蒼穹の群雲
2
「萩森のやつ、何考えてやがんだ」
一也にはわからなかった。聖がなぜ、柾史の近辺をうろついているのか。
一体、何をしようとしているのだろうか。
おまえが嫌いだ、と最初に言ったのは彼だった。
正面からあんな顔で言われたのは、さすがに一也もはじめてだった。
ケンカならかなり場数を踏んでいたが、言葉にあんな嫌な力があったのだとは知らなかった。
肉体的な暴力とは違うが、あれもまた暴力であるのだと思う。時には肉体的な痛さより、ずっとこたえる力をもっている。
けれど、考えてみれば、いつも一也に絡んできているのは聖のほうだった。なにかと聖の影が一也のまわりをつきまとい、いまではこれほど心を乱している。
金や物が欲しいなら、あんな強欲ジジイの腐った金だ、いくらでも絞りとればいいと思う。
けれどあのとき見た、柾史の死んだような目だけは我慢できない。
あんな胡乱な顔をした人間など、見たくない。
何があったのだ。なぜ、聖が柾史のことに関わるのだ。彼のことで一也の頭の中がいっぱいになっていく。
まるで呪縛のように心から離れないではないか。
「ホント、呪われているよな、あいつにはさ」
ため息をつき、どうするかな、とこれからの行動を思索してみた。
がすぐにあきらめる。
「考えても仕方がねえ、とりあえずあの講堂へ行ってみるか」
いい案も出そうにないので、そのままブラブラと時間をつぶしながら、足をむけた。
本音をいえば、あまりあそこには近づきたくなかったのだが、仕方がない。しょせん頭脳派ではないのだ。
「あれ?一也くんじゃない。おーい」
恥ずかしげもなく大声で名を呼ぶこえに顔をあげると、通りの向こうから手をふりながら走ってくる誠人がいた。
一也はうるさいっ、と怒鳴ろうとして、目が吸いつけられてしまった。
一台のベンツが通りぬけ、そこには見覚えのある顔があったのだ。
――親父?!
「なんでこんなとこに……」
「どうしたんだい一也くん。こんなとで会うなんてめずらしいよね。あっ、やっぱり母さんの呼び声聞こえたのかなぁ」
いつの間にか隣にいて、のぞきこんでいた誠人に驚きながら目をむいた。
「い、いきなりびっくりするじゃねえか!」
「さっきからずっと呼んでたじゃないか。一也くんこそぼんやりしてどうしたんだよ」
「べ、べつに――。それより、おい、マリアが俺を呼んでるっていうのは本当か?」
「ああ、あのね、母さん一也くんのことすっごく気に入ったんだってさ。で、遊びに来て欲しいなあって、さっき言ってたんだよ。目の保養になるし、ついでに過去世のリーディングしてみたいんだって」
「過去世のリーディング?なんだそれ」
「前世のことをね、透視して探るんだよ。何があったかとか、何をしてたか、とかをね。わりとそういうの頼む人って最近多いらしいよ」
「俺はそんなことしねぇぞ、余計な世話だ」
「一也くんの過去なんて、だってすっごく面白そうじゃないか。だって、母さんが言うには、なんか特別な力が秘められているみたいなんだって」
「バーカ!そんなもんがわかったって腹の足しにもなりゃしねえよ。それよりいまの俺の、さしせまった問題としては、この腹のすきのほうが重要だ。昼飯がまだなんだよ」
頭を使うと腹がへる。若いのだからしかたがない。
「そうなの?だって二つにわけられた魂がある、なんてこと言われたら普通、気にならない?」
言われなくても充分気になっている。おかげで悪夢をみたぐらいだ。
「ンなもん――してもしなくても、俺の腹の状況はかわらねえ」
「まあ、そりゃそうなんだけどね」
「なあ、なんか喰おうぜ。腹減が減っては戦はできねぇ。こんなことなら村山に弁当でもとらせりゃよかったな」
そんな気もないくせに悪態だけはついてみせる。
ファーストフードの店を捜しながら、はやりあの細い路地に目がとまった。
また、ゾロゾロと老若男女がはいって行くではないか。
そこへ向かうだれもが、そこらへんにいるような、ごく普通の人っぽいので、気にしなければそのまま見過ごすこともできるだろう。
だが、一也には、本能的に彼らがどこに向かうのかわかってしまう。
父親と、みな同じ顔つきをしているのだ。
「あっ、あのバカっ!」
一也は短くもらした。
舌打ちしてそのまま走りだした。
「親父のやつ、ったく!」
「あれ?――ねえ、一也くんどこいくの」
こんなところを車で走っていたと思えば案の定。
背後で誠人がなにかを叫んでいたが、一也は父親の影をそのまま追いかけてだした。
あの講堂の前までくると、集団に追いついてしまった。
一也は、その瞬間覚悟をきめ、彼らに混じって、そのまま顔をうつむけると、一行に紛れてなかへと入っていく。
異様な雰囲気を感じていた。寒気がしてくる。
彼らはなんのためらいもなく畳敷きになっている奥の間へにじり上がっていった。嫌々ながら同じようにして、一也は後ろのほうへ座ると、長めの前髪で目もとをおおい、うかがうように周囲の様子をさぐる。
堂内はやたらと金ピカとしたものが目についた。
神棚にあるのは金の壷で、みるからに高価な花がいけられている。金の蝋燭台に、金の御神酒入れ。金の杯に、金の鐘。そこに奉られているらしい神の名らしき掛け軸まで金糸で縁どっている。あまりにもケバくて頭にチカチカくる。
さらに嫌なのは、神棚の前にある金色にかがやいている備後表の畳だった。
「悪趣味だよな。だれの考案だよ」
中に入ってすぐ、神棚の前まですすむと、軸にむかってみなで平伏していた。
額を畳に擦りつけると、こんどは脇においてある黄金の箱の中にご祝儀の袋を入れる。もちろん高額の御布施料である。
それからありがたそうに、また何度も頭をさげブツブツ願いごとを祈り、やたらオーバーアクションでもって平伏してから、やっと座るのだ。
その様子を見張っている男たちが四隅に立っていた。どの面も決して人相がいいとはいえない。やはり精気がなく目が濁っているぶん、不気味さを増している。
欲に溺れた顔。というか邪気に踊らされている傀儡の人形ようにみえる。
どの顔も、信徒たちから少しでも多くの金品をしぼりとり、さらなる生贄を求めているように見える。
もし今の一也に彼らの本当の姿が見えたなら、すでに餓鬼と化していることがわかっただろう。
哀れな羊たちは、ところせましと押し込められているのに、文句もいわず、一様にして、その存在をいまだ遅しと待ってるのだ。
血の昇った赤ら顔をして、息を荒く耐えかねるように待ちわびている者がいたり、何かを唱え、すがるように数珠を握りしめている者もいる。
それらの異様さは、普通ではない。気色わるい勘弁しろ、の域である。
だんだん激しくなって熱気にあわせ、邪悪な力が活気づきはじめていた。
――萩森は、本当にこの中にいるのか?こんな気味の悪いところで何をしているのだ?
一也の必死の忍耐をあざわらうように、陰気なざわめきがピタッと収まった。
一斉に正面の入口に目が注がれた。
音もなく戸が開かれたとたん、噴き出すような邪悪な波動がおしよせてきたではないか。
その元凶は、なんともはかなげな女性だった。
赤い袴をはき、金銀の細工をほどこされた冠をかぶっていて、お雛様のように着飾っていた。
白く塗った顔は小さく美しいが、造りものじみていて、動いているのがひどく違和感がある。
女はうつむけていた顔をあげた。
一也はとっさに目をそらした。
握り拳に爪をたて、我慢する。
人間ではない。
不思議なほどの確信だ。
その目は、人と呼べるものではなかった。人間の形をした悪意と狂気だった。恐怖と悲しみと憎しみをかきたて、邪悪なものへいざなうかのようなおぞましさだ。胸がキリキリ痛んでくる。
そのあとで、誰かが入って来きた。
目をあげて、今度こそ驚き息が止まるほど仰天した。
聖ではないか。
女を補佐するように背後につきそい、黄金の畳に座らせた。
これだけの人々にもまったく動じる様子もなく、まして邪気などなんとも思っていないのか、平然としている。
「あ、あいつなにしてるんだ……」
一也は思考が混乱してほんとうに気分が悪くなりそうだった。
女がなにかを唱えだした。
不気味で陰鬱な呪文が耳をおおってゆく。
一也は入らなければよかったと心底後悔していた。
父親がどうであれ、聖がどうであれ、自分にはしょせん関係ない。
女の声とは思えない重厚な声がしていた。まるで脳に直接、悪魔の呪文をすりこんでいるような痛みさえあった。
救われたければ自分に祈り、崇め奉れとぬいつけるむように云っている。
財産をすべて差しだし、一切を無にして、赤子のように命かけてわれに仕えろ。この世を我がものとすべく、魂をさしだせ。何度も何度も繰り返している。
一也はその波動に飲まれないように、必死で自分を保つのが精一杯だった。
膝に爪が食い込んでいた。
だが、彼女の催眠にかかりつつある隣の男の袖をひっぱり、そっと尋ねた。
「あの女の人はだれなんだ。これは、なんの宗教なんだよ」
「きみはそんなことも知らずにこの方の法会に来たのか!ああ、もったいないことだ。これほどありがたい説法はめったに聞けないのにね。心して聞かねば罰があたってしまうよ」
やけにもったいつけて、まるで自分のことのように自慢をはじめる。
「このお方は、恐れ多くも、世界の創造の神であらせられる至上神、高御中主さまの現身でいらっしゃるんだ。――ありがたいことに、かの女神さまにお願いすれば、願いはなんでもたちどころに叶えられる。病気治癒、商売繁盛、恋愛成就――数え切れないほどの者がそのお慈悲にあずかっているといわれているんだ」
そんな都合のいい神様がいてたまるか、と口に出そうになるのをこらえる。
「むろん、ご寄付を忘れちゃいかん。毎月、五日、十五日、二十五日にはこうして神の意識がめざめられ、我ら罪深いものどもにありがたい経を聞かせてくださるのだ。ああ、ありがたいことだ」
「……神様が、なんでお経をとなえるんだよ。仏様の間違いじゃないのか」
「なんだって?」
「いや、なんでもない。で、あの、となりに座っている少年は、何者だ?」
さりげなく聞いたつもりだが、声がうわずった。
いったい聖はどういうつもりなのだ。
「ああ、あのお方は、高御中主さまの御子で、創造神の手伝いをされてらっしゃる若日子様だ。あのお方も汚れきったこの世を浄化してお救いくださる、救世主の君だ」
「救世主?」
呆れたように言ってしまったが、それと同時に、いきなり鼓膜が破けるような高音でお経を唱えはじめ、頭がクラッとした。
ガラスがビッと震えた。
きっと防音ガラスだろう。でなければ周囲から苦情の嵐だ。
気がついたときには、人々はすでに集団催眠にでもかかったかのようになっていた。
立ったり座ったりしながら、彼女の唱えるお経のようなものにあわせ体を揺っている。
なかには神経症のように激しくわめき出すものや、ディスコとまちがえているような踊りや仕草をするものもいる。
となりの男はもうすでに自分の世界に入っていた。一也など眼中になく、踊りだしていた。
一也は頭痛をこらえながら、その狂態の群集にかくれ、じっと彼女を――聖の母親を観察していた。
車から降りてきたときは、あんなにたおやかそうな女性だと思ったのに、今の彼女はまるで別人ではないか。
真っ赤な口が耳まで裂けている鬼女ような錯覚がおそった。
背後に黒い筋がうごめいて見えた。
冷汗がながれた。この感じ、どこかで感じたことはなかっただろうか。
聖に目を移すと、彼はどこかさめた顔つきをして、信者たちに狂態をみていた。
母親のとなりに立ち、まるで一人だけ、そんな荒れ狂った世界から切り放されたようにひっそりとしている。ガラスケースにでも収められた美しい人形――薄くてもろくて、いまにも壊れそうなガラスの花に見えた。
――あいつ、正気なのか?
ふと頭をかすめた。
だとしたら、こんな母親をみてどう思っているのだ。こんなきちがいじみた民衆をみてなにを考えている。
正気でいられるほうがおそろしい。
いつからこんなことをしているんだ――。
一也は父親の姿をそこにみつけた。
柾史は背広すがたのままはうようにして聖の前にすすみでて仰臥していた。
正気ではありえない顔をして、ありがたそうに何度も手をあわせ、聖の足を舐めはじめた。
犬のような、なんともいえない格好。
一也は思わず見ていられなくて目を伏せた。
あの、いつも堂々としていて自信にみちあふれていた父が、他者をおさえつけ支配せずにない威圧感をもっていた彼が、なんという姿だ。
政界で大きな顔をして、それを当り前のようにしていたその風貌はいまやどこにもない。
一也はそれを見ている聖の方にゾッとした。
うっとりとしている柾史を冷たく見おろしている表情はまさに氷の刃物そのものだったのだ。
憎悪のこもった顔。
その表情からは、憎しみを通りこし、殺気が存在している。
一也は我慢できなくなり、その場をどうにか抜け出した。熱気に溢れていた堂内では一也が抜け出したことなど、だれ一人気にするものはいなかった。
こみ上げる胃液を押え、口元を手で覆っていた。
電信柱にもたれへたりこんでいた一也を見つけたのは、誠人だった。
止める間もなく一也は講堂へ消えていった。心配して、ずっと外で待っていたらしい。青ざめたをみつけると飛んできた。
「一也くん!大丈夫かい、ねえどうしたの?! 」
心配げに声をかけながら、一也の背中をさする。
「ちくしょう、腹がすいててよかったぜ。吐くモンもねえ」
「ねえ真っ青だよ。しっかりしてよ。うちまで歩けるかい?」
まわされる手を払いのけることもできず、一也はそのままかかえられるようにして、誠人の家へ連れて行かれた。
誠人の家は、運命の館のすぐ裏通りにあった。自宅と仕事場が隣あわせなのだ。
「ああら、かずちゃん、どうしたの真っ青よ」
黒いフード姿ではなく、ふつうのブラウスとロングのスカート姿のマリアだった。
私服を着ている姿をみると、ただの若作りのおばさんだ。
「ちょっと母さん水もってきてよ」
「かずちゃんたら、どうしちゃったの?つわり?」
「なに馬鹿なこと言ってんだよ。はやく!」
誠人は冗談を言っている場合ではないとたしなめる。
のぞき込んだマリア――本名は真理子らしい、表札にかいてあった――は顔をちかづけ、鼻にシワをよせヒクッとした。
「ヤダ、どこに行ってたの?シールドがズタボロじゃない。すごい邪気が残ってるわよ!」
顔をしかめてそれを払うまねをし、首に下げていた小瓶から水をふりかけた。
「一也くんたらさ、あの講堂に入っていっちゃったんだよ。しばらく出てこないからどうしたんだろうて思ってたら、この状態さ」
「ヤダァあそこに行っちゃったの?ばっかねえ。よく途中で出られたもんだわ」
「……うるせえな。――あそこに、萩森がいたんだ。やつのおふくろさんが、教祖だった」
「ええっ?! 」
誠人がまさかと声をあげた。
だれだってあの優等生の聖が、そんなものに関わっているなど思えない。しかも親子でそんな怪しげなことを。
「ちょっと待って、ねえ萩森っていうのその子?確かかずちゃんによく絡んできてたって子よねぇ」
「あ、ああ。萩森聖っていうんだけど、よく知ってるな」
「ええ、誠人がいつも面白そうに話してくれてたわ」
マリアがいいながら、考え込むようにあごに手をあて、眉をひそめた。
「じゃああそこの教祖は、『萩森紫』だってことね。教祖が『紫』って名前だっていうのだけは仲間から聞いてたのよ。名字が萩森なら、まちがいないわ!」
「な、なに、おばさん知ってるのかよ」
「おばさんじゃない、マリアよ」
とギロリと睨む。
「でも、まさかあの大人しかった紫ちゃんが教祖なんて――マジィ?」
「なんだよ、なに知ってんだよ、おい吐け、おばん!」
頭を本気で殴られる。
「知ってるもなにも、紫ちゃんがもうちょっと身持ち固くて、気の強い子だったら、魔女連合に入会させようと思ってたほどの子よ。――まあでも可哀想な子でね、若いときから苦労ばっかりしてたんだけど、ほんとにマジで?! 」
意外なところで、意外な知り合いがいるものである。しかも魔女にスカウトされかかっていたとは……。
「母さん、いつから知り合いだったの?」
「そうねえ」
考えこむマリアの言葉に、二人とも耳をかたむける。
いちおう教祖の過去がどんなものなのかは、興味がある。
「紫ちゃんてね、都窪町の酒場で、ホステスをしていた子なのよ。あの子、ちょっとばかり霊感があってね、なんか変に占いとかして当ててたのよねぇ。あんまり当たるもんだから評判になったりしてさ。あたしも占いの専門のほうにだけでも、誘おうかと思ってたんだけど、どうやら霊感っていっても、良くない系のもんを引っ張っちゃうみたいだったのよねぇ」
ひとによっては、抑圧的な症状が激しくなったり、重い神経症になったりすると、そういった類の能力が現れたりすることがあるらしい。
「あたしもそのとき、ちょうど日本魔女連合の会長がどうのこうのってもめて忙しくしてた時期だったからさ、よく対応してあげられなかったのよね。だからよけい覚えてるわ。抑圧系かなって思う半面、本物かな、とも思ってたんだけど」
「本物じゃなかったのか?」
「そうね。ちよっと不安定すぎるというか、カンが強すぎてたわね。そうかと思えば変に弱い部分があったりして。だから悪い男に引っかかってばかりだったのよ。そういえば、一時は、かなりの大物代議士の愛人になってた時期もあったって話だわ」
そう言ってため息をつき、女って悲しい生き物なのよ、とまるで自分の事を言っているように、何かを思い出しつつ目を潤ませていた。
「で、誰の子なんだかわかんないままに、子供を抱え戻ってきてたのよ。まあそれからずいぶん苦労したみたいね。人を信じられなくなっていて、手助けしようにも、誰も寄せつけなくなってたわ。――あれは男が悪いのよ。ひどい捨てられ方したせいに違いないんだから」
ジロッと一也と誠人を見た。
「な、なんだよ」
「よくお聞き、あんたたち。女はね、男次第でどうにでも変わるものなのよ。男一つで大輪の花が咲くか、咲かずに枯れるか決まっちゃうんだから。人間なんて相手次第でどうにでもかわってしまうものなの。それほど人の思いは大切なのよ。まして女なんて繊細な生き物なんだからウーンと優しなきゃだめだからね!」
泣かせでもしようものなら、血の雨がふりそうな勢いである。だが一也は、今時そんな女がいるかとあきれ顔をした。
「なあに、大丈夫さ。最近の女は蹴っても叩いてもビクともしないどころか、こっちのほうが半殺しにされちまうぐらいすげぇよな」
「そうだよね」
と誠人もうなずく。
「――そうねぇ。男のほうがめめしくなっているとも言えるけどね」
マリアは返し、鮮やかに笑う。一也では、迫力がまだまだ足りていない。
「酒場で娼婦のような事しているって聞いたことがあるけど、それっきりだったわね。でもまさか教祖なんてものになっているなんて……」
マリアはそれっきり考えこむようにおし黙ってしまった。
一也も誠人も、おもく息をついた。
とくに一也にとっては、教祖とその宗教のことは、それこそ他人ごとではないのだ。
父の柾史がかかわっているのを目の当たりにしてしまった。
まさか親父がクラスメイトの足を舐めていた、とは誰にも言えない。自分の恥以上に恥ずかしく、そしてつらいことだ。
「なんとか、しなきゃなぁ」
声にならない声でつぶやいていた。
一也は屋上の手摺にもたれて、自分の教室を見ていた。
ちょうど六時限目の授業がはじまっているところだ。
順序よく机が並べられ、黒板を映している彼らの姿がみえる。まるで箱詰めの握り寿司のように思え、ひどくむなしくなる。
ぼんやりとそれを見つめながら、タバコをふかした。
――何をするために、俺はここにいるんだ。
ふとそんな考えが頭に浮かんでくる。
そしてすぐに、そんなしょうがないことを考えても仕方がないのだと、苦笑するのだ。日頃は、そんなこと考えもしないのに、こうしてボンヤリしていると、ふいに思いだされる。
一也は窓際にすわっている聖を目で追っていた。
他の生徒となにもかわらない様子だ。
塾にいって、帰りにゲームセンターにでもより、友達と無駄話でもして帰る。時にはちょっと女の子でもひっかけて遊んだり、カラオケにでもいっているような、そんなどこにでもある普通の生活を送っていてもおかしくはないのに。
けれど一也は知っている。
その顔の下には、他人には推しはかれないような苦しみがあることを。あの醒めたつめたい顔をして信者たちの狂態をみていた顔が忘れられない。
ずっと、そうしていままで堪えてきたのだろうか。
母親を迎えたときの優しい笑顔と、足を舐める柾史をにらみつけた夜叉のような顔が同時に思い起こされる。
どちらも同じ人間なのだということが信じられないほどの変貌ぶりで、胸に差し込んでくる。
「アンバランスなんだな、あいつ」
言ってみて、ふとどこかで聞いた言葉だと思った。
たしか、自分にむけられた言葉ではなかったか。
だがそうしてみれば、人間なんてどこかアンバランスであり、あぶなかしい部分を持っているのではないのだろうか。
誰かに頼ったり、頼られたりしているから毎日が送ってゆける。
「そういや、あいつ、誰かと一緒にいるのをみたことがないよな」
記憶のあるかぎりでは、彼の隣にだれもいなかった気がする。親しくしている友達もいないのか。
一也は苛ついたように髪をグシャグシャにかき乱した。
「何でこんなにあいつのことばかり考えてるんだよ俺は!」
ため息をつき、柵にもたれると、なんの気なくまた教室に目をむけた。
聖がこちらをみつめているのに、はっきりと目があってしまった。
その目には憎しみ――いや、悲しみがあるのだろうか。
そうだ、あれは憎しみではなかったのだ。悲しみだったのだ。
一也は、今やっとはっきりわかってしまった。
ならばあの投げつけられた言葉や行動の数々は、一也に助けを求めている、メッセージだったのではないのか。
「……まさかな、いくらなんでも考えすぎだ」
タバコをもみけし、目をそらした。
いくらなんでも、自分にいいように解釈しすぎだと、自嘲してしまう。
屋上の入口の重い扉が開いた。
担任の神崎だった。
「おまえもまあ懲りもせず、よくそれだけサボれるもんだな。このあいだも科学の実験室を、掃除させられてたばっかりだろう」
どうしようもないヤツだと、出欠簿で頭をはたかれた。
職員室では下校のチャイムがなったので、教師たちが暇そうにしていた。たびたび顔をだす一也にはもはや興味もしめさない。
一也はどう言えばいいのかわからず、ただ頭を掻いていた。
「なに考えてるんだ久世よぉ」
「さあな。俺にも、なんかよくわからないんだよな」
神崎はどうしたんだとばかりに怪訝そうに顔をむける。年のわりには老けて見えるのは、やはり受け持ちの生徒が苦労をかけるせいだろうか。
それでも言いにくそうな一也の様子に気づいたのか、表情をゆるめる。
「まあ、なんだよ、なんでもいいから言ってみな」
「いや、俺最近さあ、こんな場所になんでいるんだろうとかって、そんなこと考えちまうワケなのさ。――こう、なんだか急き立てられるような気がして、なにすればいいんだろ、なにするためにここにきたんだろうって思うと、ぜんぜん授業なんて受けてられなくてさ。居場所が、ないっていうか……」
「おまえ、そりゃあ――」
神崎はいいかけて、白髪のまじったあごの無精ヒゲをなでた。
「まあな、おまえらぐらいのときはそういう時もあるかもしれんが」
といったん言葉を切ると、一也の目の中をうかがうようにのぞき込んだ。
「でもよお、とりあえず授業ぐらいは受けとけよ。一応ここは学校だし、学校は授業を受けにくるところなんだからさ。それに俺も教師だ、さぼってる生徒みつけたら、注意しなきゃならないし、それ相応の罰も与えなきゃならない。他の生徒への手前もあるしよぉ。――もしかしたら、授業のなかにおまえの捜しているコトのヒントがあるかもしれないじゃないか。おまえぐらいの時は、たいてい、だれでもそんなもんさ」
「おっさんには迷惑かけるけど、俺さ、ひとっところに落ち着いてられないんだ。どこかへ行きたくてたまらなくなるんだよ」
そう、まるで呼ばれてでもいるかのように。
だがそれがなにかわからない。どこへ行けばいいか。何をすればいいか。
神崎はため息をついた。
「たしか何年か前にもそういう生徒がいたな。そいつもいきなりアメリカに旅にでたりして、留年したっけなあ。で、いまどこにいるかっていうと、アメリカのなんたらっていう宇宙開発の研究所だ。――ついにやるべきことをみつけたっていってたな」
「あー、それとは、なんか違う気がする。俺のは、こう、誰かが、呼んでるみたいなんだよ。たまらないような衝動がさ――」
「おいおい、おまえそりゃあちょっとアブないんじゃないか」
頭をツンツンと触る。
一也はクスリと笑う。
「そうだな、狂ってるのかもな」
「おまえよぉ、あんまり変なことばかり考えるな。青少年は青少年らしく運動にでも励んでみろ。ストレス発散するかもしれないぞ。それでもって可愛いガールフレンドでもみつけて青春なんてもんしてみろや」
神崎のほうが情けない面をしている。
「やなこったい。女の子はともかくとして、運動部なんてモン、死ぬほど嫌いだね。団体行動なんてとれねえよ」
「そりゃそうだろうな」
授業も受けられないのだから。
「じゃあ一度、家庭訪問でも行くかな。おまえんとこと萩森んとこだけが、懇談会に親が来てなかったからさ」
「そりゃそうだろ。ババァに知らせてないからな」
「なんだと?じゃあ俺が電話して頼んだ相手は誰なんだよ」
「従兄弟の姉ちゃん。俺がごまかしてくれって頼んだ」
「ったく、しょうがないやつだな。なんでそんなにまでして母親連れてきたくないんだ」
「なあ、萩森もそうなのか?」
「ああ?――そうだな、でもやっこさんの場合、母子家庭だからお袋さん忙しくて会えないそうだ。まああっちは、さして問題はないからいいようなもんだが」
「あんた、なにも見てないんだな、あいつのことをさ」
不意に絡む一也に眉根をよせた。
「なにがだ?」
「あいつのことなんにも見てないって言ってんだ。やつのそんなすました外面にだけとらわれてたら、大切なこと見落とすかもしれないぞ。――もしかして、本当は助けて欲しいって思っているかもしれないし、泣いてるかもしれないじゃないか。誰にも言えない事で悩んでたらどうすんだよ」
神崎は、意外だというような顔をした。
「なあんだ、おまえたち意外と親しかったんだな。ややこしい関係だからアレかと思ってたけどよ」
「なにが?」
「だけどまあ、なんといってもおまえたち兄弟だからな。親しくなってあたりまえか。でもおまえがヤツのことを考えているとは、ちょっと感心したぞ。一年のときなんざ、おまえ完全に無視してただろう?てっきり仲悪いのかと思ったよ。そうか、よかったよかった」
さすがに一也はその言葉に思考が真っ白になった。息がとまる。
「……兄弟……だもんな?」
「腹違いだから色々あるだろうけど。まあおまえんとこのおふくろさんは理解あるみたいだから、そう心配はないだろうけどさ。おまえもなにかと大変だよな、考えてみればよぉ」
「萩森は――聖は、なんか、言ってた?」
感情を読み取られないように、思わず台詞が棒読みになる。
回覧でまわってきた書類に目を通しながらしゃべっている神崎は気づく気配もない。
「ああ。やつは弟とはいえ、おまえとはそんなつきあいしたくないから、そのことについては無視してくれっていってたな。立場的に言えば、あいつの方が肩身が狭いんだろう?」
「……そう、そうか」
「おまえも気を遣ってやってるみたいだし、仲直りしてくれてよかったよ」
にっこり笑って一也をみた。
「そういやぁ、こうしてみれば、おまえたちどことなく似てるよな。ああそうか、おまえがこんな風に黙って座ってでもいれば、雰囲気とか表情とかそっくりなんだ――って、おい久世!まだ話は終わってないぞ、どこいくんだ――」
背後でよびかける神崎を無視し、一也はそのまま職員室をとびだしていた。
「俺と、聖が兄弟――」
その言葉が頭のなかをまわり続けている。他のなにも耳に入ってこない。
「そんな話、しらない!」
聖は、だがそのことを知っていた。
同じ学校に入学してきたときから、彼はずっと一也をそうして見ていたのか。
そんな聖のまえで自分は脳天気に遊びまくっていた。
なに不自由なく暮らしているばかな兄を、どんな苛立ちと憎しみをもって、みていたのだろう。
同じクラスになり、イヤでも真近にみなければならなくなった。きっと彼のなかの溜りにたまった憎しみが抑えきれなくなり、爆発したのだ。
だから一也にぶつけてきていた。
萩森聖が自分につっかかるのかがずっと疑問だった。それが、こんな胸くその悪くなる結果でもって、謎が解かれてしまったのだ。
一也は忘れていた重要なことを思いだした。
ハッとして青くなった。
「じゃあ、あいつ、親父の事も知っててっ――!」
ゾクッとした。
聖は、自分の父親だとしっていて、足を舐めさせていたのか。
相手が知らぬとはいえ、自分たちを捨て、そ知らぬ顔をして苦労をさせ、あんな奇異な立場にならざるえなくした元凶だと、知っていたのだ。
――たまらない。
そんな聖の心を考えると、たまらなくてやりきれなくなる。
一也の大きな瞳から涙がこぼれていた。自分でも気づかぬうちに、次から次へとこぼれ、とまらなくなった。
「憎んで当然だ。俺は――俺は、あいつに憎まれて当然だったんだ」
ガラッとそのとき教室の戸が開いた。
慌てて涙を拭った。
「あれ、久世くんまだのこってたの?さっきのホームルームん時もいなかったみたいだけど、どこいってんだい――ねえ?」
親しげに話しかけてくるのは、副委員長の武智であった。
それほど話をしたこともないくせに、こんな時にかぎってやけになれなれしい。
近づいて来る足音に、一也は顔をそむけて、さっさと帰ろうとした。こんな顔、みられてたまるか。
「ねえ、まってよ。俺さ、一度久世くんとゆっくり話がしたいと思ってたんだよ」
こうしてさ、と肩に手をかけられた。
ビクッとしてその手を弾いていた。
電気が走ったようなショックを受けたのだ。
「あれ、目が赤いけど、もしかして泣いていたの?」
「うるさいな、ほっとけよ」
「そんなに慌てて逃げないでも、誰にも言いやしないよ」
ニヤッとわらった。
いつもの気配とちがう。何か別の意志が彼を支配しているような顔つきだ。
「可愛いね、泣き顔も」
その声が二重にダブって聞こえた。
『フッフッフッ弱りきっているようだな。日ごろの威勢はどうしたのだ、スサノオの戦士よ』
「だ、だれだ、おまえは……」
『可愛いのう。たかがこんなことに脅えているのか』
すでに武智の顔ではなくなっている。
『目覚めておらぬとはいえ、そのように可愛い顔をこうもたやすくするとはの。わしはおまえのそんな顔が昔から好きだったのだぞ。信じてもらえぬかもしれぬが、愛しいとさえ思うておったのだ』
クククッと薄暗くなった教室に低い声で響きわたる。
『今世ではじっくりお返しをさせてもらうとするか。おまえを泣き叫び苦しみもだえさせてやろう。さすればこの斬られた首の痛みも少しは慰められるであろうからな』
「何者だ――きさま、なぜ武智にとり憑いている!」
『なあに、この者は、日頃からおまえに声をかけたくてウズウズしておったのだよ。少しでも近づきたいと思うてなぁ。それゆえ、おまえをエサにすれば乗り移りやすかったまでだ』
「武智が俺と話したい?」
絵に描いたように真面目な男だ。
素行の悪い一也に興味をもつとはおもえない。
『信じる信じぬはおまえの勝手だ。わしはおまえを泣き叫ばさせ、ひれ伏させればよいのだ。そうして我がものとして喰ろうてくれるぞ、今度こそ』
舌をなめずり、ズズッと近寄った。
「く、くるな、化物!」
『おびえておるのか――戦士よ、愛いやつだ。さあどうしてやろうかの。二つに分かたれているおまえでは、恐るるに足りぬ。赤子の腕をひねるよりたやすい。さいわい『剣』も側にないことだしな』
「剣?」
一也の脳裏を、一瞬にしてあまたの映像が流れていく。
黒いうねるような八つの影。
闘う戦士たち。
そして左手には、長く銀色にひかる剣が――。
――俺は……
『そのまえに、味見をしてみるのも一興かな。おまえの生気濃い血の匂いに、この者の中の原始の血が反応しておる、ほれ』
一也のぼんやりした視界のなかに、武智の口から牙のようなものが閃いた。グワッと口が裂けるような錯覚が――。
『転生の印はどこにある。おまえの体のどこにあるのだ。それさえ消せば、おまえは一生記憶が戻りはしない。誉れ高き戦死が、平凡な子供として死んでゆくのだ』
クックックッと笑う。
「きさま武智になにをした、離れろ!」
「おーい誰かそこにいるのかぁ。そろそろ下校の時間だぞ、さっさと帰れよ」
武智の周りの熱をもった空気が、瞬間的に消えうせた。
見回りの教師の声が響いてきたのだ。
一也は救われたような気がした。
緊張の糸がきれ、武智に取り憑いていた禍々しい影が、霧散していた。
あとにはいつもの武智だけがのこり、惚けたようなにキョトンとしている。
一也はそれらから逃げるように、教師のわきをすりぬけて教室をあとにした。
あの嫌な声が、いつまでも耳にこびりついてはなれなかった。
まっすぐ家にかえる気もせず、一也は駅のロッカーに常時置いている私服に着がえた。
夜の街の人ごみにまぎれ、目的もなくブラつく。
親も慣れているもので、少々帰ってこなくても、男の子なのだからと大目にみてくれている。もっとも、それに慣れさせるまでが大変だといえば大変だったのだが。
それでも前例である洋介がいてくれたので、けっこう助かっている。腹違いの――兄は遊び人だったので、母をなにかと悩ませていたからだ。
なんだか、こういう風に考えていくと、悪いことはすべて洋介が始まりのような気がする。
兄弟というものは、それほどまでに深く影響を与えるものなのか。身に染みて感じてしまう。
「兄弟……俺と、聖が?」
その言葉が頭のなかを嵐のように駆けめぐった。
気がおかしくなりそうだ。
兄弟がいたことが発覚することも、そう大して珍しいことではなかった。
昔から何度も経験しているし、腹違いの兄弟と暮らすことなど、とっくに慣れている。
はじめは気をつかい、どう接すればよいのかわからなかった。
どうしても他人のようで慣れなかったし、それは相手も同じようだった。
だがそれも最初だけで、雑多な家族構成は、もはや相手がどういう関係同士なのかということが気にならない。
それも家族の中央に、園子という太陽のような存在がいればこそである。
主婦は家庭の鏡というが、まさにいつも笑顔でテキパキ家事をしている彼女を見ていると、人生、悩んでいることなどばからしくなってきてしまう。
だが聖はちがっていた。
どうすればいいのかわからないのだ。
あの異常な母親と、呆けた父親の、あんな異常な状況のなかに、聖を放っておくことはできない。
息子の足を舐めていた父の、ケダモノのようなあの姿だけは、生涯きっと一也を悪夢にさいなめるだろう。
「武智の様子も、めちゃくちゃヘンだったし。――あの声、一体なんだったんだろう」
考えれば考えるほど気が重くなってくる。
それ以上の考えようとしたが、頭がそろそろ拒否しはじめてうた。
危険が迫りつつあることだけは野生のカンが感受している。だが緊張していた体も、そう長い時間さらされていれば、さすがに限界がきてしまう。
「ダーッ、ヤメだヤメだ!こうなったらパアッと遊んでウサでも晴らしてやる!」
父親のキャッシュカードからたんまりおろしているおかげで、軍資金には不自由はない。
金が続くまでゲームセンターにたてこもってやる。一也は意気込むと、手近な店にはいってった。
店内には、相変わらずにぎやかしい音楽が鳴り響いていた。
お仲間たちはすでに席を陣取り、白熱しているようすだ。
格闘技の対戦型ゲームにコインを入れると、コントローラーを握る。これでも中学のころは、鬼才のゲーマーと呼ばれていたのだ。相手をコテンパンにやつけてうっぷん晴らしをしてやる。
だが、その意気込みも、二、三十分も続かないうちに、なぜだか失せてしまった。
次から次へと機種を乗り換えてみたが、やっぱり続かない。集中力がないのと、対戦相手が弱すぎるのとで、まったく勝負にならない。
「クソつまんね。ヤメだ――っ」
店をそのまま出ると、外気はジリッとした熱気がこみあげていた。
まだ初夏だというのに、最近やたらと熱い。ここのところ異常気象がつづいているせいか、体がついてゆけない気がする。
室内外の気温の変化の大きさに、おもわずTシャツをまくり、裾で汗をぬぐった。
何気ない仕草なのに、そんな一也をチラチラみている人間が何人かいた。
いつもどこにいても彼の存在は人目をひいてしまう。
べつに人とかわった行動をしているわけではなかった。ただ本人が気づかぬだけで、彼には特殊な華があるのだ。
それも、原色の煌々とした輝きを放っているために、時として異質感をあたえてしまうことがある。
そうでなくても、ここら辺りの環境はすこぶるヤバそうなものがあった。いわゆる夜の歓楽街なのである。
バーだとか、スナックだとか、クラブだとか。またファッションホテルや、連れ込み専用のいかがわしい店もあり、そんな名前がずらりと並んで、妖しさがとりどりだった。
健全とはいえない雰囲気が、夜が深まるたびに色濃くなっていく。
一也は暑いと悪態をつきながら頭をふった。汗が飛び散り、うなじに流れおちる。
「ねえきみ一人なの?いっしょに遊ばない、おごるわよ?」
声をかけてきたのは大学生ぐらいの女性だった。三人ばかりいたが、わりと顔も身なりもよく、平均点以上だ。手にしているバックはブランドものである。
だが一也はバイバイと手を振る。
彼女たちがさっきから、うかがうような目付きでじっと見ていたことには、さすがに気づいていた。
盛り場ちかくだと、よくこんな声がかかる。
昔はたまについて行き、カラオケだの、飲みだのとおごってもらっていたのだが、そのうち男が何人かまざり、酔った勢いなのか、女といわず色んな人間が一也に迫ってくるのだ。はては乱交まがいのさわぎになり、窮地におちいったことが何度もあった。
そんなやつらは自然と目つきが似ている。
ちょっと前に、冗談にならない状態になりかけたので、滅多な相手にはついて行かない。しかも相手が女といえど、三人だときついものがある。
やっぱりそういうことは、普通に、一対一で遊んだほうが楽しいにきまっている。
まして、一也はけしてナヨっとしたタイプではなかったし、喧嘩早く気性は荒すぎるほうなのに、時には女にまちがえられることがあった。
うつむいて、黙って立っていると、時々男から声がかかるのだ。もちろんボコボコにして追い払うのあが、それは兄――の件があるので、まったく一也に罪がないとはいえないかもしれない。
「ああら、一也くんじゃないのぉ」
野太いダミ声。
嫌な予感がして逃げ腰になった。
「どうしたのぉ、こんなところで珍しいわぁ」
やけに陽気な女言葉。
そうっとふりむくと、やはりにっこり笑ったオカマがいた。しかもあでやかな和服姿で髪をきれいに結い上げている。
真っ赤な口紅と、青い髭の剃りあとのコントラストがまぶしい。しゃなりしゃなりとした立居振舞いには、気の毒なほどがっしりとした体つきである。
「やっぱり一也くんだわぁ。やだあ、懐かしいわねえ。ねえ、わかる?あかりよ。あたし、ミセスブルーの店の、あ、か、り」
キャッとはしゃくようにして胸の前で手を組んだ。
「オカマバーの……」
「やだあ、一也くん、今日もりりしいわねえ。うふふ、こんなところで会うなんて、あたしってついてるぅ。あ、ねえもしかして、洋子ちゃんに会いにきたの、ねえねえ、そうなんでしょ?」
髪をそっと撫でながら色っぽい――と本人が思っている目をしてみつめる。付けまつげが異様に長い。
「洋――洋介になんか用はないよ。ゲーセンで遊んでただけだ。そういえば、あいつの店もこの辺だったっけ?」
「すぐそこよぉ。ねえちょっといらっしゃいよ。洋子ちゃん喜ぶわよ。あの子、あなたのことをいっつも心配してんだからぁ。ねぇねぇ、早くぅ」
むくつけき手にガッシと腕を握られれば、鳥肌がたつのはしかたがない。
こんな時ばかり男の力にもどるのは理不尽な気がする。
「ママも喜ぶわぁ。あのヒトあなたのファンなんだから。一也くんなら、洋子ちゃんよりも、きっと綺麗なオカマになれるって、このあいだも太鼓判押してたのよ。どお?」
「どおって、誰がオカマになるんだよ!」
オカマに連行されながら、サマにならない姿で怒鳴っても、格好にならない。しかもさらりといなされるのだから。
「やあねえ、ちょっとした想像じゃない。それにしてもいやだわぁ、こんなにきれいなお手々して。顔だって、そこら辺の女の子なんて目じゃないくらい綺麗なんだもんねえ。化粧ばえしそうよね。やっぱり洋子ちゃん弟だっていうだけあるわぁ。あの子、いまやうちのナンバーワンなのよ、やあねえ美人て」
自分だってまんざらではない、とどうやら暗に思っているらしい。
「腹違いだよ、あいつとは」
「やーん可愛い子。やっぱり男の子はかわいくっていいわねぇ。食べちゃいたいわぁ。近ごろ女のお客さん増えちゃってさあ、つまんないのよね。一也くんて、す・て・き」
ゾーッと冷たいものが背筋をはしる。見る目が半分本気なのでかなり怖すぎる。
「そ、そういやここらへんて、たしか都窪町だったよな?」
あわてて目をそらした。
「そうよ。都窪町三丁目、ミセスブルーの街は、オカマの街よ」
あかりは断言する。
それはあまりにも都窪町にすんでいる皆様に申し訳ないのではないだろうか。いや、冒涜のような気すらする。だが確かに人口密度は高いと思うので、身の危険もあって、一也はなにも言わない。
「あ、そこよそこ」
一也はそのままオカマバーに連れ込まれていったのだった。
「キャーンかずくぅん」
黄色い悲鳴がまきおこってた。
どれもだが、あまり嬉しくない。
ごついかんばせの皆様ばかりである。
そのなかから、真っ赤なドレスに身を包んだゴージャスな美女が、まっすぐ突進してきた。
逃げる間も与えずガッシッと抱きしめられ、熱い歓迎をうけてしまう。見た目は女だが、やはり力は男だ。胸は当たるが下も当たっている。
「かずくうん、会いたかったわぁ」
「やめろ洋介!気色わるい、離せ!」
引き離そうとするが、かなり力はつよい。ちなみに彼――彼女は大学でハンドボール部のキャプテンをしていた猛者でもある。
「やあねえ、洋子よ。ヨ、ウ、コ。間違えないでよねぇ」
背中をつねられ、目に痛いような赤い唇が襲ってくるのを避けきれない。うめきながら、明日、背中が青く黒くなっていることを確信する。
「やめろぉバカ、離せ――!」
「ねえあたし綺麗?ねぇねぇかずちゃん、あたし綺麗?」
オカマは概してナルシストである。会ったらほめなくてはならない。
「だめよ洋子ちゃん、身内といえど強要はよくないわ。やっぱり同意じゃないとねネ、かずくん」
店の奥から出てきたのは、ミセスブルーこと、名物ママの葵だった。
葵はウフフと不気味に笑うと、ずっしりとした体をゆすり、一也の隣にすわった。大きなイヤリングがシャラシャラと音をたてて揺れている。
「まあ、前に来てくれたときより、すっかり男っぷりがよくなっちゃって。あたしがもう二十年わかかったら、ぜったいセマってたのにねぇ。おしいワァ」
「やだママ、かずくんはあたしの大切な弟なのよ。手ぇだしちゃダメなんだから。それに、あたしはただ、久しぶりに会った弟に、再会のキスをしただけなんですからね、誤解しないでちょうだい」
「あらあら、じゃああたしもしようかしら」
「ちょっと待てよ!俺の人権はないのかよ、冗談じゃねえよ、キスなんてごめんだ!もう離せっってばぁぁ!」
一也がたまりかねて、口をとがらせ叫ぶ。
「あら、うちでは選挙権がないと、人権はないのよ。ねえ、洋子ちゃん」
「ねーママ」
争っていた二人はいきなりにっこりと笑うと、協定をむすぶ。
「卑怯者!むりやり引っ張ってきたくせに」
「はーいあたしでぇーす」
と元気よくあかりが手をあげるのに、店じゅうに笑い声がひびく。
珍客の到来によってはじまった、ママと売れっ子の洋子のかけあい漫才で、急に雰囲気が華やかになっていった。
どうやら客ともども楽しんでいるらしい。
ミセスブルーの店はいつも人にあふれていた。
このご時勢だというのに景気がいいのは、やはり葵ママの人柄からだろうか。
ケラケラと笑い声が絶えない。憩いの場として、男も女もやってくるのだ。
そして死ぬほど笑わされて心から明るくなって帰って行く。
「でもかずちゃんから会いに来てくれるなんて珍しいわね。ねえ、なんかあったの?」
五才違いの兄である洋介は、一也の性格を熟知しているためか、それとも女のカンか、かなり鋭いところがあった。
兄弟のなかで唯一といっていいほど、気があった二人なのである。
十四才のときにひきとられ、十八で家を出て行くまでの四年間だったが、よく一也の面倒をみてくれた。なにかと気にかけ、出ていく最後まで心配してくれていたのだ。
人の心の機微がわかる、優しく細やかな気質の持ち主だった。
もしかしたら一也は、親よりも、この兄にずっと深く心を開いていたのかもしれない。
そうして、それから彼がオカマとして新しい人生を歩みだしたのは、大学半ばの二十一才のときだった。
一也はその間、なにが彼にあったのかは、いまだよくしらない。
ただ久しぶりに会いに来てくれた洋介が、洋子、という女に変わっていたときには、目の前がぐるぐる回るほどのカルチャーショックを覚えてしまった。
「あたしねえ、この子が、もしかしたらホントにあたしの子じゃないのかって思っちゃうときがあるのよ。小さい頃からグチらないし、文句も言わないし、不満な顔もしないのよ。なんだかよけい不憫でね、いっそ手元に引き取ろうかってずいぶん思ってたものなんだから」
「あら、じゃあ引き取ってあげればいいじゃない。別に兄弟はたくさんいるんでしょ?」
久世家の内情をしらない新人の子が聞きかえす。
まさか代議士、久世征史先生のご嫡男であるとは言えない。それに、父が認めている実子は、じつのところ一也だけなのだ。
「一也くんどうしたの?なんかあったの」
「別になんにもねえよ。偶然通りかかったところを、あかりに連れ込まれただけだからな」
いう言葉に迫力がないのは、今日の一也には、洋子の目をだますだけの気力がないとわかっているからだ。
洋子には、一也がめったに人に頼る子ではないのだと知っている。
「いいから、なに?」
――思いは、言葉にして伝えないとわからないのよ。
昔からよくそう言われていたのを思いだした。
はあと観念してため息をついた。
「……兄弟が、いたんだ」
それだけなら、さして珍しいことではない。
「同じ学校でさ――」
まさか同じクラスであり、ついで変な宗教の教祖の息子で、そのうえ親父がそれに入会しており、息子と捨てた女にひれ伏している、とはさすがに言えないけれど。
「名前は?」
複雑な顔をしている一也のなかに、それ以外になにかあると悟ったのだろうか。
「萩森――萩森聖」
「萩森?」
洋子はおしだまった。
一也は急にはっとしたように葵にふり向くと、聞かぬ顔してくれている彼女にたずねる。
「ねえ葵さん、葵さんはこの界隅は長いよね」
「ええ、そりゃあもう。だてに三十五年間、ここで店を開いてないわ。これでももう都窪の顔よ、顔」
オカマのね、とつけ加え笑う。
「だったらここらさ、ここらへんに住んでた、萩森紫ってホステスのことしらないか?」
「萩森――誰だったかしらねぇ」
洋子がいぶかしげにみているのに、一也は、だがそれには答えない。
葵の返事をさぐるように待っていた。
「萩森紫ねえ……」
ああ、と手を叩いた。
「そういえばいたわね、そいう子。たしか『アイラ』でホステスしてたんじゃないかしら。ああ、そうよ、そうそう。乳飲み子かかえて、すごく苦労してた子よ。思いだした」
「どんな風だったか覚えてる?」
滅多にない真剣な一也に、葵はシワのヒダにたまった脂っぽい顔をゆがめ、擦り切れた記憶をひっしで思い返している。
汗が吹きだしていた。
「そうねえ、きれいな子だったわよねぇ。だからよくモテてたんじゃないかしら。一時期、羽振が急によくなってたこともあったし。あ、でもそれから、ある時プッツリ消えちゃって、次に見たときには、いきなり乳飲み子かかえて戻ってきてたんだわ」
口にするとドンドン思い出すのか、軽快にしゃべりだした。
「そうそう、それからというもの、やけくそのように男をとっかえひっかえしてたわ。さいごにはヤクザ崩れの、タチの悪い男に引っかかちゃっててね、売春やらされてたんじゃなかったのかしら。そうよ、それでよく子供が外に放り出されてたのよ。雪の日も雨の日も、母親が客を取ってるあいだ外でじっと待ってたんだわ」
「そ、そんな小さな頃から?」
「ええ。その姿見てたら、もうかわいそうでかわいそうで。でもね、お菓子なんかあげようとしても絶対受け取らない子だったわよ。気性のキツい子だったんじゃないかしら。それに男にうるさがられてか、顔や体によくアザつくってたって話だし。一度なんて、置いて行かれたんじゃないかしらね」
みつけた近所のホステスに保護され、そのまま施設に送られたという。
葵はちょっと眉をしかめ、急に声のトーンを下げ、耳に口を寄せた。
「その子もちょっときれいな子だったからねえ、ときたまウリ、やらされたって話だったわ。あ、これホントかどうかは知らないんだけどね。でも男たちがその子連れ込んでたみたいだからって、春枝姐さんが……」
「――そ、そう」
とっさに、喉に言葉がつまってでてこなかった。
なぜかそのとき真也子の顔が浮かんできた。
小さな真也子が母親に殴られ、父親にのしかかられている姿がみえた。
助けて、助けて、とうわごとのように呼びながら、暴力が通り過ぎるのを待っている。流れる涙を拭ってくれる人もなく、膝をかかえて泣いている小さな子供が、いつのまにか聖の姿にかわっていた。
「……どうして、実の子供なのに?」
「ほんとだわよねぇ。わが子を売っちゃうなんて、母親としてサイッテーよ。鬼畜としかいいようがないわ。ンもう、あたしなら、どんなことがあっても絶対に子供だけは守っちゃうわ。自分を傷つけてでも守り通すわよ。あたし、女が女ってことにあぐらをかいてるのって、一番我慢ならないのよ。ナリはこんなでも、あたしたち誰よりも心だけは純粋な女なんだからねぇ」
そうだそうだと洋子たちが力づよく拳をふりあげる。
自分たちがどれほど苦労して女になろうと、子供を産むということだけは、絶対踏み込めない領域なのだ。
冗談のように言いながら、どこか寂しい目をしていた。
「でもどうしたのかしら、最近紫ちゃん見てないけど。どこかで元気にしているといいんだけどねえ。あの子供くんもね」
元気、というのだろうかあの状況は。
「そうだね」
一也は短く返事をした。
これでまた、胸が痛む材料が増えてしまった。
聖の壮絶な生い立ちの、あまりの幸薄さに、神を恨まずにいられない気がする。
どうして同じ父親の子に、これほど差をつけたのだろうか。
せめて不幸を分散してくれれば、皆が軽くてすんだかもしれないのに。
ふらりと立ちあがった。
「俺、これで帰るよ――じゃあな、ありがとう」
できるだけ楽しそうに笑いながら、そのまま店を出ようとした。
一也の手を洋子がそっと握った。
「……ねえ、その子なの、同じ学校にいる兄弟って?」
無言の肯定をするしかない。
そうなのだ。洋子の弟でもあるのだ、聖は。
「また、来るよ」
一也はどことなく寂しげな微笑を残し、帰っていった。
聞けば聞くほど、聖から向けられる憎しみの理由がわかってしまう。
きっと聖にしても、兄弟に対するどうしようもない、感情のたぎりを抑えることはできなかったのだろう。
同じ血がながれているのに、かたやみじめな娼婦の息子であり、かたや苦労知らずの金持ちの御曹子である。
一也とて、これまで本当に何もなかったとは言えないけれど、聖にくらべれば、ささいなことだと、見過ごしてしまえる程度でしかない。
庇ってくれるものが誰もいない修羅の世界を、聖は身をけずるような思いをして生き抜いてきたのだ。
暗闇からみる光の世界は、どれほどまぶしく、美しくみえただろうか。
遠くて果てしなくて、だがそれは血をわけた同じ父親の子供だとするなら、憎まずにいられないかもしれない。
それを知ったとき、聖の目には、一也はどれほど傲慢な子供にみえたかがわかる。
なぜか彼の思いが、一也には自分のことのように感じられていた。
飢えたこともなく肉体的な痛みを与えられたこともない。それがとても恥ずかしくさえある。欲しいといえば、道理に叶いさえすればすぐにでも買ってもらえたではないか。
家で一人きりになることもなかった。もちろんうるさくて気が狂わんばかりのときもあったし、腹がたってたまらないこともしばしばだった。それでもきっと聖の寂しさには及びもしないことだ。
「――親父のクソ馬鹿野郎め!責任もとねえのに、あちこちに手を出すなってんだ」
足元に転がっていた空き缶をけとばした。
威勢よく転がり、影のなかに消えていった。
『なにを荒れている』
「誰だ?!」
闇が動いたように見えた。
しばらくして、また声がする
『あれほど完璧だったおまえが、たかが転生したぐらいで、こうもあられもなく生々しい感情をむき出しにするとはな、情けないことだ』
「何者――またおまえか!姿をみせろ!」
『魂を裂かれたことは、よほど堪えたとみえる。なるほど、ここにおるというに、おまえの目はわしが見えておらぬようだな』
目を凝らしている一也の目の前で、影がズズッと伸びていった。険のある笑いが低くこだました。
「なぜ、俺につきまとう?!」
『このわしを忘れてしまうとは、レテの川を渡ったぐらいでヤキが回ったもんだ。スサノオの神軍きっての戦士であったおまえが、いまはその影もなくなり下がりおって。あの素晴らしき若者を、こうも無惨に普通の人間としてしまうとは、神とはやはり無慈悲な、恐ろしき存在よ』
馬鹿にしたように笑っている。
訳がわからないがやけに腹がたってくる。
「なにを言ってやがる!いいかげん正体をあらわせよ!」
『わしか?わしはおまえを――喰らうものだ。そして、日月の神の生れかわりであるおまえの魂を、我が妖力とし、日の神の支配する世界を闇に引きずり落とすのだ。そう、まったき暗黒の世界の創造主なるもの――闇の王だ』
「闇の、王だと?」
その言葉の響きが、一也のきんせん琴線を刺激した。大きく体が震えた。
『前回はうかつにもやられ、おまえに封印されてしまったが、今世こそはかならず我が望みを果そうぞ』
目の前の映像には、断末魔の悲鳴がひびくなか、剣を構えている自分がいた。
『復活は間近だ。愚かな人間どもを支配し、苦しみと悲しみと恐怖を与えるために、わしはこの世に必ずや、帰ってくる』
一也の手がなにかを掴むような動きをした。じっと闇から目を離さない。
『きさまらの精気と魂を食らい地の底から甦える。スサノオ神と創造主を抹殺してやるのだ』
牙のようなものが剥きだされ、毒の霧がガッとあたりをおおった。生臭くて息がつまりそうだ。
『そのためには、まずおまえを喰らわねばならぬ』
顔のない闇がニヤリと笑った。笑ったかのようにみえた。
「そうかんたんに喰われるかよ。きさまが何度、甦えろうとも、必ず地底に封し、業火で灼いてやる!」
一也は突然、自分でわからぬほどの激しいたぎりを感じ叫んでいた。
言ってから、ふとそれがなんであるかを知っているような自分の言葉に驚く。
影は不気味に笑った。どこか満足げだった。
雲に隠れていた月が夜空に顔を出した。その気配はロウソクの火が消えるように闇にとけ込できえた。
一也はギリッと唇を噛んだ。
怒りだけが燠火のようにいまだ胸を灼いていた。魂を包んでいた膜を、焼き払っていくように感じられる。
瞬きをして、再び目をあけた一也は、目の前に広がる世界が、どこかいままでとは、違っているような感覚に襲われていたのだった。
Copyright (c) 2006 All rights reserved.