糸の館
6
いくらたっても出てこない花菜に、さすがの菖子も心配になったのか、沙也子と二人で洞窟のあたりまで様子をうかがいに行っていた。
そして、入口に花菜が倒れているのを発見し、あわてて早生を呼び、連れて帰ったのだった。
花菜は完全に気絶しており、それからまる一日、目をさまさなかった。
後でそうきかされた花菜は、だがやはり、自分がどうやって、そこまで帰ってきたのか、なにがあったのか、まるで覚えていなかった。
おぼろげな記憶をたどろうと、いくらかは苦心してみたが、結局は無駄におわった。
ただ菖子だけは、なぜかしら満足そうな笑みをうかべていた。
「よろしいのよ花菜さん。あなたが無事に帰ってこられたのなら、それでね」
花菜の左胸に手をそっとあてがうと、優しく微笑んだ。
まだそのときは、菖子のいった言葉の意味がわかっていなかった。
夜になって着替えようとしてからはじめて、胸に押されるようについていた赤い刻印をみつけ、息を飲んだ。
左胸のちいさな膨らみに、花のようなアザが浮かび上がり、肌の白さにくらべ、血の赤い色は強烈な彩りをあたえている。
花菜は脱ぎかけた衣服のまえをかき合わせた。
あそこで起こったことは、では夢ではなかったのか。
花菜はまだ信じられなかった。だれが、どうやってつけたのだろう。
無数の光が浮かびあがっているのが窓にうつっていた。じっとみていると、それらはゆっくりと同じ方向に流れていく。
灯篭だった。
火をともされた灯篭が、川をくだっていた。村人が祭りにあわせ、精霊流しを行っているらしい。
土地に根づいている精霊をなぐさめ、穢された土地を浄化するために、灯篭にこめて流しているのだという。
花菜はさざ波にたゆたう炎のゆらめきをぼうっとみていた。川岸に立つ、人々の無気力ともいえる顔が光にうつって、亡者の行進のようにみえている。
彼らは祭りの効果を期待し、土地神の怒りがとけることを切望している。それでいて、どこか諦めているようでもあり、自らの力でどうにかしようという気力もない。
花菜は自分の部屋に明りがついていないことに気がついた。
けれどその瞳はなにも不自由することなく、夜の世界を、まるで日のもとで見るように、はっきりと見渡しているではないか。
花菜はその事実に愕然とした。それと、同時に、自分のなかのたしかな変化もまた、認めずにはいられなかった。
夜の闇に紛れ、庭を隠れるように歩いている男の姿が目にとびこんだ。
槙原であった。
彼は花菜がみつめているのにも気づかず、吸い込まれるようにして、建物のなかに消えていったのだった。
美弥が異様なほどに肉を好むことに、槙原はうすうす異様なものを感じはじめていた。
自分がまさか、こんな年派もいかぬ子供に魅了され、あきもせず貢ぎものをしようとは。
ずっと女など、遊びにすぎないものだと信じていた。身体をいくらつなごうと、ただの性欲処理にしかすぎない。
だが美弥はこうして槙原を惹きつけ、夢中にさせているではないか。溺れているとは思いたくないが、それだけの魅力は十分あった。
勝手口の一つが、鍵が壊れていることに気づいたのは偶然であった。それからというもの、そこから忍び込んでは、美弥のもとに通っているのだ。
これだけ大きい家ともなれば、誰にも気づかれず出入りすることなど簡単だった。まして、玄関以外の入口はたくさんあるし、どこからでも出入りができてしまう。
だれも美弥のもとにやって来ないだろう時間をみはからい、こうして肉や食べ物を手に通っていたのだ。
美弥はなぜかしら、最初から槙原になついていた。
なつく、というよりは、まるで交尾の相手をみつけたかというように、素直にそれを求めてきた。
鉄格子をはさみ、槙原は美弥と交合しあった。こんな幼な子と、しかも異常な状態でおこなう禁忌の秘め事は、えもいわれぬ快楽となり、槙原をしびれさせ、虜にしてしまった。これだけ興奮させられる状況は、ほかにはない。
見つかるかもしれないという緊張感と、鉄の格子に遮られているという倒錯。
さらに胸も膨らまぬ少女を蹂躙しているかとおもうと、年甲斐もなく燃えてしまう。
美弥は行為に及ぶまえに、かならず何かを食べたがった。それが生の肉であると気づいたのは、腕の肉をかじられたときである。
滴る血をうまそうに舐めた。うっとりと血に汚れた顔のまま恍惚感にひたり淫らに男を求めてきた。いつになく激しい行為となった。
残忍で淫乱な彼女のすがたは壮絶なまでに美しい。自分で着物の裾をひらき、腰をふる。こんな野生味をおびた生々しい女はみたことがない。
「モットちょうだい、モット」
「ああ、いい子にしていたら、もっと肉をもってきてやるぞ。けどよ、肉もけっこう高いんだからな、そのぶんうんとよくしてくれよ」
言いながら苦く笑うのは、自分の行動が当初の目的からずれてきているためである。
信じられないことに、肉を買うためだけに、とうとう絵を三枚も売ってしまったのだ。
「まさか、たかがこんな子供のために、俺は身をくずすのか?」
かつて、この家で、この少女と同じ血をもつ女を犯し、宝を盗んで逃げた。
それが、こんどはその血筋の女――しかも子供に色で狂わされすっかり骨抜きにされてしまうとは。
「ほら美弥、さっさと股をひらくんだ。そうだ、もっとだ。よくみえるように着物をたくしあげていろよ」
命令するのに、美弥はうれしげに自分から進んでしたがった。
「いい子だな、俺の言うとおりにしていたら、ご褒美にいいものをやるぞ、そら」
自らのそそりたつものを美弥に差入れてやる。ほどなくして美弥の口から、たまらない喘ぎ声がもれはじめる。
槙原はしばしの快楽にすべてを忘れた。夢中になって美弥をむさぼっていた。
美弥の肉体を堪能しおえた槙原は、衣服を整えるとその場をすばやく離れた。
時刻は、とうのむかしに正午を過ぎている。
廊下は、突き刺さるほどに静まりかえり、弓なりになった月に照らされ輝いていた。
誰もいないことがわかりきっていた。
槙原は焦るようすもなく、我がもの顔で屋敷を歩き回っている。それもかつて家庭教師として出入りしたため間取りはかなり頭にはいっているからだ。
まだ見たことのない女の像に焦がれ、こんなことまでするようになってしまった。
それでも像を手にいれるためであったなら、コソ泥の真似でもなんでもやれてしまう。
「高澤のやつ、近頃ちっとも連絡をいれてこないが、もしかしてそのままとんづらこいちまったかな。たく、役立たずめ。もう少しで見つかるみたいに言ってたくせに」
定期的に報告をいれていたのだが、ここのところ、ぷっつりと途絶えてしまっている。
まさかとは思うが、上手いことだけ言って、金を騙しとられたのだろうか。
それとも、本当に菖子の魅力にまいってしまい、罪悪感にかられて逃げだしたかもしれない。
「ふん、あんなババァのどこがいい」
いいながら、年齢とはおもえない菖子の美貌に寒気をおぼえていた。あれは魔性の女である。あの瞳は魂を絡めとられる。
槙原はゾクッとした。
「今日はもう帰るか……」
いやな予感がして、そうそうに諦めることにした。
たいていの日は、美弥のところに立ち寄り、所用をすませた後には、必ず人気のない部屋をのぞいていった。たぶん無駄だとおもいつつも、像をさがしてしまうのだ。
コツコツという足音が遠くから響いてきた。
槙原は冷たい汗が顎につたい、あわてて開きかけていた応接室にはいる。
こんな夜更けに誰なのだろうか。まさか気づかれたのだろうかと身をかたくする。
鍵穴からそっとのぞいた。目の前を、菖子が通り過ぎていった。闇にとけこむ黒いドレスの衣擦れがやけに大きくきこえてくる。
彼女の後ろについて歩いているのは、みたことのない傴僂の、醜い老人だった。突起状に曲がった背中のうえに、黒く大きな袋をかついでいる。
こんな夜中になんとも異様な組合せである。
たぶん槙原でなくとも、興味をひかれるだろう。まさかこの二人で色恋ざたとは考えられない。いったいどこに向かっているのか。
好奇心にかられ、部屋からしのびでると、そのままあとをついていった。
菖子はまっすぐ美弥のいる地下室へとおりていった。それに老人も続き、槙原は息をころしてそっと腹這いになってのぞく。
蝋燭の炎にぼんやりと浮かびあがっていた。格子のむこうからうっとりと顔をだした美弥の頭を、菖子は愛おしそうに撫でている。
「……そう、よかったこと」
なにを話しているのかわからないが、かすかに菖子の声だけがひびいている。
微笑むその顔が、身震いするほど妖しくて美しかった。あの凶暴な美弥さえ、まるで子猫のように身をゆだねているではないか。
菖子はいきなりナイフをとりだした。
ためらいもなく白く美しい指先につきたてた。みるみる赤い露がもりあがるのに、美弥は乳でもしゃぶるようにそれを舐める。
淫靡でくるおしい情景。
二人の美女のあいだで交わされる秘密の行為をのぞきみしているようで、どこか煽情的でさえある。
傴僂の老人がかついでいた袋を床におろした。鍵をあけられた格子土戸から、それを重そうにして放り込んだ。
袋の口が緩んでいたのか、投げられた拍子に中からなにかが転がりでた。
それは――まるで人の頭のようにみえるではないか。
美弥の顔つきがカッと変わった。勇むようにとびついた。野獣の本性そのままに袋をひきさき、それに食いつく。
恐怖に声がもれそうになるのを槙原は手でグッとおさえた。人型のものがあらわれ、噛み砕かれてゆくのだ。ほんとうにそれは人形か。
菖子が、ククッと喉をふるわせた。ちらりと頭上をながしみた。
「来ていたのねえ、やっぱり。なら、お腹もすくでしょう。しっかりお食べなさい美弥」
目があった気がして、槙原はあわてて頭をひっこめた。まるで自分のことを言われているようで、恐怖に頭が真っ白になる。
バリバリという鈍い音がした。
菖子は茶色い封筒をとりだすと男に渡した。
男は何度も頭を下げると、まるで神聖な仕事をしたかのように、それをおし戴き、不躾にも、いきなり中から札束をとりだし、つばをつけて、数えはじめる。
どのくらい入っているだろうか。半端な数ではない。
男は満足そうにほほえむと、男はそのまま帰ろうとした。槙原はあわててその場を離れる。どうしても駈けだしそうになるのを堪え、足音をひそめるのに苦労する。
例えようもない恐怖だった。まるで、魔女のおこなう呪いの儀式をみてしまったようだ。
庭に飛び出した。槙原はそこが、自分が使っている出入口ではないことに気がついた。
「あちこち開けてやがるのかよ。なに考えてるんだ。気味がわりぃぜ」
不用心にもほどがある。金持ちの思考は理解しかねる。
月のひかりを反射している白壁をあおぎみて、槙原は、窓辺にうかびあがった奇妙な影に目がくぎづけられた。
薄手のカーテンの向こうになにがいるのだろうか。
巨大な影が、まるで、虫のように――手がいくつもヒラヒラさせて動いている。まるで蜘蛛のような動きが、ぼんやりと映しだされている。
カーテンの隙間からなにかがのぞいた。赤い目のような光が瞬いた。
幽霊屋敷にでも迷い込んだ気がして、槙原は今度こそ、必死で駆けだしていた。
――そこは、瑞恵の部屋であった。
祭りのあとの村は、やけに静かだった。
まるで、嵐のまえの静けさのように、閑散として不気味にザラついている。
花菜は日々の生活にたいする現実感が、日をおうごとに薄らいできている気がしていた。
硝子ケースに閉じ込められてしまったかのように、なにもかもが直接花菜にはとどいてこない。
ただ何かがじっとこちらをうかがいながら、花菜に起こるだろう変化の時を、辛抱強く待ちあぐねている。
テラスにすわり、一日ずつ濃くなっていく影の黒さを、ぼんやりながめていた。
たしかに、ついこの間までそちら側の世界にいたはずなのに、いまではすっかり違っていて、このけだるさと物憂い感じは、もはや戻ることができないところまで来たのだ。そう花菜に教えているかのようだった。
ふと視線に気づきふりかえった。
じっとみつめている靱也がいた。
本当は振り返るよりずっとまえから、靱也がそこにいることがわかっていた。背中に熱い視線を感じていたかったので、だから気づかないふりをしていたのだ。
ここのところずっとそうだった。誰かの気配をかんじると、必ずそこには靱也がいた。
靱也の目は花菜をみつめている。
深い、なんともいえない悲しく優しい光をともし、魂の途方もない孤独をうつしだしていた。
その瞳にみつめられると、いつも花菜のなかに眠っている大切ななにかが、揺さぶり起こされそうになってしまう。
彼のきつい眼差しが、泣きそうであるのに、最近やっとわかった。必死で耐えている少年のようなのだ。
冷たかった物言いでさえ、花菜をこちら側から、遠ざけようとしてくれていたからであり、この淋しさを、味合わせたくないという、思いやりの裏返しの姿だったのだ。
だがすでに花菜の感覚は変わってしまった。
あの日を境に、感覚が急激に鋭敏になり、見えなかったものが視え、聞こえなかった声が聴こえるようになっていた。まさに、大地と自然が体の一部になったのである。
闇は恐れるものではなかった。
いつも自分のそばにあった陽光が、強ければつよいほど影は濃くなる。そういう存在だ。
人は知らないものを「ない」といい、見えないものも「ない」という。
それは「ない」、ではなく「知らない」「みえていない」ということであり、たしかに存在している。
ただそれを認めると、もうもとの世界には戻ってこられないだけなのだ。
みなが無意識に知っている。
自分だって洞窟に入るまではそうだった。あそこには厳然とした力があり、一族の思いと過去が、いまなお薄れることなく存在している。
靱也はきっと、こうなることを知っていた。だから花菜が来ることを拒んだ。
今ならわかる。彼の、優しさも、思いやりも痛いほどの――愛情さえも。
花菜は靱也が苦しんでいることをしっていた。
なにかに脅え、毎夜うなされているこえが聞こえるのだ。彼の苦しむ心のこえが胸をつきぬけ、どうしても目が覚めてしまう。
花菜の敏感になった聴覚は、靱也の喘ぎをきき逃さなかった。逃げようと苦しむ叫びが自分のもののようだった。
ぼんやりしているように見えても、花菜の内面は、本当はするどく激しい。
小杉家ですごした月日があまりにもつらすぎたので、きっと当人が気づかぬうちに自我を守るため、感覚を封じてしまっただけなのだ。
感じすぎることは危険すぎる。生きてはいけなくなってしまう。
それとも、もしかしたら靱也の声だからこそ、聞こえてしまうのかも知れない。
兄弟だから、だから、こんなに近く感じてしまうのか。
まるで一対の生き物であるかのように、花菜はときどき靱也の中に吸い込まれてしまう。
彼がなにを考え、なにを感じるのかわかってしまう。自分のなかに感じて、たまらなくなる。
きっと靱也もそうなのだろう。
だから、花菜を見つめてくれている。
だから二人の心はかさなってしまう。
この家の、閉じられた異常な世界があって、いまなお正気でいられるのは、靱也が見つめてくれているからだ。彼の視線だけが最後の糸にちがいない。
孤独は、ひとりでは重くのしかかってくるのに、ふたりになると、なぜか心地よい。
この名のつけられない感情が不思議でたまらない。
いつのまにか靱也が目のまえに立っていた。
花菜は自然に、眼をとじた。
ふわりとした抱擁が花菜をつつみこみ、靱也の体がすっぽりと花菜をおおう。
終わりのない思考の迷宮から、連れだしてくれるようで、濁った頭の中が清明になってゆく。
「いまならまだ間に合う」
耳に息がかかる。
花菜は目をあけ、頭ひとつ高い靱也を見上げた。
その目にうつっている花菜の顔は、穏やかな笑みをうかべている。
「どうしてそんなことを言うの?」
どうして、この人は花菜のことばかり考えているのだろう。
やっと見つけたのではないか。
いま花菜を手放せば、魂が干からびて死んでしまうのは靱也のほうである。それがわかっていながらなぜ花菜だけを運命から逃がそうとするのか。
靱也は身をきるようにして、花菜を離した。
「靱也さん・・・」
「まだ手遅れじゃない。まだ、おまえは違うんだ。呪われたこの血からも村からも逃れることができるんだ」
「どうして逃げろなんて言うの?わたしの血だって、靱也兄さんと同じなのでしょう?だったらせめてあなたのそばにずっと――」
「違うっ!」
「えっ?」
「・・・・違うんだよ、花菜」
思いがけず激しい否定に花菜は大きな瞳をみひらいた。
「なにが違うの?だって、わたしたちの父さんと母さんは……」
花菜は言いながら、ふと、自分はまだだれからも、両親の話をしてもらっていないことに気がついた。
ここに来る前に寺山から聞かされたきりだ。
靱也は花菜のそんな心情を読みとったのか、ふいっと目をそらした。
「兄さん、ねえ、わたしたちのお父さんて、だれなの?わたし、まだなにも知らないんだわ。お父さんのことも、お母さんのことだって、なにも聞かされていない」
「・・・・知らない方がいいことも、たくさんある。たくさん、あるんだよ花菜」
苦しそうに顔をそらした。
花菜は底しれぬ不安を感じていた。そこには隠されているものとは何なのだ。
「ここからさっさと出てゆくんだ。おまえだけは、だめだ・・・」
「なにがだめなの?だってわたしは兄さんのそばにいたいのよ、あなたと一緒にいた――」
「いいから俺の言うことを聞け!」
靱也は怒るように言葉をさえぎった。
それはあたかも花菜の言葉を聞き、自分のなかの意志が揺らぐことを恐れるためのようだ。
冷たく一瞥すると、靱也はにげるように行ってしまった。花菜はどうしても聞きたくて、あとを追いかけようとした。
「靱也さ――」
花菜の肩を、瑞恵の白く優雅な手が止めた。
なぜ、と問いたげな花菜に、首をふる。
「あまり、追いつめるものじゃないわ。あの子はあの子なりに、あなたに精一杯の思いやりを示しているんだから」
「瑞恵さん・・・」
不器用な靱也のおもいを憐れむようにいう。
瑞恵は花菜のやわらかな髪をそっとなでた。
「みんな、あなたに意地悪で言っているんじゃないのよ。わたしたちは、いつだって本当のことを言ってしまう。だから言葉がきつくなって嫌われるのよ」
炎のような気性をもつ瑞恵は、本当はだれより真っ直なひとなのだろう。真実ばかりを言うために、怖がられ、逃げられる。
ならばきっと、靱也もまた、炎のごとく熱いたぎりを胸に秘めているのだ。その扱い方がわからず、もてあましているのだ。
「一族の男は、一族の女に惹かれてしまうものなの。でも、そんなことに関係なく、きっと誰より、あなたを大事に思っているわ」
謎解きの、答えのように瑞恵は笑った。
花菜のおもてに朱がさした。
靱也が花菜に恋をしているかのような言い方だった。いや、暗にそれは、兄に対してそんな劣情を抱いている、花菜の願望をいいあてているだけなのかもしれない。
兄弟なのに、どうしてこんなに――。
うつむいた花菜に、優しく目を細めた。
「いいのよ、わかっているから。でもね、きっと、好きにならないほうがいいわ。辛くなりすぎるから。それはべつに、あなたたちが兄弟だからとかという、そんな意味ではなくってね、ただわたしたちの血が――体が、そうなだけなの。本当に好きになってしまったのなら、けっして愛し合わない方がいい」
「愛さない方が・・・?」
ふと思いだす。その言葉は、たしかここに来てすぐに、瑞恵が花菜にいった言葉ではないか。
彼女はなにを思い出しているのだろう。まるで流れに翻弄される枯葉のように、いつもの彼女には似合わない、あやうげな表情をしている。
「でももう、それも終わるわ。あの日の悪夢から、やっとわたしたちは解放される。あの男がやっと帰ってきたんですもの。そう、あの裏切り者がもうすぐここにね」
クワッと目を剥いた。烈火のごとく燃えたぎる紅蓮の炎だ。
「あの外道、あの裏切り者っ!」
気迫におされ、花菜は問う。
「う、裏切り者って、誰のことなんです?」
「あの男……そうよ、梗子姉様を犯し、裏切って逃げたあの憎い男。あいつが裏切ったために、わたしのあの人が死ななければならなかった。あんな男のかわりに晋一郎さんはっ!」
まるで相手を呪詛するかのような気鋭。
ただひたすらの憎悪と悲憤である。それすら彼女を美しくみせてしまう。
「ねえ、花菜ちゃん?」
「は、はい」
見とれていた花菜はドキリとした。
「知りたい?この家が、なぜ呪われているのか。わたしたちがこんな体なのかを」
そっと、左の乳房の上にある、赤いアザを見せた。色はかなりうすいが、それは花菜のものと、同じ印のものであった。
「これは一族の女の証なの。お母様にも、お姉様にもあるわ」
「・・・・なぜ、こんなアザが?」
花菜の視界のなかにいる瑞恵がふとぼやけて見えた。彼女をかたちづくる稜線がにじむ。
なにか獣じみたものが二重にだぶった。
時間が止まってしまったみたいに、彼女の瞳から目がはなせられない。
コフッ、と瑞恵が咳こんだ。
緊張の糸がプツッと切られたように体が自由になった。
瑞恵は続けざまに咳をひどくついた。
青白い肌がさらに白さをまし、赤い雫がくちからトロリと漏れてながれる。
血であった。
口を押さえた指のあいだから、血がしたたり、絨毯に広がっていく。
「瑞恵さん!」
膝をついた瑞恵に、花菜は叫んだ。
のぞき込み、それから慌てて誰かを呼びにいこうとする花菜の手を、グッと瑞恵がつかむ。
「瑞恵さん、どうして?!」
「いいからっ――いいからここにいて。お願い、誰にも言わないで」
「でも」
「わかっているわ。自分の体ですもの」
花菜が立ち止まるのに、瑞恵の手がゆるんだ。腕に血の跡がついていた。
「いいのよもう。どうせわたしの体は、もとから不完全なんですもの。一族にとっては、必要のない存在なのよ」
「そんなことないわ。必要のないひとなんて誰もいないわ、絶対よ!」
むきになって言う花菜に、瑞恵は頬をゆるめる。
あらためてみる瑞恵の目は、悲しいほどに澄んでいた。
けして自分の体の欠損を、皮肉っているわけでもなく、ただ真実として、受け止めているだけなのだということがわかる。
きっと、一族の女性としての役割では、ほんとうに彼女は必要ないのだろう。
ただそれは残酷すぎるだけだ。
花菜は泣いていた。瑞恵の心を思うと、泣かずにはいられなかった。
そんな花菜を、聞き分けのない子供をみるように、瑞恵は困った顔で笑う。
「あなたが泣かなくてもいいのよ。わたしはこの命が無くなることを恐れてはいないのよ。だってあのひとを失った日から、ずっとわたしは死んでいたんですもの」
瑞恵はハンカチでくちもとをぬぐった。息を肩でつきながらどうにか立ちあがった。
「あなたが、どうしてもわたしたち一族のことが知りたいというのなら、後でわたしの部屋へいらっしゃい。何もかも、教えてあげるわ。ただ、後悔しないのならばね」
支えようとした花菜の手を払うと、瑞恵はよろめき一人で歩いた。一族の、誇り高い顔を高々ともちあげていた。
村の連中は、徐々にではあるが色めきはじめていた。
祭りの後始末のために、各戸から人手がかりだされ、提灯や灯篭、土地神や道祖神に供えられていた神具などの品々を片づけていたのだ。
祭り前日と同じぐらい忙しく騒がしいのに、それとは比べものにならないほど陰気である。冷たい風が人々のあいだに吹きぬけてゆく。
「祭りが行われたのに、どうしてなにも変わらない・・・」
洞窟のちかくに祀られている道祖神の祠を酒で清めていた男が、ポツリともらした。
「なんでまだ川は濁ってるんだ。病人はなぜいっこうに良くならない」
周りにいた者たちのおしゃべりが一瞬とまった。誰もが考え、誰もが口にしなかった言葉だった。
祭りの効果がなければ、それが行われた価値がない。巫女の祈りが通じていなければ、まったく意味をなさないのだ。
「巫女様は本当に神を鎮めてくださったのか・・・」
「あの巫女は役にたっているの――?」
誰かの怒りが、憎しみの言葉として成立しようとしたそのとき、女の悲鳴があたり一帯に鳴り響いていた。
「どうした?!」
「なんだ、どうしたんだ!」
「なにがあった?!」
近辺にいた者たちが一斉に集まってきた。
悲鳴は洞窟のなかからだった。
さすがに男たちも、そこだけは入ろうとしなかった。
祭りのかたづけのために来てはいるが、本来なら、この場所に足を踏みいれることすら畏れおおい場所なのである。
気丈な村女がなかに入ろうとした。
黒く大きなかたまりが、濁った水の流れにそって出てきた。
岩にひっかかり、くるりと正面をむく。
死体だった。
男の無惨な死体が中央に浮かぶ。皆おもわず目を覆う。
死体はすでに腐っていた。水にふやけて膨張し、ひどい腐臭がたちこめている。
どうしてそんな方を向いているのか、顔が不自然に後ろを向いており、舌がだらりと首のあたりにまで垂れ下がっている。
だが、人々が本当に目をそむけているのは別のことだった。男の下半身が、何かに喰いちぎられたように崩れ股間がえぐられているのだ。
ダラリと内臓が長くのびて、川の流れにそそがれていた。
誰もなにも言わなかった。
なぜなら、その洞窟は男子禁制の地なのだ。
洞窟から、腰をぬかして足のたたなくなった中年の婦人が這いでてきた。
だれも一言も言葉を交わそうとしない。
「すいませーん、佐野倉さんから言いつかって来たんですが、こちらの洞窟ですかぁ」
人々はギクリとふりかえった。
なにもしらない若い男が、山道に息をきらし手をふっている。
「どうもおじゃまします。研究所者なんですが、こちらの水質検査をしてほしいとい頼まれたんですが」
汗をふきふき言う若者は、やっと村人のただならぬ様子に気づき、手をとめる。
戸惑ったように首をすくめ、もういちど控え目に言う。
「あのぉ、村長さんから依頼されて――」
いいかけた男は、人垣からかいまみえた死体に、顔面が蒼白になった。そのまま言葉をうしなう。
だれもが無言であった。
男の死体をみつめていた。
ダラリとひらいた口から、黒くうごめく小さいものが落ちた
数匹の虫。
――蜘蛛だ。
蜘蛛は内部から男の死肉をたべていた。目の玉がタラリところがり、蜘蛛がこぼれた。
顔がもう少しまともであれば、村人の幾人かは、死者が誰なのかは判ったであろう。
薬をもらいに行ったとき会っている。それは、数日まえに姿をくらましていた高澤の、無惨な死骸であった。
岩に引っかかったまま、浮いたり沈んだりしながら、高澤はむなしく漂っていた。
コリッコリッコリッ――。
硬質な石膏でも彫っているかのような乾いた音が、夜のしじまを震撼させていた。
地下室からだった。
部屋の片隅にうずくまり、美弥はなにかを無心にかじっていた。手にしている赤黒い塊から白いものがのぞいている。
いつものようにやってきた槙原は、背を丸め、いっしんに咀嚼している美弥をみつけた。
恍惚としてほおばっている姿に、わけのわからぬおぞましさをおぼえ、一瞬ひるむ。
まるで餓鬼そのものではないか。
戦慄のあまり体中の毛が逆だった。振り返った美弥の口のまわりは赤く汚れている。
美弥は槙原をみとめても、そのまま相手にしなかった。手のなかのそれを夢中でむさぼっていた。
なんどか呼んでみても、美弥は一向にこたえる気配がない。
こんなこと、はじめてだ。
彼女には普通の少女がもつような恥じらいもなければ、ためらいもなかった。ただひたすらに自分の快楽に正直であり、貪欲に希求してくる。本能のまま、際限がない。
何度でも槙原を格子ごしに欲しがったし、自分から尻をもちあげ、誘いこんだ。ためらいもなく淫らな声をあげて悦ぶのだ。
いったん槙原自身を咥えると、赤子のように一生懸命舌でまさぐり、精液を欲して夢中でしゃぶった。だが、今夜の美弥は、まったく槙原の誘いに応じようとはしない。それよりも目の前にあるご馳走に必死な様子である。
「美弥のやつ、なに喰ってやがるんだ」
槙原は舌うちをすると、苛立たしげに格子をけとばした。頑丈な鉄はびくともしない。
もし彼が、美弥の手にしているものをよくみていたなら、すぐにそれが人の死体であったことに気づいたはずであった。
右腕と肩の肉はほぼ喰いつくされてはいた。化粧を美しくほどこしたその顔は見覚えがある。まぎれもなく咲子のものである。
「美弥のやつ、明日は死ぬめにあわしてやるからな、今日のぶんまでたっぷりと」
槙原は毒づきながら、あきらめて階段をあがっていった。
怒っていたはずの顔が、明日の行為の淫らさにいやらしく歪んだ。美弥なら、かなり過激なことをしてもかまわない。かえって悦ぶ
「まあいい、そろそろ本腰いれて捜さないと。いい加減、やつらだって感づくかもしれないかしな」
独りごちると、闇をかき分け進んでいく。
大きな部屋のまえで立ち止まった。応接室のようなのだが、まだ一度も入っていない。
「どうもこの部屋が臭うんだがな。鍵をどうにかしねぇと、覗きもできやしない」
開かないとわかっていながら、習慣のようにドアノブをまわす。
カチリッ。
小さな音がして、扉は開いた。
槙原はまさかと驚きながらも、唾をのみこむ。部屋のなかへそろりと足を踏み込む。
部屋は青い霧がかかっているかのように沈んでいた。
まるで海底を歩くように、ねばつく空気にからめとられそうになる。
かろうじて視界がきくのは、飾り格子のついた窓のあたりだけだった。
差し込む半月の光が、貝細工に反射していた。
その部屋は特別豪華なしつらえでありであり、茶道具が並べられていた。
棚には大名物とよばれる、天目茶碗がおかれ、茶杓や茶入れが飾られていた。水差しなどが入った桐の箱が積みあげられ、普通ではお目にかかれない銘がうってある。
花器や香盆、硯箱、それに掛け軸が雑然としていた。そのどれもが、生唾を飲みこむよう逸品なのだ。
いちばん端に置かれたその像を見たとき、槙原は、体に稲妻をうけたような衝撃がはしった。
「これだ!」
ひと目で捜し求めていたものだとわかった。
飛びつく槙原の顔に、蜘蛛の巣がねっとりはりつく。掻きむしるように払いながら、掃除もしていないのかと腹立たしくなる。
手をのばし、そうっとつかんだ。
足元についている琥珀がずっしりと重い。
優しい顔をした女像は、まるで槙原がくるのを待っていたかのように手にすいつく。可憐な顔が喜びに泣いているようにみえる。
「これが――夢にまでみた女の像か。やっと、手にはいった・・・」
女の像に頬をすりよせた。冷たい感触がなんともいえず肌に染み込んでくる。
初めてその話を聞いたのは、もう、十八年も昔のことだった。梗子のなにげない話からすべてははじまった。
『この像はね、手にしたものを幸運にみちびき、あらゆる富や名誉を呼び寄せてくれるんですって。もっともそれが本当かどうかはわからないのだけれど、そういう言伝えがわが家にあるらしいの。いうなれば、わが一族の守り神みたいなものかしらね』
そういって男の像を大切そうに抱いていた。彼女の言葉は、いまでも鮮明におぼえている。
無理をいい、像をみせてもらった。
あの時から、彼女と像のことが忘れられなかった。
そして、やっと男の像と対であるらしい、女の像を手にいれたのだ。
一介の家庭教師としてこの家にきて、槙原は自分の身の上のみじめさを思いしらされた。
世の中にはこのような生活があるのだとおどろく半面、はげしい羨望と憎悪をおぼえた。
彼らの暮しは天上人のようであり、優雅で贅沢で、すべてにおいて洗練されていた。
生まれおちた場所がちがうだけで、どうしてこれほど違うのか、悔しくなってくる。
貧乏に貧乏をかさね、ようやく大学に通っていた槙原にとっては、そこはみてはいけない神仙郷だった。貧しいうまれの者ならだれもがうらやみ、嫉妬をしてしまう。
なかでも、当時、すでに社交界の華であった梗子はまさに高嶺の花であった。
槙原に気のあるそぶりをしていたはずの梗子は、じつはただ単に、平民の彼が珍しかったにすぎなかった。
物珍しさゆえの気まぐれにからかわれたと思いこんだ槙原は、逆上のあまり、ひごろから抱いていた劣情のまま、梗子を辱めた。
「おれは男の像をもって逃げた。そして、そして成功したんだ!」
いま、こうやって、この村に手を伸ばそうとしている大手の製薬会社の会長こそが槙原であり、社長だと名乗らせている桑月は、ただの影法師にすぎなかった。表だって動くより、陰で工作し人々を操るほうが得意なのだ。
ましてその製薬会社とて、槙原のほんの一つのコマにすぎない。まだまだ野望は高い。
「そのためにアコギな真似もしてきたさ。多くの者を泣かせ、ひれ伏させてきた」
過去をわすれ、事業を拡大しようとした矢先、女の像の話を耳にした。
篠宮家の家宝であったものを、他家へと預けていたらしい。しかもそれは男の像と対で、いままさに帰ってきたという。
その話を聞いてからというもの、いてもたってもいられなかった。駆けつけてしまった。
「もっともっと富を手にしてやる。おれを見下したやつらみんなを膝まづかせ、嘲ったことを後悔させてやる。見返してやるんだ!」
もちろん、篠宮の人間もそのなかに入っている。受けた屈辱は必ず倍にして返してきた。
「くそ、やっぱり額の宝石はぬけたままか」
像に見入っていた槙原は、額の穴をみつけ、鼻に皺をよせる。なぜ女の像にかぎって、宝石をわけるような面倒なことをしたのだろう。
ポトリッ、と天上から落ちてきた。
蜘蛛が肩をモゾリと這った。
無意識に払うのに、ポトッ、ポトッ。どこから湧くのか、次から次へと止まりがつかないほど落ちはじめる。
ようやく気づいた槙原は取り乱すようにぜんぶ払いのけた。気味悪さに声をあげる。
「なんだこの部屋は!」
蜘蛛は踏みにじる足にもかまわず昇ってきた。服の下に入り込み、薄い皮膚をかむ。
「――みんな、待っていたのよ、あなたが帰ってくるのを」
どこに潜んでいたのか、闇からとけだすように、瑞恵の姿があらわれた。
「ねえ、そんなにそんな像がほしかったの」
気配すらもなくあらわれた瑞恵に、槙原は腰を抜かさんばかりに驚き、硬直してしまう。
瑞恵は軽蔑するような、冷たい目で笑っていた。
菖子のような漆黒のドレスにつつみ、胸元には、赤いアザがのぞいている。こころなしか赤味が増しているようである。
「お、おまえは・・・っ?」
「あなたの、死神よ。あなたが来るのをずっと待っていたのよ。必ずここに帰ってくるってわかっていたから。でも――でも、とても長かったわ」
「し、死神とはどういうことだ。俺がくるのがわかっていたって、おまえはなんで・・・・」
「お母様が、仰ったのよ。あなたがその像を求めて必ず来るだろうってね。だって、そのためにわざと噂を広めたんですもの」
深紅の唇に浮かんだ酷薄な笑みに、槙原は凍りついた。
「あなたが『男の像』を盗み、梗子お姉様を犯して逃げたせいでなにもかもが狂ってしまった。でも、歪みは矯正されなければならないわ。だからこそ、あなたはここに戻って来なければならなかったんですもの」
そうでなければ、自然の均衡は保たれない。
歪んでしまったのなら、後はそれを正すだけだ。女の像は、槙原を誘い込むためだけの、高価な餌である。
「――お、俺に謝れとでもいうのか?それとも『男の像』を返せとでもいう気か?!」
男の短絡さに、瑞恵は馬鹿にしたように笑った。
ゆらりとちかづくと、空気に圧迫されるように槙原はあとにさがる。
「あんな像、欲しければいくらでも差し上げるわ。わたしが欲しいものはただひとつ」
瑞恵から妖気がたちのぼった。
「すべての元凶であるその魂。醜いあなたの命だけよ!」
「な、に?!」
槙原の顔からさすがに血の気がひいた。
彼女のなかにはどこにも冗談の影がない。
槙原は、ひきつった下卑た笑いを口の端にのぼらせた。
「そ・・・、そんなにおどかさなくても、金ならいくらでも出してやるぜ。欲しいものがあるんだったら買ってやる。なあ、梗子のことだったらいくらでも詫びるよ。悪かったよ、まさか孕んで、死んじまうなんてさ――」
「だまれ痴れ者!」
慣れ慣れしく瑞恵の肩にふれた槙原は、一喝され手が痺れたように痛んだ。
この場をどうにか切り抜けようと、さっきから思案を巡らせているのだが、どうもうまくまとまらない。
だがまだ、このときは彼も楽観していた。瑞恵をふつうの非力な女だと思っていたからだ。
「わたしたちは、男に裏切られたなら、死ななければならない」
彼女の双眸が赤く光った。
「いつも人間は裏切り、おまえと同じように、真実を知ったとたん逃げてしまう。――おまえは最大の裏切り者。梗子お姉様をむりやり犯し孕ませ、そのうえで逃げた!」
「たしかに……たしかに俺は逃げたかもしれない。でもだからといって俺が直接殺したわけじゃないじゃないか。子供なんておろせばよかったんだ!」
「いいえおまえが殺したのよ!そのせいで、晋一郎さんの命までが奪われたんだ!」
殺気がたちのぼり、瑞恵の輪郭がかすむ。美しい相貌が、崩れてゆく。
槙原はヒッと喉が切れるような悲鳴をあげ、尻もちをついた。這い後ろに逃げる。
――蜘蛛だった。
巨大な、女蜘蛛が、目の前に立ちあらわれていたのだ。
「我われ一族の女は、男を食べなければならない。愛する者の子を宿し、その男を食べることによって、次への命をつなぐのだ。我われは遊びでは愛しあわない。それは子を宿すためだけの行為なのだ。なぜなら血のさだめし呪いにより、父親を糧として産まれ、夫をわが子への糧としなければならないためだ」
蜘蛛はゆらりとふくらんだ。
「――なのにおまえは逃げた。犯し、子を産みつけておきながら、逃げだした。そのために、晋一郎さんは、梗子お姉様に身を与えなければならなかった。わたしのあの人は、おまえの身代りになり、狂ったお姉様に食べられて死んでしまった!」
血を吐くような叫びだった。
篠宮の女は、はるか遠い時代から、男を食べることにより血をつないできた。
わが子を守り養う母性と、愛するものさえ食べてしまう夜叉の性を合わせもつ魔性の者として生きていた。
神を祀り、神と暮らす彼らは、いつしかその神魔両極の血を、受け入れてしまっていた。
「わたしは晋一郎さんが好きだった。たとえ子が産めなくとも、あの人の側にいられさえすれば幸せだった。――いいえ、子宮がないからこそ、一生、あの人と共に暮らすこともできたのに。でも、あの人はおまえの子のために、お姉様に身を捧げた。お姉様を愛していたから、お姉様とその子を憐れんだのよ」
晋一郎もまた、一族の男だった。
母であり、菖子の姉でもある美貴子もまた、夫である菱川武則を食べ、晋一郎を産んだ。
そうして血はつながれ、篠宮の血をもつ男は、女によろこんで身を捧げる。長く生きるものは少ない。
槙原はガタガタ震えていた。自分が熱にうかされ、違う世界の妄想でもみているような気がしていた。
どこまでが現実であるのか、それとも夢なのかさえわかっていない。発狂寸前である。
「なのに、おまえはまた舞い戻り、梗子お姉様をふたたび犯したのよ。狂った姉様を森のなかにさそいこんで凌辱し、また子を宿させた。今度は食べる相手もなくお姉様は……っ」
魔物の口がクワッとひらいた。肉食獣の獰猛な牙が見え、ねばつく白い糸が部屋中に吐き出される。
槙原の手足に糸がからまっていった。悲鳴をあげる暇もないほど素早かった。
槙原は、必死でもがいた。とっくに理解の範疇をこえていた。抵抗は本能のみによる幼稚なものだが、狂ったように暴れわめき、瑞恵の吐き出す悪夢から逃れようと、手にしていた女の像でなぎはらっていた。
「わたしが欲しいのはおまえの命だ!」
「くるな化物っ!この妖怪め、放せっ!!」
テーブルのうえにあった硯箱に手をのばし投げつけた。軽くかわされるのに、手のとどく範囲のものなんでも放りなげてきた。
青磁の花器が瑞恵の胸に直撃した。瑞恵の動きが一瞬とまり、コフッと、赤い血のかたまりを吐いた。
絡んでいた糸の力が緩まり、赤く染まる。
槙原は死にものぐるいで糸から逃げだした。部屋を飛び出す。
どこをどう逃げているのかもわからず、彼はやみくもに走っていった。今度、瑞恵のはきだす悪夢の触手につかまれば、必ず殺されてしまうだろう。
「化物だ!ここにいるやつら、みんな化物なんだ!」
半狂乱になって息を切らしながらも、その手には、女の像がしっかりと握られていた。
それほどまでの執着心をもつ人間のほうが、よほど恐ろしい存在ではないのだろうか。欲によってのみ、彼らは生きているのである。
「ちくしょう、ここにいるやつらみんな殺してやる。こ、殺される前に――みな八つ裂きにしてやるぞ!」
狂気に猛りうなりをあげた。
悪夢はついに彼をとりこみ、槙原そのものを魔物へと変化させてしまった。
「だれの声――?」
髪を櫛けずっていた手をとめた。
どこかで、だれかの感情が爆発したような衝撃をかんじた。
花菜はそんな微妙な空気の変化にひどく敏感になっていた。感覚がするどくなりすぎていて、わずかな感情の揺れでさえ感じ取ってしまう。
だからこそ、悪夢にさいなまれた靱也の呻き声も聴こえたし、瑞恵の夜な夜な思い忍ぶ泣き声も、沙也子の寂しげな子守歌さえも聴いてしまっていた。
彼らの悲しい胸のうちを、花菜はだれよりわかっている。
「靱也さん・・・・・・ではないわね」
なんとなくほっとしていた。
彼の声ならすぐにわかる。彼が苦しむと花菜もつらくなってしまう。心だけなら、いつでも彼のそばにいられる。実体を持たない手で抱きしめ、頬をよせることもできる。
彼のそばにいたいだけで、こんな淋しい家にだって留まれてしまうのだ。だからたとえ嫌われても、靱也の孤独な魂を独りにしたくないと思ってしまう。
この家の過去がどんなに恐ろしいものでも、きっと耐えられるだろう。その苦痛に耐えるために、女として生まれてきたのだ。
「瑞恵さんは、なにをわたしに言おうとしているのかしら」
いきなり背中にゾクッとした冷たいものが走った。いいようもない邪悪な気配が騒々しい足音にあわせて近づいてきている。
凝視する花菜の目のまえで扉は乱暴に開らかれた。逃げる暇もなく、吹きつける熱風のごとくに邪気をまき散らし、悪鬼となりはてた槙原がそこに立っていた。
よほど恐ろしいものでもみたのであろうか、げっそりと青ざめ、頬がくぼみ、目が飛び出している。もはや尋常な顔つきではないと一目でわかる。
「あなたがなぜここに?!」
「うるさい!おまえも化物のくせに!」
恐怖に逆上している槙原は、おびえる花菜に凶暴なうなりをあげた。
相手が正気ではないとすぐにわかったが、逃げる場所もないまま、花菜は恐ろしさに押され、一歩づつうしろにさがった。
壁で行きどまった。花菜が短く悲鳴をあげたのに、槙原は弾かれるように飛びかかってきた。手にした像を振り回しながら、わけのわからない叫びをあげている。
「化物め!おまえらなんか死んじまえ、こん畜生が!」
「キャァっ!」
花菜は夢中で身をかわした。
像はわずかに身をそれた。槙原はゼイゼイ息をし、花菜を追う。その魔の手から死にもの狂いに逃れながら、花菜は叫んだ。
「どうしてこんなことをするの!?やめて、こないでよっ、だれか助けてっ!!」
狂気の激情にたぎっている槙原の殺気が花菜のやわい肌を灼いた。
振りおろされる像の先端が背筋をかすめ、服が肩からはらりと垂れる。背にまっすぐ血の線がにじんでいる。
かすかに胸の赤いアザがのぞいた。紅蓮に燃えさかっているようで、それが瑞恵を彷彿させたのか、槙原はさらに凶暴化してしまう。
花菜の足をあっというまに掴んだ。乱暴に引き寄せた。
「くそったれめ!おまえらなんかに殺されてたまるか、俺はまだまだこれからなんだ。化物に喰われてたまるかってんだ!」
「や、やめてっ」
首を絞める手から逃れようと必死で抵抗するが、鋼鉄のような手はピクリともしない。
「なんで、わたし・・を・・・」
花菜は槙原のドス黒い顔をみながら、淡い色の瞳に涙が盛りあがっていった。
罪業の深さに狂った男への、憐れみと怒りの涙だった。
「化物め、泣いて見せたって俺はだまされないぞ。――なにが子供だ、なにが男を喰うだ。喰われてたまるか。おまえら化物の子供のために、だれが死んでたまるかよ!」
グッと力が篭る。目の前が赤く霞む。
「おまえなんか俺の子供であってたまるか!こんな化物なんか、俺の娘じゃない!」
その言葉に、花菜はビクッと体が痙攣した。
「俺の娘じゃない。おまえらなんか知らない。俺はそんなもの必要ないんだ」
ぼやけてゆく世界のなかで、槙原の言葉だけが、はっきりと聴こえた。
息を荒くしながら、何度も繰り返しいう言葉が、花菜を暗い絶望にたたきこんでゆく。
体のなかに黒い塊が広がってゆくのがわかった。
ゾッとするような冷たさのソレを止められない。
いままで名乗りもせず、存在すらなかった父親など、はなから期待していなかった。
けれど、はじめて受ける言葉が、否定であり、死をいきなり突きつけてくるなどというのは、あんまりではないか。
父親、という存在が、死と狂気を運んできていた。花菜だとて、父親というものに憧れを全く抱かなかったとは、言いきれないのに。
だが、すべては拒絶された。
命の根源から断ち切ってしまいたいほどに、厭われていた。――靱也までもいらないのだ。
残忍に笑う槙原の手は、弱りつつある花菜の細い頸にくいこんでいった。
ゆっくりと、いままでの花菜が死に、体中の細胞が別の生き物となって蘇ってゆくようである。
槙原はぐったりとした花菜の手に、赤い宝石がはめられているのに気がついた。花菜をつきはなすと、白んだ指からそれをぬきとろうとした。
「この石だ!この石を取り戻せば終わりだ」
これさえ手に入れば二度とこの家になど用はないのである。皮肉なことに、花菜の命は、おぞましい化物じみた欲望により、忘れられてしまった。
「くそ、取れないぞ!」
強引に引っ張っている槙原を、花菜の凍りついた瞳がみつめていた。
花菜は、自分の中におさえこんでいた何かが、動き出すのを止められなかった。
天上から、黄色い蜘蛛が、槙原の背中にたれてきたのだった。
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