすことすらできない。
真理をつらぬく瞳だけが薄暗闇にうかび、恐ろしくさえ見えてくる。
「大ババ様がずいぶんお待ちだぞ」
「姉様」
声をかけたのは森射だった。
「あまり遅いので迎えにきてしまった。ババ様が首を長くして待ってらっしゃる」
ふりあおいだ火見華の表情がやわらぐ。彼女のそんな純真な笑みにアギトは目をみはる。心のすべてをあけわたしたような、ただの幼い少女の顔になっているのだ。
「森射……」
張り詰めていた空気が一気に消えた。
そしてアギトは自分でもおかしいくらい森射の顔を見てホッとしているのがわかった。
どれだけ彼女に会いたかったのだろう。姿をみただけで心が吸い寄せられる。
森射にもそれがわかったのか、アギトにあたたかな笑みをかえした。
「ずいぶん顔色がいいようだなアギト。ご飯はちゃんと食べられたか」
「あ、ああ」
彼女の声をきくだけで心が潤おってゆくのはなぜなのか。火見華と二人だけでいると気圧されるような重みを受け緊張に疲れていたのに。
それは誰もが感じるものであるのだが、唯一、森射といるときの火見華からはそれがとりはらわれるのだ。
「ごめんなさい姉様、そんなにゆっくりしていたわけではないんだけど」
「わかっているよ」
森射はうなずき、火見華の歩調にあわせて先にすすみだす。なにか特別なことを言ったりしたりするわけでもないのに、まして男のような言葉だというのに、心を穏やかにしてくれる。まるで春をつげる風のように心が温かくなってしまう。
「この感覚はなんなのだ……」
アギトは思わずつぶやいていた。
「ババ様がおまちかねだ」
森射が歩みをとめ、アギトをふりかえった。
一番奥にあった部屋の扉が、音もなく開かれていったのだった。
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