とてつもない消失感が胸をつらぬいた。
「花菜、走るんだ」
「でも今っ――」
ともすれば足を止めそうになる花菜を靱也がきびしく叱咤する。
だが、たぶん靱也にもわかっていたのだ。
たったいま、二人が一族の最後の生き残りとなってしまったことを。
花菜は泣きそうになるのを必死でこらえた。
まるで蜘蛛の糸のうえを走っているようだった。すぐ真下には深淵の闇がよこたわり、堕ちたら二度と這いだせない。そんな不安に飲み込まれそうで、心細くてたまらない。
引かれていた手が、さらに強くにぎられた。
とたんに心の闇が分散し、花菜の動揺につけこもうとした暗鬼が追い払われたような気がした。
けれどその手は冷たかった。
花菜はそれが、感情をみせようとしない、靱也が示すことのできる、たったひとつの悲しみなのだとわかっていた。
二人の荒い息が、洞窟にこだましていた。
闇がそれに共鳴するかのように次第に目覚め、生命のはじまりのように鼓動を刻んでいく。暖かで、まるで子宮にもどったような、奇妙な安心感がひろがる。
二人がひとつに重なっていくようである。
琥珀が苔に光ってみえた。
いつしか神の祭壇のまえにやってきていた。
靱也はたおれそうな花菜を抱き、荒い息が整うのをまってくれた。
「なんだか、ここの空気、前と違っているみたい。よくわからないけど、でも――」
鳥肌がたっていた。
ひどく空気が重くかんじられた。いや、重いのではない。
空気のなかにふくまれる、生命力の密度が急激に高まっているようなのである。
たしかに洞窟それ自体が息づいていた。
花菜と靱也は、そこから特別な力を感じていた。
祝福されているようでもあったが、飲み込まれてしまいそうな恐怖もある。
圧倒的な存在感と力がどこかにひそみ、じっとみつめていた。花菜はそれでも、なぜか逃げようとはおもわなかった。
想いがそうっとやさしく胸に忍び込んできていたからだ。
それは、ずっと花菜を待っていた。
花菜が気づき、受け入れてくれるのを、ここでたったひとりで、まるで靱也そのひとでもあるかのように腕をひろげて待っていた。
花菜は本当はそれが靱也なのではないかと思っていた。だが、別のもののような気もした。急にわからなくなる。
温かい空気の流れを感じ、それにあわせ、花菜のなかに光明がさし込んだ。
心を照らしていった。
いまなら自分が何におびえていたものがわかる。
それは、自分の足音だったのだ。
それらは決して追いかけることなどなかったのに、恐怖が心を塞ぎ、思考を覆っていた。
すべてが明晢になり、暗闇からいきなり日の光のしたに出たようであった。
「わかるわ、わたし」
何かに抱きしめられた。それが靱也なのか、わからなかった。
「わたしは大地であり、空気であり、水であった。壮大な山と小さな虫のあいだに立つ、創造主のたった一つの作品であり、わたしはなにものからも分離した存在ではなかった。この世界の一部だったのね」
花菜は目をとじ、抱きしめられる腕の温かさを、その存在を全身ではっきりと確認した。
「わたしは愛することができる――神と同じように、そして神の一部として」
瞼をゆっくりひらくとまっすぐ靱也を見た。
光をはなつ神の慈愛の瞳だった。
だが、靱也もまた薄く笑った。
どこか人間である部分の存在が、希薄であり、べつの、誰かの意志がチラリとのぞいた。かと思うと、体がふらりと揺れた。
「靱也さん?」
彼の色が薄くなったようにみえた。
蒼く透明な、蜃気楼をおもわせた。
花菜はやっと、靱也がひどく衰弱していることに気がついた。
「靱也さん?!」
よりそう花菜に、靱也は首をふった。
抱きしめていた体を離し、どこかあきらめたような悲しい笑みを浮かべていた。
花菜は驚きに目をみはった。
「ねえ、どうしたの?靱也さんの体、どうして透けているの、靱也さん、ねえ?!」
不安げに呼ぶのに、靱也はたまらず腕をさしだそうとした。だがその拳をグッと握る。
それだけで、彼が、花菜をどれほど抱きしめたいのかわってしまう。
「花菜――」
切なそうに名を呼んだ。
ボウッと明りが灯るように靱也は発光をはじめた。
なにか重い罪でも告白するように、苦しげに、言う。
「ごめん、花菜。――僕は本当は・・・・本当はもう、実体ではないんだ」
靱也の言葉の意味は、よくわからずなかった。
ただ、ひどく恐ろしいことを聞いたような気がして、首をふっていた。
「僕と美弥は、ほんとうは二人でひとりだったんだ。一つぶんの、体と精神しか、もっていなかった。・・・・美弥は体だけで、だからこそ本能のみで生きていた。僕は・・・美弥のみる夢、のような存在なんだ。だから精神だけの・・・・・・」
言いながら、靱也の影はますます薄くなっていった。まるで洞窟がみる夢のように、おぼろげではかない。
「だから、美弥が消えてしまったいま、僕はもう、この世には存在できないんだ。おまえのそばにいられないんだよ、僕だけでは・・・」
「やめてよ、こんなときに冗談はやめて。だって、靱也さんはここにこうして存在しているじゃない。私の目の前にちゃんといるじゃない」
花菜はそれ以上聞きたくなくて、耳をふさいだ。
靱也は花菜のそんな心を理解しているのか、やさしい目をしていた。
「でも、事実なんだ。僕と美弥は互いに均衡を保ち合いながら存在していた。だから、僕がこうしておまえのそばにいられるのも、もう時間の問題でしかない・・・」
「靱也さん!」
思わず叫んだ。花菜には、なぜか痛いほどそれが嘘ではないのだとわかっていた。
堪え忍ぶように靱也は手に爪をたて、その苦悶の表情が、どれほど残酷に彼の心をかきむしっているか物語っている。
彼の心もまた、同じように血が流れているのだ。
「靱也さん・・・・だってっ!」
どんな悔しさが、彼を襲っているだろう。
花菜とともに、どれほど未来に向かって生きたいことか。
家も土地もすて、ふたりだけで呪われた血すら忘れて、おもうさま愛しあいたい。
いまでさえ、こんなに求めあい必要としているのに。未来はこんなところで不意に終わってしまうというのだろうか。
残酷だった。
神は、篠宮の血を、まだ許していないのか。
靱也は精神そのものに花菜の姿を焼きつけようと、花菜をひたすらみつめていた。
その瞳が泣くように揺らいだ。
「ごめん・・・」
「いやよっ!あ、あなたがいなくなるのなら、わたしだって一緒に死ぬわ。一人で生きていたってしょうがないじゃない。一人でなんていやよ、生きていたくなんてないっ!」
たったひとりの孤独は、今まで、もうじゅうぶん味わってきたのだ。
二度目はいらない。
花菜は薄れかかる靱也にすがりついた。
わずかだけ、靱也の温もりが伝わった。
「花菜、僕は――っ」
靱也はうつむいた。
彼の放っていた燐光が消えると、まるでそれが合図であったかのように、闇のなかで何かが動くのがわかった。
二人はだきあったまま、それを見上げた。
闇に闇が重なったような漆黒の空間がひろがった。
猫の目のようなひずみから、巨大な力が噴きだしているのが見える。
圧倒的な力の渦に翻弄され、次元の異なる宇宙空間に二人だけで漂っているようだった。
「この闇。生きているわ」
花菜にはわかる。洞窟のなかに響いている鼓動は、闇自身のものだからだ。
それは、忽然と目のまえに出現した
闇のかたまりかと思われたそれは、花菜の意識も心も飲み込んでしまいそうなほど、大きく偉大な存在だった。
強く激しい生気を吐き出し、花菜を包む。
けして人ではありえない、崇高で峻厳な存在。
「あなたは――」
花菜はおびえることもわすれ、すべてを奪われ、支配されてしまうようであった。それは蜘蛛の形に似ているように思われる。
脳そのものに響いてくるような声が聞こえた。
――我は、天地創造のときよりこの世に存在するものである。この地の守護者でもある
「神――?」
花菜がささやいた。
疑うべくもなく、それは高貴で偉大な絶対の存在であった。
氣の塊のように力強く、そのものの前ではいかなる抵抗でさえ、無力なものだとわかってしまう。
花菜は力に体をゆだねた。
ふわりとした空気のようなものが花菜を支えた。
――人の子よ、いつになれば気がつく。いつまで待てば、我が意を感じ、我の救いの手をとることを学ぶ
――愚かなり。愚かで愛しきものたちなり。なにゆえ我を恐れ、我を裏切る、傲慢なる子供よ。
声は生き物すべてを震撼させるほど、威厳と光々しさに溢れている。
絶対的な力は、無限のひろがりを感じる。
――目の見えぬ赤子よ、汝らが、母を頼り、母の慈愛によって生きているように、生かされていながらもそれを忘れ、わがもの顔に大地を削り、水を汚している。それらは、自ら体をけずり血をよごすことに等しいことでもある。我の命を吸い、己の命を汚していることでもあるのだ。はやく気づけ人の子よ。
気を、失ってしまうかと思った瞬間、巨大な力がいきなり消えた。
それと共に、靱也が力つきたように、ガクンッと地に膝をついた。
「靱也さん?!」
『おまえを待っていた、花菜』
「えっ?」
靱也を気づかうように慌てて膝をついた花菜は、その声の違和感にひるんだ。
靱也から発せられているのに、靱也の声ではない。
先ほどの、声だ。
『花菜よ、我が花嫁となり、その身に我を宿すのだ。おまえをずっと待っていた、花菜』
「わ、わたしを・・・?」
『そうだ。おまえは我を宿し、我はおまえの中でいま一度の命となりて甦える。そしておまえたちの血を清めよう』
花菜は茫然として聞きながら、まだ、意味がよくわかっていなかった。
『花菜、おまえの命によって、我を再び甦えらせるのだ。我はずっと、おまえと靱也の存在が産まれてくるのを待っていた。ここに来るのを長の月日、首をながくして待っていたのだ』
うまく働かない思考で、やっと、かれの言葉が意味しているコトの重大さに気づいたとき、花菜はすくんでしまった。
『我をその身に宿せ。花菜、我を産め』
「で、でも・・・でも、私は、靱也さんを」
恐ろしさに冷えた手を、すがるように靱也にまわした。
とたんに花菜は胸が締めつけられてしまった。靱也の存在が薄くなり、空気にちかくなってしまっていたのだ。
「靱也さん?!靱也!」
『靱也はすでに我を受けいれた』
靱也は微かにのこっている意識を奮わせ、青ざめた顔でうなずいた。
彼には胸の中から聞こえる言葉の意味がわかっていたらしい。
そう、靱也こそが、最も神の血を濃くうけ、神に近い存在なのだ。
浅い呼吸のなかで靱也は神にすべてを委ねた。
『我を花菜に宿したのち、靱也は繭に入る。そこで物質の固定化をまつのだ。さすれば、靱也は甦える。我とともに、復活をはたすであろう』
「靱也さんが、ほんとうに?」
花菜がギュッと靱也の腕を握った。
どんなに薄い望みでも、ないよりどれほどましか。
『我は大地のはなつ生気そのものであり、自然の結晶である。ゆえに、人々の邪悪な思念によって天地が狂い、また、我の存在も、狂ってきてしまった。
だが、狂いは修正せねばならぬ。我は再生し、ひとたびの休息のあいだに、愛によって清められ狂いを正すのだ。
花菜よ。我を産め、そして育てろ。靱也の子として、我を宿すのだ』
絶対的な命令を、花菜は拒むことはできなかった。
だが、花菜にとっては、もうどうでもよいことだった。
ただ、靱也と再び巡り会えることができるなら、靱也と、愛し合うことができるなら、何も恐怖ではない。いくらでも、待つことができる。
巨大な熱量が靱也の中に沸き上がっていた。彼の体が熱そのものになったかのようだった。
花菜は靱也の瞳にうつる自分だけを見ていた。
うっとりするほど美しい光をはなつ女性がいる。本当に自分なのかとおもうほど、妖しくて麗しい。
靱也ののばす手に、抱かれていった。
熱い抱擁をうけ、口づけと身をとろかすような愛撫に身をゆだねた。
すべては約束のため儀式であり、この地で靱也に逢い、愛し合い、愛によって、靱也のなかの神を受け入れるための道しるべなのだ。
靱也の狂おしいほどの情熱に翻弄された。
すべての愛の行為は花菜に熱をおこさせ気を狂わせた。
身が引き裂かれるような靱也のおもいが、遠い、無いはずのしあわせな過去の記憶をよみがえらせてしまう。
いや、それはもしかしたら、未来の記憶だったのかもしれない。
涙が、幸せな涙がながれてゆく。
「花菜、愛している」
靱也がすべてを吐き出して言った。
「愛している花菜。もし、この体に存在するものが、僕だけではないとしても、いまこの瞬間、この時に与えることのできるすべては僕自身であり、心そのものだ。まっていてくれ、花菜。かならずおまえのところに帰って来る。だから、まっていて――」
花菜の意識に擦り込むように、何度も何度も繰り返して言った。
花菜は気が狂ったようにうなずきながら、歓喜の涙をこぼしていた。
これ以上、どうやれば靱也の存在を感じることが出来るのかわからないほど、靱也を全身に感じている。
靱也の首に手をまわし彼の愛に答えながら、彼女もまた、運命の女神に変わろうとしていた。
こうなることをどこかで知っていた。
会ったときから、ずっと彼のことだけを、見ていた。彼の心ばかりを、気にしていた。
そこにあるものが、人の影でなかったとしても、花菜は惹かれずにはいられなかっただろう。
大きな意思があり、それこそが神の意思であり、慈愛であったのだ。
とうとう見つけた。
恐怖の向こうにあり、それを越えることが出来たものだけが、掴みとることができる唯一のものを。やっと、手に入れた。
「あなた、そこにいたのね」
花菜は笑った。
なぜ気づかなかったのだ。
神はずっとそばにいた。靱也の中にも、花菜のなかにもいた。
気づいてくれるのを、ずっと待っていた。愛するということは、相手とひとつとなり、彼のなかに神のきらめきを発見することである。
花菜は
それに完全に体をゆだねた。
もうなにもおそろしくはなかった。
なぜなら花菜はこの時こそを待っていたのだ。
愛を与えるものだけが、世界を征服し、恐れることを失わない。
愛は心が決め、意識とは関係がない。それだけが、本当に意味があることなのだから。
花菜は靱也のなかに太古の記憶が見えた。
目に映る世界の裏側にあるものが、花菜のまなざしを正し、虫たちの歌を教えてくれる。彼らの語るながい物語を、悲しみの叫びを、教えてくれる。
「この歌を、ずっと聞いていたの?」
花菜は涙が流れるのをとめられなかった。
そこにいるのは神なのか、靱也なのかわからない。
だた、こんな悲しい歌を、ここでずっとひとり聞いていたのかと思うと、たまらなくなった。
心が病み、神という名のこのひとが、誰かを欲したとしても責めることはできない。菖子の嘆きに呼応し、彼女の心を欲したとしても、仕方がない。
菖子もまた、おなじであったのだから。
『水は水をもとめ、油は油を求める。万物のかたちは、その赴くところ、なすべき姿とならん。我は、そなたの血となり肉となり、体の一部となって、産まれてくるだろう』
花菜は抱かれながらぼんやり聞いていた。
祝福の光を放つむれが空中を舞っていた。
それは、叔母たちだった。
一族の、悲しい定めを生き、神に身を捧げ死んでいった女達が、解放される歓びに、飛びかっている。
「花菜、指輪をくれるかい」
眠りにつきかけた靱也が花菜にささやいた。
「女の肌につけた宝石は魔力がある。ふたたびおまえに会うための、約束だ」
花菜のわたす指輪を、靱也の小指につけた。
ふうっと、靱也は幻のように笑った。
それが最後だった。
無数の糸が彼をとりまいていった。あっというまに、靱也は蜘蛛の糸の中にとりこまれ、巨大な繭となってしまった。
きっと靱也にはわかっていたのだ。
女たちに食べられた一族の男が、決して不幸ではなかったことを。残される女の運命を悲しみ愛おしんだことを。
「わかっているわ。――そう、私は知っているの。ただ、愛すればいいということ」
花菜は下腹を愛しそうに撫でた。
そこに生命がいることを全身で感じていた。
「そう難しいことではないわ。ただ愛すればいい、それだけのことだもの。緑を愛し、太陽を愛し、大地を愛するように」
――それは、自分自身を愛することにもつながるのだ。おまえが相手に与える、愛する心も憎む心も、けして消えてしまいはしない。宇宙を循環し、すべて再びおまえのもとに戻ってくるのだ。おまえの心だけが、世界を変えることが出来る。――おまえだけだ、花菜。
声が全身に響く。それが、自分の中から響いてくるように花菜には聞こえていた。
あれからどれほどの時がたったのか、花菜にはわからなかった。
それほどに、一日は短く、そして千秋のようでもあった。
篠宮の家をやきつくした炎は、風にのり、呪いも穢れもすべてやきつくす勢いで、村のすべてを焼きつくしていった。
森が焼かれ、風にあおられて、乾いた作物に飛火し、米倉、家畜小屋、崩れた祠にいたるまで、なにもかもが炎の手にだかれ、灰燼に帰してしまった。
それはまるで神の作為であるかのように思われた。
多くの命が失われ、多くの不浄が焼き清められてしまった。
花菜は過去の記憶をたどりながら、緑の結界にまもられた、村跡をぬけていった。
たったいま開かれたような洞窟をくだってゆく。
あたりをみまわすと、岩窟の天井からかすかに光が差し込んでいた。岩のあいだから日陰に咲く小さな白い花が咲いていた。
花菜はそっと手折ると、口に含んだ。
甘い蜜と優しい命の味がする。
そう、誰もが何かの命を食べて、命を糧にしている。
だからこそ、生きているのだ。
土中の微生物や昆虫が植物の命となり、植物は動物の、動植物は人の命へとつながっている。かれらの死骸でさえ、堆肥となり田畑の土に返り、植物とともに、土のなかの命へとつながってゆく。
命は循環している。
「靱也さん・・・」
命の重みに比して、膨らみはかなり少ないが、たしかに生命のやどっている下腹が動くのを花菜は感じた。
二つの命が、花菜のなかで復活のときを待っている。
それは父親の目覚めに、呼応するかのような変化であった。
こんなに元気に動くのは、かれを、身に宿してから初めてのことだった。
小さな命は、父親の存在を近くに感じ、呼んでいるのだろうか。母が、どれほどの時間を待ち続けたか、きっとわかっているのだ。
「あなた――」
花菜は確信にみちた声で呼んだ。
繭がゆれ、縦に亀裂がはしった。
二つに大きくわかれ、開かれた。
なかから現れたのは、ゾッとするような人離れした、うるわしい青年だった。
靱也である。
眠りについたあのときのままであったが、肉体だけは、完成された男へと変貌をとげていた。
一族の男としても、当主としても、誰に恥じることなく、花菜を迎えることができる。 彼とて無為に時を重ねていたのではなかった。繭のなかでその時をひたすら待っていたのだ。
赤い指輪が小指に光った。
花菜の指輪だった。
約束のときが、やっと満ちたのである。
瞼が、ゆっくりともちあげられた。
けぶる睫のむこうに、闇をも見通す漆黒の瞳があらわれる。
花菜を映すと、やわらかく潤んだ。
「――花菜」
身にしみるような声だった。
両手をひろげ地におりたった。花菜は迷いもなく彼のなかに抱かれていった。
時は成熟した。
新たなる時の鼓動が刻みはじめてゆく。
「待たせたな、花菜」
「ええ、とても、とても長かったわ」
靱也の唇が、花菜の言葉を最後まできかず、すいとった。
甘くてながいくちづけがかわされる。
靱也は花菜を腕にだきとった。
ふたりは、外にでた。
ザッーという風が、野原と化した村をかけてぬけていった。
草がさざめき、木々がゆれている。
村全体を覆う緑が、ふたりを祝福しているかのようにざわめいていた。
「なにもかも、なくなってしまったんだな」
「ええ、ここには、わたしたちだけしかいないわ。――だって、これから、すべてが始まるんですもの」
靱也は花菜をみた。
少女のころのはかなげな頼りなさは、もうなかった。
そのかわり、かつての菖子や沙也子たちですらもちえなかった、生き生きとした、命にみちた、まぶしいまでの気高さと、聡明で悠然とした美しさにきらめいている。
一族の女だ。
いや、一族の女神である。
神は、彼女のこの姿を、知っていたのだろうか。
「お帰りなさい、靱也さん」
少女のままの笑顔で花菜が言った。
いや、彼女はなに一つかわっていなかった。花菜そのものだ。
彼女の花菜の腹の子供が動いた。
驚いたようにそれをみた靱也は、そっとそこに触れた。
ドクドクと強く脈打っている。
「未来が、ここに入っているんだな」
「私たちの残す大きな未来よ」
小さくて大きな未来。
一人の人間があたえる影響は、この星の行く末に、どんな責任をもっているのだろうか。
そこに待ち受けているのは、けして喜びや楽しみだけではないはずだ。
どんな苦しみや試練が待ち受けているかわからない。
心を傷つけ、悲しみに押しつぶされそうになり、荒れ狂い、泣き叫んだともあるだろう。
「でも、私たちは大地の手のなかで癒されている。だから前へと進んでゆけるのよ」
花菜が靱也に笑いかけた。
「本当に大切なことは一本の草、一本の木の中に、隠されているわ。宇宙のすべてが一つの植物のなかにあって、それを注意深く観察し、謙虚にうけとめ学ぶことを知ればいいだけなのよ」
彼らはいつだって全てを教えてくれているのだから。
そして、それらは自分自身が宇宙そのものであり、草や木、そして愛であることを教えている。
それを知るだけで、すぐにでも幸せになれるのだから。
「待ちましょう。その時が来るのを。人がその事に気づくのを。――大丈夫、わたしたちの子供ですもの、そのときが来ると、信じて待つことがきっとできるわ」
ビュッと、二度目の風がふきさっていった。
花菜の長い髪がなびき、光々しく照りかがやいてみえた。
「花菜、行こう」
花菜の肩を抱き、村の様子をしばらくみていた靱也がいった。
花菜はうなずくと、互いの目をみかわした。
霧がゆっくりとたちこめてきた。
森の中にきえてゆく彼らのすがたを隠すように、あたり一帯を霧がつつみこんでゆく。
いつもとおなじように、空間はひっそりと閉じていったのだった。
―― 何千という愛が交わされた。
だから、あなたがここにいる。 そして、わたしがここにいる。
おわり