糸の館

4



 沙也子によばれ花菜は、玄関先の応接室に顔をだした。
 待っていた二人の顔をみた瞬間、花菜は硬直してしまい、顔色を失ってしまった。
 直次と咲子だった。
 小杉家の乳兄弟であり、花菜を散々いびっていた二人が、首をそろえてやってきていたのだ。やけに親しげな笑みをうかべているではないか。
 そんな顔で迎えられるほど仲がよかった記憶はない。
 一緒に遊んだこともほとんどないのに、こんなところまで訪ねて来るとは、いったいなんの用なのであろうか。
 会いたくないと思っていたのは、花菜だけではないはずだ。だが二人は、青ざめた花菜に何を思ったのか、ことさらにこやかに挨拶をした。
 「花菜ちゃん久しぶりだね。元気そうでよかったよ。どうしているかと心配してたんだ」
 兄の直次が言った。
 「こんにちは花菜ちゃん。おじゃましてます」
 『花菜ちゃん』、などと呼ばれたことなどない。聞いているほうが身震いがつく。
 直次が何かを企んでいるときにみせる危険な目つきに、花菜はゾクリとした。久しぶりにあう彼の顔は、死んでしまった長男である、あの、周一にそっくりではないか。
 「あなたのことを気にかけてくださっていたらしくてね、わざわざ会いに来てくださったそうよ、花菜さん」
 ソファーにもたれかかっていた菖子が優雅に微笑んで言った。
 言葉でなんと取り繕おうと、恥も外聞もなく花菜に取り入りにきたのだ。そんな二人も、さすがにこの美貌の夫人の前では、気後れしているらしい。
 咲子にはまだそれでもどこか、隠しきれない威嚇的な態度が残っていたが、それも菖子の前では、わずかにひそめられていた。
 大地主の家で、使用人にかしづかれて育ったとはいえ、格が違いすぎる。ここでは咲子などただの田舎者にすぎない。
 花菜が頭をさげ、息苦しそうに言った。
 「お、お久しぶりです。直次さんも、咲子さんもお変わりなさそうで。小杉のおじ様とおば様もお元気でいらっしゃいますか」
 ずいぶん形式的な挨拶だと思ったが、声が震えるので、仕方がない。
 「ええ、元気にしているわよ。花菜――花菜ちゃんがいなくなってから、ずいぶん寂しがっているのよ。でも、すごいのねえ花菜ちゃん。こんなお屋敷に住んでいるなんて」
 なにをみても豪奢であり、派手好みの咲子の目を惹くものばかりだ。
 それ以上に驚くことは、そこに住まう人たちが、いままで会った誰よりも、気品にみちていて美しく、一つ一つの動きまでが洗練されていていることだった。
 自尊心のつよい咲子にとっては、まさにここは憧れの場所である。
 こんな世界があったのかと驚き、そしてそこが自分のものではないことに激しい嫉妬をおぼえているのだ。
 はじめて飲んだ紅茶の味や、その器の優美さにさえ感動してしまう。
 「どうぞごゆっくりなさってね。花菜さんの乳兄弟なら、わたくしどもとは親戚もおなじことですわ」
 菖子に笑いかけられボウッと直次が赤くなる。彼もまさか菖子が、花菜の祖母だとは思ってはいないだろう。
 「いまお部屋の用意をさせておりますわ。いろいろと、つもる話もおありでしょうから、わたくしはこれで失礼しますわね」
 そういって出ていくのに、沙也子も、
 「わたしもお部屋の用意を手伝ってくるわね。どうぞお茶のおかわりは自由になさって」
 そのまま一緒に出ていってしまった。
 いきなりシンッとした。
 空気がいきなり重くなった。花菜は身のおきばがないように、戸口に立ち、うつむいている。
 菖子がいなくなると、途端に、なりをひそめていたふたりの本性があらわれはじめる。
 「すっかりいいとこのお嬢様になっちゃったのね、花菜」
 咲子が威圧的にいった。
 自分の欲しいものすべてを花菜が手にしているのかと思うと、苛立ちがおさまらないのだ。
 花菜の前にたち、のぞきこむようにして、胸元にリボンのついたブラウスをひっぱる。
 「ねえこれって全部買ってくれたものなんでしょ。すごいわねえ。でもあんたなんか擦り切れた着物がお似合いよ。――ちょっとやだ、これもしかして絹じゃないの?」
 「でもさ、人間変われば変わるもんだよな。ちょっとみないうちに花菜も色気づいてさあ」
 直次がニヤニヤ笑って花菜を値踏みしている。花菜はたまらず顔をそむけた。物言いまで、周一に似てきているではないか。
 花菜のそんな様子に、考えていることを見抜いたのか直次は意地悪く笑った。
 「兄さんに似てるだろ、俺。おまえが殺した周一兄さんの顔にさ」
 「――っ!」
 「そうよ花菜、あんたは周一兄さんを殺したんだからね。そのこと忘れちゃだめよ。まだ償いもしてないんだから。ねえ、わかってるんでしょう?」
 「でもそれはっ!」
 花菜はちがう、といいかけて、グッとおし黙った。彼らはそう言って、いままで何度も花菜をいたぶってきたのだ。
 無理なことを言いつけておいて、できないと殴ったり蹴ったりした。わざと冬の川に髪飾りを落して捜させたり、真夜中に買物に走らせたりしたことも何度もあった。
 まるで絶対の呪文のように、そういってはいうことを無理やりきかせてきた。
 だが、それだって、本当に花菜のせいなのかどうかもわからないというのに。
 いや、どうみても、あのことは周一のほうが……。
 周一が花菜に牙をむけ襲いかかってきたのは、花菜がまだ十二才のときだった。
 立場の弱くなった花菜につけこみ、彼は裏山につれこんで力ずくで犯そうとしたのだ。
 そのときどういう力が働いたのかはわからないが、偶然にも暴れる花菜を殴った拍子に、彼はくまん蜂の巣を落としてしまった。
 怒りに燃えた蜂たちは、群れとなって周一をおそい、そのまま彼は毒によって死んでしまった。
 花菜がのちに、どんなに説明しても、小杉の人間は誰も信じてくれなかった。
 花菜のほうから誘ったのだと罵られた。殺人者として打ちつけられ、もし村医者が周一の死亡理由をきちんと説明してくれなかったら、そのまま殺されていたかもしれない。
 それからあと、彼らがどんなにつらく当たったか言葉にもできない。息子の不貞は一言も触れず、花菜ばかりを悪者にして憎しみをぶつけた。
 不思議なことには、蜂はぐったりとした花菜にはいっさい襲ってこなかった。
 早生がみつけたときには、周一の死体だけが腫れあがり変形していて、花菜は、わずかばかりの少衣の乱れがあるだけで、気絶していた。
 「花菜、あんたがあたしらに逆えるとでも思ってるの?この賣女の人殺しが」
 唾でもはきかけるように咲子は言った。
 彼女はずっと、幼いころから花菜を憎んでいた。きっとなにかしら花菜には刺激するようなところがあったのだろう。
 どんなに控え目にしていて、着飾ることがなくても、咲子より花菜は数段美しかったし、どこか汚れることのない清らかさがあった。
 男達は花菜に夢中になった。学校の成績もよかったし、咲子が女王として君臨するには、花菜はなにかにつけて目障りだった。
 そのうえ悔しいことに、思いを寄せている早生は、花菜にしか興味が無いようにみえた。咲子をまったく相手にもしなかった。
 それは同じ年であることでよけい苛立ちをつのらせた。
 「まあまあ咲子、花菜ちゃんだって色々あるんだしさ、もっと平和的にいこうよ」
 直次が偽善的にいさめた。
 だがその目にあるものは、あの野獣と化した周一とおなじだ。それが友好の言葉ではなく、身の危険を感じるものだと本能的にわかる。
 「そうだわ花菜、あの玉が消えちゃったのよ。あんたなんかしたんじゃないの」
 咲子がふいに思い出したように言った。
 「えっ、なにが?」
 「ほら、あの赤い宝石よ。おじい様にくれたっていうやつ」
 「そうそう、おまえがいなくなってしばらくして、急に消えちまったんだよ。おまえがなんか仕掛をしたんじゃないかって、おふくろが騒ぐから」
 「し、しらないわそんなこと。私はなにも」
 直次が肩に手をおいた。
 首筋にかかるなまあたたかい息に鳥肌がたち胃液がのぼる。
 彼はにやけた笑みをむけた。
 村では、女を泣かせている優男といわれている自惚れ顔だ。たしかに整った顔立ちではあるが、うきたつ根性の悪さだけは隠しようがない。
 花菜は我慢できなくなり手を払った。
 「部屋の――用意を、手伝ってきます」
 それだけ言うと、逃げるようにして部屋を出ていった。
 
 


 「花菜?」
 壁に崩れてたおれている花菜に、靱也が声をかけた。
 抱き起こした花菜は蒼白だった。
 「どうした、気分が悪いのか」
 「大丈夫、まだ……」
 靱也の顔をみるとほっと息をはく。
 力なく必死で立とうとした花菜に、靱也は静かな声だが、つよく言った。
 「いいからそんな気をつかうな」
 肩をだかれた。
 靱也の手には、直次のような恐怖感はない。ただ優しくてあたたかくて、それだけで、張りつめていた花菜は涙がこぼれそうになってしまう。
 「養子先の乳兄弟が来ていると聞いたけど」
 目に見えて脅えている花菜に眉をひそめる。
 「なにかあったのか?」
 花菜はその言葉に首をふり、それから耐えられないようにグッと口を押さえた。
 彼らの言葉を、――切りつけるような残酷な言葉を思いだし嘔吐をつく。
 こらえようとしたのに、そのまま胃液が昇り、指の間からもれた。
 「いいから吐け」
 靱也が手で受けとめてくれていた。
 背をさすり、吐きやすくしてくれる
 花菜はたまらず涙をこぼした。
 こんな言葉を言われたことがあるだろうか。誰かが、こんな風に花菜を許してくれたことなどない。
 靱也の胸のなかに倒れこんだ。花菜の大粒の涙が朱色の絨毯に染み込んでいった。




 咲子はむきになって噛んでいた親指の爪をグッとにぎった。
 「腹たつわねえ花菜のやつ。あんないい服着て、生まれながらのお嬢様みたいな顔してすましちゃってさ。こんなことならもっと虐めておけばよかったわ」
 「おいおい、あれ以上虐めてたら、死んじまってたぜ」
 直次が苦笑する。
 「なによ、死んじゃえばよかったのよあんなやつ。なにかっていうと、みんなで花菜ばっかり贔屓するんだもの。許せないわ」
 「そりゃおまえ、早生に相手にされなかったっていったほうが早いだろう」
 「うるさいわね!兄さんこそちゃんと花菜をものにしなさいよね。孕ませでもしたら、こっちのもんなんだから」
 両親にいわれ、そういう目的で、彼らはやって来たのだ。
 彼らとしては、せっかくここまで育てた金蔓を、いまさら手放してしまう気はさらさらなかった。
 花菜が出て行くとき、信じられないほどの礼金をもらったが、それがよけいに欲をかきたててしまった。とどまることを知らない人間の欲望のサガなのか。
 これで花菜が直次と結婚でもしたら、それこそ万万歳である。篠宮の一族に加われるし、どれほどの富が流れてくるかわからない。
 「でもさ、あの宝石どこにいったんだろうな。下男や女中ども、みんな素っ裸にして調べたのによぉ」
 毎日定巳が大切にみがいていたのに、忽然と深紅の宝玉は消えてしまったのだ。
 天地をひっくり返すような騒ぎだった。
 それこそ村中の人間を呼びだして詰問するまでして捜したが、それっきり姿を現すことはなかった。
 「そんなものより、この家の中ってちょっとみただけでも、もっと値のありそうなものばかりじゃない」
 咲子はうっとりと言った。窓から外をみる。
 「ほら、庭なんてこんなに広いのよ」
 美しい花々をみわたしていた咲子はふとそこに早生の姿をみつけた。パッと顔が輝いた。
 すぐに、わきにいた沙也子の姿に気づき、知らず知らずのうちに目尻が吊りあがる。
 早生が彼女の手から荷物をとりあげるのに、沙也子がなにかを言って笑っている。仲睦まじくいっしょに歩いている。
 咲子も女である。早生の表情をみただけで、彼の思いが特別だとわかってしまう。
 花菜にだってあんな顔をしたことがない。
 「へえ、こりゃずいぶん分が悪いな。あんな美人じゃ、おまえなんて歯がたたねぇや」
 直次がよこからのぞきせせら笑う。
 「おまえさ、なんで早生みたいなあんな朴念人のどこがいいんだ?」
 「よけいな世話だわ、ほっといてよっ!なによ、こうなったらどんな手をつかっても手に入れてやるわ。女の意地なんだから」
 ギラッとにらみつける。
 扉を叩く音がした。
 入ってきた女性をみて、二人は目を奪われた。花菜かとおもいきや、そこに立つのはまぶしいほど鮮やかな女性――瑞恵であった。
 「あなたたちが花菜ちゃんの乳兄弟さん?はじめまして」
 白と黒のモダンなワンピースをきこなし、優雅にわらう瑞恵に、二人は挨拶もわすれみとれている。まるで婦人雑誌でみる外国のモデルのようだ。
 ふと瑞恵の背後にいた靱也の存在に咲子が気がついた。一瞬にして顔に火がつく。
 見たこともないほど洗練された青年だった。冴えざえとしたまなざしが印象的で、ひと目で高貴な血筋だとわかる。
 村では美男だといわれている直次など、足元にもおよばない。靱也をみてしまった後では、どんな男もかすんでしまうだろう。
 瑞恵が足音もなく歩みよった。
 咲子の頬に手をかける。甘いかおりに息がとまるかと思った。
 「あなたが咲子ちゃんね。可愛いかたね。こちらにはゆっくりなさるんでしょ」
 「は、はい。あのぉ――」
 「あら、ごめんなさい。わたしは瑞恵。花菜ちゃんの、一番下の叔母にあたるわ」
 カチコチになっている咲子に微笑む。親しげに顔をよせる。
 「ねえ咲子ちゃん、甘いものはお好き?よかったらわたしの部屋へ遊びにいらっしゃいな。ちょうど昨日もらったバームクーヘンがあるのよ。それに、あなたに似合いそうなお洋服もあるし、あまり袖を通していないから、よかったらもらっていただきたいわ」
 咲子はゆで上がったタコのような顔でひっしにうなずく。
 「あ、あの、あの方は・・・?」
 咲子はじっとこちらを見ていた靱也が気になるのか、恥じらうようにチラと目をやった。
 たしかに同性の直次ですら驚いたほどだ。気にならない方がおかしい。
 直次は燃えるような目をして靱也をみていた。
 彼が花菜の相手なら、かなり不利である。
 「ああ、靱也よ。花菜ちゃんの兄よ。直次さんと同じぐらいの年まわりかしら。あまり友達もいないようだから、仲良くしてやってちょうだいね」
 「部屋に案内するよ」
 靱也がそっけなくいった。
 直次は花菜の兄だと聞いて、いからせていた肩をおろした。一目みて、きっと靱也にはかなわないと、どこかで感じていたのだ。
 「咲子ちゃんも靱也さんに部屋に案内してもらっていて。あとでお迎えにゆくから」
 瑞恵はそういうと先にいってしまった。
 靱也はなんの興味も示さず、ただ二人に荷物を持ってついてくるようにと言い、義務的に部屋へと案内していった。
 



 大した手荷物もなかった直次を部屋に案内し終わると、靱也は出がけに冷たく言った。
 「家の中のどこを歩いてもかまわないが、奥の日本間のほうはあまり立ち入らないほうがいい。色々とあるからな」
 それは行くことを禁止しているのではなかった。ただの忠告だ。
 「わかった。でも色々って、何があるんだ」
 「美術品なんかもあるようだし、それ・・・・とても大切なものが、いるんでね」
 「大切なもの?」
 やけに意味ありげにわらった。
 「まあ、後悔しないならいいけど」 
 まるで興味をかきたてずにはいないような言い方だった。十分じらしておいて、はっきりとは教えず、そのまま部屋をでてゆく。
 「心の遠い人種だわよね」
 部屋からでてきた靱也に、瑞恵が声をかけた。人間性を見透かしたような冷やかなものいいだ。
 直次のとなりの部屋である咲子を迎えにきていたのだ。もちろん花菜の部屋とはまったく別の棟である。
 「命の価値を理解しようとしない部類の人間だわ。他人にも心があることを知らず、命を神聖な目でみようとしない。彼らにとって人は、ただ利用できるかどうかだけなのよ」
 靱也はうなずく。
 「いいエサになるわね」
 「花菜に被害がでないうちに手はうつさ」
 「巫女になにかあれば問題だわ。――そうね、さしあたっては、兄の方が先かしらねえ」
 「大丈夫。餌はまいといたから」
 睦みあうように見合わせふたりは笑う。
 瑞恵は足元にすりよってきた黒猫を抱きあげた。
 「おまえどこにいっていたの?ずいぶん姿を見ないと思ったら。なあに、妊娠しているの、おまえ?お腹が大きいじゃない」
 猫の耳に口をよせキスをする。
 そこに並んでいるふたりは、人のかたちをした、夜叉そのものにみえた。




 咲子と直次は、それからしばらく滞在することになった。
 すっかり瑞恵の部屋に入り浸っていた咲子は、おいしいお菓子や、きれいな洋服、それに都会でのめずらしい話に夢中になっていた。
 瑞恵は人をひきつける話し方を心得ているのか、話題も豊富で、咲子の知的好奇心をすっかり満足させていた。
 もはや早生など目ではなくなっているらしく、美しくて聡明な瑞恵に、まるで恋でもしているような熱のいれ具合いである。
 つきまとい離れない咲子を、瑞恵も邪魔にするでもなく、甘えるのにまかせていていた。本当の妹のように可愛がっていた。
 直次のほうは妹とちがい、目当ての花菜と会うこともできないまま、予定がすっかり狂ってしまって苛立っていた。
 警戒しているのか、花菜は調子をくずしたといって、部屋にこもったきりだったし、会えばあったで、必ず靱也がいたり、沙也子が同席していて、とうてい当初の目的を果たす隙がない。
 「なにが孕ませてこいだ。ババァが、簡単にいいやがって」
 けしかけたみさに悪態をつきながら、それでも退屈しないのは、一日中のように家の中を探検しているせいであった。
 まるで家のなかすべてが美術館か、高級な骨董屋のようなのである。
 直次は、なぜかその日、さそわれるように日本家屋のほうにまで足を伸ばしていた。
 家のもつ独特の重圧感に、潜在的な恐れを感じはしていたが、見てみたいという欲求のほうがまさっていた。
 家の間取りもかなり理解できたし、迷うこともきっとない。なにかあればいつでも逃げだせる。
 「なにがあるんだよ、こっちにさ」
 靱也のあの言葉がずっと気になっていた。きっとそのせいもあって、来てしまったのだ。
 冷たい風がどこからか吹き上げてきている。
 その風にのって、喘ぐような声が耳に届いた。
 時々その声は聞こえていたのだが、その存在がよくわからなかったため、捜しようがなかった。興味がふくらんでいった。
 「こっちか?」
 声をたどり、地下に続く階段にいきあたった。声はそこから聞こえていた。
 まるで呼んでいるような不思議な声である。
 階下を覗こうとした時、ポンッと肩に手をおかれ飛び上がった。
 「ワアッ!」
 驚く直次のうしろに靱也がいたのだ。
 ああっ、と言い訳しようとするのに、靱也は薄く笑っている。
 「ゆ、靱也くん、俺はその――」
 「いいんだよべつに。きみは、ここに興味があるんだろう」
 「え、いやあの、俺は・・・」
 「何がいるのか見たくないか?いいんだよ。さあ、おいでよ。美弥も、ずいぶん待っていたんだからさ」
「み、美弥って、だれが・・・?」
 いいよどむ直次に、靱也は先になって階段を降りていった。直次はためらいながらも、好奇心に逆らえず薄ぐらい部屋へついて降りてゆく。
 「これは――」
 絶句した。喉がごくりと鳴った。
 「美弥だよ。花菜と僕の、妹なんだ」
 鉄格子の向こうで、美弥は寝転がったままの姿でにこりと笑った。紅をぬったような唇が、誘うように開かれ、舌がチロチロのぞいている。
 ただならぬ色香であった。
 魔に憑かれたように、直次はふらりと前にでた。格子に手をかけ美弥を凝視した。
 薄闇に美弥の肌が、桜色にそまって、官能的に浮かびあがっている。
 「さあ、ご挨拶するんだ美弥」
 美弥はスウッと足を開いた。乱れた着物のすそから、秘密の部分がかすかにみえていた。もちろん、下着はつけていない、直次の下半身に直撃する。
 美弥は格子をにぎっている直次に這ってきた。手を舐め、赤い舌が生き物のようにうごめき、直次を呼んでいる。
 「慰めてやってくれないか。美弥はずっとひとりで淋しかったんだ。きみを待っていたんだよ」
 格子をひらいてやるのに直次がフラフラと入っていく。虫篭にみずから飛びこむように。
 美弥に誘われるままに覆いかぶさった。本能のうずきに逆らえず美弥の身体を求めはじめる。鍵をかけたのにも気づいていない。
 「まあ、しっかりと可愛がってやってくれ。ただし、そいつに心はないんだ。母親の腹を切り裂いて生まれてきたようなやつだからな」
 靱也は冷酷な笑みをうかべ、そのまま地下をはなれた。
背後であがる悲鳴を気にもせず、地下への階段を、合わせ戸でかたくふさいでしまった。




 キャキャという笑い声がした。
 咲子のものだった。直次がいなくなってからしばらく経つというのに、それにすら気づいていない様子だった。
 瑞恵に夢中だった。
 彼女のもつすべてのものが憧れであり、美しい服も、豪華な宝石も、瑞恵のもつ気品や美貌ですら咲子の心を捕らえてはなさない。
 瑞恵がたった一言、直次に使いにでてもらった、と言っただけで何一つ疑いもしないほど心酔してしまっている。
 咲子の異常なのめりこみ方に反して、瑞恵は冷酷なほど平然としていた。
 相手が燃えれば燃えるほど、冷めるものなのか、可愛がっているようにみえて、そのじつ、扱い方はひじょうに殺伐としていた。
 さいしょ、咲子に、女の蜜を舐めあうことを教えたのは瑞恵のほうだった。
 女同士という背徳は、すぐに快楽にかわり、咲子の身も心も虜にした。ひたすら求めてくるようになった咲子に、瑞恵はすっかり飽きて興味をなくしていた。
 咲子は毎日いろんな洋服を着て、おしゃれをして遊んでいるのに、なぜかやつれて頬骨がでてきていた。明らかに病的な顔である。
 その目は、まるで色恋に溺れきった狂人のようであった。鬼気せまるものがある。
 ひとときも瑞恵のそばを離れず、ただ甘えて抱きつきうっとりとしているばかりである。
 かわりに瑞恵は、ますます美しさを増していた。まるで咲子の若さを吸い取っているかのようである。
 花菜はそんな咲子をみながら、不安に思っていた。あれほど目の敵にしていたのに、自分になんの興味もしめさないばかりであるか、きっといまの咲子のなかには、花菜の存在さえいない。いや、瑞恵以外だれもいない。
 時折、瑞恵が花菜に声をかけるときだけ、嫉妬むきだしの顔で睨みつけてくるだけだった。
 花菜は、瑞恵の飼っている黒猫をだきあげた。
 黒猫は、咲子があまり好きではないらしく、彼女がいるかぎり、瑞恵の部屋にはかえらない。ここのところずっと花菜の部屋にいた。
 それもそうだろう。夜半の闇に、咲子の喘ぐ声が遠慮もなく響きわたるのを聞かされれば、誰だっていいかげん辟易してしまう。
 咲子は今では人目をはばかることもなく、瑞絵の部屋で一緒に寝泊まりしているのだ。
 猫の柔らかな毛並にふれ、花菜はひとときその温かさに心をなごませていた。気持ちよさそうに喉をならすのに、何度もくびを撫でてやる。
 人間は、なんと温もりに飢えた生き物なのだろう。こうして動物に柔らかな手触りを求め、己をなぐさめてしまう。どれほど心が飢えていたのかわかってしまう。
 人と人のあいだにある溝はあまりにも大きい。みんな求めているのに、みんな手に入らずあがいている。互いに触れあうこともできず、わずかな温もりすら交わせないままなのだ。
 『あいつ、いなくなっちゃえばいいのよ』
 「えっ」
 花菜はとつぜんの声に驚いた。
 『直次と同じように、咲子も消えちゃえばいいのよ。あいつら、生きている価値なんてないんだから。さっさと死んじゃえばいいのよ』
 「だ、だれ、どこにいるの?」
 『咲子のやつ、本当はずっとあなたの命を狙っていたのよ。今だって、瑞恵が気をきかしてくれなければ、きっと殺されていたわ。それに瑞恵があなたにもう少しかまうようになったら、勇んで殺しにくるわよ』
 険をふくんだ声が頭のなかに響く。
 どこからささやいているのかわからない。
 『直次だって、あなたを犯そうとして耽々と狙っていたわ。女を道具としか思ってないのよ。あいつらは人の皮を被った野獣。いえ、それ以下。生きている価値なんて何もない』
 「だれ?なんで、わたしにそんなこと言うの?」
 おびえる花菜は、それを見たとたん、ビクリと硬直した。
 鏡に映った自分の顔だった。冷酷な顔で笑っている。
 風が強く窓硝子をゆらせた。
 猫が膝から飛びおり低く鳴いた。
 花菜は顔をふせてしゃがみこんだ。
 どうして自分は笑っていたのだろう。あの声は、もしかして、自分のなかにひそむもう一人の声なのだろうか。 
 猫が扉の隙間をひっかいていた。出て行きたいといっている。
 そっと戸をあけてやった。部屋の向こうにひろがる闇へと消えてった。
 夜の魔術は、捕らえどころのない不安と切望をかきたて、ささやき声となって花菜をだきしめる。その手はやさしく、一度捕まったら、きっと二度と離れられない。
 花菜はなぜか猫のあとを追っていた。
いまは一人でいたくない。
 そして、そこにもまた、夜の闇にさいなまれている女性がいた。
 沙也子だった。
 彼女の足元に猫がすりよってゆくのを、遠い目をしてただ見つめていた。




 その男は槙原克明と名乗った。
 先日、桑月についてきていた秘書であった。
 「ずうずうしいかとも思ったのですが、せっかく遊びに来るようにとお誘いを頂いたので、ご好意に甘えさせてもらい、やってまいりました」
 目の下のほくろが甘ったるくゆるんだ。
 整った顔があたえる印象を十分考慮したうえでの微笑みだ。菖子もまたそれに負けない艶美な笑みで応対している。
 「よくいらしてくださいましたわ。本当に来ていただいて嬉しいですわ。ずうずうしいだなんて、お思いにならないで。さあどうぞこちらへ」
 まったく完璧な笑みで、応接室へと通す。
 「きけば槙原さん、お父さまの代からの有名な美術品のコレクターだそうですわね。ぜひ今度拝見させていただきたいわ」
 「いえそんな、篠宮様の収集にくらべたら、うちの物なんて、ただのガラクタですよ。こちらでは、どんな高価な品も、日常品としてお使いになっていらっしゃるそうですし、わたくしども庶民には真似ができません。でも、それこそが、品物に対する真の愛情表現かもしれませんね」
 「そんなことございませんわ。ただうちでは価値がわからず使っているだけですもの」
 そういう菖子の背後にかけてある虎の絵を描いた屏風も、ただのものではない。
 「そういえばこちらには、先日もお話にでていた『女の像』というたいへん高価なものがおありだとかで」
 なにげなく話題にだしたつもりなのだろうが、目が微妙に鋭くなっている。それだけで、今日の訪問の目的がわかる。
 「わたしも噂にしか聞いたことがないのですが、たしか台が琥珀で、額にはビジョンブラッドとよばれるルビーがはめ込まれているとか・・・」
 「ええ・・・・・・よくお知りですのね。そうなんですのよ、あの像は、富と幸福を呼ぶといわれていて、持っているとツキが自然と向こうから飛び込んでくるのだという話らしいですわ。まあ、ただの言い伝えでしょうけれどね」
 「それは、すごいですね」
 槙原は、篠宮家の富をみて、なるほどと頷く。
 「以前は『男の像』と呼ばれるものと、対でございましたのよ。それも盗まれてしまいましてねえ。あれは『女の像』と一対でこそ、値打があるものですのに、残念ですわ」
 「二つで、一対ですか?」
 「ええ。二つ揃うと、威力が倍増すると言われておりましたのに」
 菖子がじっと槙原を見つめた。黒くつやつやした瞳が、誘っているように揺れていた。
 「やっと宝石も戻ってきたのに、残念ですわ。女の像の額にある宝石は、代々巫女となるものがうけついでおりますのよ」
 槙原ははやる心を押さえようとグッと手をにぎった。額にうっすらと汗ばんでいる。
 「よろしかったら、見せてもらえませんか」
 「・・・・いずれ、時がきましたらね」
 そういうとツッと立ち上がった。
 「どうぞごゆっくりなさって。わたくし、これから人と会う約束がございますので失礼させてもらいますけど、よろしかったら、娘の瑞恵に案内をさせますわ」
 「いえ、そんなお手間を――」
 「よろしいのよ。奥の間でも見ていってくださいな。たいした物はございませんけれど」  菖子はそういってつきあたりの部屋へ通す。
 そこには専門家が目にすれば、涙がでるほどの銘品が累類と積みあげられていた。
 古伊万里の水差しや白磁の壷、螺鈿の歌書箪笥(たんす)に掛け軸の束。一つ一つがかなりの品物である。
 槙原は、瑞恵を呼びにいった菖子の足音が消えるのを待って、煙草に火をつけた。
 「さすがに『女の像』はすぐには見せないか。――まあ、それにしてもこれだけのものを、よくも無造作に置いているものだ」
 呆れるのを通りこして、かえって腹がたつほどだ。
 菖子のいたときの紳士面はすっかりきえていた。
 危険な陰りをおびた粗野な表情がもどり、煙草の煙をはきながら、それらの品物を手にとってみている。
 ドアノブの回る音がした。
 クッと指で煙草の火をもみけした。
 「槙原、俺だ――」
 入ってきたその顔に、安堵の息をついた。学者――高澤である。
 「なんだおまえかよ。驚かすなよな」
 槙原は毒づき、ふんと鼻をならした。ニヤニヤしている高澤に不機嫌に言う。
 「おい、なんか出てきたのか」
 「出てきたなんてもんじゃないよ。あるある、この家はまさに宝の山だよ。発表すれば絶対大騒ぎになる文献なんかゴロゴロしているよ」
 「チッ、そんなもんじゃねえよ。俺が言ってるのは『女の像』のありかと、伝承文献だ」
 あきれるほどの執着心をむき出しにする槙原をみながら、高澤は肩をすくめて言った。
 「おまえ、本当にあれに執着してんだな。だってもう『男の像』は手にいれてるんだろう。それだけでも十分な価値じゃないか」
 「うるせぇ。あれは女の像と対になってるんだ。俺は両方ほしいんだよ」
 「そういって、十七年前にもここから盗んだんだろう?」
 高澤は意地悪くニヤリとした。
 「余計なことをいうな!おまえはこの家を探っていればいいんだ、なにがなんでもあの像に関するものを捜しだせ。必ずあるはずだ、梗子が言ってたんだからな。――おまえにはそれだけの金はだしているはずだぞ」
 「わかっているさ。僕にしても、ここはいい勉強場だからね。これだけの資料、めったに拝めないもん。――でも、ほんとこの家はいい女ばっかりだよなぁ。いっぺんでいいから、つまみ食いがしてみたい気がするよ」
 すっかり菖子に骨抜きにされている高澤の本音だ。
 ふぬけたように笑う高澤の様子はあまり役立ちそうにない。槙原は苦く舌うちして小声でぼそりと漏らす。
 「こいつ、早めに手を打った方がいいかもしれないな。寝返られるとあとが厄介だ」
 高澤はそんな槙原に気づきもせず消えてゆく。それと交替のように、瑞恵が顔をだした。
 「あなたが槙原さんて方?」
 「はい、えっと、瑞恵さん、でしたっけ」
 「ええそうよ。よくご存じね。よろしくお願いしますわ」
 槙原は瑞恵の鮮やかな美しさに目を奪われていた。そんな男の様子にはなれているのか、瑞恵は眉一つうごかさない。
 「この家になにかあなたのお目に止まるようなものがございまして。このとおり整理がまったくできておりませんで、お恥ずかしいくらいでしてよ。なにぶん、男手がすくないものでして、思うにまかせませんし」
 瑞恵は投げつけるようにみつめ髪をかきあげる。
 槙原は同情するように目を細めながら、瑞恵の指に、赤い指輪がないことを確かめていた。口のなかでつぶやく。
 「やっぱりあの娘か」
 「なにかおっしゃって?」
「ああ、いえ、でもこれほどお持ちなら、それも仕方がないでしょうね、本当に素晴らしい品が数々あるので驚きましたよ」
 「そんなにお若いのに、骨董がご趣味なんて、珍しいわね。よほどお好きなのね」
 なにかしらの意味があるような言いかたに、槙原は苦笑して頭をかく。
 「若いと言っても、わたしももう三十六がくるんですよ。もういい年ですよ」
 さすがに、ひとまわりも年齢のちがう瑞恵に若いといわれ、槙原はつい本当の年が口についてしまう。
 「そう、もう三十六才になるの」
 猫の目のように大きく見開くのに、光彩が細くなったように見えた。挑戦的にうっすらと笑い、顔をよせてじっとみあげた。
 「どこかでお会いしたことがあるかしら」
 槙原はさすがにその言葉には、ギクッとした。できるだけ表情を崩さず微笑んでみせる。
 「さあどうでしょうか。でもあなたほどの美女なら、忘れるはずはないと思うのですが。・・・そういえば、上にお姉さんが二人いらっしゃるんでしたよね」
 「姉が、二人?」
 「え、ええ」
 瑞恵の笑みが消えたのに、槙原はあわてた。何かまずいことでも言ったのだろうか。
 「いえ、あの以前、こちらの方にきたことがあるのでつい・・・っ」
 「ええおりますわ。正確にはおりました、と申し上げるべきですけれど。上の姉は死んでしまいましたのよ」
 「し、死んだ?」
 「そう。どこの誰とも知らぬ男に辱められ、妊娠させられた挙げ句、その子を産んで・・・ね」
 さすがの槙原も、口を閉ざした。
 かなりまずい話題である。
 「あらこんな話、ごめんなさい。でも、ここら辺りでは有名な話ですもの。いずれはお耳に入ったことだと思うわ」
 槙原は墓場であったあの娘のことを思いだしていた。彼女はたしかに手に指輪をはめていた。
 「ということは、あいつが梗子の娘だったんだな」
 槙原は確信にみちていた。
 多少、複雑な心境ではあったが、いまは女の像を手にいれることで頭がいっぱいだった。
 案内をいいつかっていた瑞恵が、途中から消えてしまってからは、自由にあちこちの部屋を見聞していた。ずいぶん他人にたいして警戒心のうすい寛容な家である。
 ふと気づくと、いつからそこにいるのか、瑞恵にかわっていっぴきの黒猫が目の前にいた。
 「女の像だけはどうしても見せない気か」
 よほど警戒しているのか、話題にしようとするたびにはぐらかされていた。それで面倒くさくなったのかもしれない。
 「あの娘からどうにかして指輪を取り上げなきゃな」
 手間がかかるとばかりに息をついた。
 どうしてこんなにも、自分がその像に惹かれるのかがわからなかった。
 ただ、男の像と対になると聞いてからは、欲しく欲しくて、そのことが頭について離れなくなってしまった。夜も昼も、二つ並んだ姿ばかりを想像している。
 手にいれている男の像以上に、それに惹かれている。
 この家にはじめて訪れたのは、家庭教師としてのことだった。
 当時、まだ帝国大学に通っていた槙原は、知合いの頼みで、一年ばかり、沙也子の英語の勉強をみるようになっていた。そのころは青井と名乗っていた。
 そこではじめて梗子と会った。
 彼女は槙原よりひとつ年下であり、咲き誇る大輪の薔薇のようなひとであった。
 槙原は身分ちがいとわかっていたのに、梗子に惹かれずにはいられなかった。
 梗子にしてみれば、妹の家庭教師という存在であって、けして男という存在ではなかった。そのための安心感からか、親しく話し、この家にいまの繁栄があるのは、ある像を手にしているためだと、噂話ぐらいの軽さで話してしまったのだ。
 槙原は、自分でも不思議なほど、それがみたくてたまらなくなった。
 懇願しつづけ、ついに『男の像』と呼ばれる、篠宮家の家宝である像をみせてもらった。
 色と欲に狂いはじめていた槙原は、なにかに憑かれたようにその像を欲っしはじめたのだ。
 金持ちになれば梗子を手にできるかもしれないという野望もあった。なにがなんでも手に入れなければならないという妄想にかられていた。
 気がつくと、梗子を犯し、男の像をもって逃げていたのだ。
 色恋で梗子をその気にさせてから、像を手にいれるつもりだった。だが誘いはあまりにも簡単に冷たくあしらわれ、つい血気にはやってしまっていた。
 像を手にしてから、槙原は色々なことがあった。
 しばらくは身をかくすために、各地を点々としたが、運のいいことに、そのあいだに知合いになった者達が、それなりに傑出した人物ばかりだった。
 人脈がつながってゆき、いまの槙原という古美術商の養子となってからは、どんどん野望にむけて活動をはじめていった。
 像を手にいれてからというもの、気味が悪いくらい何もかもが上手くいった。さまざまな機会にめぐまれ、やり手の実業家として頭角を現しつつあるまでになっていた。
 そして、近頃になってから、やっと男の像と一対である、女の像の話を聞きつけたのだ。
 「とにかくあの娘に近づかなきゃな。宝石がないとなんにもならないらしいし」
 つぶやくのに、猫が足にすりよってきた。誘うように鳴くと、そのまま尻尾をたて、チラチラと槙原を振り返りながら歩いていく。
 ついて来いとでも言っているように見え、槙原は自分でもおかしいと思いながら後を追っていった。
 ふいに猫が消え、かわりに廊下のむこうから声がきこえてきた。甘い声だ。
 「誰だ、そこに誰かいるのか」
 薄闇に目を凝らすと、地下への階段が、ぱっくりと開いているのが目にはいってきたのだった。


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