糸の館
8
玄関ホールで、菖子を待ちかまえていたのは、村の者たちだった。
かなりの頭数であり、なかに入りきらず、玄関先に溢れだしているものまでいる。
弁護士の寺山が必死にいさめていた。
一言文句をいってやろうと、血気にはやっている若者たちがどんどん侵入してくるのを、どうにかなだめようとして、大声を張り上げている。
菖子は、顔色もかえず彼らのまえに悠然と歩みでていった。
彼らはにわかに色めきだち、今にも飛びかからんばかりの勢いになった。
「皆様おそろいで」
稟としたひと声だった。
水をうったような静けさがただよった。
高貴な女主がうつくしい面差しで一瞥すると、加熱された空気は一瞬にして冷却されてしまう。
「どのような御用件ですの、こんなに大勢でお越しになるなんて」
臆することもなければ、声を荒立てることもない。彼女とて気まぐれに村を治めてきたのではないのだ。生まれながらにしての女王の風格がある。
それまでは、菖子に会ったらどうしてやろうかと物騒なことを罵りあっていた男たちも、すっかり毒気をぬかれてしまっていた。
村の青年団の団長らしき男が、それでも自分がいわねばと気をとりなおしたのか、おずおずと口を開いた。
「お騒がせして、すいませんです。あ、あの、俺たちは、村に蔓延している病気のことについて、話があって来たんです」
「そう、どういった御用むきかしら」
「は、はい。あの、菖子様には日頃からお世話になっているので、たいへん申し上げにくいんですが。先日、製薬会社のなんたらつー男がやってきまして、村の水質調査をした結果とやらを説明したんです」
いいにくそうに、しきりに唇をなめている。
そんなようすに苛ついたのか、隣りの体格のいい男が話しをとって続けた。
「そいつが言うのに、どうもこん家の裏にある山から流れだしとる水のせいだというんです。なんたらいう有毒な物質だとか・・・」
団長が続けて、
「硝酸アンモニアです。そいつが篠宮様の銅山からも出ているらしいみたいなことを言うておって。そのせいで病気が出たんじゃないかって」
気の強そうな女が口をはさんだ。
「村の畑も田圃もみぃんなその水使うとります。そのせいで農作物もできんようになったし、川も汚れて魚がおらんようになったいうて、その先生はいわれてました。だからあたしら、篠宮様に、そのことをお知らせして、どうにかしてもらおうと思うて、みんなで来たんです」
菖子は、興奮して息があらくなった女を無表情にみていたが、とりわけてなにも言いもせず、続きをうながすように頷く。
「そ、それに、このあいだ、神様の洞窟から出てきた死体――ここに通うてらした学者さんみたいだったじゃないですか。しかもそん人が握っとったのは、人間の骨だったって、警察が言っとりました。あの洞窟の中には、なにがあるのかと・・・・」
菖子はそのときになってはじめて優雅に笑ってみせた。だれもが魅せられるようであった。
「銅山はともかくとして、わたくしどもと高澤さんの死が、どうして関係ございますの?」
「い、いえそれは、洞窟に……」
見つめられ、目を白黒とする。
「それよりも、神聖な洞窟に殿方がお入りなるなんて、そちらのほうが大変なことですわ。それこそ約束を違えた罰だと、みなさまそうお思いになりませんの。愚かな男が、自らの好奇心のために神のお怒りをかっただけですわ」
その言葉に含まれる意味は、なんなのか。その場に居たものすべてがゾクっとする。
「この家に入っていった女や子供は出てこないって有名な話があるよな」
「人買い迅衛兵が出入りしてるって――」
誰がいったかわからない小さな話声だった。笑っていた菖子の顔が、とたんに凍りついた。
「では、わたくしどもが人殺しだとでもおっしゃりたいわけですの?村のみなさまが、そう思われていらっしゃるのかしら?」
女王の急激な変化にみな青ざめる。
「非常に不愉快ですわ。そのような中傷、聞き捨てなりません。よろしいことよ、篠宮といたしましても、黙ってはおりませんから」
さすがの彼らも、その言葉のもつ意味の重大さを知っていた。「篠宮の力」、というものの威力は伊達ではない。
すっかり機嫌をそこねてしまった菖子に、みなどうしようかとおたついた。怒鳴り込んできた当初の目的をすっかり忘れている。
機をねらったように寺山が口をひらいた。
「菖子様もどうぞお気をお静めください。皆様も、今日のところは、このままお引き取りになって下さいませ。このように集まりになられたのも、悪意があってのことではないと承知しております。わたくしがこんど製薬会社のほうに出むきまして、正式に調査し、ご報告いたします。どうぞそれまでは、くれぐれも行動にお気をつけて下さいませ。篠宮様のご名誉を傷つけられるようなことがございましたら、こちらも黙っておくことはできませんので」
やさしげな口調ではあったが、それは脅しであった。
これ以上騒げば、それ相応の処置をとる、と明言しているのだ。こんな枯れた土地で村人が生き残っていられるのも、篠宮の力以外のなにものでもないのだ。
誰もがわかっていることであった。
人々は無言で退いた。
だがその目は、どれもがうっくつした怒りに燃えていたのだった。
「私には、一族の血は流れていない」
花菜は美弥ために切った指を口にふくんだ。鉄錆の味がかすかにした。
「それでも、わたしには菖子さんの血は流れている」
いったい、あのひとはなにをして欲しいと言っているのだろうかと、そっとつぶやく。
訳のわからない謎かけの答はみつからない。
花菜は外の空気をすいたくて、庭に足をむけていた。
さきほど菖子と靱也がでかけてゆくのを見た。
弁護士の寺田がいっしょだった。
たぶん、先日の村人達がおしよせたことになにか関係しているのだろう。
直接その様子はみていないが、かなりの人が息をまいて菖子に迫っていたのだと、あとで瑞恵に聞いたのだ。
菖子も靱也も、それらについて詳しいことはなにも語ってはくれないが、村にはどこか嫌な空気が流れつづけていた。
きっと何かがおこる。
その思いはだんだん大きくなってきていた。こんな時の花菜のかんはよく当たる。まるで何かが教えてくれているように。
暗くておもい部屋にいると息が詰まりそうになる。そとに出たくてたまらなくなるのだ。
「お花・・・・そうだ、お水をやらなくっちゃ」
花菜は沙也子が静養にいっているあいだ、庭の水やりを頼まれていたのを思いだした。
いつも早生と二人でやっているのを、部屋からみていた。
なんとなく羨ましいような、そしてどこかしら現実感のうすい紙芝居でも見ているような―― 一瞬のまばたきですべてが消えてしまう、そいういった不安が、いつでも彼らには付きまとっていた。
花菜は、きっと無意識のうちに、沙也子と早生の不均衡さに、気づいていたのだろう。
整然と植えられた庭木や、花壇の花々をみながら、ふと花菜は、沙也子がどんな思いをこめてこの植物たちを育てているのだろうかと思いをめぐらした。
子供が産めないといって帰された彼女の悲しい心を、植物たちは美しい花でなぐさめ、その悲しみを糧にますます美しく咲き誇る。
沙也子はきっと人を愛さないように、植物の檻に自分を閉じ込めたのであろう。
「だから、子供を産まなかったのね」
産めなかったのではなく、産まなかったのだ。
優しい彼女の心は、血のさだめを知り、拒んだのだ。いまなら痛いほどの強さでわかってしまう。自分もまた、靱也の子供を、産みたくはない。
「あの人を食べるなんて、わたしには考えられない」
一族の女たちは、どんな思いで愛する人を食べたのだろう。男は、どうして食べられるとわかっていて、一族の女を愛するのか。
美弥は、そんな彼らの不条理な思いの集積だった。
彼女に心を与えるまえに、悲しみが荒れ狂い精神を食いつくした。
「あっ」
花菜は池のむこうの植え込みに、だれかが立っているのに気がついた。
風がビュッと切れるように二人のあいだを吹き抜けた。
槙原だった。
したり、と笑っていた。
そこにはすでに、正気の色はなかった。
ただもう執着と欲望に焼きつくされ、己の我欲に、人間としての尊厳を喰いつくされたただの怪物だ。
「この小娘め、やっと見つけたぞっ!」
蕾をつけたばかりの金木犀をなぎはらい、恐ろしい速さで追いかけてきた。
花菜はすくみ、ともすれば動かなくなりそうな足をひっしで動かせた。
「本物の宝石はどこにある!さっさと出せ!」
獣じみた走りをみせる槙原はみるみる追いついてきた。
欲望にうずまく思念は、当初の目的さえわすれ、ただ花菜を追うことだけに執念を燃やしている。
長くたなびく髪に、手がふれた。
「やめて!わたしはなにも持っていないわ!」
とてつもない恐怖に花菜が悲鳴をあげた。
髪をそのままつかむと引きよせられた。
槙原はたおれた花菜を上からおさえこみ、ニヤリと黒い笑みを口の端にのぼらせた。
「さっさと出すんだ!おまえが持っていることはわかっている、よくもこんなクズ石つかませやがったな、このアバズレが!」
指輪をとりだし花菜の顔に押しつけた。
「なにが一族の宝だ。クズ石をよこしやがって、二束三文にもなりやしねぇ。こんな玩具なんかを、おまえら金持ちが後生大事にしているわけねえだろうが」
襟首を乱暴に引きあげられ、呼吸がとまる。
「さっさと出せよ!」
「た、たかが人形の宝石じゃない。どうしてそんなものに執着するの?!」
「うるさい!あれは俺の守り神なんだ。俺はあの像のせいで成功したんだ。揃えなきゃならないんだよ。一対で完成体なんだ。俺にはあれが絶対必要なんだ!」
妄執にとらわれ、本当に――彼は自分でいっていることが判っているのかさえわからない。欲望に思考が狂っている。
クワッと目をむいた。
「出せ!さっさと出すんだ化物!俺ときさまらの血がつながってると思うだけで、ゾッとするぜ」
花菜の長い髪の毛がふわりとゆれた。
誇り高い一族の怒りが、花菜の相貌をかえる。
燃える瞳で睨みあげた。
「わたしはあなたの娘なんかじゃないわ。あなたに、わたしたちを非謗する権利なんてない!一族を、裏切って逃げた卑怯者のくせに」
「なんだとォ」
「靱也さんを悪く言うことは許さない・・・」
気性の強い眼をむけた。いつもの花菜とは思われない気迫がある。
さすがの槙原もわずかにたじろぐが、すぐにそれは怒りへと、とって変わった。
「化物のくせに生意気いいやがるな!」
つかみ、空中でそのまま頬をはりあげた。
植え込みに倒れる花菜にのりあげ、刃渡りのあるナイフをとりだすと、首筋にあてる。
「さっさと言うんだ。おまえなんか殺すのなんわけねぇんだ。おまえみたいな化物っ」
ニヤッと唇をしゃくりあげる。
「それにな、もうすぐここへ村の奴らがおしかけてくるんだぜ。おまえらもそしたら終わりさ」
「・・・どういう、こと?」
「単純なもんさ、ちょっと焚きつけてやったら、やつら簡単に舞いあがりやがってさ。予想どおりの行動だぜ」
スッと引いた刃のあとには、血の筋がにじんだ。
「さっさと言うんだ!強情をはっていると、てめえの命がなくなるぞ」
ブラウスのボタンがとばされた。
赤い胸のアザがのぞいた。憎々しげに、そこにナイフをつきあてた。
「死ぬかここで、化物」
「なにをしてるの、わたしの娘にっ!」
甲高い怒号があがった。
激昂に形相をゆがめている沙也子が庭先に立っていた。
療養先から帰ってきたばかりとみえる沙也子は、手荷物をほうりなげ駆けてだしていた。
争うような声がするのに不審におもい、覗きにきたのだ。だが運が悪いことに、ちょうど早生が荷物を運びに行ってしまったあとだった。
「手を離しなさい!よくもわたしの娘に傷をつけたわねっ」
「沙也子さん・・・?」
花菜を殴りつけているすがたに、我をわすれて沙也子は叫んでいた。
きっと彼女は自分でなにを叫んだのかもわかっていない。
花菜は目をみはっていた。たしかに彼女はいま、自分の娘だと言いはしなかったか。
日頃の温和な彼女からは考えられない鋭い顔つきは、まさに一族の女そのものだった。
槙原はまったくひるみもせず、歯をむきだした。
「うるせぇ、てめえも化物だろうが!」
「その指輪っ!」
槙原の手に握られていた指輪に目をとめた。
沙也子はガッと槙原の腕に飛びついた。
女の力とも思えない怪力が腕に食い込むのに、槙原は悲鳴をあげ花菜をおもわず放している。
彼女の爪が肉をえぐるのにあわせ指輪も奪いとった。
「これはわたしの指輪よ!」
「えっ?」
花菜は沙也子をみた。
「あのひとが――成章さんがくれた婚約指輪よ。わたしの赤ちゃんに持たせた大切なものなのに、どうしておまえがもっているの?!」
沙也子から妖気がゆらりと沸きあがった。
埋もれていた記憶が、わが子の危機によりよみがえり、また血のなかに眠っていたモノまでもが、同じく呼び覚まされてしまっていた。
はかなげで手折られた花々のような彼女からは想像できない、わが子を守ろうとわれを忘れた鬼子母神そのひとである。
「こっのォ、化物が!」
血のながれる手をおさえ、槙原はナイフをでたらめに振りまわした。
よけきれずよろめいた沙也子の髪の毛が二、三本風にとんでゆく。
「沙也子さん!」
花菜がささえるように沙也子にすがりつく。
仁王立ちになった槙原は、だきあった親子を残虐な目つきで見おろすと、ナイフを高々とかかげた。
「おまえらなんか死んじまえ!この家のやつらは皆ごろしだ!」
ナイフが太陽の光を反射した。
沙也子は花菜を突き飛ばした。振り降ろされた刃先が沙也子の左腕を切りさいた。
「お母さん!」
花菜はおもわず叫んだ。
自分でも気づいていないが、沙也子の表情が一瞬だけあわくゆるむ。
「早く逃げなさい花菜!」
「お母さん!」
「いいから早く!」
逆らいがたい声音に、花菜は泣きそうになり、よろよろと後ろにさがった。
槙原は舌なめずりをすし、獲物をおいつめるごとく、間隔をつめてくる。
沙也子は槙原をみすえ、切られた左腕をおさえ、一度だけ花菜をみた。
その表情は、おぼろげだった今までの印象をガラリとかえ、強くはっきりとした――過去を思いだした、一人の母のものであった。
「あなたはわたしの大切な子供。成章さんと――あなたのお父様とわたしの愛によって産まれた、大切な大切な宝。だれにも傷つけさせはしないわ。あのひとの、たった一つの形見ですもの」
「お母さん!」
「ふん、化物のくせしやがって。てめぇらみたいな妖怪は消えてなくなればいいんだ。俺が、親子仲良く殺してやるぜ。あの世でゆっくり話でもするんだな」
笑った槙原の顔は、濃縮された狂気がうずまき残忍に歪んでいた。眼前のネズミをどういたぶろうかと画策している猫である。
「さあもっと騒げよ。泣きわめきながら命ごいでもしてみせろ」
「誰がおまえなどに!」
沙也子は毅然と睨んだ。
槙原はナイフを舐め、ジリッと砂をならしたて近づいた。大きくふりかぶると、
「その人に手をだすな!」
突風のような影が走りすぎた。
ナイフを握ったままの姿で槙原は殴りとばされていた。
驚いた顔でみあげるそこには、憤怒の顔をした早生がいた。
沙也子の危機にわれをわすれ、かれは文字どおり、飛んできたのだ。
「きさまぁっ!」
槙原の表情が一変した。口の端から流れる血を腕で拭いたちあがった。
いままで見せていた余裕がいっぺんにふっとんだ。全身の毛が逆立っている。わずかにつながっていた正気の糸が、完全に切れてしまったのだ。
早生と槙原は、微動だにせず、睨みあっていた。
そのかん、早生は沙也子を後ろにかばい、はやく逃げるようにと、背を押した。
ガッと槙原がナイフで襲いかかってきた。
早生はその腕を止め、ひねりあげて殴った。よろつきながらも槙原はすぐに反撃に飛びかかり、地に倒れ、もみ合いになった。
「にげろ、沙也子さん!はやくっ!」
「早生」
沙也子は、ああっ、と小さく漏らすと、祈るように早生をみて、それから花菜の手をとり走りだした。
呆然としていた花菜はひっぱられてゆく。
花菜は気がつく。沙也子の手が小刻みに震えていることに。このひとだって、本当は怖いのだ。
母と知って初めてあたえられる温もりが肌にしみた。こんな形で二人の関係があかされるなんて、なんと皮肉なのだろう。
それでも萎縮していた体がほんのりと暖かくなってくるのがわかる。
激しい殴りあいの音に花菜は思わず振りむいた。半狂乱となっている槙原に、早生はあちこち切りつけられ、血が流れていた。
その時だった。
サワザワと尋常ではない異様な気配が押し寄せてくるのがきこえてきた。
まるで、地震のまえに聞こえる地鳴りのようにひびいている。
黒くヌラヌラと光るかたまりが見えた。
人の頭が、無数に近づいてきていた。土気色の顔が怒気をおび、閧の声をひくく轟かせている。
どの顔も眼球がとびだしそうなほどこわばり、ドス黒い怒と殺気が渦巻かせていた。
彼らのなかの我慢の限界がきれ、残酷な野生の本能に目覚めたのだ。どの顔も正気を欠き、どこか槙原の顔つきににてさえいる。
戦慄すべき光景だった。
手に手に鍬や鎌、ツルハシなどをかかげている。
空にはひときわ濃い暗雲がたちこめ、生臭い空気が吹きはじめている。
かれらの冷気に飲まれ、さすがの槙原も唖然としていた。
まさかこれほどの人数になるとは彼も思っていなかったらしい。
早生は、だが一瞬はやく我にもどって、槙原をおもいっきり殴りたおした。血に伏したのに、そのまま沙也子たちを追いかけ走りよった。
「はやく屋敷の中へっ!やつら普通の状態じゃない?!」
「早生!」
振り返った沙也子がおもわず足をとめた。
目をおおきくしてみつめるのに、早生が首をそらし、振り返る。
「沙也子!」
声をあげ、ふたり前に立ちはだかった。
沙也子は花菜を突き飛ばし、かばうように手を広げ――
ザクッという鈍い音が走り抜けた。
花菜の鼻のさきに尖った竹の柄がつきあらわれた。
ポトリッ、と血の雫が、竹をつたって流れおちた。
「えっ・・・?」
花菜は何が起こったかわからなかった。
そのまま、視線をあげた。
沙也子と早生が折り重なり、その二人をつなぎとめるかのように、青竹がむねをつらぬいていたのだ。
槙原が投げたのだった。
重くなりすぎた松の枝をささえる支柱にしていた青竹だった。
地中にうめてあるそれを怪力で引き抜くと、とっさに怒りにまかせ投げたのだ。
それは見事にふたりをつらぬいていた。
花菜をかばった沙也子を、沙也子をかばった早生を――。
狂人のなせるわざである。
花菜は目をみひらき、目のまえの悪夢に金縛られたように、微動だにできない。
「花菜・・・わたしの、娘っ」
ゴフッと沙也子が血のかたまりを吐いた。愛しげに呼びかけるのに、花菜は声にならない悲鳴をあげていた。
黒い風がそこから四方へ走っていった。
「花菜、愛していたわ・・・・なのに、なんで、忘れてしまってた・・・・かしら?」
「おっ、おか、おかあ――」
声にならなかった。沙也子の目から涙が滝のように流れた。
そして力つきたように、自分をかばった早生の背にもたれる。
早生は、すでにこと切れていた。
「早生、ごめんなさいね・・・、最後まで・・・」
その言葉を、待っていたかのように、早生の姿がかき消えた。
いや、消えたのではなかった。戻ったのだ。
一枚の紙に。人型をした呪符である。
竹に突き刺されているのは、沙也子と、沙也子が巫女として初めて書いた、神流し用の人形の呪符であった。
「な、なんだ、こいつらっ?!」
槙原が、その怪異さに声をふるわせた。
こんなことが目の前でおこったなど、どうやって信じればいいのだ。
たおれた沙也子に花菜は膝をつき、顔をよせた。
「母さんっ!」
「花菜・・・・」
沙也子はかすかに呼ぶと、つめたい手で花菜の顔をそっと撫でた。
それから微笑むと、そのまま、二度と目をあけることはなかった。
「お母さん?!」
花菜は腹の底から叫んでいた。絶叫していた。
涙がとどまるところ知らぬかのようにあふれた。目のまえがかすみ、熱くてよく前がみえない。
早生であった呪符が、ゆらりと揺れた。空へ舞いあがってゆく。
まるでそれは、沙也子の魂を天に連れて昇っているかのようにみえた。
彼の役目は終わったのだ。
花菜はふとそばに誰かの温もりを感じた。
「……お父さん?」
その存在を捜す。
だがなにも見えない。
なぜ一瞬そう思ったのか。
だが、きっとそれは間違っていない。父の魂は、きっと花菜と沙也子に命を与え、すぐそばでいつも見守っていたのだ。
「早生兄さんが、父さんの思念で――?」
「化物めっ!」
くぐもった声がした。
花菜は我にかえった。槙原が、幽鬼のような顔をして、ゆっくりと歩いてきているではないか。
まだ、なにも状況は変わっていなかった。
槙原まだ生きている。命を狙っているのだ。
涙を拭い、花菜は砂を握った。一瞬のすきをついて、顔に投げつけ、逃げた。
「ガキィなにしやがる!」
怒号があがるのにもかまわず、死にもの狂いで逃げた。
目をこすりあげ、わめいている槙原から、少しでも離れなければならない。
屋敷に飛び込んだ。
閉めようとするのに、古びた引戸がやけに重く動かない。
ギシッと動きかけたその寸前、手が差入れられた。
「キャアッ!」
乱暴に引きあけ、花菜をふき飛ばした。
花菜は逃げようとして、髪をにぎられた。
手加減もなく引きあげ、網にかかった魚のようにたぐりよせられていく。
花菜は痛みもわすれ、悪魔の手からのがれようと懸命にもがいた。恐怖に気が遠のきそうだった。
ポトリ――っ。
なにかが天上から落ちてきた。
ポツっポツっとなにかと首をはう。その不快さに手でぬぐった槙原は、それが小さな蜘蛛の子だとわかった。首をかまれて、慌てて払いのけだした。
入口にそった階段のうえで黒い影がザワッと動いた。
天上から壁から、そこらいったいに無数の蜘蛛がたかっているではないか。
「わあっ――!」
さすがの槙原も声をあげ花菜の髪を離した。
気が違ったように払い、踊るように跳ねている。どんな人間であっても、潜在的に小さく動めく無数のいきものは恐怖を与えるのだ。
なにかが天上から垂れてきた。黒い影よりも漆黒の闇そのもの。
それは巨大な蜘蛛―― 瑞恵であった。
蜘蛛は、瑞恵の顔をしてはいるが、もはや人のかたちではなかった。闇に覆われ下半身はよく見えないが、モソモソと足のようなものが動いていた。
口は裂けているかのように真っ赤であり、唇からは、鋭い犬歯がのぞいていた。
「おまえを、殺す日をずっとまっていたわ。邪悪で愚かな人間を、おまえを殺せるのなら、わたしはこの身を悪魔と化しても構わなかったのですもの」
サラサラとした髪が冷たくのびた。
槙原にからみつき、まるで生き物のようにうごめいている。
悪夢をみているようだった。
たとえ一族の血が昏い定めをおっていたとはいえ、まさか、ほんとうにそんな姿を目の当たりにするとは。
「はなせ化物――、ワアッ!」
体が半分もちあげられた。槙原は髪を喉からはがそうと喚き、むしりながらもがいている。
狂気の混乱は、かれにふたたびの禍々しさをとりもどそうとしていた。
すでに狂気が凌駕し、魍魎そのものとなりさがっている。もはやなみの神経ではない。
先祖返りをはたした瑞恵に、握っていたナイフできりつけようとしていた。
瑞恵はスッと姿を消した。切れた髪の毛が散り、小さな蜘蛛になった。
巨大な蜘蛛が階上にいた。
蜘蛛の子たちがザワザワと瑞恵の怒りにあわせてざわめいた。
あたかも呪いの合唱を聞いているかのように槙原にむかってゆく。
「梗子お姉様を殺した恨み――晋一郎さんを死に導いた恨み。おまえは死をもって償わねばならぬ。己の罪業を背負って、今度こそ死ね!」
「うるさいっ!おまえら化物の方こそくたばりやがれ!俺がおまえら一族根絶やしにしてやるぜ。その証拠に、沙也子をいま殺してやったところだ、おまえも死ねっ!」
「なんだと?!」
ザワッと闇が深くなった。
異臭が立ちこめ、蜘蛛たちが毒のあわを噴いて、異様な音をたてはじめた。
「きさま――沙也子お姉様までを手にかけたかっ?!」
赤いふたつの光が槙原を射殺さんばかりに輝き、地獄の底から響いてくるような声がする。
「許さぬ、きさまだけは、許しはせぬ」
花菜は歯の根がかみあわぬほど震えていた。
今にも崩れそうな体を引きずり、必死でこらえて駆けだそうとしていた。
だが、駆けているつもりなのは本人だけであって、ただのろのろと足を引きずって這っているだけにすぎない。
階段の脇にあった飾り棚をひっくり返した。花瓶が派手な音をたててころがった。
その音に、槙原の意識がむけられた。
恐怖のあまり花菜の存在を失念していた彼は、絶好の人質の存在に気がついてしまった。
「あっ・・・」
槙原がものすごい形相で花菜に向かってきた。花菜は動くこともできず、とっさに手にしていた花瓶を夢中でなげつけた。
かなり大きいものだったために、槙原にあたるよりはやく失速し床に跳ねただけだった。
みるからに高価そうな絵付けの花瓶がくだけ、破片が槙原のズボンを切り裂いた。
勝ち誇ったように哄笑し、槙原は花菜に踊りかかった。
花菜は身をすくめた。
だがその手は空中に固定されたままだった。
瑞恵の吐き出した粘着性のある糸のたばに絡め取られていた。
「まだ自分の立場がわかっていないようね、愚かな男」
呆れたように言うと、糸は意志をもって動いているかのように槙原の四肢に絡み、持ち上げた。
闇にしずむ瑞恵のほうへ引きよられてゆく。叫ぶ槙原にかまわず、あざけるような高笑いがわきおこる。
「おまえなど、そう簡単に殺しはしないわ。ええ、殺してなどやるものか」
何度も床や壁にたたきつける。
頭が割れ、血しぶきがあがった。肩の骨の砕けるにぶい音がしていた。
復讐の女神が瑞恵にのりうつっていた。
彼女はそのためだけに生きていたのだ。
喘鳴をあげている槙原を顔のまえに引き寄せた。からだがミシッと音をたて、絶叫があがった。
すべての骨が砕けるかと思うような圧力が加わったそのとき、槙原の手がひらめき、糸がはらりと切りおとされた。
破片だった。花瓶の破片を握っていたのだ。梅の花が見える。
悪あがきにも、槙原は、死に対する恐怖によってさいごの馬鹿力をふるっていた。
予期せぬ行動に、さすがの瑞恵も動きをとめた。
槙原はわずかに自由になった体で瑞恵にぶつかってゆき、胸を足で蹴り込む。その反動で床に転がりあまりの痛みに呻く。
「くそうっ――」
糸の触手がゆるまった。
奇妙な音がして、大蜘蛛の姿がゆらいだ。
「グウっ!」
ゲホゲホと激しくせき込んだかと思うと、口から大量の血が垂れだした。床にぽとぽと落ち、血がとびちる。
槙原の蹴りは、偶然にも彼女の病んだ胸を直撃してしまっていた。瑞恵はそのままドサリと床におちた。深紅の血を吐きつづけた。
小さな蜘蛛が怒りのためか、キィキィ音をたて、いっせいに槙原にむらがった。そのどれもが肉食だったため、かれの皮膚にくいこんでいった。
「ち、ちきしょう!」
微力ながらも槙原を食らおうとしていた。
恐怖に腕をぶんぶん振るいながら、わめいて瑞恵に襲いかかっていった。
大きな破片をにぎると、逆上したおたけびをあげた。
自分の指が切れるのにも気づかず、全力で瑞恵の胸に差し込む。
ドロリッ。青黒いものがながれた。
手が黒い塊にのみこまれ、血がふきあがる。
「わあ――っ!」
槙原は渾身のちからでそれを下まで引き裂いた。ぱっくりと異次元の空間が開いた。
鉱物の錆びたにおいと、なまぐさい膿み病んだ血が、花菜のほほにまで飛び散りながれる。
槙原は夢中で突き刺していた。
血みどろだった。
瑞恵は絶命していた。
花菜は驚きに言葉すらでなかった。
あんなに復讐に燃えさかり煌々としていたはずの瑞恵が、こんなにあっけなく、死んでしまうものなのか。
いや、本当は、とっくに死んでいたのかもしれない。
無理な変身をとげ、力を得たときに、彼女の体はその変化に耐えるだけの力を残していなかったのだ。
死はすでに彼女を絡めとっていた。そして最後の力を振り絞り、瑞恵は絶命した。
それが彼女の執念と、意地であった。
花菜は何かを叫んでいた。泣きながらなにかを罵っていた。
槙原が異様な顔つきで花菜をみていた。
笑っていた。
かれこそが化物だったのだ。
妖怪だ化物とののしり、あたかも正義の剣をむけるかのような顔をして襲いかかってくるくせに、こうまで残虐に人をころしてゆく。彼こそが忌むべき魔物、そのものではないか。
常軌を逸している。
だれが花菜たちを化物だと決めつけたのだ。
平気で他人を裏切り、欲のためだけに同族を殺すことさえ厭わないのも人間であれば、自分のためなら人をはねのけ、神との約束を平気で違えるのもまた、人間である。
「すべては、等しくこの地上に生きているというのに――」
だが槙原のなかには、すでに『殺』という文字しかない。
花菜を殺し、この家のものを八つ裂きにする。その執念だけがいまの彼をつき動かしている。
花菜は逃げた。涙でかすむ廊下を駆けた。
こんな男にだけは殺されたくない。
一族を裏切り、殺そうとする最大の敵だ。絶対に、死にたくない。
「逃げられると思っているのか妖怪がっ!殺してやる――殺してやる――殺してやるっ!」
笑いながら追って来た。
息がきれ苦しくて涙がでた。長い廊下を曲がり、死にものぐるいで走る。
悪鬼におわれ、極度の恐怖と緊張で、さすがに花菜も限界がきたのか、目の前が霞んできた。ふらっとして足元がよたついてしまった。
倒れた。――と思ったそのとき、誰かの手が花菜を抱きとめていた。
「花菜!」
その声に、もうだめだと思っていた花菜は、そうっと目をあけた。
目がうるんだ。靱也だった。
「靱也・・・さん・・・」
花菜は大声で泣きだしそうになるのをグッとこらえ抱きついた。
背に手をまわす靱也の体は、どこかつめたく、にぶく動いている。
生気があまり感じられなかった。まるで深い眠りからむりやり起き上がってきたような印象を、どことなくうけてしまう。
その手はだがしっかりと花菜を抱いていた。
花菜に強く安堵をあたえた。
無意識に花菜は思っている。彼ならどうにかしてくれるのだと。
花菜を追って、曲がり角から顔をだした槙原は、靱也の存在をみると、待っていたとばかりに豪気に笑った。
「みな殺しだ!」
靱也は、まったく表情をくずしもしなかった。悪霊をしずめる魔法使いのように、手を差しだす。意外なほど冷静な声で、
「おまえの捜しているものはここにある」
「――」
「これが、女の像の宝玉だ」
靱也の手のなかの赤い宝石に、槙原は、やっと当初の目的を思いだしたように目をかきひらいた。
殺意に燃えていた顔が、幾分やわらぐが、まだ獰猛さは少しも薄れない。
靱也は槙原の殺意をわかっているのか、余裕の微笑みをうかべて、それをひらめかせた。
「ただし、これは半分しかないがな」
「は、半分だと?!」
「そう、半分だけ」
表情を歪めた槙原をたのしむように、わざと間をあける。
じれるのに、靱也はにっこりと鮮やかに笑う。
「あとの半分はどこにあるんだ!さっさと言え!」
花菜はそんな靱也に呆としていた。彼の腕にだかれたまま、なにをしようとしているのかをじっとうかがう。
「もう半分は、美弥のところにある。彼女が持ってるんだよ、父さん」
そう呼ばれ、さすがの槙原もゾクッと身震いをついた。
親しげな呼びかたが、これほどの怖しさと違和感を覚えさせる人物はほかにはいない。
「美弥と僕は、二人でひとりなんだよ。だから、半分にわけてあるんだ。――ねえ父さん、僕たちはね、ほんとうは、双子なんだよ」
「双子って、まさかっ!」
さすがに槙原は顔色をうしなった。
まさか、あの魔物の娘が自分の子供だとは。
誰がどうみても靱也と同じ年齢だとは思えない。いや、それよりも、もし、そうだとしたら、自分の娘と交わっていたことになる。
自分の娘の肉体をむさぼり、夢中になって犬畜生より劣った、のろわれた行為をくりかえしていた。
「し、信じないぞ!そんな虚言にだまされるか!あ、案内しろよ。どこだ、どこに美弥は、宝石はどこにあるんだ!」
惑わされてたまるかというように、脂汗をにじませながら叫んだ。
彼はやみくもに走り回り、すっかり地理感覚がなくなっていた。どこへゆけば美弥のところにゆけるのかわからなくなっている。
どちらにせよ、宝石を取り戻せば、篠宮の人間はみな殺しにするのだ。
そうすれば娘も息子もなくなる。だれも、そんな破廉恥な行為は、気づかない。
靱也は、驚くほど正直に、槙原を美弥のもとへと導いていった。かたわらから花菜を離そうとせず、だきかかえていたままだった。
何を考えているのだろう。
靱也の冷たい笑い顔が、どこか人間離れしているようで恐ろしい。美しすぎて、身震いがついてしまう。
「ここだよ父さん。ああ、でもあなたはここに来慣れていたんだったねえ」
何もかも知っている、と喉で笑う。
ことばに詰まるのを楽しそうに見ながら、先に階段をおりる。
槙原はゴクリと息を飲んだ。
美弥は薄闇の中で、しどけない格好で横たわっていた。彼が来るのをまっていた。
牢座敷からはすでに出されていた。
はじめてだった。
逃げるでもなく暴れるでもなく、ただ愛らしく小首をかしげて、無意識にしなをつくって槙原をみつめているだけだ。
彼女のつくる仕草は、どれも成熟した女性のように艶やかな色めきがあり、男の劣情をさそわずにはいない馨しさがある。
可憐な着物がはだけた。白い肌が匂いたつようにうきあがった。
甘えるように美しいかんばせを槙原によせてゆくと、そのまま長い赤い舌で手をなめた。
「その、着物の帯に縫い込まれているのが、片割れだよ」
乱れた襟のすぐしたに、赤い宝石の縫い込まれた帯が半分ほどけかけていた。
ごくり、と喉の鳴る音が聞こえた。
槙原はゆっくりと美弥にちかづき、手をのばす。美弥はその手をとり、自分の胸もとへひきいれた。
いつものように足をひらき、着物のすそがわれるのをみせつけた。うっすらと笑う。
「待っていたよ、父さん。俺達に命を与え――心をくれなかった冷たいひと」
靱也がそう甘くささやいたのに、彼はもう、気づきもしない。
美弥が自分の娘だとか、近親姦が禁忌のおこないだとか、そういったすべてのことは、もうどうでもよかった。ただ本能が命じるままに、衝動の声に忠実に従うだけである。
花菜は思わず目をそらそうとした。
靱也は花菜の小さな顔を手でとらえ、それから目をはなすことを許さなかった。
震えながら見つめている花菜のまえで、槙原は美弥の着物を乱暴にみだし、帯をといていった。宝石をむしりとると、ニタリと相好をくずした。
美弥はひざまずくと、槙原の股間に顔をうずめた。幼げな唇が槙原のそれを含んだ。
うっ、と声を漏らすと、心地よさそうに美弥の小さな頭をつかんだ。もっと奥深くまでさしいれよう腰をずらしたとき、ブツッという鈍い音がした。
「ギャァァ――――っ!!」
絶叫があがった。
下半身から血がふきあがり、あたりにとび散った。
美弥はうまそうにそれを咀嚼して、血にまみれた顔を拭いもせず、槙原をみあげた。
狂ったように床をのたうち悶える男に、のそりと、這いよってゆく。
ガッ、ブツッ・・・シャリ・・・・ッ。
体を芯から凍らすような淫猥で残酷な音がした。そのたびに槙原の悲鳴があがった。
彼のからだは、美弥の鋭い歯に喰いちぎられていた。肉をひきちぎり、尖った歯でかみくだき、のみこんでいる。
美弥は恍惚とした表情でそれを食べ続けていた。これ以上ない歓喜におそわれ、悲鳴を心地よく聞いて、至福のような顔をしている。
花菜は目眩がした。フラッとよろけた。
花菜の背をそっと靱也がささえた。もう、視線をそらすことを拒みはしなかった。
槙原の悲鳴が小さくなり、ついに悲鳴すら途絶えてしまった。
「この男が死ぬまで、終わらなかった」
「そう、わたくしたちは、こうしてここで死ぬ日を、待っていたのです」
靱也の声につづいて云ったのは――やはり菖子だった。
菖子は稟然として、その惨劇をみていた。その表情は爛々ともえたぎり、壮絶に美しい。
まるで恋人たちの睦ごとをみつめるかのように目を細め、満足そうにしている。
花菜は彼女の表情のなかに、ひとつの大きな終局がおとずれたことを感じていた。
待ち望んでいた罪人に最後の裁きをくだし、そしてそれすら、なにか大切なことのまえの序章にすぎぬようにみえる。
槙原が断末魔の叫びをあげた。
終末を告げる女神のごとくに、なにもかもがおわってしまった。
「すべては成就しました」
どこか約束の呪文のように菖子がいった。
「わたくしたち一族は、愛するものを食べる呪われた血の末裔。でも、我々とても、人間なぞ喰わずとも、自然とともにありさえすれば生きてゆかれた存在だったはず。……けれど、ひとは簡単に裏切り、そのためわたくしたちのなかに憎しみという感情を植えつけてしまった」
そう言って彼女は肉塊になった槙原をみた。
このような男は、いつの時代にも、どこの場所にもいた。
「でも、最初に神を裏切ったのは、皮肉にも我が一族の男でした」
「ええっ?」
突然の、おもわぬ言葉だった。
「この村に、外国の神に惑わされた侵入者が突然攻めいってきたとき、一番始めに裏切ってしまったのは篠宮の男」
菖子はなにを思っているのか、いきなり語りはじめた。
「小さくとも非常に豊かだったこの村で、ながいあいだ人々は平穏で安楽に暮らしていました。けれどそれは、神の寵愛に慣れすぎ、奢りと弱体化をも招いてしまったわ。だから、突然攻めいってきた侵入者どもに、抵抗することもなく、いちもにもなく降伏してしまうような情けない結果におわってしまった。彼らは土地の神の、慈悲も心もわすれ、おぞましい覇気を吐く男たちを恐れるあまり、裏切ったのよ。そして、一番はじめに異神の徒に服したのが、この地の豪族である、篠宮だった」
「篠宮が?!」
「ええ。こともあろうか、篠宮の者のひとりが、我が神を滅ぼす手助けをしてしまったわ。その後、神の怒りによって森は枯れ、地は荒れはててしまい、人々は長の月日、懺悔の涙に苦しめられることになる。その末に、わが母の一族が召還されて、この地に参じた。けれど、神は我らによって慰められることはなかった。なぜなら、神の花嫁たる一族の巫女は、篠宮の血のものと身を添うてしまったから・・・」
それは神との契約を、最大に穢すことであった。
またしても篠宮の男は、裏切ったのだ。
神はその男の血を許さなかった。
神はその御身の血を加えるために、ひとの子――巫女と交わり、そののち、女は愛する男を食べねば、子を産めぬ身となっていた。
呪いをかけられたのだ。
「我らは神に永遠に忠誠をちかい、仕えねばならぬ囚人へとなりはてたのです」
それらの話は、幾分違ってはいたが、高澤の調べようとしていた文献の中の一節であった。それにはまだつづきがあった。
「けれど時はたち、人々のあいだからは次第にそれらの記憶も薄れてしまいました。自分達の先祖がどれほど悔やみ嘆いたかしれぬというのに、それすら昔語りにしてしまった」
以前のように神を祀るものも少なくなり、豪奢だった社は崩れかけ、道祖神の祠が朽ちはてているところも目立ちはじめた。
村の人間は、平気で神の森をあらし、山を切り崩そうとするものも現れはじめた。止めようとするのは老人ばかりであり、そのうち、若者たちはこともあろうか、ふざけに乗じて御神体を引きずり出し、穢してしまったのだ。
「彼らは酒の酔いにまかせ、祭りだというその日に、御神体を汚物に穢し、社に火をつけ燃してしまうとう愚行を働いたのです」
神の怒りは頂点に達した。
毒の血を川に流し、奇病が蔓延しはじめた。
「それを鎮めたのが、わたくしでした。わたくしが、怒りに狂い人々の信仰もなくして、まさに魔神として変貌なさろうとしていたあの御方に、身をあたえ、慰めたのです」
その子が、梗子であった。
だから菖子は、夫の嗣哉をたべずに、梗子が産めたのだ。
しかしその後、梗子は槙原に犯され子を宿した。
そのための糧として、瑞恵の思い人でもあった従兄弟である晋一郎を食べることで、靱也と美也を産みおとした。
もっとも神にちかい血である。
正気を欠いてしまった梗子は、産みの苦しみから、さらに狂気を深めていった。靱也たちを産んだことすら、わからなかった。
靱也は、母を知ってはいても、抱かれたことはない。
そして、二度目の子をやつしたのは、それから数年のちのことだった。
「あの男は、僕たちが産まれたという噂に、この地を訪れていたんだ。それを確かめることもないままに、庭をふらついていた母さんに劣情をおぼえ、またしても犯したんだ」
靱也はまるで見ていたかのように語る。
たしかに見ていたのだ。靱也が昼寝をしているとなりで、それは行われたのだ。
菖子が言う。
「そうしてあの子は食べる者もなく、死んでしまった。あの男が裏切ったために三人もの一族の命が散った。人は裏切る。そして逃げてゆく」
靱也が言った。
「ひとは異常な種として、この地を荒らし、滅ぼそうとしているとしか思えない。結局は宿主と共に自らも滅びねばならぬというのに」
大地のあらゆる生き物である兄弟たちに起こる事柄は、すべて、人のうえにもおこる。
けれど人だけが、他の生物と情報を交換し、相互に与えあうだけの能力がないために、異端児になってしまった。
花菜は彼らの話す言葉が、染みいるように胸につき立った。未来の絵図が、目の前につきつけられてしまっている。
「そして人々はまた、神を忘れようとしているのよ」
菖子が言うのに耳をすませると、階上をかけまわる村人たちの猛り声が聞こえてきた。
野獣のような轟きとともに、ガラスの破裂音や、器物を破壊する号音、柱をたたき割るような尋常ではない騒音が響きわたっている。
狂ったように駆けまわるそうぞうしい足音と、ざわめきばかりだ。
「槙原のたわいもない甘言に踊らされるだけで、こんなにも簡単に人々は狂うものなのだわ。それまでに受けた施しも情もすっかり忘れて。わたくしも、今ならわかるわ。神がどんなお心でいたか」
菖子はもうどうしようもないとばかりに淡く笑う。
彼女はもう人ではないのだろうか。
「花菜」
菖子は、胸をつくような慈しみの表情をたたえ呼びかけた。
「あなたは、わたくしたちとは違うのよ。あなただけが一族の呪いでなく、純粋な愛で産まれてきた子供。あなたは人と一族のあいだにできた、純粋な愛の結晶。沙也子の父は沙也子を愛し、あなたの父はあなたを慈しんで身をあたえた。愛によってはじめて産まれた、大切な大切なわたくしたちの宝なの」
花菜の頬に手をあてた。
優しい滑るような滑らかな手が顔の輪郭をなどった。
「あなたは呪われた血を受け継いでいない。そういう意味での、一族ではない子供なの。宝とは、すなわちあなた自身のこと。あなたこそが我らの宝。どうか、わたくしたちの血を、あなたの血で浄化してちょうだい」
靱也がその言葉にうつむく。菖子は花菜の瞳をつよくのぞきこんだ。
「靱也の子を産んで。愛で産まれた子には、呪いを断ち切る力がある。あなたたちが愛しあっていることは、すでに知っているわ」
「しょ、菖子さん?」
「お願い。靱也の子供を産んで。一族の浄化をあなたの血でしてちょうだい」
目をそらすことが許されぬほどの、切なる懇願であった。
靱也と花菜は、陰陽の両極にあり、まるでお互いに惹かれあうために生まれてきた、対の者のようであった。光は影を求め影は光に魅かれる。
きっと、それゆえに出会ったのだ。
花菜は菖子の熱情に飲まれたかのようだった。
体温が急に上昇し、意識がふわふわとして思考がうまくまとまらなかった。
頼まれなくても、きっと返事は決まっているのに、やけに口が重い。
入口のほうから、大きな声が聴こえた。
「おい、いたか――っ!」
「まだだ。あの魔女ども、どこにいきやがったんだ!ひきずりだして目の玉ひんむいてやる。おれらに呪いをかけやがって!」
「捜せさがせ!どっかにいるはずだ!」
地上を這回っているのは、たくさんの槙原たちである。
自分こそが、正しい者であり、違う種族の存在を、絶対ゆるさないと追いつめて滅ぼそうとしている傲慢な殺人者だ。
「人喰い魔女をさがせ、なぶり殺せ!」
菖子はその時をさとったのか、ふうっと息をはいた。
いままでピチャピチャと槙原をむさぼっていた美弥もまた、血濡れたかおをあげた。
いままで何人という身売りした少女や少年を美弥に与えてきたかしれない。
一族の醜い本能の部分だけしか持ち合わせていない美弥には、きっと呪いが凝縮されているのだ。その時がきたことが、彼女にもわかっているのかもしれない。
それでもその笑顔には、地上の地獄など何ひとつ関わりがないとばかりに、愛らしい。
「お行きなさい」
菖子は花菜に指輪を手渡した。
赤いあの指輪だった。
洞窟へつながっている階段から吹きあがっていた空気が、ふいに変化した。
美弥の顔つきが凄味をました。
にわかに唸り声が大きくなったかと思うと、クワッと牙をむきだした。何に怒りをむけているのか槙原の無惨な死体を壁に投げ捨てた。
ものすごい力にたたきつけられ、死体は壁にはりついたままバラバラにくだけた。
目が朱色にあかりが灯っている。
変貌のきざしなのか、邪悪な胎動が、大きく地下に響いてきている。
「この子は、わたくしが連れてゆきます。あなたたちは、はやくお逃げなさい」
菖子がもう一度言った。
「でも――」
花菜がいうのに、無言で強く指し示す。
美弥は一度おおきく吠えると、菖子の足もとにうずくまり、ガタガタと身を震わせだした。
したはらが異様に膨張し動いているのに、おおきくのけぞる。
花菜はどうすべきかわらず、菖子と靱也を交互にみた。
菖子の美しい手が、震える美弥を抱いた。
「すべての始まりは、かならず終焉の影を帯びているものなのよ。始まりのなかには、いつも終焉の予兆があり、終焉のつぎには始まりが必ず来るわ。それらは、本当は、同じものなのですもの。だからね、なにも恐れることはないのよ」
美弥の全身が脈打ち、腹がねじれるように膨らんだ。痙攣をはじめていた。
「花菜、わたくしたちを解放してちょうだい。あなたは生きなければならない」
菖子が強い祈りをこめて花菜をみつめた。
靱也が花菜をうながした。ふたりは、ゆっくりと洞窟へ歩きだした。
「靱也」
菖子の声に、靱也が振り返った。
思いがけないほど菖子は優しく笑い、最後の別れを告げるように、二人にしかわからない、無言の言葉をかわしあった。
「行こう、花菜」
靱也が花菜の手をつよくにぎり、まっすぐ歩きだした。
花菜と靱也の姿がすっぽりと地下の闇にのみこまれていった。
それを見届けた菖子は安心したように、嘆息した。
何もかもが終わった。
これで、一族は、すくわれるのだ。
ヒュッヒュッと絶間なく喉が切れるような息をしている美弥を抱きしめた。
美弥の叫びをききつけ、地上の声が近づいていた。
木の爆ぜる音がどこからともなく聞こえていた。
地下の熱気がますとともに、白い煙が天上から噴きだしはじめている。暴徒と化した彼らはついに、火を放ったのだ。
パラパラと木片がおちてきた。
「ここがくずれるのも時間の問題ね」
どこか人事のようにこぼす。
美弥の喘ぎ声がおおきくなるのにつれて、天井のきしみもましていった。
美弥は苦しさのあまり体を反り返し、もがくようにはげしく暴れた。菖子の白い手に爪をたて血がにじむのにもかまわず、じっと抱いたまま、あやしている。
美弥の断末魔の叫びが虚空をはしった。
腹を喰い破って何かが顔をだした。
まだ、人型をようやくとったばかりのような、胎児――槙原の、子供である。
天井の柱が落ちた。
赤子の頭を叩き割った。
なにもかもが、瓦礫のしたにきえてゆく。
一瞬だけみえた菖子の顔はわらっていた。
それが、彼女らの最後のすがただった。
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