蒼穹の群雲

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3



 一也は、聖たちが催しているという、新興宗教の法会の日をまって、あの講堂へ足をむけていた。
 ここに潜り込むのがいちばん紫にあう確率が高い。もう一度どうにかしてあの影の存在を確認しなければ。
 そしてできるなら、それを紫から引き離し、地底に封じこまなければならない。そうでなければ、いつまでたっても聖も紫も救われない気がする。
 それらは考えれば、つじつまはあう話だった。
 あの邪悪な影の封印が、なんらかの原因で弱まってしまったのだろう。
 そのとき、わずかな霊力をもっていた紫にとり憑いたのだ。
 情緒不安定な彼女は、甘い悪魔の誘惑をしりぞけられず、いつしかそれに頼るようになってしまった。そしてとうとう最後には、完全に乗っ取られてしまったのだ。
 彼女をそそのかすことなど簡単であろう。
 ほんのちょっと、願いを叶えてやればいい。小さなエサを繰り返しあたえ、だんだん大きく、強くしてゆき、それがなくては生きていかれないようにすればいいだけである。
 わずかばかりの霊力が、こんな結果を招くとは、彼女でなくても思わなかっただろう。
 だが、後はもう、ヤツの思うつぼだ。
 信者をあつめることなど簡単である。
 強欲で、金を持った連中の願いを、ほんのちょっと叶えてみせればいいのだ。
 口から口へとひろまった噂は、人々を集め、集まった愚かな者たちから精気をすいとっては力を徐々に拡大し、さらに人を集める。
 金に汚い者には金をちらつかせ、情欲に溺れているものには紫の体をあたえれば満足する。
 あとは願いを叶えなくとも、波にのってゆく。
 強欲な人間たちはエサに群がる野獣のごとく、面白いように集まってくるのだ。
 悪心で仕える者たちを意のままに操り、とうとう教祖と成りあがった。
 増えつづける愚かで心弱い者たちから吸いとった、極上の負の精気のおかげで、封印はさらに弱まっている。
 そして、復活は、いままさに目の前となっている。
 「聖は、きっとわかっていたんだ」
 母親にとり憑いたものが邪悪な存在であることを。
 だが聖には母親を見捨てることができなかった。
 なぜなら彼女のところよりほかに、彼にはどこにも行き場なかった。誰も抱きよせてくれる人がいないのである。
 そう、まるで一也と同じように、彼にもまた、行き場がない。
 「あの影を倒せば、きっと紫はもとに戻る。そして――」
 そしてあの影を倒すのは自分の役目なのだ。
 不思議なほどそう確信している自分に苦笑する。
 あいつをや()るには、きっとこの世の武器じゃきっとダメだ。
 ――では何でならやつを倒せるのだろうか。
 手が、動く。
 腰に佩いていたはずの、剣を無意識に求めている。
 「一也くん、あそこに潜り込む気なんだね、また」
 いつのまにそこに居たのか、誠人が隣に立っていた。
 驚く一也につかさず言う。
 「僕も連れてってよ。いや、連れてかなきゃ駄目だ。そう母さんも言ってたよ。僕はね、きみの側に居なきゃダメなんだよ」
 「相変わらず、おまえもマリアもワケのわからないこと言いやがって……。言っとくけど、ちょっとばかし荒っぽい、っていうぐらいじゃすまされないぞ、きっと」
 「だから僕が必要なんだよ」
 迷いもなく断言する誠人に、一也はなにを、と肩をいからせたが、もう止めようとはしなかった。
 いままでに見たことがないほど、誠人の瞳は真剣だったからだ。
 「すきにしろ」
 「うん」
 誠人はまるで遊びにでも出かけるような、嬉しげな返事をしたのだった。
 


 二人は、前回と同じようにして、信者に混じって紛れ込んでいた。
 身を低くして人々のあいだに潜りこみ、紫たちの出番を待っている。
 一也は、あの時は興奮してわからなかったのだが、堂内の空気が異様に淀んでいたことに気がついた。
 桧の天井には黒い瘴気がたちこめており、渦を巻いていた。肌を焼きピリピリとさせるように殺気だち、不快な気分をあおる。
 喉が異様に乾いた。
 「大丈夫か誠人」
 「うん、なんとかね。一也くんの方は大丈夫?」
 「気分悪ィぜ」
 チッと舌うち、唾をのみこむ。
 祭壇手前にある襖戸が音もなくひらくと、教祖の紫があらわれた。
 そのうしろを、音も立てずに、聖がついて歩いてゆく。
 目を大きくしてなにか言おうとした誠人の頭を強引におさえる。他の信者と同じように身を伏せさせると、一也はそのまま上目づかいに様子をうかがっていく。
 いつも通りの説法がはじまりだした。
 悲鳴のような声があがり、鼓膜をつく。脳を食い破るような不愉快さだが、周りの者はそれを合図にしたように、すでにうっとりしはじめている。
 「なに、これ―― 一也くん?」
 誠人は呻きながら耳を押えうずくまった。
 一也も脂汗を腕でぬぐい、ふと視線を感じ、顔をあげる。
 紫だった。
 まっすぐ一也を見ていた。
 その口元にはニヤニヤとした笑みが浮かんでいる。苦痛に顔を歪めている一也をまるで面白がっているようではないか。
 もちろん聖もまっすぐ一也を瞳に映していた。
 聖の瞳には、何をにしにきた、という痛いほどの憎悪が燃えあがっていた。
 まっすぐ一也に注がれている怒りには、自分のこんな姿をあざ笑いにきたのかという怒りと、そんな目で憐れみの目でみるのだ、という彼の誇り高さゆえの悲しみ荒波のようにうねり猛っていた。
 一也はそんなつもりはないのだと口を開きかけ、悔しげに唇をかんだ。
 ただ、闇を封印したかっただけだ。
 聖と紫を助けたかっただけなのだ。
 一也はふと、自分の体が氷のように固まっていることに気がついた。
 見れば、周囲の人間がぱたぱたと倒れはじめ、気を失っているではないか。
 異様な光景だった。
 紫の声がさらに大きくなった。人間の耳にはきこえない高周波の呪詛が流れている。
 一也はそれらを肌で感じ、鳥肌がたつ。
 過去から持ち越してきた宿命の傷が、焼けつくようにうずく気がする。
 「誠人?」
 となりで最後まで耐えていた誠人が倒れた。顔が真っ白だ。
 キッと紫を睨むと、彼女は楽しそうに笑いながら立ちあがった。細身の肢体がまるでせむしのように膨れあがり、老体のように顔が皺くちゃになっていくではないか。
 「よく来た、静流(しずる)――いや、いまの呼び名は一也だったか。待っていたぞ、おまえが我がもとに来るこの日を」
 「な、なんだと?」
 「げにかわゆらしき小童(こわらわ)になってしまうとは。あのようにりりしき若者であったものが、まこと残酷なことだ」
 馬鹿にしたようなあの笑い声。
 思わずカッとして殴りかかろうとした。だが、一也は数歩進んだだけで、足がよたつき膝をついてしまった。
 思ったよりずっと体が衰弱している。全身に力がはいらない。
 押しつぶされるような苦しさに、肩で息をしながらあえいでいた。
 「苦しいか静流。だがわしの苦しみにはそんなものではなかったぞ。おまえに負け、封されたこの何千年という長きのあいだ、地底に渦巻く地獄の火焔に灼かれておった苦しみに比べれば、いかほどもなかろう」
 首を片手でつかんだ。女とは思えぬ力が締めつけた。
 「しょせん、片羽のおまえなど、わしの敵ではないわ」
 宙に持ちあげられ、その手をもぎはなそうともがいてもビクともしない。
 息がつまり顔が赤くなる。
 「は……なせ……っ」
 苦しげに顔をゆがめる一也を、紫の背後から聖はなんの感慨もなさそうに見つめていた。白んできた視界のなかで、その冷たい顔だけが一杯になっていった。
 聖の魂は大きな魔物の檻によって捕らわれてしまっている。黒く邪悪な触手が無数にからみつき、かすかに光を放つ、ましろい心は、今やがんじがらめにされてしまっているのだ。
 母親という、切っても切れぬ束縛によって、聖の魂はもはや自我を失いつつあった。わずかな瞳の光は、最後の別れの灯火のようにも見えた。
 闇は、聖の愛情にすがりつき、捨てられまいとする悲しいほどに必死な子供の心を利用しているのだ。いまなお癒されずにいる傷に潜り込み、残酷に操っている。
 「ち、くしょう……」
 一也は、それだけいうのが精一杯だった。
 食い込んだゆびを離そうとする手が弱まってゆき、首がガクッと後ろに倒れた。
 こと切れてしまう寸前に、紫は手を放した。
 なにか、ふいに悪事を思いだしたように、笑いだしはじめた。
 「そう易く殺すのもつまらぬな。少しはわしを楽しませてもらおうぞのう、静流よ」
 一也はゲホゲホと血をはくように激しくせき込みながら、涙目で睨みあげていた。
 「わしはつねづね、おまえが泣き叫び許しを乞う姿が見たかったのだ。戦士として名を馳せ、つねに強く猛々しかったおまえが、今世では、恐怖に身をふるわせ助けを求めてみじめに哭くのだ。どうだ、おもしろい余興ではないか」
 淫靡な笑い声が堂内にこだまする。
 一也は何を言われているのかわからなかった。
 おぞましい気配ばかりであった。
 宿敵だというこの黒い影の憎しみが、一也の心に忍び込んでくるように、不快さに怖気がたつ。
 そのとき初めて聖が動いた。
 目はすでに無情の色をたたえ暗く淀んでいた。
 悪魔の使徒だ。
 いや、いまはもう悪そのものでしかない。
 凶悪な息づかいに、さすがの一也も身をひそめるようにして息を飲み込む。
 「おまえばかりが幸せで――」
 ひくい唸り声だった。
 「おまえばかりが恵まれて幸せで……」
 沈澱していたすべての悲しみが沸き上がりつつあった。
 「飢えも知らず、暴力に曝されることもなく、おまえだけが幸せで楽しそうで、なぜそんなにもやすやすと生きていけるんだ」
 「ひ、聖……?」
 一也はその恨みの声に、ひどく心が乱れた。
 闇に乗っ取られているはずなのに、聖の怒りの言葉は、まるで彼の胸の奥底からつきあげてくるような熱さにみちているではないか。
 聖自身がなげかける鋭いつぶては、一也の胸を深くえぐる。
 「なぜ僕だったんだ。なぜ、おまえじゃないんだ。――どうしておまえが殴られない、どうして、あの、男たちに犯されなかったっ!」
 「ひじ、り……お、俺は……」
 「母親にさえいつ捨てられるかわからない恐怖を、おまえは知っているか?たった一人で夜を過ごす恐ろしさを、おまえは経験したことがあるか?親に守られて、ひとり幸せな顔をしているおまえが憎い。ぬくぬくと愛されているお前が嫉ましい。おまえを――グチャグチャにしてやらねば気がおさまらぬ!切り裂き内臓をひきずりだしてやるっ!」
 一也の目には、聖のむねから黒いドロが噴き出してくるのが見えていた。
 のしかかってきた聖から、一也の体を伝い、おぞましい感触で体も心もおおっていった。
 冷たい、彼の手が触れると、まるでなにかを探しているように体中を這ってゆく。おぞましいのに、振り払えない。
 「おまえも汚れろ。醜い心をさらけすのだ。憎み、呪い、己の醜さに食われてしまえ」
 「ひじ、り……っ!」
 一也は歯を食いしばった。
 ザラつくような心地悪さが、一也の素肌を撫でまくりはじめていた。その心地悪さを避けようとしても、体は不思議なほど動かなかった。
 見えない紐で縛られ、ぐるぐる巻きにされているようで、吐きそうなほどの不快感が、全身を駆け巡っていく。
 「印はどこにあるんだ!戦士の印をけせば、おまえなどただの低級な人間にすぎないんだ!」
 「やめろ聖、触るなっ、やめろっ!」
 体中をのたうつ蛇に犯されるような気色の悪さに、一也は悲鳴をあげた。
 闇と化してしまった聖の這まわっていた手が、一番敏感な太もものあたりまでくると、ゾロリとなであげた。
 一也の身体が跳ねあがり、硬直する。
 ファナーを下げ、いきなりズボンをひきおろされるのに、面食らった。
 「なにすんだよ聖!」
 冷たい手は太もものつけ根のあたりまでくると、いきなり痛いような刺激を与えた。
 一也は意図していることがわからず、恐怖とおぞましさに凍りつきながら聖をみあげる。
 ニヤリと笑った。おびえた目でみつめる一也に言う。
 「やっぱりあったね、この印。これが日月の戦死の証なんだ。これさえなければ、おまえなどただの人間だ。記憶は、二度ともどらない」
 「なにを、言ってるんだおまえ……」
 一也はむきき出しにされた太ももにグッッと爪をたてられた。跳ねるように反応するのを聖は面白げに見ている。
 シャツがめくれ太ももがむきだしになった。無防備な格好のまま動きもとれない。体が鉛のようだ。
 一也は情けなさと恥かしさに泣きたくなった。鋭くみつめる視線にまるで、視姦されているような気がする。抵抗さえできず、化物にいいようにされているのが我慢ならない。
 紫の嘲るような笑い顔が頭上にあった。
 聖の憎しみをこめた眼差しが残虐にみつめていた。
 ふつうの暴力なら我慢できる。だが、こんな訳のわからないことを言われてしかも――。
 『おまえだけが、なぜ幸せなんだ。なぜ、おまえばかりが穢されないんだ』
 焼きついていた聖の言葉が甦った。
 引き裂かれたように胸が痛んだ。こんなに痛いのに、なのにこれが誰の痛みなのかわからない。
 聖なのか、それとも自分なのか――?
 目の前が暗くなるような激痛が一也に襲いかかった。聖の鋭い爪が太ももをつかむと容赦なく肉を食い破っていた。
 「――――ツウっ!」
 血のしぶきが吹き上がった。
 聖をぬらし、太ももにたれてゆく。
 小さな赤い痣のあったその場所はぽっこりと血がたまり湧き出していた。
 聖の手の中には、肉の塊が握られていた。ミンチのようにぼろぼろになって崩れてゆく。
 一也はそれを見ることもできず、うめきながら転がった。
 血があふれ床にとびちった。
 冷たくみおろす聖の顔には、一也の血がとびちっていた。青い肌に真っ赤な血がうつくしい。凄絶なほどの色香がある。
 彼は無表情のまま、手のなかの残りの肉を口にすっぽりおさめ、全部飲みこんだ。
 『やはり若い者はちがうのう。素晴らしいエナジーだ』
 淫猥に喉がなり、頭上でしわがれた声が満悦そうにささやいた。
 一也はその声にハッとし、きつく眼をひそめ見あげる
 冷たい指が太ももをなどっていたかと思うと、いきなり傷に深々と指を突きたてた。
 「ああっ!」
 一也は痛みのあまりに背をうかせのけぞった。
 喉が焼けるようにあつくなり、痛みに悲鳴すらあげられない。さらにふかく指を押し入れられ、気が、遠くなっていく。
 「くそうっ・…っ」
 「ねえ、痛いだろ?傷に指なんか入れられたら、痛くて死にそうじゃない?」
 「やめ――グウッ!」
 「こんなこと、誰かするなんて思いもしなかっただろ。だれもしないよねえ、普通は」
 やさしく歌うように言っていた表情が、いきなり変わった。夜叉そのものである。
 「恵まれたきみにはわからないだろう。僕は母さんのところに転がり込んできた男どもに殴られ蹴られ、ずっとこうして苦しめられつづけてきたんだ。この痛みがわかるかい。こうしてね、傷を指で引き裂かれる痛みがどんなものだかさ」
 甘く耳もとに息をはき、指で肉をくだく。
 「あぁ―――っ!」
 新たな血がドッと吹き出した。
 痛みが過ぎ、そこにはもうただの熱の固まりがあるようにしか思えなかった。焼けた鉄の(くさび)を太ももに打ち込まれているようだ。
 愉悦にゆがんだ笑いをもらす聖をみあげ、一也はそれでも、できるだけ苦痛の声をもらすまいと唇を噛み、睨んだ。
 「そんな虚勢をはらなくてもいいんだよ。ほら、痛みに泣き叫びながら苦しんでみせてよ。止めてくれって頭を床につけて懇願してごらんよ、さあ」
 優越感にひたり、潜ませていた残虐さに火がついたように目が爛々としている。
 きっと、それは聖が言われつづけてきた言葉なのだろう。鬱憤をはらす大人の道具として、許しを乞うまでいたぶられていたのだ。
 聖は指ついている血を舐めてみせた。妙に隠微な仕草だった。
 頬についている血をぬぐい、その手を一也の唇をなどって赤く染めた。
 「おまえなんか……っ!」
 痛みにふるえる一也の首をつかみあげた。
 憎しみとも悲しみともつかぬ瞳で一也をのぞきこみ、それから鮮やかに笑った。
 悪魔自身がそこに乗り移り、一也を引き裂かんとしている呪いのように、優しい。
 一也はグッと息を飲んだ。ふたたび一也の太ももを縦に切り裂いていたのだ。
 まるでそこから一体にならんとでもしているかのように指を深くさしこんでくる。
 「あああっ――!」
 一也は絶叫していた。身を切りさく激しい苦しみが胸をつらぬいた。
 まさに拷問である。
 存在自体を押しつぶすような圧迫感でもって一也の清浄な精神を奪ってゆく。怒りそのものである。
 「苦しい?ねえつらい?そうだよね。僕もちゃんと知っているんだ、そんなことはね」
 優しい声でささやきながら、行為の残虐そのもので笑う。
 それだけではなかった。
 脅えと痛みに萎えた敏感な部分にさわった。力をこめる。
 いい知れない恐怖がおそった。そこを引き裂かれるのでは、というおぞましい考えが走り去った。
 一也のおびえを楽しむように、聖はわらっている。
 いやな感触が耐えられない。どうして聖は――。 
 痛みに意識が遠くなっていった。必死に拒んでいた黒い触手が、一瞬ゆるんだ一也の心の奥底の扉をみつけ、こじ開けてしまう。
 ヌルリとそれは侵入してきた。かと思うと、容赦なく一也のかくしていたモノを暴きたてる。
 一也はそこに幼いころの自分の姿をみつけた。
 ――母さん、お母さん……。
 小さな一也は呼んでいた。
 心細そうな顔で呼びつづけていた。
 遠くにあたたかな部屋が見えていて、中では彼らが楽しそうに笑っている。
 従兄弟や親戚、腹違いの兄弟たちだ。
 いつも園子をかこみ、穏やかになごんでいる。手をにぎりあい、彼女をしっかりと輪の中にかくしてしまっている。
 一也は泣きそうになるのをジッと堪え、それを黙ってみていた。
 目のまえの情景はそれだけで完璧な世界であり、慈愛と信頼のきずなで閉じられていた。それの以上もそれ以下も欲せず、誰も入ることを許していない。
 みんな幸せそうに微笑んでいた。
 苦行のすえ、やっとたどりついたエデンだったのだ。
 それゆえ、二度と離すまいと、食らいついてき、愛情に飢えた餓鬼どもが、聖母の慈愛をさらって行ってしまった。
 ――母さん、お母さん。お願い、僕を見て。ねえこっちに来て。
 小さな一也は手をのばしていた。
 お願いだから僕だけをみて、僕だけのそばにいて。
 声のかぎり叫んでいる。
 こぼれる涙をぬぐい、幻影のような母親を求めていた。おしせまる暗闇の恐怖が、少年を震わせ、おびえさせている。
 それでも天上のように遠いところにいる母は、けっして来ることはないのだ。
 一也は、知っていた。
 本当はもう、園子は自分だけのモノにはならないということを。
 こちらには来ない。
 だって、あの人たちのものなのだから。
 幼い魂は、穢れのない漆黒の瞳でそれをだまって視ていた。
 父の与える苦しみに、夜叉となり、むせび泣いていた母の――園子の姿を。
 ずっとみつめていた。彼女が自分の無力さをずっとずっと悲しんでいるのを。
 あの美しい人が、帰ってこない夫にどれほど嘆き、悲しんでいたか。次々に子を孕む愛人たちへの嫉妬と憎悪に灼かれて、それが自尊心の高い彼女をどれほど傷つけていたかを。
 わが子ゆえに、彼女の闇の心を見ていたのだ。
 そして憐れんでもいた。
 彼女は、なさけの深さゆえに、高潔な魂が傷ついて、優しい心が死の闇に追いつかれそうになっていた。
 自分を抱き、流れる川をみていた園子を知っている。髪を振り乱し、叫んでいた彼女を知っている。
 そのたびごとに一也はいつも目をつむっていた。せめて、どこまでも着いていこうといつも思っていた。死の向こう側さえも、母のためにくぐる覚悟をしたのだ。
 だが園子は、別の道を選ぶ決心をした。
 いっさいの劣情をすて、他人の子を育て、つくすという愛情と喜捨の道を選択してしまった。
 与え、許し、受け入れることでこそ魂を磨く、そんなつらい道を選んでしまった。
 何がそうさせたのか。
 だが、その修行は、わが子を犠牲にするものでもあった。
 腹をいためていない、胸に闇をもつ子の心を開かせるには、必要以上にわが子につらく当たらねばならない。
 抱くことも、言葉をかけることも、(きずな)ゆえに削られた。
 一也はだから、兄弟たちに与えられた残りだけで、満足しなくてはならなかった。
 それは一也への罰でもあった。
 自分の存在自体が、母の救いとならなかったことへの。
 だがそうであるからこそ、飢えていた。
 本当の母親の、溢れんばかりの愛情を求めていた。
 父に捨てられた兄弟たちに譲らねばならなかった以上の愛情に、狂おしく渇えてたのだ。
 ――いつでもそこにあったけどね、いつまでも僕のものにはならなかったんだ。
 小さな一也はあきらめ顔で言った。
 寒くない。痛くない。苦しくない。
 身体はどこもつらくないという。
 なのにいつも胸のなかにぽっかり穴があいていた。
 そこから何か大切なものが流れだし、自分でも止められなかった。
 しかたなく、目をつぶることで過ごしてきた。
 かくし続けてきたのに、いま、誰かがそこをこじ開けようとしている。
 言ってはいけない言葉を引っ張りだそうとする。
 嫌だと言った。逃げようとした。
 だが、強引な力がそれすらを許してくれない――。
 ――さび、しいよ。さびしい、よ。ああ、寂しくて寂しくてたまらない。欲しくて、欲しくて、心が痛すぎる……。
 一番柔らかな部分が冷たくなっていった。血が、流れていった。
 思いだしたくない、言葉。
 いつもどこかで泣いている声が聞こえていた。何度も何度も胸の中をこだまし、体中に染みわたっていった。
 欲しかったのは、目で見えないほどの、広く深く、果てしない観音さまの慈愛ではない。
 誰からも敬愛され敬われる美しい女神の情愛でもない。
 ――僕のたったひとりの母さんは、どこにいったのかしら?
 一也は泣くのをやめた。
 真っ暗な空間にひとり置き忘れられ、行くべき場所をさがしていた。
 ――僕には居場所がない。行くところがないんだ。
 力で、もし愛が勝ち得られるなら、そうしていただろう。一也が母親の膝を自分のものだと主張すれば、だれも文句は言えないからだ。
 けれども、勝つと決まっている喧嘩は、してはいけない。
 一也は苦しげにあえいだ。
 「もうずっと昔に、心の奥底に沈めてしまったのに……どうしていまさら思いおこさせるんだ。誰にも見られたくない触れられたくない部分だったのにっ」
 だがそれはさらに奥をこじあける。
 見えない傷がパックリ口をあけ、血が吹き上げる。
 ―― 一也、おまえだけが私の子供だ。おまえだけ私の跡継ぎだ。
 父は久しぶりに会ったとき、必ずそう言った。その目はだが、けっして一也を見ていなかった。
 それもまた、知っていた。
 彼はその血筋と、遠い未来だけを愛していた。
 正妻の産んだ子だというだけで、べつに自分でなくてもよかったのだ。もし園子が死だとして、べつの女性が正妻になれば、その子に、同じ台詞を言うだろう。
 誰でもいい存在でしか、けっきょくはないのである。
 一也自身には、父はいっさい興味がなかった。
 誕生日やクリスマスに送られるプレゼントは村山が買ったものだった。玩具も洋服も、すべてがそうだと知っていた。
 でも、それでもよかった。父からだと思えば。
 たとえ経費で落ちる会社関係の贈答品といっしょであっても、嬉しいことのだと自分をだませる。
 せっせと通う秘書の姿が、父が自分たちに示している関心のようで嬉しかった。
 だがそれもまた違っていた。
 その目的は自分ではなく、女神の愛情に心を奪われていた、一人の青年の恋心からだったのである。
 ――おまえは私のモノだ。だから優秀でなくてはいかん。人を統率する者でなくてはならん。
 父の日に送った絵は、丸めてゴミ箱に捨てられていた。父の部屋から集めてきたゴミが、ビニール袋から透けて見えていた。
 ――おまえだけが私の子だ。
 公言してやまない彼の態度は、他の兄弟たちに憎しみと妬みを植えつけるだけでしかない。
 それが愛情表現だと思っているならば、一也を孤独にする呪文にしかならないことを、彼は知らねばならない。
 ――愛している。
 言葉でも物でも、金でもなく、その真実がほしかった。
 ただ手を握ってほしかっただけなのだ。
 『やめて、くれっ!――もう』
 ついに一也は哀願した。掠れる声が闇に喰われていった。
 多く望んでいるわけではなかった。
 ほんのちょっとしたことでよかった。
 普通のことがしてみたかった。父と母と、一日でもいい、三人だけで過ごしてみたかった。どこかに遊びに連れて行ってほしかった。
 ――近くにあればあるほどね、それは冷たい氷の牙となるんだよ。
 幼い一也は笑っていた。自分でも驚くほど冷たく残虐な顔だった。
 その顔が崩れた。
 サラサラと闇に崩れ、とけてゆく。
 ああ、欠けているのだ。
 そう思った。
 自分には、なにかが足りていて、無くなっている。
 欠けていると気づけないほど、欠けてしまっていたのだ。
 さびしいさびしい、たりない――。
 愛情がたりない、心がたりない、魂がたりない!
 ありったけの声で野獣が叫んだ。
一度はなたれたそれは、暴れて、手のつけようがなくなる。
 さびしい寂しいさびしい! 誰かそばに来て誰か抱きしめて!
 心が凍りついてしまう前にはやく来て助けて!
 叫ぶ声は、いつしか誰かの声にすりかわっていた。
 振り向くと、となりで別のだれかが叫んでいた。
 まるで自分自身のように激しく哭いている。
 一也はそばで泣いているその顔に破顔した。
 『そこにいたんだ』
 やっと、みつけた――。
 「ああッ!」
 身体に打ち込まれていた指が荒々しく抜きとられた。
 脳天に突き抜けるような痛みによって我にかえり、しばらく息ができず耐えるように床にうずくまっていた。
 一也は現実にひきもどされ、涙のにじんだ目で聖をみあげた。
 そこに巣喰う魔が、身体だけでなく、心まで犯し踏みにじり、えぐっていたことに気がつく。
 許しがたい憤りをおぼえる。
 一也の目のまえに、聖のゆびだけが血の糸を引いたままがおろされていた。荒々しさの名残をのこし、腕にまで雫がしたたっている。
 一也は、だが、ただ聖をじっと見ていただけだった。
 聖は無表情のままなのに、涙を流していたのだ。まるで涙だけが聖本人のものだというように……。
 一也はやっと聖のなかでのたうっている邪悪な影を捕らえることができた。
 他人の悲しみや苦しみをむさぼり喰う、陰蛇の顔だ。
 動けないでいる一也を、紫である化物が蹴りあげた。
 うめきながら、にらみあげると喜悦に満ちた双眸を爛々とさせていた。
 「さすがに静流の身体だ。すばらしい量のエナジーだった。久方ぶりの美味なる快楽に、われのウロコがヒクついているわ」
 まるで自分が犯したように息荒く舌なめずっている。
 ぐったりした一也の姿に興奮しているのがわかった。
 「これならば、わしの大元を封じておる、あの忌々しき印さえをもやぶることもできる。いま一度楽しませてもらおうか、日月の戦士よ。もうすこし多くの精気があれば、わし自身が目覚めることも可能だ」
 「どういう、意味だ……?」
 一也はどんどん大きくなってきている闇の波動を感じ、不快さに眉をひそめた。
 闇はとどまるところをしらぬように広がり、建物を突き抜けて天空にたちこめ、地に染みてはじめている。地鳴りが遠くできこえている。
 「血にまみれたおまえは格別美しい。弟に傷つけられる気分はどうだった?自分自身の狂気は、さぞ楽しいであろう」
 毒々しい笑いを吐き出すのに、一也は真っ赤な目で睨みつけた。
 渾身の力をふりしぼり、身をおこそうとした。
 赤くドロッとした血のかたまりが傷からあふれ、足をつたい落ちる。痛みと不快感に顔を歪めつぶやく。
 「こんなこと、どうってことないんだ――そうさ、こんなことなんてっ!」
 キリッとして顔をあげ、きっぱりと言った。
 「こんなことどうってことはない!俺には何でもない!――いくらおまえらが痛めつけようとも、俺は傷ついたりしない。心を踏みにじり荒そうとも、傷つきはしない。そんなことで、みずから汚れてたまるか!」
 握っている拳が震えていた。
 一也はまっすぐな視線を聖にむけた。
 嘘も虚飾もない真実の言葉は、聖にむけられたものである。
 矢となって放たれた言葉のエネルギーは、聖の魂に巣喰い、支配していた陰蛇の心臓を正確に射ぬいていた。
 断末魔の悲鳴がきこえた気がした。
 聖は硬直していたが、気力をふりしぼるようにグッと力をこめると、身を震わせ、一也をみかえす。
 その瞳から曇りが拭われているのがわかる。
 聖だ。本当の、魂の輝く者としての聖自身が、よみがえっている。
 だがすぐに自分の取った行動の恐ろしさにおののいているようだった。
 一也を傷つけ、心を犯し踏みにじったしまった。
 一也の裏側に隠されていた孤独に、自分の中にあるもろさを映しだして見ていたためか、唇までもが青ざめていた。
 「大丈夫だ、聖。おまえなら越えられる」
 その言葉に、聖は顔をあげた。
 一也は、すでに聖の心も過去もすべてを肯定し、受け入れていた。
 心に土足で踏みいった悪魔の拘束から、漏れ出てしまった聖のわずかな心は、一也といやになるくらい同じだったではないか。
 そこにひそむものが同じ魂であり、同じ空気を吸っていた心だと知るならば、信じることができる。これ以上ないくらい強くなることができる。
 一也はガクガクする足で立ちあがった。太股に垂れたシャツが赤く染まっていた。
 「強がりを言いおって。それほどいうならば、汚れぬ魂とやらを、わしが喰らい、黒く染めてやるわ!」
 シャァッと口をひらき牙を光らせた。
 頭などその一口で砕けるほど大な牙がテラテラとぬめり、一也たちを狙っていた。
 ――俺は、こいつを知っている。
 不思議な既視感。
 ――たしか、そうだ!
 「そうだ俺は、おまえを倒すことを誓い生まれてきたんだ。神の創りたもうたこの世界を守護し、幾度となくスサノオの神軍を率いて、闘ってきたのだ。暗黒の世へおとしめようとする邪悪な黒き神々――おまえたち八岐大蛇(やまたのおろち)を俺はずっと――!」
 フラッシュバックした記憶が甦る。
 手が、無意識に動いていた。
 それは剣をさぐる手つきだった。身に染み込んだ動作そのもの。
 「いまごろ思い出したか静流よ。だがな、いくら記憶を取り戻しても、おまえはわしには勝てん。半分の力しかなく、ただの人間となりさがり、すでに力の源である転生の印はわしが食らうてやったのだ。今のおまえになにができる」
 握るべき剣ももたぬ身に、と浅く笑う。
 「教えてやろうか。わしこそが、おまえを二つに割ったのだ。産まれいずるまえにわが渾身の妖力でもって、引き裂いてやったのだ。どうする?いまだ剣もなく、ただのヒトでしかないおまえに、なにができる?」
 「剣はある」
 スッと一也の前に影がたちふさがった。
 誠人だった。
 「剣はある。いつでも戦士のそばにいる。僕はそのためにいるんだ。この方を護り、仕え、そしておまえを封印するために」
 「なに?!」
 ブワッと熱風が巻おこった。空気の渦のなかに一振りの剣があらわれた。
 一也の身長ほどもある大振りの、まさに見事な剣だった。
 炎の姿そのものを型どっているかのように、刃が八つに枝わかれし、銀の燐光を放ちきらめいている。
 「こ、この光は――!」
 光から背けるように八岐は顔をかくした。
 一也はそれを迷いもなく握りしめた。
 そこにあるのは戦士の顔。
 剣溢れるエナジーが、弱っていた一也の身体に精気を与えている。白んでいた顔に赤味がさし、瞳に強さがましていく。
 剣の先をむけるだけで、闇が薄らいだ。
 いまはもう、はっきり八岐と化した紫をみることができる。
 「嘘のように身体が軽い。力が内から漲ってくるようだ」
 八岐は後にヨロリとさがった。
 「くそうっ、よもや剣までも転生しているとはぬかったわ!だが、おまえにわしが斬れるか?こやつの母親である、紫の身体、斬ってしまえるか?」
 びくっとした聖が八岐をみた。
 だが一也のその目は熱くもえあがった。
 「斬れる!おまえを生かしておく以上の不幸は、この世にない」
 きっぱりと言い放つ。
 無情な戦士の言葉は、一也が、すでに一也ではなくなっているためなのか。
 「この、こわっぱが、なまいきに!」
 いきなり毒の唾を吐いた。
 スルリと身をかわしながら、牙を剥く八岐にゆっくり近づいた。
 剣を振りかざし毒を切りさく優雅さは、一種の舞いを見ているようである。この地上の者ではない手さばきに魅入られてしまう。
 一也が薄く笑った。
 秀麗な美貌からは想像できない鋭さだ。
 いまの彼には一部のすきもなく、わずかに空気を振動させただけで、相手を切り裂いてしまう。それだけの力がみなぎっている。
 「俺は片羽かもしれないけれど、いまだ封印の檻に閉じ込められているおまえなど、とるにたらぬ存在でしかない。本体でもないおまえが、この俺に叶うか、愚かものが。いま一度冥府にかえれ、闇の者よ」
 頭上に構えられた剣が、真一文字に閃いた。
 いや、閃きかけたそのときだった。
 背に衝撃を感じた。
 一也の背は、短剣によって貫かれていた。
 まさか、といいたげに一也はふりむき、必死のおももちで自分を刺している聖と目が合う。
 聖は手を離し、後ろににじった。震え、死人のように青ざめている。
 ヒュッと切れるような息をして、聖は尻もちをついた。
 赤く染まっていた手を、まさかといいたげにみつめ、一也を惚けたように見上げる。
 「まさか、こういうドンデン返しがあるとはなぁ――。人間とはまこと面白い生き物よのう」
 八岐が押え切れぬように喉をゆらした。
 「己に刺されるとは、やはり不完全であったな静流よ」
 「クソっ!」
 一也は息をとめて痛みに耐えたが、剣で身体を支えている背中からは血が噴き出していた。
 ドサリッと床に膝をついた。
 「母親とは偉大なものだな。このようにわしの入れ物と化した皮だけの存在であっても、裏切れぬとは。愚かなり、人間。魔の下僕に相応しい下等生物だ」
 軽蔑のこもった笑いに地面が揺れた。先ほどよりまた、闇が深まった。
 まさに勝ち誇っている。
 一也はかすかな息のなかで言った。
 「……ちがう、人は、だからこそ愛おしいのだ。そうであるからこそ、美しいのだ。神は、それゆえにひとを愛された。わが子として心をわけあたえ……自分に似せて創られたのだから」
 一也は床に崩れ落ちながら、聖をみつめた。
 「ひとはだからこそヒトとして生きる権利があるんだ。誰にも侵されず、おとしめられることなく、この陽の世界に生きる価値がある。ひとは――いつでも進んでいる」
 「――そう。そして喜び、楽しむために生まれたんだ。孤独も悲しみも、魂を磨くひとつの事象にすぎない」
 言ったのは聖だった。
 聖は一也を抱き起こした。
 一也が目をとじた。
 聖の腕に、一也の魂が抱きしめられていくのがわかった。もう何者にも逆らおうという気はおきない。心地よい満たされたやすらぎに、そこは溢れている。
 果てしない解放感――。
 一也は腕に、自分であった身体を抱いていることに気がついた。
 いや、聖が一也を抱いているはずなのだが、自分の心は聖のなかに確かに存在している。
 腕のなかに抱いている、血に濡れた少年の躯は、どこか弱々しくて、痛々しく思われた。
 衰弱しているせいかひどく幼くみえ、かわいそうだとも思うし、愛しいとも思った。
 少年の体を強く抱きしめ、それが失われるかもしれないという恐怖に震えている。
 なぜこんなにも、いとおしいと思っているのだろう。いや、誰がそう思っているのだろうか。
 一也なのか、聖なのか。
 不思議な気持ちになってゆく。
 この心が、いつからあったのかわからない。腕に抱いている少年は、自分だったはずだ。
 ならばこの心は、誰の心なのだ。
 一也はふと、自分をつつむ魂の存在に気がついた。
 その魂の球体は、常人がもつ光の半分ほどの輝きしかなかった。
 身も心もボロきれのように引き裂かれていて、息も絶えだえなのに、それでも生きようと必死だった。
 一也は、その優しい少年が、母を傷つける刃となるかわりに、自分を傷つけていたことを知っていた。憎しみも悲しみも押し殺し、母を切り裂くまいと、自分の身を切り裂いていたのだ。
 一也は知っている。他人に傷つけられているより、自らの刃のほうが深い傷となってしまうことを。
 その傷は同じように自分にもなあったのではなかろうか。
 一也は傷を舐めた。
 優しく魂を抱きしめた。
 魂はなんの衝撃も違和感もなくひとつになっていった。やっと本来の場所にもどってきたのだ。
 みつけた。
 もう一つの自分を。生まれて来るまえに分断されてしまった半身を。
 一也が『(じつ)』であれば聖は『虚』である。
 一也が『体』であれば彼は『心』だ。まるで正反対なのに同じ質量の霊体。
 一也はやっと聖の傷を、自分のものとして癒しはじめていた。
 ――ずっと苦しんでいたんだ。
 そう、苦しみは二人で分かてば、半分になる。一人では耐えきれなくても、二人でなら耐えられる。
 一人で支えられない運命なら、二人でたちむかえばいいのだ。
 ――そうだった。わたし(・・・)が言ったんだ。
 一也は顔をあげて、聖の目で世界をみていた。
 霊の世界をみることのできる瞳は、ひろがりつつある虚無が、哀れな女性の心のエネルギーを喰いつくし苦しめているのを見ていた。
 今こそ紫にとり憑く邪悪な塊を斬るときである。
 ピクッと手が動いた。
 聖の血に濡れた手が、一也の手から剣をぬきとった。手に吸いつくように体の一部となった。
 ムクムクと留まるところをしらず増殖しつづけている八岐に狙いを定めた。やっと、剣の本当の力を操ることができる。
 八岐はグワッとひろがり空中にたちあがった。
 本能的なあせりと恐怖からか、八岐にのまれた、紫の、顔だけが闇に浮かびあがり、ひきつりながら叫んだ。
 「静流、きさまらまさか融合したのか?!」
 「あいにくとそう簡単には逝けなくてね。おまえの緩んだ封印を結わえなおさなきゃ、どうも気になってだめだったんだよ」
 軽口をいい、笑う。
 「……なあに、こちらとても好都合よ。おまえの魂をとり損なったと悔やんでおったが、次の転生をまたずとも二つともの魂が食えるというものだ。手間がはぶけたわ」
 八岐に飲まれている紫の目がカッと見開き、人形のようにガチガチ歯を鳴らした。
 だが、いまの一也にははっきりと見えている。
 本当の八岐の姿も、抜け出してきている封印の穴がどこなのかも。
 一也の体ではけして視ることは叶わなかった世界が、パックリと口をあけ、真実をみせていた。
 その瞬間だった。
 一也は――二人は走った。
 ひろがる闇の手をすり抜け飛びあがり、宙で一回転をすると、そのまま背後を縦に切り裂いた。
 着地すると、音もなく剣を振るう。
 闇が幾重にも切り刻まれて、そこからにひび割れていった。
 「き、さまっ!よくもワシを――っ」
 「八つ首のうちでで、最も未熟なおまえごときなど敵ではない。ミミズののたくりにすぎぬよ。この闇を連れてさっさと消えろ」
 グワッという悲鳴と同時に、建物の基礎からをゆるがすようなはげしい揺れが襲った。
 地響きのすごさに窓のガラスがわれてくだけ散った。
 締め切られていたカーテンのレールが落ち、日の光が差し込んだ。
 闇は光に灼かれみるみるうちに霧散していく。
 一筋の泥のようなものが、地底に吸い込まれていったのが、それらの最後だった。
 しばらく静かな時間がおとずれた。
 あまりにも静かで、この世に二人だけしかいないような気がしていた。
 ――いいよ、俺を取り込んでも。同化しろよ聖。
 一也の言葉だった。
 「な、なにバカなこと言っているんだよ!おまえのほうが強い霊体なんだぞ。どうして僕が取り込めるんだ」
 一也である意識が、聖にのみこまれれば、永久に彼の意識は消えてしまう。
 ―― 一也のままだったなら、紫と一緒に斬らなければヤツを倒せなかった。あんなボロボロの体じゃ使えなかったし、俺はもともと、そう自分に執着はないからな。
 「勝手なことを言うな!」
 叫ぶような悲鳴に、一也は閉じかけていた目が開らかれた。
 「また一人に戻れっていうのか!また僕だけにする気か?!融合だなんて――イヤだ、絶対イヤだ!」
 ――聖……。
 「消えないでよ、ひとりにしないで、お願い消えないで!」
 悲痛な声にまじる愛情に、一也ははじめて気がついた。
 まさか、まさかそんな思いが彼に……?
 「ひとりにしないで。もう、ひとりはイヤだ。おいて行かれたら、二度とは生きてはゆけないよ……さびしいのは、もうイヤなんだ」
 ――聖……。聖、わかったよ。
 融合しかけた魂が、ふたたびわかれた。
 かわりに聖の魂から、包むような温かさを感じた。
 一也はその温もりに、なにかが癒されているような気がした。
 そうだった。
 どうして、二つに生まれてきたのか、やっと思いだしのだ。
 一条の光がさしこんだ。
 光のまぶしさに目を奪われる。
 ――そう、二人だから、生きて行ける。
 弾かれるような衝撃のあと、気がつくと自分の体に戻っていた。
 「あっ……俺はっ?」
 背に刺されていたはずの傷はなかった。
 そばに倒れていた聖に目をやった。
 聖は眉に皺をよせうめいた。
 一也は、聖の体にいたときに感じていた、強い自分への感情が、まだ胸に残っているような気がして、ドキリとした。
 目のそらせない真摯な思い。
 いつからそこに潜んでいたのだろう。てっきり憎まれているのだと思っていたのに。
 聖がそうっと目をあけた。
 一也の瞳にあるものを読み取ったのだろうか、甘く微笑んだ。 
 「――ずっと、きみを見ていた。ずっと、憧れていたんだ。僕は、きみという存在の輝きがずっと羨ましいかったよ。持っている全てのものに嫉妬していた。だから疑わなかったんだ、きみが幸福だと。きみが恵まれ、幸せなんだと――ずっとその暖かな笑みが自分のものとして、欲しかったんだ」
 「……俺は、不幸じゃなかったよ」
 それだけ言うと、一也は立ちあがろうとした。ふいに視界が赤く染まるような下半身の痛みに愕然として、そのまま動けなくなった。
 八岐を封印するまでは必死だったが、精根つきはてたいまとなっては、動くこともできないではないか。
 太ももの傷から、固まりかけていた血が再び流れはじめた。 
 倒れていた信者たちが、徐々にだが、目覚めはじめている。
 それに気がついた一也は、自分の状態に目の前が真っ暗になった。
 「ちっきしょう、ナイフの傷は消えたのに、どうしてこの傷の痛みだけは消えなかったんだよ?!不公平だ、なかったことにしろよボケ!」
 誰に怒っているのか、天に向かって怒鳴る。
 えぐりとられた内股の傷だけは、あれらのことがすべて夢ではないのだとはっきり語っている。
 痛みと恥ずかしさで気が遠くなりそうだったが、いまはそんなことをいっている場合ではない。
 それにしてもシャツ一枚で血まみれの姿というものは、かなりきわどいものがある。
 やぶれかけたシャツはどうにか下半身を隠しているが鮮紅色に染まり、日に焼けていない足につたっている血が、ひどく卑猥で、変な想像をよびおこしてしまう。
 「一也くん痛いの?ねえ大丈夫?」
 のぞきこんできたのは誠人だった。
 いつのまに人間に戻ったのか、オロオロとしながら涙を浮かべ、一也を心配げにみつめている。
 「ちょっと我慢してよね」
 誠人はなんの苦もなく抱きあげた。
 一也は文句をいいかけて、やめる。そんな立場ではない。もちろん、格好をつけている場合でもないのである。
 聖もどうにかヨタつきながら立ちあがり、周囲の様子に気がついたらしく、慌てはじめる。
 「ところで誠人、おまえが剣――」
 「ん?」
 脳天気な顔をむけられ、言葉を失った。
 もういいと首をふる。
 この苦痛がなければ、全部夢にしてしまえるのに。まだそんなことを思ってしまう。
 「こっちに、はやく」
 聖が二人を呼んでいた。
 奥の間にとびこんだ。
 正気に戻った信者にみつかればただではすまない。袋叩きどころか、すまきにして川に流されてしまうかもしれない。
 部屋にはもう邪気はなかった。
 陽の光が一掃してくれていた。
 「い、いてて……ちきしょう、もっと静かに歩けないのか誠人。いっそ衝撃が起きないように床を滑れよ滑れ!」
 「無茶いわないでよ一也くん。ほら、見えちゃうよあばれると」
 「馬鹿、さ、触るなっ!」
 さすがに日常の場にもどると、太ももの肉をえぐられたとはいえ、傷がいたくて歩けないというのは、恥ずかしくて顔から火が出る。
 「おまえ、見なかっただろうな?」
 小声でボソッと言う。
 気絶していたはずだが、聖に――それがたとえ化物に取りつかれていたとしても――ズボンをはぎとられたうえ、苦痛にうめかされている場面を見られていたとしたら、憤死ものである。
 誠人は意味深にニタッと笑っただけだった。
 やっぱり聞かないほうがいい。
 「でもすごい惨状だね。この建物もボロボロだし、もう終わりだよ。早くこの場を離れたほうがいいんじゃない」
 誠人が冷静にいった。
 倒れている紫を引っ張り込んでいる聖を見ていた一也は、どこか切ない顔をしていた。
 そこから流れるものが同情なのか、愛情なのかはわからない。
 誠人が頭を突いた。
 「ねえ一也くんてば」
 「えっああ、そうだな。――でもどこへ逃げればいいんだ?」
 こんな妖しげな格好の一団では目立ってしょうがない。
 「わるかったな」
 紫をひきずってきた聖が、聖がボソッと言うのが聞こえた。
 「聖――?」
 「わるかった。全部僕の責任だ。意気地のない心が、あの闇を引き寄せたんだ。僕とこのひとの、負の想念があいつの封印をゆるめた結果、こんなにたくさんの人たちに迷惑をかけてしまったんだ。――二人で逃げて。僕はこんな母さんでも、おいては行けないから」
 どんな姿になっても、どんな悪魔でも、母親は永遠に、親なのだ。
 「そんなのおまえのせいじゃないよ!おまえはなにも悪くない。全部あのクソ親父が悪いんじゃないか。その人だってあいつの犠牲者なんだよ。ったく、あのくそタコ今度こそ、ボコボコにしてやる!」
 一也の息まく様子に、聖がおどろく。
 拳を手にうちつけた一也は、激痛が脳天につきぬけ、苦鳴をもらしていた。
 「まあまあボコボコにする相談はとりあえずおいといてさ、はやく避難しようよ。きっと、運命の魔女なら、助けてくれるよ」
 誠人が意味ありげに笑った。
 「それに、向こうなんかやたら騒がしいみたいだしね」
 のんびりと言う誠人の言葉を正しく理解した一也は、とりあえず口をとじて、うなずくしかなかった。


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