糸の館

7



 激しくゆり動かされた。柔らかい感触が唇にさわる。
 花菜はうっすらと目を覚ました。
 何度目かの人工呼吸のあとだった。
 きつく抱きしめ泣くように叫んでいたのは靱也だった。
 彼女の目がさめてもなお、不安げな面もちで胸に抱きこんでいる。
 靱也のむこうに瑞恵がいた。瑞恵はひどく青ざめていた。その顔は怒りのためか、幽鬼のように変貌し、いかにも具合いが悪そうだ。
 「花菜、大丈夫か、どこか痛いところはないか?」
 「靱也さん・・・・?」
 花菜はまだぼうっとしていた。まだ状況を把握していなかった。強く抱きしめられるのが心地よくて、胸に鼻をよせる。靱也の鼓動は驚くほど速くなっている。
 「槙原のやつっ!」
 瑞恵のその声で、花菜は我にかえった。
 なにがあったか思いだし、おおきく震えた。
 「すまない、助けに来るのが遅くなって」
 寸前のところで、靱也がかけつけ、花菜は救われたのだ。
 殴りつられけた槙原が無様に逃げだすのにもかまわず、呼吸がとまりかけている花菜に、急いで息を吹き込んでいた。
 「あの男が・・・お父さんなのでしょう?」
 花菜はかぼそい声でいった。
 靱也と瑞恵は花菜をおどろくようにみた。
 ようやく二人は気づいた。
 花菜の瞳に映し出されているものが、まぎれもない魔性の光芒なのだと。
 父親に首を絞められるという行為によって、彼女のなかで繋がっていた最後の砦が、あわくも崩れさってしまった。
 「そう、あの男よ。梗子お姉様に食べられなければならないのに逃げだした裏切り者よ」
 瑞恵がもはや隠しきれないことを知って云った。
 クスッと冷笑する。
 「もっとも、人間はみな同じだけれどね。人間はわたしたちのことを知ると、どんな人間でも逃げだすものよ。それゆえ、わたしたちは、愛していたはずの男を憎しみと炎に焼き、悲しみながら食べてきた。涙と絶望を噛みしめ、わが子のための糧としてね。私の知るかぎりでは、みずから喜んで身を与えた人間の男は、一人しかいない。だからいつも、一族の男がかわりに犠牲になってきたわ。愚かで欲深い人間の、身代りとしてね」
 人の子の浅はかさを軽蔑し、目尻が鋭利にきれあがる。
 きっといまの花菜なら、瑞恵が伝えようとしている事の意味を正確に受け取ってくれるだろうとわかっていた。
 一族の女の定めも、命のつながりも、もはや花菜をおびやかす存在ではないのである。
 「どうして、食べなければならないの?」
 花菜の明瞭な声に、瑞恵が答えた。
 「それは、わたしたちが女だからよ」
 「女、だから――?」
 「そう。男より女のほうが苦痛に強いわ。だから、女が食べなければならなかったの」
 人間とはまったく違ったかたちの、愛の交換があるのだ。男は命をあたえ、女は男の血をのこす。
 だからこそ交わりは神聖な儀式であり、命はなにより貴く受け継がれてゆくものなのだ。
 すぐそこに、苛酷で残虐な運命が待っている。聞きながら、花菜は自分のものとしての実感がわいてこなかった。
 ふとみた靱也は、それらすべてを認めるように微笑んでいた。その笑みがあまりにも優しすぎるので、花菜はたまらなくなって靱也の服のすそをギュッと掴んだ。
 彼の命とひきかえにするほどの生命が、花菜のなかに本当に存在するのだろうか。
 たとえ子供であっても――それが自分と、靱也の子供でも?
 「靱也はね、わたしの従兄弟の――晋一郎さんの子でもあるのよ。あの男の代わりに、お姉様が晋一郎さんを食べて産んだ、純血種なの」
 その響きはやけに重く感じた。
 一族の呪いの頂点に立ち、身にくいこむような怨念の鎖にからめとられている証拠でもある。
 花菜は、靱也がいつも何に苦しんでいたのかがわかった気がした。
 自分自身を恐れていたのだ。
 終わりのない悪夢が、毎夜かれを本能の世界に誘おうと、責めさいなんでいるのだ。
 誰より、かれが一族の苦しみを知っている。
 「だから私に出てゆけと・・・?」
 肯定は、沈黙でおこなわれた。
 「では、わたしはだれから?……梗子お母さんはだれを食べてわたしを産んだの?」
 「あなたは梗子の娘じゃないわ」
 言ったのは、菖子だった。
 いつそこに来たのだろう。だれも気づかなかった。
 「花菜さん、あなたは我われ一族の者ではないのよ。梗子の娘でも、槙原の娘でもないわ」
 「お母様?!」
 瑞恵がなにを、とばかりに叫んだ。
 菖子はそれを無視して、目を見張っている花菜だけを見つめていた。
 花菜は思考がまとまらないまま、尋ねかえす。
 「でも・・・それならなぜ、わたしを巫女として、この家に呼んだのですか。どうしてこんなアザがわたしにできたのです。なぜ、祭りを――」
 菖子は花菜を悲しげにみつめた、うるわしい顔を曇らせた。いつも涼やかな彼女には似つかわしくない表情だ。
 「すべては、わたくしの罪なのです。――あなたこそが、われらの最後の希望」
 菖子はそれだけしか云わなかった。
 花菜は頬をなでられ、肌と肌がかさなるような近しさを感じていた。
 この感覚が、一族以外のなにものだといえばいいのか。
 この体には、ほんとうに梗子の血は、流れていないのか。自分はなにものなのだ。
 だが花菜は、それさえも、口にできなかった。周囲の無言の圧迫に、押しつぶされてしまいそうな気がしていた。




 ここのところずっと、沙也子は物思いに沈んでいた。
 もともと出無精だった彼女は、さらに外に出なくなり、あれほど好きだった園芸ですら億劫になっていた。
 たまに日の光を浴びることがあっても、テラスで庭をながめる程度にとどまり、ほとんど本を読んでいるか、たまに花菜と茶を飲んだり刺繍をしてみたりするだけであった。
 極端に口数のすくなくなった沙也子を心配したのだろうか、菖子がめずらしく静養にゆくことをすすめてきた。
 特別、家でしなければならない事もなかったので、沙也子はすすめにしたがい、近くの湯治場まで足をのばしていた。
 滞在してもうすでに一週間ほどたっていた。
 小さいころから来ていただけあって、旅館の人間とは気心がしれていたし、女将も、格式ある閑静な旅館の主として恥じないだけのもてなしで、沙也子を迎えていた。
 また旅館のだれもが、もの静かで上品な沙也子を敬い、好意と尊敬の念でもって接していた。
 沙也子は、藤の花のつるで棚をもうけてある、休憩所の椅子にすわっていた。小粋なつくりの中庭をぼんやりながめていた。
 いつもぼうっとしてみえるのは、頭を休めるためというよりは、整理のつかなくなった思考を、どうにかしようとしていたからだった。
 なぜかちかごろ頻繁に、頭痛がおこるようになってしまっていた。
 考えると、それは花菜の笑顔をみているときによく起こるような気がする。
 まるで、自分でもわからない思いが、鎌首をもたげようと荒れ狂い、大事なことを忘れてしまった沙也子を責めているかのように、静かだった思考をかきみだしてゆく。
 たぶん、それはとても大切なことなのだ。
 自分のなかからぽっかり消えてしまっているけれど、どうしても思いださなければいけない。きっとその鍵はじぶんで握っている。
 「本が落ちましたよ」
 手からおちた本を拾うと、早生は落としたことも気づいていなかった沙也子に渡した。
 「・・・ああ、ありがとう」
 運んできていた熱いコーヒーをカップに注ぎ沙也子にさしだした。湯気のたつ黒い液体がゆれるのを彼女はただ黙ってみつめていた。
 体と心が分離してしまったような安定の悪さがある。自分であると信じていたものに裏切られ、行き場をなくした子供のような心許なさがはなれないのだ。
 「昨日のことを、まだ気にされているのですか」
 早生がそっちょくに聞きかえした。
 沙也子はふっと悩ましくまぶたをおとして首をふる。
 昨日、夕方ちかくになって散歩にでた沙也子に、見知らぬ青年が声をかけたのだ。
 やけに親しげにわらうと、
 「姉さん、沙也子姉さんでしょ。こんなところで逢うなんて奇遇だなぁ。お久ぶりです」
 青年はにこやかに笑いかけてきた。人違いにしては、疑いのかけらもないし、たしかに彼は、沙也子の名前で呼びかけている。
 「やだなあ沙也子姉さん、僕だよ。貴弘だよ。ほら成章(なりあき)の弟の」
 「成章・・・さん?」
 どこかで聞いたような名前でもあるが、はっきりとは思い出せない。だが胸の辺りがもどかしいほどに詰まっている。
 「早瀬成章」
 口から、名前がとびだしていた。
 だれかの柔らかい笑顔が脳裏にひらめいた。が、とたんに靄やにおし包まれてしまう。
 「・・・あの、すいませんわたし、あなたとは、どちらでお会いしましたでしょうか」
 胸が早鐘をうつ。
 「やだなあ。なにたちの悪い冗談を言ってるの?まさか義弟になるはずだった人間をもう忘れちゃったのかなぁ。成章の弟の――あっ!」
 言いかけて、突然かれは叫んだ。やっと重大なことを思いだしたとばかりに口を手でおおう。
 小声でボソリと漏らす。
 「まだ、記憶が戻ってないんだったけ」
 顔をあげた貴弘は、沙也子の背後にいる早生の視線に気づくとサッと青ざめた。
 「あ、あの人違いでした。失礼します」
 おびえたように緊張し、そのまま頭をさげて行ってしまった。
 沙也子は青年の顔を思いだしながら言った。
 「あの人、誰だったのかしら。義弟になるばずだったなんて言って。・・・・ねえ早生、わたし、だれかと結婚の約束なんてあったのかしら……」
 ボウッと男性の像が浮かびあがってきた。
 誰なのか思いだそうとすると、それはすぐに消えてしまう。顔は闇が覆ったままである。
 「あまり思いつめない方がいいですよ」
 早生がなぐさめるようにいうと、またおとしかけた本をつかんだ。
 そのまま沙也子の手を握ってしまったかたちになり、二人が顔をみあわせる。
 早生が何かいいかけた、そのときだった。、
 「沙也子さん、あの・・・」
 だしぬけに声をかけられ、二人はビクッとした。あわてて手をはなした。
 ぬぼうと立っている男をみた。
 桐藤(きりふじ)和美(かず)だった。離婚したはずの、沙也子のもと夫だ。
 「和美さん、どうして・・・?」
 「ど、どうもこんにちは。・・・あ、あの、失礼かとは思ったんですけど、あなたがこちらの湯治場にでかけられていると聞いたもので、つい、追いかけてきてしまいまして・・・・」
 たぶん話かける機会をずっと待っていたのであろう。じっとりとした汗で、丸まった背に服がはりついている。
 「なにか急なご用でもおありでしたの?お忙しいでしょうに、こんなところまでお運び下さるなんて」
 恐縮する和美に柔らかく微笑む。
 彼と別れてからすでに十年がたっていた。
 多少、太ったぐらいで、気の弱そうな顔つきも、緊張すると汗をひどくかくところも、和美はぜんぜん変わっていない。
 彼とはとくべつ愛しあって結婚したわけではなかった。家柄の釣合や、周囲の勧めと状況によって、自然と結ばれていた、というほうがあたっている。
 それでも相性が悪かったわけでもなく、かえって年々、歳を負うごとに仲睦まじくなり、心が通いあってゆくような関係であった。
 それなりに和美のことも愛しく思いはじめていたし、彼もまた、大切に扱い、たぶん愛してくれている――と、思っていた。
 けれど沙也子に子が出来ぬという理由により、不具の嫁として桐藤家から帰されてしまった。そこで二人の関係はすべて終わった。
 それも仕方のないことだと沙也子はあきらめた。跡取りができぬのではどうしようもない。
 恨みに思わなかったと言えば嘘になるだろうが、出来ないものは出来ないのである。
 また、自分の奥深くにも、どこかで子供を怖がっていたところがあることに、沙也子はうすうす気づいていた。
 「あなたに、謝らねばと思って」
 「なにをですの?」
 沙也子にとって和美とのことはすべて過去のことである。
 おだやかな胸の痛むような笑みをむける沙也子に、和美はけして美形ではない、人の良さそうな顔を、恥じいるように歪めさせた。
 「ほんとは、ほんとうは子供ができなかったのは、僕の方だったんです。先日医者にそう言われて・・・。僕には精子がないんだそうです」
 「和美さん?」
 「すまない沙也子さん。すべてきみのせいにしてしまった。母さんがつらく当たっていたのも知っていたし、きみが苦しんでいるのも見てみぬふりをしていたんだ。母さんのいうままにきみを実家に帰してしまって」
 真っ赤な顔をして必死で言いつのっていたが、沙也子は聞けばきくほど空しくなってしまっていた。
 黙っていればいいのに、わざわざいいにくるとは、なんてばか正直だ。苦笑さえもれる。
 そのせいで、どれほど深く傷つけられ、目が溶けるほど泣いたかしれぬ。けれどそれもすべては過去のことである。もう関係がない。
 ただ、和美とのこともあって、沙也子は二度と嫁ぐことを希望しなかった。
 燃え上がるような恋心ではなかったが、たしかに愛情をもっていた。そしてそう思うたびに、子を産めぬ自分を恥じ、ひどく恨んだ。
 もうそんな思いはしたくない。 
 「きみは、本当は子供がいたんだってね。――どうして隠していたんだい。そしたらちゃんと僕だって調べていたかもしれないのに」
 「子供?」
 声がかわいた。
 「ああ。むかし子供を産んで、里子にだしたって聞いたよ」
 「わたしに、子供?・・・誰がそんなことを」
 「え、ああ出入りしている美術商さ。きみの家にも出入りしていたみたいでさ。自殺した婚約者の子供だったって聞いたけど。でもなんで黙っていたんだい。そりゃあ驚くかもしれないけど、ちゃんと言ってくれたら、子供が産めるって証明になったし、婚約者の子どもなら仕方が――ねえ、沙也子さん?どうしたんだい、ねえ?」
 沙也子はフラリと立ちあがった。
 記憶が、熱い激流となって押し寄せ、そのすさまじさに突き動かされ、急くようにどこかへと歩き始めていた。
 「子供・・・・」
 ぽつり呟いた。
 「わたしの、子供――赤ちゃん?」
 沙也子はいきなり倒れた
途切れたぜんまい仕掛の人形のようだった。




「おまえには、知られたくなかったんだ」
 靱也のためらいがちな声が耳をかすめた。
 「この家の呪われた運命に捕まってほしくなかった。出来るなら、最後まで、僕たちに、関わらずにいてもらいたかった」
 「でも、そうしたら靱也さんは、ずっとひとりのままだったわ」
 孤独で気高いかれの魂は、とてつもなく重い運命を背負たまま、どこへ行きつくのだろうか。
 花菜は自分がもう、なんの支えにならなくてもいいと思った。
 邪魔にされていてもいい。ただこの人のそばにいたい。
 求めることもなく、欲しがることもせず、一緒にそばにいて、それでわずかでも靱也の心がやすまるのなら、それだけで十分である。
 靱也の敏感な心は、そんな花菜の思いを痛いほどに感じていたのか、もう帰れとは言わなかった。
 いや、そばにいてほしい、どこにも行かないで欲しいと、痛いほどに願っていたのは靱也のほうである。だからきっと無意識のままに、花菜はそのさけびを聞いてしまったのだろう。
 靱也は花菜の手をとると、美弥のいる座敷牢のまえにまできた。並ぶように立つと、靱也と美弥のふたりを見比べるように言った。
 「僕たち、似ているだろう」
 花菜はうなずく。純粋な美貌だけをたとえるなら、たしかに靱也と美弥はおそろしいまでの秀麗さで似ている。
 ただ一方は生まれたままの野獣の性をもち、一方は理性という名の剣を手に、ひとりで苛酷な運命にいどんでいる違いがあるだけだ。
 「俺と美弥は双子なんだ」
 「まさか?!」
 思いがけない言葉だった。靱也は今年で十八になるというのに、それに反して美弥は、まだ十二才ほどにしかみえない。双子にしては、発育が違いすぎている。
 「僕たちは、不完全な状態のまま、生まれてきてしまったんだ」
 つらそうに眉を寄せる。
 「だから、美弥には心がなく、そして僕には――」
 言葉じりが消えてしまった。
 美弥には心が欠けている。そうであるからこそ、野獣の本能のまま生きているのだ。
 人を食らい、愛情がなんなのかも知らず、槙原の与える快楽や精液さえも――血液を舐める行為となんら代わりがなく、気まぐれのままに獲物で遊んでいるだけだ。
 「美弥は闇の因子を多くもって生まれたんだ。でもそれは、僕だって変わりない」
 だれより純粋な、一族の濃い血をうけついでいる。
 呪いと悲しみが血に受け継がれ流れている。きっと時が至れば、変貌してしまうに違いない。
 その時、どんな風に変わってしまうのかわからない。はたして人としての心は、持ちうるのか。人であったころを覚えていられるのだろうか。
 瑞恵が先祖返りを起こせたのは、その思いの深さと、不具であったがための苦しみからであろう。
 その歪みは、ひきかえに彼女の魂を削っていっている。あともう数年もまたずして、美しい華は散ってしまうだろう。それは瑞恵にもわかっていることである。
 「だから彼女は急いでいるんだ。槙原を――僕の父を殺さなければならないからね。でなければ、彼女の心は、癒やされない」
 「瑞恵さんが、ほんとうに?」
 「でも、僕もきっとそうだ」
 目を見開く花菜から靱也は視線をそらした。
 彼は自分が化物であることを知っている。だれよりその血を呪い、恐れているのは、もしかしたら靱也かもしれない。
 「僕が、怖い?」
 おびえる少年のような顔で、言った。
 花菜は首をふった。
 「おまえを食べてしまうかもしれないんだよ。血に飢え、何もかもわからなくなって、僕はおまえを残虐に引き裂き殺すかもしれない」
 花菜はそうっと靱也を抱きしめた。腕に力をこめた。
 「――それでも、靱也さんは靱也さんだわ。わたしにとっては、変わらないもの」
 「なら、僕に・・・口づけができる?」
 花菜は靱也をみあげ瞳をのぞき込むと、そっと背伸びをした。
 唇がかさなった。
 やせ細った魂の傷は、どこまでも深く、枯れた砂地に水が染み込むように、花菜から溢れる愛情が、靱也のなかに流れては消えてゆく。
 触れるだけの優しい口づけは、甘くて切なくて、もどかしい。互いに求めあいそうになるのを必死で抑えなければならない。
 証のキスだった。
 もう、なにも誰も、怖くはない。
 「わたしたちの意志で、人間として生きてゆきましょう。運命に乗っ取られないで、ずっとふたりで、いつまでも人として――」
 花菜は涙がこぼれた。
 見るのがつらくなるほど、静かな涙だった。




 槙原は手にしていた指輪を苛立たしげに放り投げるとひどく悪態をついた。それは花菜から強引に奪ってきたものだった。
 何度くりかえしても、その石は女の像の額に埋まらないのだ。
 「くそうっ!あの女、よくもひっかけやがったな。なにが宝だ?!」
 菖子の美しい淑女の顔が、計算高く冷たい悪魔の顔へと変貌してゆく。
 「篠宮菖子――とんだくわせものだ」
 たしかに言ったのだ。一族の宝が帰ってきたと。巫女といっしょに帰ってきたと言い、そのとき、花菜の指に光っていたのは、この宝石であった。
 だがそれは像にはまったくあわなかった。ただの指輪にすぎない。
 それでも、いくらかの価値はありそうだと、なんとか自分をごまかし、槙原は指輪を拾いあげ、ポケットに入れた。
 腹立ちまぎれに、高澤の送ってきていた文献の映しをひっくり返した。
 洞窟から怪死体となってあらわれる直前に送ってよこしたものである。
 高澤の死を聞かされたときは、さすがにゾッとした。もしや、正体がばれて、篠宮のだれかに殺されたかと思ってしまった。
 いまだ奇怪な死体の、はっきりとした原因もわかっていない。保留にされている。
 殺人事件に違いないはずなのに、どこからか圧力がかかっているのか、警察が動こうとしない。
 「そういえば、死体のあがったあの川、たしか亜硝酸アンモニアが多くふくまれているとかいってたな」
先日、桑月とともに派遣した研究員が報告書をあげてきたのだ。
 川の色の異常さにきづいた槙原は、篠宮家にのりこむ芝居のついでに、ほんとうに洞窟から流れる水の成分を調べさせていた。
 亜硝酸アンモニアとは銅にまじる成分であり、酷い毒薬でもある。
 「なにが崇りだ。村のやつら、ただの鉱毒病じゃないか」
 馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。だがきまぐれにしては、とんだ拾いものである。
 「さあて、このことを村の連中におしえてやったら、どうなるかな。――くそう、みてろよ篠宮菖子。おまえのすました顔を恐怖で醜くひきつらせてやるぜ。なにせ、おまえの銅山からの毒素のために、村のやつらが苦しんでいるんだからな」
 ばらせば、守り神から悪魔にいっぺんに大変身するだろう。それにもうすこし焚きつければ、村長の佐野倉だってその気になる。
 神のように崇め奉っている篠宮家が、本当は自分達を苦しめている張本人なのだ。どれほどの怒りが爆発するか、その後の惨劇がみものである。
 「こいつで脅しをかけて、宝石のありかを吐かせてやる。……まあ、その後でやつらがどうなろうと知ったこっちゃないがな。化物なんだ、殺したって、かまやぁしない」
 自分にひれ伏す菖子の姿を思い浮かべ、暗い愉悦にほくそえむ。
 手なぐさみに何の気なく文献をめくっていた槙原は、ふとある一行に目が止まった。
 「土地の神が泣くとき、山から毒の涙が流れ出で、人々、苦しみの叫びをあげ泣き叫ぶであろう。その苦しみによりてなお、人々気づかぬときには、さらなる怒りもて、神の気づき、与えられ給もうことなり――。って、ふん、ばからしい」
 乱暴にそれを閉じ、放り投げた。
 桑月を部屋へ呼ぶと、やつらの息の根をとめる計画を、始めようとしていた。
 



 山を歩いていると、奉られていただろうはずの祠が、いくつか壊されているのに気がついた。
 花菜は膝をついた。
 あきらかに人の手によるものだ。
 「なぜこんなことを……?」
 かたわらを歩いていた靱也が、叩き壊された木片の残骸を手にった。
 少しあきれたように、
 「人は、いつだって目にみえることしか信じようとはしないからね。そのくせ真実からは目をそむけて見ようとはしない」
 「どうしてなのかしら。なにが、わたしたちと、あの人たちとを分けているの」
 「さあ、な。でも、きっとそれが、一番大切なものじゃないかな」
 人間がとおい昔にかわした約束を忘れるのと同時に、なくしてしまったものだ。
 空気が張りつめるように冷え、うっすらと、蜘蛛の糸のような霧がかかりはじめてゆく。
 「人と大地はもともと兄弟だったんだ。森も、動物も、昆虫も、みなともに御霊を分かちあい、生きていた」
 手をつなぎ歩きだす。
 「この宇宙に存在するものは、すべて互いに支えあうことによって生きている。水も空気も、草や虫、鳥だって――そう、人間だって例外なく、そうして生かされているんだ。なのに人は見えなくなってしまった」
 花菜は靱也がなにを言いたいのか解かった。
 ついこの間まで、それらと同じく、盲しいの状態で苦しみ彷徨っていたというのに、やっと取り戻した知性は明晢すぎて、ときに悲しみさえも浮き彫りにしてしまう。
 「意味するものが大きすぎてしまうと、人間は目をそらすんだ。きっと、わかってしまったら、生きるのが難しくなるからだろうね」
 まるで靱也自身がそうであるかのように。
 花菜は聞きたかった。その目がいったいなにを映し、なにを見ているのか。
 だが聞かずにいるのは、きっと知りすぎることが、幸せかどうかはわからないことを知っているから。
 花菜のみることのない世界を、きっと靱也は視ている。
 だからそんな怜悧で冴えざえとした美しい目で、別の世界に捕らわれてしまわないように、自分を見張っている
 霧があたりを白一色に包んでしまった。お互いの顔をみる以外は視界が塞がれてしまう。
 たったふたりで、未踏の地に残されたような気がしていた。静かすぎて、息づかいまで聞こえてきそうだ。
 靱也は花菜を抱きよせた。
 腕をそっとまわし、髪に口をよせる。
 靱也の鼓動が、体のなかに浸透してゆく。眠りにつこうとしていた情熱が、花菜のなかで息吹を吹替えしてしまう。
 ためらいの雲がとぎれた。たった一つの希望を掴みたいと腕をのばす。靱也の耳もとでささやいた。
 「わたし、もういちど巫女として、洞窟に入るわ」
 「花菜?!」
 「今度こそ、ちゃんと神の怒りを鎮めてくる。そしてあなたを連れて行かないようにお願いしてくるわ」
 なにを、というように肩をつかむのに、花菜は意志をかたく秘めた瞳をまっすぐむける。
 「菖子さんに頼まれたの。もう一度巫女として神に祈りを捧げてきてほしいって」
 「祭りは行ったばかりじゃないか。そんな必要はない!」
 「でも、わたし……・知っているのよ、この祠をつぶしたのが、村の人だってこと。怒っているんでしょう、神の怒りは静まってないって。巫女の祈りは失敗だったって、だからこんなふうに怒りをあらわしている」
 「そんなことおまえに関係ない!」
 靱也は声を荒立てた。
 花菜はそれでも柔らかな笑みをくずさない。
 靱也はばつが悪そうに目をそらす。
 「やつら、わかっていないんだ。一度やめてしまったものは、ただ復活させればいいというわけじゃないんだよ。こうして、自己の統制もとれず、怒りのままに神の祠をつぶしてしまうような奴らの心こそが、神の怒りを駆りたてるんだ。――花菜にはなにひとつ関係ない。おまえがそんなことをする必要はない」
 「・・・・もしそうであったとしても、神のお心が、痛んでいることに変わりはないわ。ならばおなじことよ。癒えない心の痛みが、人々にとって怒りに映っているだけだもの」
 花菜はおどろく靱也の顔に、そっと手を当てた。
 「あなたは神様の心のもっとも近くにいるのね。だからこそ、わたしは神の怒りが消えるように祈りにいくの。……お願い、あっちの世界へ行ってしまわないでね。ずっとここにいて、わたしのそばにいて」
 靱也は花菜をみて、ハッとした。
 笑いながら、涙をこぼしていたのだ。
 そんな悲しく美しい涙を、靱也は知らない。
 「――」
 花菜を抱きしめた。彼女こそ、まるで自分の心を清めてくれる慈愛の女神ではないか。
 「まだ私たち大丈夫でしょう?まだ、人のために祈れるでしょう?」
 「ああっ、まだだ、まだ人だ。まだ人の心でいられる。心だけは、僕のものだ」
 靱也は、華奢な大人になりかけたばかりの花菜のうすい背中をつよく抱いた。
 「おまえがいるから、人の心を持っていられる。花菜がいてくれるなら、まだここにいることができる」
 心臓がとまってしまいそうなほどの熱さだ。怒りにかられ、ともすれば闇にひきずられてしまいそうになるのを、必死で彼は耐えている。花菜だけが最後の希望なのだ。
 「もう一度洞窟に入ります。それで神に鎮まってもらうの」
 靱也を連れて行ってしまわないように。
 そうっと心のなかで呟いた。
 花菜の心は決っていた。
 「花菜」
 「もう、誰にもとめられないわ。だって、呼ばれているんですもの」
 そこにはもう、不安に戸惑っていた少女はいなかった。いまにも消えてしまいそうなはかなさはどこにもない。
 女であった。
 女としてだれかを愛し、胸のうちに燃える情熱のたぎりに目覚めてしまった。強く美しい、誇り高い一族の女の顔である。
 靱也はもはや言葉もなく、花菜にみいっていた。一族の男は、どうあっても女にはかなわない。
 ふたりは無言だった。
 ふと下生えの薮の中で、奇異なものを見つけた。
 腹を裂かれて、死んでいる蛇だった。
 蛇はなにか鋭いツメをもつ動物にでも襲われたのか、縦に裂けていた。
 ながい傷口の中で、なにかうごめいている。
 血にそまった一匹の蛇が、ヌウッと頭をもたげた。
 「こいつに飲み込まれていた別の蛇だ」
 靱也がなにかの意味を読みとるように、カッと目を見開いた。
 「偶然じゃない。自然におこりうることのなかに、単なる偶然なんてないんだ。こんなものを見ること自体が、――予兆だ」
 花菜はおもいものが背中におぶさってきたような気がした。
 ひどく冷たいものだった。
 



「『男の像』をみたんだよ、確かにそこで」
 そう、帰りぎわに和美が言ったのを沙也子は思い出していた。
 美術商の家でのことらしかった。
 またなんの偶然か、沙也子に子供がいたはずだと、彼に教えたのもその美術商の老人であったらしい。
 いい書が手にはいったので見に来ないかと誘いをうけた帰りのことだ。祖父の代から贔屓にしていたためか、書が趣味である和美に、ときに掘出し物があれば必ず声をかけてくれる。今は息子に店を任せているという話らしいが、親しくつき合っていた。
 男の像をみたのは、その息子の部屋であった。
 客間とまちがえて開けてしまった和美は、大事そうに硝子ケースに入れて飾ってあったのを、見つけてしまったのだ。
 「きみの家で、見せてもらったことがあったからね、間違うはずないよ。だって一生懸命頼みこんだでやっと見せてもらえたんだからね」
 沙也子の祖母と、和美の祖母は親友だった。
 そのため断りきれず菖子が見せたのだ。
 沙也子は思いだしながら、嫌な予感を感じていた。
 ずっと、いやなものがつきまとっているようだったのだ。それがどんどん膨らみ、現実の世界をおびやかしつつあるようでならない。
 「もう起きても大丈夫なのか、沙也子」
 静かにドアを閉めながら、こちらを向いた男の顔をみあげた瞬間に、沙也子は泣きそうになってしまった。
 その顔、その微笑み――。
 あまりにも優しくみつめる瞳の色が深く甘くて、胸を締めつけた。
 懐かしすぎて、胸から溢れるおもいに、なぜ今まで忘れていたのかわからなくなってくる。
 誰よりも一番会いたかった、愛しいひと。
 水差しに入った冷たい水と、白い蘭の花を手にしていた。
 体の弱かった沙也子に、彼はよくそうして薬を運んでくれていた。
 手には、いつでも白い花をかかえていた。『きみが好きな花だよ』必ずそういった。
 沙也子は花びらにくちづけた。そっと蜜を吸った。
 いつのころからか、普通の食事をあまり受け付けなくなってしまった沙也子は、かわりに、花のもつ、ほんのわずかな蜜や花粉が力づけてくれるようになり、それをわずかに口にふくむようになっていた。
 『きみが何者であっても、愛している』
 「成章さん?」
 『きみに捧げるためなら、この命だって惜しくはない。沙也子、きみに僕の命のすべてをあたえるよ。だからどうか――』
 ゆっくりと唇を重ねあわせ、抱きあい・・・・。
 抱きあい、そして、そしてそれから?
 「沙也子さん大丈夫ですか。沙也子さん?」
 肩をかるく揺さぶられ、沙也子はふっと目の焦点をあわせた。鼻が触れあわんばかりのところに、早生の顔があった。
 「・・・・成章さん、どうしたの?」
 「沙也子さん?」
 「えっ」
 沙也子は自分で何を言っているのかよくわかっていなかった。
 彼女の口から漏れたその名前に気づいた早生は、手にしていた水差しを落としそうになった。
 慌てる彼の様子に、沙也子はすぐに我に返り、なにげなく言う。
 「ああ、ごめんなさい。ぼんやりしていたみたいだわ」
 「・・・・大丈夫ですか。まだ、お起きになられないほうがよいのでは?」
気遣う早生に、沙也子が笑い首をふる。
 和美との話の途中にたおれた沙也子を、早生が部屋にはこびこんだのだった。気付けにと、冷たい水をもらいに行ってきていたのだ。
 「桐藤様は、さきほどお帰りになられました。すまなかったと、お詫びしておいてほしいと。それから変な話をして申し訳なかったとも、おっしゃられておりました」
 「そう・・・・」
 沙也子は開いた窓からみえる、遠くの風景をながめていた。
 和美のことはもう、どうでもよく感じられた。
 姑の言葉の刺に血を流していたことも、苦しんだことも、まるでなにかの『ごっこ遊び』だったような希薄さすら感じさせている。
 とっくに流す涙もなくなり、怒る気持ちや悲しむ心がどこかへいってしまっていた。
 さきほどまで見ていた、ほんの短い夢が沙也子をひどく幸福な気持ちにさせている。満たされて悲しむ隙間は心にない。
 心をおおう暗幕がやっとはらわれ、大事なことを取り戻し始めているのである。
 「わたしに、赤ちゃんが・・・」
 沙也子の顔を、早生が痛いほどの視線でみつめた。
 沙也子はそんな早生をみあげていた。
 包み隠そうともしない正直なかれの漆黒の瞳は、沙也子ひとりをうつしだしていた。恐ろしいほどの真剣さで、彼女への言葉にならない思いをはっきりと刻みこんでいる。
 まるで赤子のような無垢な目だった。
 母を慕う子供のような、それでいて自分を生みだし創造した神をみるような敬虔さである。
 「あなたはずっとわたしを、そんな目でみつめていたの?なぜ――?」
 「俺には、沙也子様がすべてだからです」
 「でもあなたは、ずっと花菜さんのお世話をしていたはずでは……」
 言いかけて、ふと沙也子は、早生がいつから自分のそばに居るのかわからなくなってしまっていた。
 まるでずっと側にいたような気がするし、昔からかれを知っていたようでもあった。
 会ったとき、なつかしいと思ったのは、記憶のどこかに彼がいたからか。そばにいるのが当り前であり、記憶のなかの早生は、ずっとその姿のままだったように思えてならない。
 きっと誰かの面影に似ているからだ。
 だから、さっき誰かとまちがえてしまった。意識が混乱してしまったのだ。
 「あなたは、誰に似ているのかしら」
 窓に映る湖からの乱反射が、まぶしく沙也子の顔を照らしていた。夕暮れの涼やかな風が通りぬけて、沙也子の髪をなぶった。
 沙也子は微笑んだ。立ち上がると、つばの大きな帽子を手にとった。
 「散歩に、行きましょう」
 何も答えないままに声をかけた。どうでもいいことのような気がしてくる。
 二人はそのまま外に出かけた。
 子供たちの笑い声が響く湖畔をのんびりと歩いていた。
 白樺の林の中にぽっかりと浮かんでいるような湖は、西日をうけて、オレンジ色の波に、七色の光をチラつかせていた。
 光に包まれ歩くふたりの姿は、一枚の風景画にとけ込んでしまっているようである。
 「早生、あなたは知っているのでしょう?」
 後ろをついて来る早生にふりむく。
 「わたし、大切な何かを忘れてしまっているのね。――あなたのことも、わたし自身のことも。そして大切な、赤ちゃんも」
 すぐそこまで出てきているのに、最後の答えだけが出てこない。
 だれかの意思によって、せき止められているようでならない。
 「わたしはいったい誰の子供を産んだのかしら。なぜ、それを覚えていないの?」
 誰も、沙也子には教えてくれなかった。 
 それはもちろん、母の菖子もである。
 彼女は美しく誇り高い人であった。
 だからきっと、出戻ってきたような娘は、彼女の面目を著しく傷つけてしまっただろうと思っていた。
 もう二度と、嫁に行けともいわなかった。なに一つ文句をいいもせず、好きにさせてくれていた。
 人づきあいをしろとも言わなかったし、家のしがらみに染まるようなことをさせはしなかった。薬を作ることすら手伝わせなかった。
 もともと冷たい、というよりも、感情を滅多にあらわす人ではなかったため、彼女の感情を読みとることは難しい。母親らしく怒ったり笑ったりするのさえみたことがない。
 だが、それでも彼女には人の痛みをしる心はあった。
 沈黙の癒し、とでもいおうか、けして傷口に触れてきたりはしない。だからこそ、彼女のふところに抱かれて、取り乱しも泣きもせずにいられたのだ。
 もしかしたら、過去をわすれ、すべてを更地にしてしまった沙也子だけでも、菖子は不穏な村から遠ざけようとしたのかもしれない。
 呪われた血を忘れ、たった一人でも、呪縛から解き放たれることを望んでいたのか。
 沙也子は、神秘的な色合いをした湖をながめ、漠然とした時の進行をかんじていた。
 知らないところで、何かが始まってしまっている。
 けれど沙也子だけがしらないのだ。
 みながみな、過去にとらわれていて、苦しんでいた。それでも先に進むためには、どうしても思い出さなければならない気がする。
 となりにたたずむ早生を、なにげなく見上げた。湖にたたずむ彼の姿が、だれかと重なり、胸の痛みとせつなさの向こう側に、ひとりの像が浮かびあがってくる。
 「似ているわ、その顔。わたしの大切なひとに、似ている。ねえ、あなたは誰なの。いつからわたしの側にいるの?」
 「――俺は」
 なにかを言おうとした早生の言葉をさえぎるように、賑やかに話す漁師たちが網をかついで通りすぎていった。
 かわりに波紋のような会話をのこしてゆく。
 「そういや、最近水が濁るとおもったらよ、山の水に原因があったらしいぞ」
 投網を肩にかけなおし、おもりがチャリチャリ鳴っていた。
 「あの青白い、気味のわりぃ水か。あれがでると魚がプカプカ腹みせて浮いちまうんだよなあ」
 「どっかの学者が調べてみたら、銅山からでてる水だそうだ。あの篠宮様ンとこの――」
 沙也子と早生は口をとざした。彼らが遠ざかるのをじっとみつめていた。
 不吉なほど赤い夕日が山の稜線にかかっていた。空のいちめんを灼き、まるで赤い宝石のようにも見える。
 「赤い・・・赤い指輪・・・・」
沙也子はつぶやいた。
 沙也子は、花菜のつけていた指輪を思いだした。
 とたんに、いてもたってもいられないほど不吉な予感が全身をかけぬけていく。
 「はやく帰らなきゃ・・・っ!」
 誰に言うでもなく、つぶやいていた。




 食事を入れるための小さな入口から塗りのお膳を差入れると、花菜はじっと美弥を見ていた。
 美弥の食欲は異様だった。始終なにかを口にしているくせに、そのうえで、まだ足りないといってはうなり声をはりあげている。
 奥にある柱の影でゴリゴリと音をよくたてていた。なにか大きな塊がみえるが、やけに影がこすぎて花菜にはなんだかわからない。
 そこに美弥がいるときは、いつもたまらないほどゾッとする音をさせていた。
 いそがしく舐めていた。
 本当は彼女がなにを求めているか、花菜は知っていた。
 みたことがあったのだ。
 いつかの夜半、菖子が牢のまえに立ち、美弥に血を与えていたのを。
 美しい指をためらいもなく切り、聞こえない声でなにかを囁きながら、したたる血を美弥の口に落としていた。美弥はむさぼるようにそれを飲み、うっとりしている。
 血は、闇にもはっきり浮きあがり、この世でたったひとつしかない、貴重な宝石のように見えた。
 怪異な光景だった。
 それは何かの儀式であったのかもしれない。
 花菜はナイフを指にはしらせた。
 赤い血の玉が指をながれた。そうっと格子のあいだから差入れた。
 本人は気づいていないだろうが、その仕草はまったく菖子にそっくりである。
 生肉をむさぼり喰っていた美弥が、顔をあげた。
 にわかに漂う血の匂いを感じたのか、うっすらと笑いをうかべ、格子にはいよった。口をあけ、それが落ちて来るのに舌をだして待っている。
 コクン――。
 美弥はそれを嚥下した。
 ゾッとするほど美しく笑った。
 血の紅を唇にすりつけると、美弥は急におちついたように座った。
 血にふくまれる生気に満足したのだろうか、手にもっていた肉をゆっくりはみだす。
 その様子にあわせるように、背後から風が吹き抜けていった。
 いままで感じたことのないような、冷たくジメついた風だった。
 美しい銅製の薬罐がかけてある火鉢のよこに、六つ折りの屏風がたてかけてあり、どうやらそのうしろから流れ出ているらしい。無造作にかけた友禅の着物がはためいている。
 花菜はそこにゆっくりと近づいた。まるで花菜を誘っているようでさえあった。
 恐ろしさと同じぐらい、知りたいという気持ちが膨れ上がっていた。
 菖子が美弥のもとに行くのはみたのに、それっきり菖子は出てこなかったことがある。ずっと、不思議に思っていたのだ。
 「ここに、なにがあるの?」
 よくみれば、真鍮の燭台がおいてあった。ここに入るために用意をしているかのように、半分に減っている蝋燭までついている。
 花菜は屏風をそうっとたたんでいった。
 やはりと思った。そこには闇の世界へつづく階段がのびていた。
 岩肌がむき出し、暗黒の世界へいざなうように風が吹きあげている。
 花菜は美弥をみた。
 彼女はまるでこのことに無関心だった。門番は、すでに入ることを許しているのだ。
 覚悟を決めると、そろりと足を踏み出した。
 花菜の目には、もはや蝋燭はいらなかった。
 闇は闇でなくなっている。
 不気味な風なのに、どこか心地よかった。足にあたっておちた石が警鐘のように響いた。
 階段がおわり、地下におり立った。
 闇の世界をみまわしてみる。
 うっすらと目にうかびあがってきたのは、人骨の残骸であった。朽ちた着物は、血糊のために、黒く変色しているではないか。
 「ここ、来たことあるわ・・・・」
 なにかに誘われるように進んでいった。
 ポウッと光る苔が見え、琥珀に包まれた男女の姿があった。
 「やっぱりここ」
 「そう、ここは神の祭壇場よ。あなたが巫女として祈りを捧げに来た場所」
 闇の中にたっていたのは、菖子だった。
 無機質な顔をそっと琥珀に近づけ、花菜の視線など気にせぬように、なかの男性をうっとりみつめ、頬をすりよせる。
 彼女に似合わない甘い表情だった。やけにはかなく見え、そのうつくしさに、女の花菜ですら目を奪われてしまう。
 「ここは墓場よ。一族の女の涙が流され、嘆きが染み着いてしまった、女の世界」
 「女の、世界?」
 「わたくしたちは、人間のように、簡単に子供を堕胎することはできないのよ。契りでできた命は、聖なる約束だから。ひとつの命を犠牲にすることによってしか、新しい命は誕生しない。それがわたくしたちに定められた悲しい母性。母としての心は、なににも勝ってしまうのよ。だからたとえ愛する人だとしても、食べずにはいられないわ」
 なぜ、笑っているのだろう。
 「でもね、ならばいっそ愛し合わない方がいい。誰だってそう思うものでしょう」
 「それは・・・そう、です」
 「わたくしはそう思ったのよ。一族の定めを思いしったとき、けして愛する人とだけは交わるまいと、そう心に誓ったの」
 何を語りはじめているのか、なやましげな表情で琥珀の男をみている。
 「これはわたくしの最初の夫。わたくしの思いがわからず、こんな姿になってしまった」
 「まさか――」
 「そう、失踪したことになっているけど、嗣哉さんはずっとここで眠っていたの。だってそんな下賎な女と、わたくしを裏切り、逃げようなんてなさるから。・・・かわいそうに、こんな姿になってしまって」
 恐ろしげな台詞を吐きながら、菖子は笑っていた。けれどその瞳の奥底は、たしかに泣いている。
 「こんなさだめでさえなければ、わたくしだって愛するひとに抱かれたかった。それでも、このひとの命を犠牲にすることを思えば、疼く女心を耐えもしたのに」
 けれど皮肉にも、嗣哉は、菖子のそんな深い思いを誤解してしまった。
 結婚したのちでさえ、けして体を許そうとしない妻を、心がないゆえのことだと思ってしまったのだ。
 彼女の類まれな美しさに気後れしていたこともあった。養子として迎えられたことも重なって、よけいなひがみをもってしまった。
 主権をにぎろうと力むあまり、読みあやまったのだ。彼女の美貌にかくされた熱い思いを、じかに肌に触れること以外でたしかめる術を持っていなかった。
 そして、芯から心安らげる女――秋江に心をよせるようになってしまった。
 身のまわりの世話をしていた女中の一人であり、田舎娘の愚鈍なまでの純朴さが、嗣哉のきずついた心をなぐさめた。
 菖子はけして陶器でできた人形ではなかった。嗣哉は勝手にそう思っていただろうが、彼女の胸のうちにどれほどの嫉妬の炎が燃えていたことか。
 菖子とて男の生理をわからぬでもなかった。
 女として仕えることができぬのなら、せめて仕方がないことだとわりきろうと思った。
 性欲の処理をしてもらっていると思えば、どうにか心を紛らわせることができる。
 だが、それもふたりが、駈落ちをしようとするまでは、の話である。 
 「わたくしはその夜、はじめて嗣哉さんと交わり子を宿しました。そして逃げようとしたこの人を、罰として琥珀に永遠に封印したのです」
 そのときに、菖子の心もまた一緒に封印されてしまった。彼女はだから一生喪服を着つづける。
 「洞窟は女の世界。ここは一族の悲しみの子宮。女は全てをここに吐きだし、そうして、生を繋いできた」
光の珠が呼応するように飛びはじめた。
 女たちのながした悲しみの結晶のようだった。
 「ここにある苔には、呪われた定めに泣いた女たちの悲しみがやどり、地下から湧きだす水には、神の怒りが溶け込んでいる。人々はそれに気づかず、この水を飲み、この苔を薬としている。体に、われわれの嘆きを刻み込んでいるのよ。それでも、気づきもしない。己の愚かさも醜さもね」
 菖子の面がきつくつりあがった。
 「最初にうらぎったのは人間だわ」
 「人間、ですか?」
 「そう。神との契約を破り、異国の神の使者どもの虚言に惑わされて、牙を剥いたのは村の者たちだったわ。――わが貴き神は、いつしか、あだし神と呼ばれるようになり、妖怪や物の怪といっしょにされるようになってしまった。いままで頂いた加護をわすれ、神を地にひきずり堕としたのよ、愚かな人間がね」
 背後の闇が濃くなり、人のものではない、重苦しい違和感がたちこめる。
 「わたくしが、巫女として神のもとに参ったときには、すでに神は苦しんでおいでだった。ヒトの発する邪念に取り込まれてしまっていた。そんなご様子に、巫女として神のご意向には逆らうことができなかった。……神はね、我が一族と交わってでも、この世に残ることを決意されたのよ」
 ギョッと花菜が目を大きくむきだした。
 「世界の裏側にあり、足の下にいつでも存在しているものを、女だけが知っているわ。神を信じる心は、時がはじまる前から人々にあったのに、人はそれを忘れてしまった。自然の摂理にそむき、神を忘れ、そして神はご自身の存在を、形をかえてでも残すことを選ばれた」
 花菜にはわかった。
 目をとざしたいと思っていたすべての扉が、いま、目の前で開かれようとしているのだ。
 菖子はだが、それ以上なにも言わなかった。
 すぐにいつもの仮面のような冷たさを取り戻した。自分自身のおとす影が、背後の影よりずっと濃すぎて、鬼気は霧散してしまっていたのだった。
 「花菜さん、あなたに、わが一族の悲しみを断ち切ってもらいたいのです」
 「えっ、わたし?」
 「わたくしたちは、もう、血も涙も十分に流しました。もういいのです。こんな、呪われた血で続いてゆくのならば、いっそ――」
 光の塊がざわめいた。あたかもここで涙を流した女たちの悲しみが共鳴しているように。
 「本当は、あなたには何も知らないままでいて欲しかった。けれど、わたくしが犯した罪は、償わなければならなりません。ですから、酷だとわかっていても、あなたに頼まずにはいられなかった。あなただけが・・・・」
 「わたしは、なにをすれば?」
 声がふるえる。
 「あなたには、一族の血は流れてはいないわ。わたくしたちの血は流れてはいても、それは一族の血ではないのです。だからこそ、あなたにしかできない」
 「どういう、ことですか?だってわたしは」
 言っていることが理解できない。なぜ、血のつながりがあるのに、一族ではないのか。
 「・・・ごめんなさいね。巻き込んでしまって。でも、あたなにしか頼めないことなの」
 手を握り、頭をさげる菖子におどろいてしまう。花菜は言葉につまる。
 「わ、わたは、なにをすればいいの?一族の血を、断ち切ることがなんて、どうやれば」
 なんの力もない、なんの能力もないただの娘なのだ。
 「あなたの血が知っています」
 「わたしの血が――?」
 菖子がきっぱりと言った。
 まるでわが子を慈しむかのように、菖子は顔をよせ、胸にだきしめた。血の記憶でもよび覚まそうというかのように、背をなでる。
 「あなたは、一族の宝」
 声の優しさだけが、耳に焼きつく。
 時がとまったようで、もはや、あとはなにも覚えていない。
 どこかで菖子の名を呼ぶ声がしたようであった。
 「寺山だわ」
 菖子がふいに言った。
 どのくらいそうしていたのか、菖子は花菜をはなした。
 「そろそろだとは思っていたけれど、もう?」
 何事もなかったかのように、菖子は身をひるがえして背をむけた。まるで寺山がくることがわかっていたようなそぶりであった。
 「あの、私はっ」
 思わず声をかけた花菜に菖子は振りむいた。
 「わたしは本当に、梗子さんの子では、ないのですか?」
 「あなたは梗子の娘ではないわ。――靱也とは、兄弟ではないのよ」
 なにが言いたいのかわかっているように微笑まれ、花菜は赤くなった。だがけして冷たくはない。
 「……わたくしはここで黒い何かが体の中に入って来るのを感じ、そして、梗子が産まれました。その梗子は晋一郎さんを食べ、靱也が、一族の男が生まれてきた」
 まごうことのない、正当な血の継承者。
 それだけいうと、菖子はいってしまった。
 花菜は彼女の残した言葉を、闇のなかに何度もこだまするように聞いていたのだった。


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