蒼穹の群雲

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1

 はじめ、なにが起きたのかわからなかった。
 いきなり頭上から水がふってきたのだ。
 髪から首につたい、制服をぬらしながら背中にながれる。
 一也は食事の手をとめ、目をしばたかせた。
 「な、なん、だぁ?」
 「悪かったな」
 抑揚のない声が頭上から聞こえてきた。
 顔をあげる一也の目には、ランチトレーに転がっているコップと、まったくといっていいほど表情のない男の顔が映る。
 またこいつだ。
 萩森(はぎもり)(ひじり)
 二年のクラス替えではじめて一緒になった男である。
 こいつに何かしただろかと、一也は舌打ちしながらもまじめに考えていた。
 頭上の男は、少しも悪びれた様子もなく、いつもとかわらぬ冷めた顔をして見おろしていた。整いすぎているのでなおさら冷え冷えと感じる。
 そんな目をされると、言葉がとっさに出てこなくなってしまうではないか。
 言いあぐねている一也に、聖はなにもなかったようなさめた一瞥をのこし、そのまま行ってしまった。
 「お、おいなんだよ、てめぇっ!」
 すっかり怒るタイミングをはずされた一也は、慌てて学食のイスを蹴って立ちあがる。
 しかし時すでにおそし、相手はすでに食堂の出入り口にさしかかっていて、混みはじめたざわめきに声は消されてしまう。
 濡れた髪をかきあげると、憮然としたままたちすくんでいた。
 「なんだよ、ドちくしょうめ!どうみたってわざとじゃねぇか」
 そう、都合よく頭上でコップが転がるはずはない。あきらかにわざと水をぶちまけたのだ。
 「――ったくなんだよあいつはよぉ、いつもいつも腹のたつっ!」
 あまりに平然と事をおこすので、いつも反応できないうちに逃げられてしまう。
 いったい何だというのだろうか。
 机の足を力まかせに蹴り、ドッカリと座り込んだ。
 椅子にまで垂れていた水を尻に感じ、苦虫をつぶしたような顔になる。
 そんな一也を、同じーブルで食べている者たちが驚いて注目していた目をそらす。
 だれも和也に恐々として、文句を言うものはいないが、横目でチラチラみている。
 「ムカつくなあ。俺にばっかりつっかかりやがってあの野郎」
 「水もしたたるいい男だね、一也くん。でも、なにも実践してみせなくても十分いい男だと思うけどなぁ」
 脳天気な声に、片目でギラッと睨みあげる。やはり同じクラスの関口誠人(まさと)だ。
 「どうせ見てたんだろうが、誠人」
 「まあね。でも、萩森くんて、どうしていつも一也くんにからむんだろうね」
 「知るかよ!こっちが教えて欲しいくらいだぜ」
 プイッとふてる一也を、誠人は不思議そうにみる。
 「萩森くんてさぁ、実際、ほかの人にはあたりがすごくいいんだよね。すっごい優等生じゃないか。でも敵意がああまではっきりしているのは一也くんだけだよ。ほんとは何かしてんじゃないの?」
 「ああ?なんで俺が疑われなきゃならないんだよ。悪いがな、萩森なんて、同じクラスになるまで名前も知らなかったんだよっ!」
 吐き捨てるように言う。
 それもそう県下一のマンモス高校なのでさほど珍しいことではない。
 とくに一也は、学校生活に執着がないためか、他人の名前をおぼえるのが非常に苦手だった。
 それどころか、担任以外の教師を、何人知っているか疑わしい。まあ、教師の方では、けっこう有名人らしいのではあるが。
 「そうだよねぇ。だって一也くんと萩森くんじゃ、月とスッポンだもん」
 「なんだと?」
 一也の目がキラリと光る。
 だが誠人はのんきに続ける。
 「だって品行方正、成績優秀、そのうえ容姿端麗とまでいわれている萩森くんでしょ。なにを好きこのんで、一也くんなんかを相手にしなきゃならないか、全然理由がわからないもんね」
 「誠人〜っ!」
 そうなのだ。
 和也ときたら、先生の言うことはきかない、学校はサボる、もちろん課題もだしたことはないし、授業は出ても寝ている。早弁もしょっちゅうしているのだ。
 おかげでひんぱんに顔を出している学生食堂では、おばちゃんのたちのひそかなアイドルになっていた。
 容姿はどちらかというと一也も繊細といっていい顔立ちをしていた。
 なのにそれに反比例している性格のおかげで、いたって粗野にみられている。
 口も荒いし、眼光が学生にしては鋭すぎるので、下級生といわず上級生にも避けて通られているくらいである。
 ちょっとでもつつけば、無事ではすまない、という噂もまんざら嘘でもないかもしれない。
 入学したてのころに絡んだ三年生は、本当に、卒業するまで一也をさけていた。もちろん、何があったかは語らない。
 かたや聖はというと、それこそ絵にかいたような優等生であり、教師たちからも信頼が厚く、将来はT大確実だと有望視されていた。
 物腰のやわらかさといい、人目を惹かずにはいない容姿の端麗さといい、女生徒とからの人気もまずまず高そうだ。
 「ほんと、なにからなにまで違うよね」
 「ちょっとまてよ」
 一也はすごんだ。
 「じゃあなにか誠人、俺が品性がお下劣な落ちこぼれの、厄介者だとでも言いたいのか?!」
 「やだなあ、そこまでは言ってないよ。これは、一般的な見解であって、僕としては一也くんだって、少しはいいところあると思うよ」
 それではまるで少ししかないみたいではないか。
 「顔は、一也くんだって、洋介さ――いや洋子さんに似てるから、美人だし。ちょっと恐めだけど、不良系の先輩たちには可愛がってもらっているじゃないか。多少、口が悪かったりわがままだったり、ケンカ早いだけだよ」
 一也はプッツリ切れて、誠人の頭をなぐった。
 まるでフォローになっていない。
 誠人はズレた金縁の眼鏡を指のはらでおし、もう痛いなぁ、といいながら頭を撫でていた。
 中学時代からのつきあいの誠人は、悪友に対する性格批評はかなり容赦がない。
 しかもそれをサラリと言ってしまうのだから、けっこういい心臓をしているともいえる。
 一也としてもすっかり性格を見破られているので、いまさら遠慮はない。
 だが口に出されると、無性にはらが立つのも、事実である。
 「おまえなあ、もうちょっと言いようがねぇのかよ、ったく」
 「すぐ殴るんだからもう。頭が馬鹿になったらどうするんだよ。それに、一也くんこのあいだもどっかのグループとやってたんでしょ?」
 「うるせぇな。あっちが絡んでくるからいけねぇだよ。それに、おまえここんとこネジが切れたみたいに成長してるからさ、すこし叩いて調整したほうがいいって」
 「無茶いわないでよ。僕まだ175センチだよ」
 なにを根拠のないことを、と文句を言いながら、だが誠人はいつものように隣に座ってくる。
 中学までは、たしかに一也のほうが高かったのだ。なのにここにきて、5センチばかり誠人のほうが高くなってしまった。それがやけに気に入らないので、つい嫌味を言ってしまう。
 「そんなに悔しかったら、一也くんも背を伸ばしなよ」
 「大きなお世話だ!」
 できたらとっくにしている。
 もう一発頭におみまいするのを、誠人は器用にさけた。
 「でもさあ、ほんとどうしたんだろうね。萩森くん」
 「だから、俺のほうが聞きたいよ」
 二年に進級し、同じクラスになってからというもの、連日のようにイヤガラセが続いている。
 こんなふうに、人のすくない食堂で水をかけられるのはいいほうで、限りなくゼロに近い答案用紙を廊下にぶちまけられたり、先日の体育のバスケットでは、ボールを顔面に思いきりぶちあてられ、鼻血が噴水となった。
 弁当をひらいたと思ったとたん、ひっくり返されてゴミ箱へ入り、足にはよくつまずいて転んだ。
 はてには、モップが階段からふり、花壇のホースから水が吹きあげた。借りたビデオの上に荷物が落ちて壊れるにいたっては、さすがに鈍感な一也でも気づかずにはいられない。
 そのどれもが、あまりに平然と、しかもさりげなく無感動に行われるために、つい、怒りそびれていたのだから不思議である。
 だがよく考えてみれば、それらの行為が無表情に行われていることの方こそが、もしかしないでも、ずっと怖いような気がする。
 「考えられるとしたら、一也くんにすごーく好意があるか、死ぬほど悪意があるかのどっちかだよね」
 「悪意にきまってるだろ!これが好意だったら俺は逆立ちして校庭十周してやるぜ!」
 「まあまあ落ち着いて。めったなことは約束しないほうがいいと思うよ」
 どこかわけしり顔に誠人はいうのに、和也はなおさらイライラをます。
 のんびりしていそうな顔のわりには、けっこう鋭いところを誠人はもっているのだ。
 誠人はA定食のトンカツランチを食べながら、冷静な声で忠告した。
 「でもとにかく、さきに着替えたほうがいいんじゃない。初夏とはいえ、カゼひいちゃうよ」
 混みはじめた人の群れが、濡れネズミになっている一也を興味ありげにとうかがっている。
 一也はため息をつく。
 「ったくついてねえなあ。おい誠人、これ片しといてくれよ」
 「はいはい。――ほらぁ、あんまりキリキリしてると良くないよ。まわりにヘンなもんが集まって来てるじゃないか。そうでなくても一也くん、そういうものが集まりやすい体質なんだから、あんまりイライラしないでよね。まあ見えないからいいんだろうけどさ」
 冷静な顔で、気味のわるいことを平気でいう誠人に、一也はヒクリッと顔をゆがめた。
 一般人にはあずかり知らぬ世界が、誠人の眼鏡の奥にある双眸には、いつも見えているのだという。
 一也は自分の背後を思わずふりかえり、もちろんなにも見えないのだが、冷気が背中をなでた気がして、身をすくめる。
 「大丈夫だよ。一也くんて悪運がつよいから。まあよほどのモンじゃないと取り憑けないと思うよ」
 「気色わりいことマジな顔でぬかすな!この霊感少年!」
 怒鳴られた誠人はニヤリと笑っただけだった。
 ときどき意味ありげなことを言っては一也を脅かす。しかもそういわれると、不思議とそんな気がしてきてしまうものだ。
 もちろん、誠人だって、親しくない人間のまえでは一切そんなことは口にしない。
 言えば馬鹿にされるだけではすまないのを知っている。信用している者の前だからこそ、誠人も軽口をたたくのでもある。
 それでも一也は、誠人の瞳に映っているものが、この世界のモノでないことだけは直感的にわかっていた。そんなときの彼の瞳は、まるでガラスのように青い光を放っているのだ。
 「一也くんには、なんでだか強いシールドがあるんだよね。だからめったやたらなモンは近づけないんだよ。まあ、人間の霊や恨みは、別だけどさ」
 一番怖いセリフ。
 「うるせぇ!視えねえモンが信じられるか」
 これ以上ヘンなことを言われたらたまらないと、プリプリして一也はいってしまった。
 「まったく子供なんだから。でもまあ本当に、視えないほうがいい世界もあるからね、この世には」
 フフフっと笑う。
 一也の背後にただよう生霊たちの多さに目をつぶり、それがファンであろうと、悪意であろうと、やっぱり引き寄せずにいないものが一也にはあるのだと感心する。
 本人がまったく気にしていないのだから救いがあるが、これで気でも弱ければ、けっこう障害がありそうだ。
 誠人は眼鏡をはずした。
 まるでそれらから視界を遮断するように目を細め、残りの昼食をかたづけていった。
 


 放課後、一也はひとりで科学の実験室を掃除をしていた。
 もちろん、罰掃除である。
 気持ちよく屋上で昼寝をしているところを、熱血体育教師に発見されてしまったのだ。
 しかも代返までさせていたことがバレ、それも1回や2回ではないことまで知られてしまい、バツとして三日間、科学の実験室の掃除を命ぜられたのだった。
 「ついてねぇっよなぁ」
 一年のときから愛用している場所だった。
 屋上にある風速台のすみは、階段と用具置き場のかげになって、どこから見ても死角のはずである。どうやってもみつかるはずはないのに、教師はまちかまえていたようにやってきた。
 だがその犯人が誰なのかも、もうわかっていた。
 一也はほうきの手を止め、戸口に立っている男を睨んでいった。
 「なんか用かよ、萩森」
 もちろん、密告の張本人である。
 「先生から様子をみてきてくれって頼まれてね。――大変そうだな、こう広いとさ。まあ自業自得だけどね」
 「萩森、おまえとは一回、きちんと話をつけとかなきゃなぁって思ってたんだよ」
 ちょっと凄みをきかせ、眉をよせて顎をもちあげる。
 「なにが言いたいんだい、久世くん」
 「それはこっちが言うことだろう。てめえ、なんで俺にばっかり突っかかってくるんだよ。文句があるんならはっきり言えよ、陰気なことばかりしてねぇでさ。クソハラが立つ!」
 「別に、――君に言うことなんて何もないよ」
 いつもの冷淡なもの言い。よけいにカンにさわる。
 「あれだけちょっかいをだしといて、何もない訳ねぇだろうが。口があるんだったら、ネチネチ小細工せずに、男らしくはっきり言ってみたらどうなんだよ」
 カンッとほうきを床にたたきつけた。誰もいない教室にやけに大きく響いて聞こえた。
 しばらくそのままにらみ合うように見つめあっていた。が、最初に目をそらしたのは、聖だった。
 「――そう、そうだね。じゃあこのさいはっきり言わせてもらうかな」
 造りもののような瞳が、表情をかえてふたたび一也をみすえた。
 どこか尋常ならざる気迫がたちこめ、さすがの一也も一歩ひきそうになる。
 「僕はきみが大っ嫌いなんだよ」
 あまりにはっきりした物言いだった。にさすがに一也も唖然としてしまった。
 「僕はね、きみの存在そのものが嫌いなんだ。その軽薄さも、鈍感さも、我慢できないんだよね。何もわかろうとしないきみの愚かさにはあきれてるよ」
 「な、なんだと?! 」
 「いつもいつも考えなしに行動して、結局は許してもらうんだろ。なんの苦労も知らず親に甘えて、わがまま放題している証拠だよ。まったく傲慢すぎて、虫酸が走るんだよ」
 一也の視線をまっすぐ受けて言いはなった。
 「きみは、他人のことなんてこれっぽっちも考えたことなんてないだろう。しょせんそういう人間なんだ。――そう、きみの腐った両親と同じようにね」
 さすがの一也も言葉につまった。両親のことまで持ち出されるとは思っていなかったのだ。
 もし、どうしようもなく甘ったれた最低の人種だとしても、聖に決めつけられる覚えはない。まして一也の両親の、何をしっているというのだろうか。
 そのことが、聖と関係があるとは思われない。同じクラスになってからの付き合いなのだから、それほど月日は経っていないはずである。
 憎悪にちかい聖の感情はどこからきているのだろう。
 そんな釈然としない一也を見透かすように、聖は冷たくわらい、悪辣に言葉を重ねていった。
 「ねえ、僕が知らないとでも思っているのかい?きみが久世家の跡取り息子で、あの、久世柾史(まさし)の後継者だってことをさ」
 あの、をずいぶん強調して言う。
 「――久世家は代々、代議士の家系で、久世といえば知らぬものがいないほどの名家だろ。しかもきみはそこの一人息子」
 「……」
 「もちろん、その将来はすでに約束されていて、いずれは父親の後を継いで政界に入る予定だ。だから他の連中みたいに授業なんて受けなくても、父親の汚い金で大学はすんなり通してくれる。他人なんて自分にひれ伏すものだから、馬鹿にしてみくだしていればいい」
 一也は切れるような目をして睨みつけた。
 「誰がそんなこといったんだ!てめぇが勝手にそう思ってるだけだろうが!」
 「違うね。見ていればわかるよ。きみたちは人を人とも思っていない傲慢な人種なんだよ。金さえあれば、何だってできると思っている。人の心もプライドも踏みにじる、鼻もちならないやつらなんだ。腐った臭いがプンプンしているよ」
「てめえ――」
 怒りで頭が白くなる。
 たしかに半分は正しいかもしれないが、半分は絶対に違う。
 ――父親がどう思っているかは知らないけれど、一也の心のなかでは、まったくの正反対なのだ。
 「そのうえ母親は、四条財閥のお嬢様だろ。バックがそれじゃあ、いうことないご身分だ」
 たしかに母親の園子は、四条財閥の三女であり、久世家には、政略結婚的な要素を色濃く嫁してきた。
 それでも、いまでは、ちまたで『(みなと)の観音様』といわれるほどに慈悲心深くあり、同情心の厚い賢夫人として、多くのひとに慕われている。
 その噂もまんざら嘘ではなく、彼女は夫の腹違いの兄弟たちの子供や、よそで生ませた女性の子供を、数人ひきとっている。それこそわが子のように愛情をそそぎ面倒をみているのだ。
 だが、一也には、どうして聖がそこまで知っているのかが疑問だった。
 それらのことに関しては、一也は高校にはいってからは、誰にも漏らした覚えはないし、言うつもりもない。いや、隠してきたといったほうが正解である。
 一也は自分をおさえるように、怒りを息と一緒にはきだした。
 「だからって、それがどうしたっていうんだよ?おまえにそんなこと言われる筋合いはねえし、産まれなんて、俺にはどうしようもねえコトだ。あいつらが俺の将来をどう考えていようと俺自身には一切関係ない。操り人形じゃあねぇんだ。――だいたい、頼んで生んでもらったわけじゃないしな。育てられかたや、未来のことまで文句をいわれたって、責任なんかもてねえよ」
 いい加減にしろ、といい捨てる。
 だが聖はさらに軽蔑し、鼻白んだ。
 「そんな風に自分のことすら他人のせいにしてるんだよ。きみは居直ってるだけさ。甘えている証拠じゃないか。わかっていないだろうけど、親譲りの身の毛のよだつ傲慢さってのは、身についてるものだよ。だから、絶対に自分を改めようとしないんだ。――まあいい、豊かで愚かなきみたちに、そんなことを理解しろというほうが無理な話だからね」
 いったん言葉をきり、薄く目をひらき、冷ややかにいった。
「僕はきみが心底嫌いだってことだけだ」
 一也はあまりの言われように、怒りにまかせてドンッと机を叩いた。
 「ああ、おまえに好かれる必要なんてこれっぽっちもないね。こっちから願いさげだ。だがてめぇ、なんでそんなに俺の家のこと知ってんだ?誰に聞いたんだ――」
 言いかけて、言葉を思わず飲み込んだ。
 聖の背後からヌウッと伸びる黒い霧のようなものが見えたのだ。
 それはみるみる膨れあがり、いきなり爆発したように広がっていった。
 教室中に充満し、視界を奪われたようになってしまう。
 一也は硬直したまま動けなくなっていた。
 聖は平然としていて、自分を飲み込むそれらには何も気づいていないようだった。
 まるで時間が止まったような感覚に襲われた。冷たすぎる汗が背筋をなんども流れてゆく。
 「どうしたんだ?」
 急に青くなって立ちすくんだ一也に、いぶかしんだ聖が、ふいに近づいてきた。
 闇もいっしょに近寄り、鳥肌がたった。
 影が一也にむけて大きくたちあがると、飲み込むかのように覆いかぶさってきた。
 やられる、そうおもった瞬間、電気に触れたようなショックがはしった。
 聖が一也の肩に触れていたのだ。
 弾き飛ばされるようにして、闇はなぜか霧散してしまった。かわりに、光が二人のあいだから湧きあがった。
 一也は驚きの目を聖にむけた。
 聖はロウ人形のように固まっている。
 光は聖と――そして自分から発せられているのだ。
 「――これは?」
 声を出したとたん、一也は愕然とした。
 泣きたくなるような甘い感情がいきなり自分に襲ってきた。
 胸が痛くなってくる。
 ――逢いたかった。
 だれかが、そう告げた。
 一也は光に手をのばしかけた。
 そこにすべてを知る、何かがあるような気がした。
 だが指先にふれた光からは、焼けるような憎しみが染み込んでくる。
 『みつけたゾ』
 「な、に?」
 『やっと、みつけた。おまえだ』
 ゴウッと気配が動いた。
 「だ、だれだきさまは?!」
 首に、聖の手が氷のように巻ついていた。
 どこかへ引っ張られるような強い力を感じ、呼吸がほそめられる。
 「あれ、萩森くんと一也くん、なにしてんの?二人でかたまっちゃってさ――」
 声がして、異様な禁縛が一瞬にしてとかれた。
 憎しみの闇は消えていた。
 誠人が顔をだしたのをみて、一也は息をついた。
 聖もようやく我にかえり、自分が何をしていたのかわからない、というように一也の首にまわしていた手を見つめた、さっと引く。かすかに震えている。
 それから一也の視線に気づくと、突き飛ばすようにはなれ、入口でキョトンとしたままだった誠人のわきをぬけて、逃げるように行ってしまった。
 「何してたの?一也くんてば真っ青だよ。ねえ?」
 一也にも答えられない。
 なんだったのだろうか、いまのは。
 「ここ、なんかイヤな気配が残ってるよ。すごく黒くて邪悪なモノ――ああ、イヤだなぁ」
 ブルリとふるえた。
 確かにいたのだ。
 そして、一也の首に手をまわした。憎しみのこもったおぞましいエネルギーにあふれていたのだ。
 「ついに喧嘩でもしちゃったの?やだなあ、まさか虐めたんじゃないだろうね。そういうときってけっこうアレも集まるんだよねぇ。萩森くんすっごい顔で駆けていったよ、そんなに脅かしたらダメじゃないか」
 誠人は急に調子をかえ、おどけたように言った。
 なにか深刻なものを感じたのか、それ以上ふかくは聞いてこない。
 「そんなんじゃねえよ、バーカ」
 「そうなの?――あれ、一也くん」
 一也の顔をじっと見ていた誠人は目を大きくして言った。
 「なんだよ」
 「光が、すごく増してる。シールドが凄く大きくなってるよ」
 「なあに、またワケわかんないこと言ってんだ、」
 「いや、だってね一也くんの光がさらにパワーアップしてるんだもん。普通でも、他の人よかずっと強いのに、なんかこう別の力みたいなものが……」
 一也はこれ以上、わけのわからない話にはつきあいきれないと肩をすくめた。
 叩きつけたほうきを拾い、片づけてしまう。
 「やめだやめだ。おまえもあいつも訳のわかんないことばかり言いやがってよ、俺にはさっぱりだよ。やってらんねえよ」
 教科書の入っていないカバンを手にもつと、さっさと実験室を出て行った。
 あわてて後を追いかけて誠人がついてくる。
 「待ってよ一也くん。なにそんなに怒ってんだい?ねえ、萩森くんがどうしたの?」
 「あいつはな、俺が嫌いなんだとさ」
 「なに、それ?」
 「俺が金持ちの息子で、鈍感で軽薄で傲慢で、それで金持ちの母ちゃんがいるから、大っ嫌いなんだってさ」
 「そう言ったの、彼が?」
 「ああ、面とむかってはっきりとな」
 「へえ、あの萩森くんが……。でも、よく知ってるじゃない、一也くんのことをさ」
 「なんだと?! じゃあおまえは、俺が鈍感で軽薄で傲慢だって言うのかよ」
 襟首を掴みそうになる一也にあわてて身を引き誠人は言いなおす。
 「ち、ちがうよ。一也くんの家やお母さんのことを、だよ。だって、一也くんめったに家のこととか話さないじゃないか。たいていの人は知らないはずだよ、まだね」
 「そんなことは、聞こうと思えば、どこからだって聞こえてくるさ。それにしてもよ、そんなことで恨まれたって、俺が知るかってんだよな。どっちかというと俺のほうこそ迷惑してんだからさ」
 ブツブツ言いながら、一也は家とは逆方向の、繁華街のほうへ向かってゆく。
 なにがなんでも、こういうときは気晴らしが必要なのだ。
 「ねえ、このままゲーセン行くの、今日はどこにする?」
 「そうだな、今日は西尾木のあたりの――」
 言いながら、一也は通りをへだてた向こうがわにいる男に目が釘づけになった。
 誠人の服をひっぱり、建物に見をひそめる。
 「――聖だ、萩森聖がいる」
 「えっ?」
 のんびり顔の誠人は、その言葉にあわてて眼鏡の奥の目をほそくして、一也の視線を追った。
 そこには、制服姿ではない聖がいた。
 スナックの看板わきにある路地前にたっていた。
 学校での優等生顔の彼からはとても想像できない出で立ちをしている。多分、一也に言われなければ、誠人にはわからなかったにちがいない。
 髪をきれいになでつけ、見るからに上物だとわかるパールグレーのスーツを着ていた。細い銀縁のメガネをかけているとずいぶん大人びてみえ、別人のようでさえある。身のこなしといい、振る舞いといい、けっこう板についている。
 どこか人待ち顔で、腕の高級そうな時計を何度もみては、車道をのぞいていた。
 その姿はどこか際だっていて、まわりの雑多な情景からは浮き立っていみえる。
 恋人を待っている様子にもみえるのに、そこにたちこめる気配はなぜか妖しさを感じさせる。
 聖のまえに黒塗りのリムジンが横づけされた。
 車から一人の女性が降りてきた。
 友禅のかなり美しい着物を着ているのが見える。
 二人の体格のいい男がつきそうように一緒に降りると、彼女と聖を囲ってしまう。
 車が邪魔で女性の顔はよくみないが、並々ならぬ気配がある。
 聖は、その女性をやけに気遣うようにして、そのまま路地へ消えていった。
 しばらく茫然とみていた一也と誠人は、ふと目をあわせた。
 「まさかパトロンのマダムと一緒に、ホテルへってなわけでもねぇよな」
 「そうだねぇ」
 誠人がぼんやりと答える。
 「どっちかというと、荻森くん、すごく大切なものを守る番犬ってかんじの顔だったかな」
 「――あいつ、あんな嬉しそうな顔できるんだ」
 一也が噛みしめるように言った。
 「え、なに?」
 「いや、なんでもない」
 一也は自分がもらしたつぶやきに苦々しさをおぼえた。
 あの男の、なにがそんなにひっかかるのだろう。自分を嫌いだと言った、あの憎たらしいやつの顔が、あんなに嬉しそうになるなんて驚いてしまう。
 女性を送ってきたリムジンが、方向をかえて横をすり抜けていった。
 いきなり一也は四車線もある車道を突っ切ると、むこう岸へ渡っていった。
 そのまま聖が消えていった薄暗い路地へ走ってゆき、あとを追う。
 誠人があわてて一也のあとをついてきていたのにもかまわず、そのまま走っていった。



 「一也くんどうしたの?ねえなにする気?」
 建物のかげに隠れてそっとうかがっている一也に、情けなさそうによりそった誠人がたずねた。
 「うるせえな。ゴチャゴチャ言うんだったらついてくるなよ」
 「だってさ、なんか人がいっぱい入ってくよ、ほらまだ来てる」
 ゴミゴミとした路地裏には、場にやけにそぐわない建物がたっていた。
 そこへ人々がおどろくほど飲み込まれて行くのだ。
 「こんなとこに、こんなモノあったっけ?」
 誠人が首をかしげならみあげた。人が三百人は十分入りそうな、モダンな講堂が建てられている。
 まだ新しくて、屋根が六角形なっており、金色に塗装されている。分厚いガラスの飾り窓がついてるが、もちろん黒いカーテンが敷かれているので中は見えない。
 「何があるってんだろうな、こん中に」
 一也が鼻にしわをよせ、うさんくさそうにつぶやいた。
 「つい最近出来たんじゃない?潰れかけたビルを解体してなぁとは思ってたけど、こんなへんてこなモンが建っちゃってたんだね。そういえば母さんがブツブツ言って気がするなぁ」
 「そういやおまえのおふくろさん、ここらへんで商売してたんだっけ」
 「うん、一本筋ちがいだけどね。『運命の館』っていう占い専門の店をひらいてるよ。けっこう当たるって評判みたいでさ、はやってるらしいんだ。若い女の子だけじゃなくて、おじさんやおばさんにも常連がわりといるみたいだよ」
 「やっぱおまえのおふくろだな。妖しげな商売してやがる」
 「なに言ってんだよ。あれでも母さん、世界魔女連合の日本支部会長に推薦されたこともあるんだよ」
 「……」
 一也は聞きなれない言葉に、露骨に嫌そうな顔をした。
 「その、世界魔女連合ってのは何なんだ?」
 「さあ、僕は男だからあんまり教えてもらえないんだけど、世界中の魔力と真実の心をもつ女の組織なんだってさ。これって地下組織だそうだから、あんまり人に言わないでよね」
 「言わないでよねって、そんなこと頼まれても言わねえよ。――ということはさ、じゃあやっぱりおまえ女だったら、やっぱり魔女だったわけ?」
 「そうだよ」
 もちろん、とばかりに迷いもなく言う。
 頭が痛くなった。やっぱり世の中はまだまだ広いのだと、呆れるやら、感心するやらである。
 まともにはつきあいきれない。
 一也は講堂に入っていく人々をみながら、むっつりと不機嫌に言った。
 「にしてもこの気味わりぃ連中だよな。なんで集まってんだろう?ここで何してるんだ?」
 確かに、このなかに、聖もあの女性も消えていったのだ。遠い目だったが、はっきり見ていた。
 「そんなに気になるんだったら母さんに聞いてみる?この界隅で、あのひとの知らないことって、ないと思うよ」
 誠人は控え目だが、確信をもって言う。
 訝しそうな一也ににっこりと笑う。
 「だって母さん魔女だもん」
 一也はため息をついた。

 
 
 「ああら、やあねえ。この子がおまえのいってた子なの、誠人。まあホンッと、なるほどねぇ」
 なにか珍しいものでも見つけたように、大きな水晶で、何度も一也をかざしてみていた。
 そうかと思うといきなり顔をのぞきこみ、あごをつかんで右に左にとひねっては、じっくり検分する。
 「ちょ、ちょっと痛いって、やめろよ――」
 「やだぁ、かわイイわぁ」
 途端に、女子高生のような嬌声をあげた。
 「な、なんだよ、このおばさん」
 一也の顔がヒクついている。後ににじりながら、相変わらずのんびり顔の誠人をにらみつける。
 「おばさんじゃないわよ。あたしはマリア。西尾木町の母と呼ばれている、『運命の館』の白い魔女よ」
 彼女はウィンクをして言った。
 見た目はたしかにおばさん、というには気の毒な若さであった。
 実際に、黒いフード姿ではなく、セーラ服にルーズソックスという格好をさせたら充分イケてしまうだろう。
 頭から黒いフードをかぶり、マントで身を隠しているため、なんとなく魔女らしいが、よくみると、長い髪に青くマニキュアをかけ、毛先にシャギーをいれて、ほどよくカールさせている。
 深紅のルージュも形のよいポテっとした唇によくにあっているし、とても高校生の息子がいるようには見えない。
 だがそこにある奇妙な迫力だけは、隠せない。
 「手を離せよ!いきなりなんだよ、あんたはさ」
 「いやだ、テレてるこの子ってば。ほおんと、かわいいのねぇ。誠人くんが話をするから、どんなやんちゃな子かっなて思ってたけど、まさかこんな可愛いいキレイ系な男だなんて思わなかったわ。ううん、食べちゃいたい。面喰いさんね、これじゃ目が離せないわけだわ誠人くんがさ」
 「そうなんだよ。一也くんて、悪ぶってるわりにはあぶなっかしくてさ」
 母親のとんでもないセリフにも、同じようにかえす誠人はやはり親子だ。
 「誠人てめえ!俺のどこが危ないんだよ、おい?!」
 「ほんとすごいエナジーねぇ。これじゃあ、いらないものが集まってきてもしょうがないわ。ねえ、並じゃないのよ、きみのオーラって。でも、なんでこんなにバランスがよくないのかしら?――んん?」
 グイッと一也のほっぺたを引っ張った。
 「痛いっ!」
 一也の悲鳴を無視して、鼻をつきよせると、いきなり机にすわりこみ、真剣な顔で水晶を見つめはじめる。
 空気が一瞬にしてかわってしまった。
 さすがの一也にもそれはわかった。
 これが、ほんらいの魔女の顔なのである。
 「魂が――魂の大切な部分が、分断されているわ。何か強力な意志により、ねじ曲げられてしまった感じがするわね。……ああ、宿世から約束された戦いが待っているのね。あなたは魂を捜さねばならないわよ。もうひとつの、自分をね」
 「――もうひとつの自分?」
 一也をみあげたマリアの瞳には採光がなかった。
 ゾクッとして、背筋に冷たいものが走った。何を云っているのかはわからないのに、嫌な予感だけはかんじとってしまう。
 フッと表情が柔らいだ。
 「やあねぇ、あんた大変だわ、かずちゃん」
 「か、かずちゃんて、慣れ慣れしいぞ!……それより、俺のなにが大変なんだよ。さっきの意味、俺にはよくわかんねぇよ」
 マリアはカラカラと笑った。
 黒目がちの瞳をおだやかにほそめると、一也に顔を寄せるた。指で鼻をはじいた。
 「生まれてくる前に分かたれてしまった、もうひとつの魂を捜せってことよ」
 「だからなんだよ、それって」
 「もう一つの魂がみつからない限り、かずちゃんはアンバランスってことね。それに引き寄せられて、いろんなバケモンが集まってくるわよ。ホラッ言ってるそばから、こんなにさ」
 一也の肩をかるく払った。
 ほんのわずかだがマリアの手がショートするように蒼く光った。
 「まあでも、それ以上にシールドが強いから心配はいらないかしらねぇ。でも、そんなに霊波が強いのに、なんでこんなに鈍いのかしら?そっちのほうがよほど不思議よ」
 「一也くんには視えないし感じもしないんだよ。これほどのモノに守られているのに不思議でしょ母さん」
 「そうね。かえって不自然よね」
 親子で腕を組み、つくづく一也をみる。
 一也はいやそうに横を向いた。
 まったく妖しげな親子がいるものである。
 「ははん。なあるほど。ねえ、わかったわ」
 マリアが手を叩いた。
 一也が目をあげた。
 「な、なんだよ、わかったって」
 「片割れよ。もうひとつの魂のほうに、かずちゃんの視たり感じたりする能力が片寄っちゃったんじゃない?だから視えないだと思うほうが説明がつくわよ」
 なるほどと誠人が言う。
 「じゃあもうひとりの一也くんにはいっぱい視えてるのかな?」
 「たぶんね。いうなれば、この子がハードでもう一人がソフトみたいな……あら、だったら危ないんじゃない?」
 「なにが?」
 二人が同時に聞いた。
 これ以上なにを言う気なのだ。
 「もう一人の子よ。だって一也くんが防御の力の全部を持っているとしたらさ、片割れはその危機から身を守ることが出来ないってことでしょ。もしアレにでもみつかったら……」
 わけ知り顔にものをいうマリアに、一也は苛立ちが抑えきれず声を大きくした。
 「アレッってなんだよ、はっきり云えよ!」
 マリアはだが、ニタッと笑ったたけだった。何も言わなかった。
 そんな表情だけはなぜか魔女の顔にもどっていて、それより先の領域は絶対踏み込ませてはくれない厳しさがある。
 「まあまあ落ちついて。かわいい顔がしかめっ面じゃあ、もったいないわ。ねえ、それよりなんか聞きたいことあったんじゃないの、あんたち?」
 ああそうだった、と誠人が手を打った。
 「そうそう、ねえ母さん、あのお化けビルのあとに建った建物って何なの?」
 「お化けビル?……ああ、あそこね。あそこって確か、よくは知らないけど、何かの集会場になっているんじゃない?最近ひとがよく集まってはザワザワしてるわね。あんまり近寄らないほうがいいわよ。よくない気がいっぱい放たれてるからさ。この近辺がイヤァな感じになっちゃたのもそのせいよ。――こっちだって、あんなのが近くにあったんじゃあ商売あがったりってなもんだわ、まったく」
 まあ、そのうち潰すか、とボソッと言った。
 「何か言った母さん」
 「ううんべつに。でも関わらないほうが身のためよ。あの邪気、ただもんじゃないわ。気の弱い人だとすぐ取り込まれちゃうわよ」
 一也は薄く目をふせた。
 「じゃあ、あそこで……」
 聖は――萩森聖は、あそこで何をしているのだろう。なぜ、あんなところへ入っていったのだ。
 嬉しそうな顔をして、女性を迎えていた。あんまり優しげなので、つい目を離せなくなった。いまでも目に焼きついている。
 あんな顔もできるのに、なぜ学校では一度も見せたことがないのだろ。
 いつもツンッとすました顔で、決して本心を見せないバリアーをはっていた。
 自分に対するすときにだけは表情をかえるが、だが、憎しみを噴き出した怒りばかりである。
 あんな顔をするとは、想像ができなかった。
 だからただ驚いただけでなく、正直切なくなってしまったのである。
 「一也くんどうしたの?」
 誠人の声に一也はハッとした。
 あいつのことなんか考えたくもないのにと、とたんに不機嫌になった。
 「なんでもないよ」
 ムカツク相手なのに、どうしてこんなに気にかかるのだ。
 一也は自分でも不思議でしょうがなかった。



 一也はぐったりとして玄関をあけた。
 今日はやけに疲れた気がした。
 クラスメイトに、大がつくほど嫌いだと宣言され、そのうえ魔女にまで会ってしまったのだ。
 まさか誠人の母親がそうだとは知らなかった。
 ちょっとばかり変わったことを言うやつだとは思っていたけれど、まさか家庭環境からしてそうだったとはあなどれない。
 誠人とは、中学に入学した時からのつきあいだった。
 偶然、クラスが一緒になり、席が近かったため、いつの間にか社会に適応性のない一也のフォローや世話を、誠人があれこれと焼くようになってしまったのだ。
 一也のほうも、誠人の意外な強引さと物怖じしない態度に慣らされていった。
 誠人は、のんびりした物言いと大人しそうな顔からは想像できないのだが、あれはあれで場慣れしているというか、なんにでも要領よく対処して、うまくまとめてしまうのである。
 けっこう言いたいこと言い、鋭いとろも突くが、それでも、嫌みがないので、なんとなく気がついたら誠人と親友――というか、悪友になってしまっていた。
 「にしてもマリアのやつ、気色のわりいことぬかしやがってたよな」
 ポケットからタバコを取りだし、口にくわえる。
 ライターは父親の部屋から盗んだ、ずっしりと重い白銀のダンヒルだ。
 火をつけベッドに寝転がり、フウッとけむりを吐く。
 くゆる白いもやを仰ぎみながら、また、マリアの言葉を思いだしていた。
 魂がアンバランスなせいで、化物が寄って来るのだといった。
 魂の片割れがいるから一也にはそれが見えないのだと。
 そんなこと知ったことではない。
 そんなもの視えたいとも思わないし、実害だって、今のところなにもないのだから。
 「なに馬鹿なことばっかり言ってやがるんだ……」
 だが、たしか魂の片割れが危険だともいっていたのだ。
 バランスが悪いため、そいつの方がさらに化物に曝されているかもしれないという。
 妙なあせりがジリジリと首のうしろをつめたくしするのはなぜなのか。
 それが事実かどうかもわからないというのに、その一言がこんなも気になってしまう。
 第一それをどうやって捜しだすのだ。手段も方法もわからないのに。
 「なに夢物語りを――。バカみたいだな」
 二本目のタバコに手を伸ばしかけたとき、扉の向こうから楽しげな笑い声が聞こえてきた。
 一也はまたか、と思った。
 相変わらずにぎやかな声だ。
 どうせ居間にはご族御一同さまで、つまらないことを言い、いつものように喜んでさわいでいるのだろう。
 「けっこう離れてるのに今日はやけににぎやかだな。いつもいつもなにがあんなに嬉しいんだか」
 呆れた顔でつぶやいた。
 彼らのそんな様子には、もう慣れているので、見なくてもどんな風だかわかってしまう。
 広い屋敷にもかかわらず、不思議なほど一室にあつまっている。
 飽きもしないでテレビを見たり、笑談したり、喉がかわいたといってはティーカップを傾けている。
 お天気屋の三才年下の亜矢子が、だいたい道化役でおちゃらけるのに、調子のいい佳哉が突っ込みをいれて漫才になる。
 それを智子と真紀、それに甘ったれの正樹が母、園子にひっついたり離れたりしながら笑って見ているのだ。
 そのなかに、最近デートで忙しくなった篤子が居ればチャチャをいれているし、今年大学生になった敬一が時々まじると、なぜか穏やかな雰囲気になってしまう。
 家族――。
 そういう名をつけることによって安心できる、わずかばかりの関わりをもった人間の寄せ集まりである。
 腹違いの兄であったり妹であったり、従兄弟やはとこ、ついで叔母の連れ子だったりして、血のつながらない者たちが常時六、七人はこの家にいた。
 昔からそうであり、とにかくにぎやかでしょうがない。
 一也は気晴らしに酒でものもうとおもい、つまみにをさがしに台所に足を向けた。
 中をのぞくと真也子が椅子にすわっていた。
 十三になったばかりの従兄弟は、一也がふいに現れたことひどく驚き、目をむいた。
 スッと顔が青ざめたかと思うと、小刻みに震えはじめる。
 もっていたジュースの缶が落ちて一也の足もとに転がった。冷蔵庫に張りつき、固まってしまう。
 一也はため息をついた。
 「べつに何もしやしないよ。ちょっと水飲みにきただけだよ」
 言ってみても、真也子の緊張はほぐれない。
 ひどい対人恐怖症なのだ。
 一也は水をいっぱい飲むとそのまま立ち去った。
 冷蔵庫にはりつかれたのでは、つまみはあきらめるしかない。
 真也子は義母である園子にしか、心を開いてないのだ。
 とくに男が嫌いであり、そばに寄るだけで気絶するのかと心配するほど、緊張してしまう。
 それひとつ見るだけでも、前の家がどれだけ彼女の心と体に負担をかけていたかがわかってしまう。
 義父に乱暴されていたらしいと、誰かから聞いた。
 幼いころから実の父母に、殴られたり蹴られたりされ続けていたそうだ。
 幼い子どもは自分を守る術をしらない。ただ襲いくる暴力に身をまかせるしかない。
 そんな真也子のすがたを想像するだけで、胸がわるくなってくる。不憫すぎるではないか。
 父の秘書である村山が、母の願いによって引き取ってきたのだった。父親は、そのときも、何も言わなかった。
 彼は、園子が子供を引き取ることについてはいっさい口をはさまないし、いつもやりたいようにさせていて、すべてを黙認していた。
 それが唯一、浮気者で遊び人で、滅多に家に帰らない、あの男の、気遣いなのだろうと思う。
 もちろんそれだけではない。
 選挙にむけての人気とりなのだとも知っている。そこらへんはさすがタヌキであり、抜け目はない。
 秘書の村山が、家庭のことと父とを結んでいるたった一人の人物であり、何人もの子供を連れて来たのは、いつも彼だった。
 『一也さん、先生は一也さんのことをいつも大切に思ってらっしゃいますよ』
 帰ってこない父にかわり、よくそんなことを言っていた。
 『一也さんだけが自分の子供なんだと、いつもそうおっしゃられています』
 『忘れているわけではありません。ちょっと仕事が忙しいだけです』
 気の優しい兄のような人だと思っていた。
 それが仕事だと知るまでは、だが。
 「けっ、クソ親父、なら俺の顔を見て、たまには何か言ってみやがれってんだ、バーカ」
 一也は髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回すと、部屋に戻るなりベッドにころがった。
 いつしか寝息が聞こえはじめた。
 布団を抱きしめ眠る一也のうえに、天上から漆黒の闇がぽとりと落ち、流れはじめていた。 
 

 
 せっかくの土曜休みだというのに、一也はひどく不機嫌だった。
 昨日の夢見が悪かったせいかもしれない。
 自宅のほうも、いつもに増してうるさいし、バタバタかけまわる足音がやまない。この家には、安眠とか休息という言葉はないのだろうかと思ってしまう。
 それでもみんな一也に気を遣っているようで、離れの部屋へは極力近づかないようにしいるらしい。
 なのに、先頃から飼いはじめた犬が、やたらと一也の部屋へ来たがるので、仕方なく追いかけてきては騒々しくしなるのだ。
 一也は朝食をかきこむとさっさと家を出てしまっていた。
 「静かな休日ってのを体験してみてぇぜ」
 ひとりごちる。
 昨日の今日とて、精神的な疲れというやつが全然とれていない気がする。
 夢も、はっきりとは覚えていないが、なんだかやけに疲れる内容だった気がする。
 誰かと必死で闘っていた。
 かなり苦しい展開になってゆき、ソレはやたらと強くて、斬っても斬っても次々と再生しては、一也に襲いかかってきたのだ。
 剣が手から離れた瞬間、その化物がヌルリと体に巻きつきはじめた。そして、耳もとでなにかささやいた。
 おぞましさのあまり、目が覚めてしまったのである。
 現実世界で、本当に目を覚まさせた張本人は仔犬であり、うれしげに一也の耳を舐めていた。さすがに怒ることもできなかった。
 「あーヤダヤダ、鳥肌たつぜ。俺ヌルヌル系ってあんま得意じゃねえんだよな」
 ウナギとかドジョウとか、納豆とか。
 「でもアレって、何だったんだろう。やけに変な服着て闘ってたけど。――まあ、どうせマリアが変なこと言った影響だろうな」
 空になったタバコの箱を、いまいましそうに握りつぶしてポケットに捻りこんだ。
 そんなにヘビースモーカーでもないのだが、やたらと最近数がふえてきている。
 「それもこれもみんな、あのいまいましい萩森のせいだ!あいつと一緒のクラスになってかイイことが一つもねえ、クソッ!」
 この際なので、何でも聖の責任にして、八つ当ってしまおう。
 ふと聖のことを最近よく思い出していることに気づく。さらにさらにばからしくなって舌打ちをした。
 重い息をはきだし、気を取りなおして青い空をみあげる。
 「まあでも、うかうか家にいて、掃除やら買物やらにひっぱりまわされるより、いいか」
 はやめに逃げるが勝ちだ。
 幼い頃は、それらもまた楽しくてよかったかもしれない。
 だがもう充分だ。
 腹違いの兄である洋介が、家を出てしまってから、なんとなく一也もそういうのが苦手になってしまっていた。
 タバコも酒も、年のはなれた兄の真似をして覚えた。
 悪いこともいいことも、彼から学んだ。その洋介がいなくなったとき、きっと同じように、自分も家族のことも卒業してしまったのかもしれない。
 それでも、一也はせめてもの親孝行だと、朝食だけはみんなと極力とるようにしていた。
 いまはその努力だけで許してほしい。
 フウッとため息をつくと、自分におびえていた真也子のことが思いだされた。
 彼女だけは、まだ慣れていない。
 出かけに、陰にかくれて、そっと見ていた。一也を特に怖がっているように見えるのに、そうして時々うかがっていることがあるのを知っている。
 だからと言って話しかけても逃げるし、そばにいくと青ざめて、いまにも倒れそうになるのだが。
 まだ十三才の少女が、笑い顔も見せず、母の園子にすがっている姿は憐れだった。
 どこかその目が聖に似ているようだな、と思った。
 もしかすると、敏感な感受性をもったものには、一也の波動は強すぎるのかもしれない。
 なにげなく、歩いているうちに、父親のビルの前にまで来ていた。
 十八階建てのビルのテナントプレートには、のきなみ名の通った一流の社名が並んでいた。
 父親の柾史は、代議士の副業として、建設会社をも営んでいた。このビルもいくつかある貸しビルの一つだ。
 もっとも建設会社のほうは、名目上では叔父が社長となっていた。
 だがその実権は、柾史が握っている。それらは、周知の事実なのだが、誰も口出しするものなどいない。
 「そういや村山、最近ぜんぜん来てなかったよな。どうしたんだろう」
 小さいころから坊っちゃん坊っちゃんといって可愛がってくれた。
 一也は、頻繁にあらわれていた秘書に、やたらと懐いていた自分を思い出し苦笑した。
 優しく抱き上げられるのが好きで、本気で慕っていた時期もあった。
 むろん、彼の正体というか役目は、ただの父と家庭とのパイプラインでしかなかったのだが。
 いや、見張り役といったほうがさらに的確だろう。
 とどのつまり、父親サイドの人間であって、忠誠を誓っているのは父なのだ。
 一也はその息子で、父のオマケである。
 それが幼い頃はわからなかった。それも勝手に誤解していたのは自分なのだからどうしようもない。
 村山は悪くはない。今ではそう思っている。
 一也はエレベーターの、十八階のボタンを押した。父の会社の事務所があった。
 その階のワンフロアーはすべて父が個人で所有していた。
 何がそこで行われているのかはほぼ秘密であり、彼の方針として、本当に信頼を得ているものにしか携わらせていないらしい。
 きっと闇のお金が動いているのだろう。
 ふと一也はいやな感触を肌に感じた。
 空気がザラついていた。
 こういう大きなビルでは、そう珍しくもないことであるが、この感触はどこかちょっと異様だ。やけにこわばった異質な感覚がある。
 エレベーターの階数が上がるにつれ、大きく黒い膜のようなものが張り巡らされているような錯覚をおぼえた。不快さが強まっていった。
 まるで獲物を取り囲む罠のようにさえ感じてしまう。
 ――ここは危険だ。
 一也の中のなにかが言った。
 こういうときの一也のカンはよく当たる。小さい頃からの経験だ。
 チンッという音がして、エレベーターが開いた。降りるかどうかためらっていたそのとき、人影が角を曲がっていくのが見えた。
 一也はゾクッとした。
 まさか、こんなところに?
 萩森聖がいた。
 いや、居た気がした。
 まさかと思い、一也は首ふる。ここは父柾史の個人オフィスなのだ、そんなわけがない。
 だが一也はその影を追っていた。
 考えるより先に、本能的に体が動いてしまった。
 パタンとドアが閉まる音がしたとき、岩のような硬いものがぶつかった。
 「いてぇっ!」
 はじきとばされて尻もちをつく。
 キッとして睨み上げた。相手はビクともしていない。恰幅のいい男だ。
 「お、親父……?」
 一也は、だがすぐに眉をひそめた。
 柾史は息子にぶつかたというのに、デクの棒のようにつったっているだけで、その顔にはまるで表情がなかった。
 まさかいくらなんでも、まだ、息子を忘れたわけはないだろう。
 いや、違う。
 その目には本当に一也が映っていないのだ。外界が、なにも見えていない。
 「親父!」
 「ぼ、坊っちゃん!大丈夫ですか?! なんで――こんなところにっ」
 柾史に掴みかかろうとした一也を、後ろにいた村山が慌ててかけより止めた。
 その手を払い、ギロリと睨むと、ひどく村山は狼狽しているのがわかった。
 「おい村山、これはなんだよ!どうしたんだよ親父は。普通じゃねえぞ!」
 「せ、先生は――」
 「はっきり言え!」
 なにを言われているのかわかっているらしく、村山は視線から目をそらせ、顔をうつむける。
 一也は鋭い視線をかんじ、ゾクリとして柾史を見上げた。
 柾史は一也を睨んでいた。
 目を細め、射すように荒々しい顔つきをしている。まるで敵に会ったようではないか。
 「……親父?な、なんだよこれは……」
 さすがの一也も父親のそんな表情には気をぬかれてしまっていた。
 それが村山のせいだというように、また怒鳴りつける。
 「おい、何だよ、いったいこの親父は!」
 村山はビクッと身を小さくして固まった。
 三十六才にもなる男が、たかが十七才の少年の気迫に飲まれ小さくなっている。
 柾史がフラリと歩きだした。
 それこそ操り人形のように、まるで誰かの命令がきこえ、それに従っているかのように、そのまま社長室へと入って行ってしまったではないか。
 一也は茫然とそれを見ていることしかできなかった。
 やけに頭が痛かった。

 
 
 「急においでになられるので驚きました。――お母様から、なにか特別なご用なのですか?」
 とりつくろうような笑顔で村山が言った。
 一也はひどく機嫌がわるそうに、ムスッとしたままだった。
 柾史のあとを追おうとした一也は、無理やり応接室に引っ張りこまれたのだ。
 それでも、どうごまかそうかと言いあぐねているのか、しばらくは言葉を濁していた。
 「で、いつからああなんだよ」
 一也はまどろっこしいのは嫌いなので、単刀直入にきりこんだ。
 「なにがあったのか正直に言うんだ、村山」
 尋ねるのでも頼むのでもなく、それは命令である。
 殺気がこもった一也の視線に、村山は身をビクリとさせて青ざめた。
 まっすぐで美しい野獣の瞳は、けして嘘を見逃さない。こんなときの一也は鋭すぎる。嘘をいえば、永遠に信頼をなくす。
 「……わ、わかりました。お話します」
 父親好みの美人秘書が、コーヒーを運び終わってでていった。それを待ってからやと口をひらいた。
 出ていく寸前に、秘書は一也に柔らかく笑いかけた。
 いっけん清純そうな女だが、着痩せしているだけで、バストはかなり豊かだった。広い肩口のあいたスーツから、谷間がこんもりのぞいている。笑みは男をさそっているようでもある。
 「相変わらず親父のやつ、美人ばっか選んでやがるよな。まあ趣味だけはいいよな」
 「先生は顔だけでは選びませんよ。ああみえて、かなりのキレものですからね。T大出なんですよ、彼女も」
 「あっそう」
 大学をどこを出ていようと興味がない。
 それにどんなに頭が切れていても、結局は美人でなければ採用しないのだ。どうせ、ついでに味見もしていることだろうし。
 「で、親父のやつはどうしたんだ」
 話がそれてほっとしていた村山はグッと言葉に詰まった。
 そんな彼の態度に、すこし言葉をやわらかくした。
 「まあな、おまえの仕事は、俺たちのことを親父に報告するだけだもんな。こちら側の問いには答えるな、とでも言われているんだろ」
 「か、一也さん……」
 図星らしく、声がうろたえる。
 「一方通行ってことも知ってたよ。まあ、でもちょっとは考えてみてくれよ。俺らだって感情や心があるんだ。それなりの権利ってもんがあるんじゃねえのか?あんたら、どうせ言ったってしようがないって、それくらいにしか思ってないんだろうけどよ。一応は、こっちだって久世の名を名乗ってるんだし。親父のあの状態だってまあ関係ないようなもんだけど、さすがに俺だって、あの状態じゃあ目をつぶれないぜ」
 柾史の置き忘れのタバコをみつけ、火をつけた。フウッと煙を噴き出した。
 「お兄ちゃん――そう、俺はあんたを呼んでいた時もあったよな。あのころは、純粋に、俺のこと好きなのかと思ってたけど、あんたは、俺じゃなかったんだ。本当に好きだったのは――」
 意味深に笑った。言外に意味を含ませている。猫の目のように艶やかで形の美しい野獣の目が、妖しく謎めいている。
 「わ、わたしは別になにも……っ」
 「ああ、悪い。誤解しないでくれ。べつに脅してる気はないんだ。それにさ、誰が誰を思っていようと、俺にはもう関係ないしな。むしろ村山はよく力になってくれたと思っているよ。感謝している」
 視線のつよさはかえず、頭だけを下げてみせる。
 村山はガクリと肩を落とした。
 膝においた握り拳から力がぬけていた。ここまでされてはもう隠せない。
 それに、一也は知っていたのだ。園子に対する、彼の秘めた想いをずっと――。
 「萩森聖」
 「えっ?」
 「が、いたような気がするんだけど」
 クスッと笑った。
 先ほどからの素直な反応に、これでは政界のタヌキ親父共には通用しないなと思った。
 「なぜ、その名を?!」
 「じゃあホントに居たんだな、ここに。あいつなにしに来てたんだ。親父とどんな関わりがあるんだ。まどろっこしい説明は抜きだぜ」
 「――く、詳しいことはわかりませんが、この二、三カ月ほど前からいらっしゃるようになったみたいで。……あの、多分、ですが、そのあたりから、先生のご様子が、少々おかしくなられたような感じをお受けしております」
 「おかしいって、どんなふうに?」
 「お金を――」
 言いにくそうに口ごもった。
 「口座をひとつ、まるまる名義を代えられてお渡しになられました。かなりの額があったはずです。それに貴金属類も、お買い求めになられ、送られたりしていたみたいで
 その他色々と……」
 「なんだよ、それ」
 「よくわかりません。でも先生は、御寄付だとかなんとかと……。新興の宗教みたいなものではないかと推測したのですが」
 「宗教だと?あの親父がか?! 」
 信じられない。何がおこっても、それだけは信じられないことである。
 だれよりも現実主義で、不信心のかたまりのような男のはずだ。
 いったいどんな異変が起こったのだ。
 一也はふと、西尾木に新しく建った、あの講堂を思い出していた。
 たしかそこに、聖が消えていった。
 「まさか……」 
 「一也さんどうされました?なにか思い当たられることでもあるのですか」
 「――いや、状況はわかったよ。まあわかってると思うが、この事、おふくろの耳には絶対に入れるな。ちょっとばかり心当たりがあるから、なんとかしてみる」
 「もちろん園子様にはなにも申しません。でも一也さん、まさか危ない事をなさる気ではないのでしょうね?」
 「だれが。あんなクソ親父のためにそんなマネするわけねぇよ。そんなことより、あんた、たまにはおふくろに顔みせてやれよ。マジで寂しがってるからさ」
 一也はいたずらっ子のような顔でウィンクした。
 「悪かったな、へんなおどしをしてさ。いつも迷惑かけるよ、村山(・・)さん」
 「い、いいえわたしこそ、なにもお役にたたないで――かえって、一也さんを傷つけたみたいで」
 「なにもしてないよあんたは。それに、親父があいつでなくって、あんただったらよかったのにって、マジで思ってたんだからさ」
 アハハハッと楽しそうに笑い、一也は部屋を出ていった。
 美人の秘書が驚いたように一也と、真っ赤になっている村山を見交わしていた。


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