糸の館

3



 花菜にはわからないことばかりだった。
 誰もが、はっきりと自分についてはいわないのに、それぞれ何かをかかえ、何かに苦しみながら、別々のことを告げていった。
 それはパズルのようだった。
 みんながちがうピースをもっていて、花菜に少しづつ示してくれるのだが、肝心の中心部分が抜けてしまっているために、どうしても答がわからない。
 靱也は帰れといい、瑞恵は巫女になるなといった。
 沙也子は自分ができるものなら、巫女になっていたのに、と悔やんでいた。
 菖子だけが、まだ何も語ってくれない。
 巨大な存在感と重みだけを花菜に与えている。
 見ていないようでいて、漆黒の瞳はいつも花菜を見ていた。
 まるで花菜自身が、自分で謎を解くのを期待しているかのように、ただじっと待っている。
 あいかわらず彼女は怪しげな学者をはべらせ、たいして面白くもなさそうなのに、しりぞけもせず、無意味に時をすごしているようにみえる。
 何をさせたいのだろう。花菜のなにを待っているのか。無理強いもせず、なすがままにまかせている。
 花菜は本館の薄暗い廊下を歩いていた。
 湿ったような黒光りのする廊下の空気はひんやりしていて、どこからか風が吹き上げてきていた。
 かなり入り組んだ造りの屋敷だった。
 心して歩かないと、本当に迷ってしまう。
 まだこの家の半分ほどしかしらなかったが、どれもが贅をこらした部屋であり、高価な品々が飾られている。
 それらをすべてあわせると、どれほどになるのかさえわからない。もらわれていく赤子に、あれほどの宝を持たせることだけを考えてみても、相当なものである。
 花菜は気づくと、まだ足を踏みいれたことのない奥の間のほうにまで来ていた。
 北側の斜面の方には、だれも案内してくれなったので、まったく近寄らなかったのだ。
 一度、いっしょに歩いてくれた沙也子の様子が、ここら辺でおかしくなったこともある。
 続き廊下をはさんだむこうの空気が、花菜を本能的におびえさせていたのだ。
 「この声――」
 冷たい風に混じり、かすかに聞こえてきた。
 どこかで覚えのあるような唸り声。
 空間にぼやけ、野獣の遠吠えのようにも聞こえるが、それはたしかに人の声である。
 誘われるように声の先を追っていた。
 地下に続く階段をみつけ、そこから聞こえる声に、おそるおそるのぞく。
 花菜は短く悲鳴をあげ尻もちをついた。
 「なにっ、いまの?!」
 「――妹だよ、僕たちの」
 その声に、悲鳴こそあげなかったが、花菜は息が止まるほど驚き後ろをむいた。
 靱也だった。
 「靱也……、兄さん?」
 「あいつは僕たちの妹だ」
 靱也は云った。
 勝手にはいりこんだ花菜を怒っているのかと思ったが、そうではないらしい。
 花菜の手をとり立ちあがらせる。
 「妹って、彼女が?」
 思いがけない言葉である。
 たしかに、地下の薄ぐらい闇にいたのは幼い女の子のようだった。
 ただゾッとするほど美しい面ざしであるにもかかわらず、そこに刻まれていたのは禍々しい狂気の表情だった。野獣の性のまま、うなりをあげていたのだ。
 少女は座敷牢に入れられていた。
 年の頃は十二、三才であろうか。
 壮絶に美しい顔立だけは、たしかに靱也に似ている。
 「美弥(みや)のせいでこの家は呪われてしまった。だがそれももうすぐ、終わる。あいつが帰ってくるからな。そうすれば、なにもかも……」
 靱也がうっすらと唇を横にひいた。その顔があまりにも美しくて残忍で、目が離せられない。花菜の傷ひとつない白い喉が上下した。
 「だれが、帰って来るの?」
 「――父さんさ」
 「父さんて・・・@」
 「僕たちの父親。そう、ただ血だけがつながっただけの、不幸の元凶がね」
 うっとりと甘えるような表情のくせに、言葉はひどく憎しみにみちている。
 花菜ははじめてしった。父親は生きていたのだ。その人の存在はいつも語られることはなく、てっきり死んでいるのかと思っていた。
 それでも、手放しに喜べないのは、靱也の口調からしても、彼が歓迎されるべき人物でないらしいことはわかる。
 「あいつが帰って来れば、そうすれば……」
 夢みるような残虐な閃光が双眸をはしる。
 それをみたくなくてなぜか花菜はうつむいた。
 「靱也、靱也、ネエ靱也、来テエ」
 愛らしい声が地下から沸きあがってきた。
 「美弥だ」
 靱也はそういうと、するりと階段を降りていった。
 地下は板張りであり、どこから風が吹き込むのか涼しい。
 十畳ほどの空間に畳が敷かれ、幼い少女ひとりを閉じ込めるには、不似合いなほどの頑強な鉄の格子で区切られている。
 恐る恐るついて降りた花菜は、一瞬そこに亡霊がいるのかと思ってしまった。
 暗闇に抜けるように白い肌だけが浮いていた。
 美弥は威嚇するように牙をみせた。犬歯がやけに尖っていて、野獣そのものである。
 「美弥、ほら花菜だよ。花菜が、帰ってきたんだ。わかるかい?」
 ガッ、とはげしく鉄格子にとびついた美弥は、そのまま手折ってしまうのではというような怪力でゆさぶった。きしむ鉄格子に折れてしまいそうで、脅えて足がすくんでしまう。
 そのまま普通に座っていれば、人形のようにもみえるのに、そうして正面からとらえた姿は、狂い病に犯されているとしか思えない。
 「花菜?」
 美弥がはっきりとそう呼んだ。
 花菜は驚いた。
 「え、ええ。そうよ」
 「花菜、花菜――!」
 美弥はいきなりまぶしいほどの笑顔をむけた。うってかわる表情の愛らしさに、花菜のほうがびっくりしてしまう。
 何が楽しいのか、キャッキャッと手を叩いた。
 「み、美弥・・・ちゃん?」
 「どうやらおまえを歓迎しているようだな。やっぱり、わかるのか・・・」
 美弥はバタッといきなり倒れた。目を大きくする花菜の前で、着物の裾をはらい、太股をみせる。しどけなく崩れた姿は、妙に色香があった。幼い体ではあるが、女そのもののように媚び、誘っている。
 近寄りかけた花菜を靱也がとめた。
 鉄格子に掛けかけた手を、飛びかかった美弥の鋭い爪がひっかいた。
 花菜は思わず血のにじんだ指を口にやった。わずかだが薬指の肉がそげとられていた。
 「大丈夫か?!――こいつの見た目に騙されるな。美弥には本能だけしかないんだ」
 性欲と、食欲だけしかない。
 美弥は爪先にのこっている花菜の肉を食べていた。こうやって誘い、獲物を狩るのだ。
 花菜の指に盛りあがる血の赤を、うっとりとした顔で見つめていた。天人のように美しい少女のなかにあるのは、野獣の狂気だけ。
 無邪気に笑うそのほほえみすら、どことなく魔物じみていて、寒気がしてくる。
 花菜は言葉もなく、妹だという少女をみつめた。美弥のなかにあるのは、無妙の闇だけであった。




 包帯をまく靱也の手さばきに花菜はみとれていた。
 花菜の指を、まるで大切な宝物でも扱うように、そうっと撫でる。鈍痛がしているはずの指より、胸のほうが大きく高鳴り、痛い。
 冷たい手だった。
 彼はどんな思いで、座敷牢に閉じ込められてきた妹をみてきたのだろう。凶暴で、人の性をもたない美弥になにを思っていたのか。
 ふと顔をあげると、靱也の目がじっと見ていた。もうそこには、帰れと強く言った、あのときの鋭さはなかった。
 「花菜、おまえは……っ」
 そっと手が花菜の頬にのびてきた。
 触れるか触れないかの寸前で、それはとまった。
 泣くのではないかと思われた。
 苦しげに靱也は唇をかむと、目をそらした。
 花菜の敏感になっていた頬が、彼の温もりをかすかに感じジンジンと疼いた。
 触れあわなくとも、靱也の気持ちが体中に染みいってくるような気がする。
 静かな空間をけたたましい怒鳴り声が崩しさった。
 瑞恵であった。
 「もういいから帰ってちょうだい!あなたに用はないって言っているでしょう、しつこいわ!」
 靱也はふう、とため息をつくと、しかたなさそうに腰をあげる。多少ためらったが、花菜もあとについていった。
 階段の上から瑞恵は男を刺すような鋭さでねめつけていた。彼女の気性の激しさが、その視線だけわかる。
 男はそれでもタジタジしながら、言い訳がましく口をひらいた。
 「だからさ、わ、悪かったよ。べつになんの他意もなかったんだ。きみのお姉さんなら、挨拶ぐらいしとかなきゃと思ってさ・・・・」
 「けっこうよ。さっさと帰ってちょうだい。――もう二度と顔を出さないでよろしくてよ。それから、言い忘れたけれど、今後、お姉様に手をだしでもしたら、うちの使用人が黙っていないと思ってちょうだい。そのときは命の保証はしかねるから。わたしでは彼を止めることができないんですもの」
 とりつくしまなく、自尊心高く顎をあげる。男はなさけない顔で見上げた。
 「み、瑞恵さん、あの、僕はそのぅ……」
 「だってあなた、最初からお姉様にとりいろうとなさっていたんでしょう。知っていたのよ、ずっとね」
 すべてを見透かしていたとでもいうような、残酷で冷ややかな瞳をしている。
 瑞恵はわかっていたのだ。この男が沙也子目当てで近づいてきていたことを。それでいて、男はあっけなく瑞恵の肉欲のいざないに負け、溺れてしまったのだ。
 「残念だわ、もう少し楽しませてもらえると思っていたのに。こんなに早く終るなんて」
 「き、きみがはじめに僕を誘ったんじゃないかっ!」
 「それに勝手に飛びついてきたのはあなただわ。そうね、試されているともしらずに。つまらない遊戯だったわ」
 「ゆ、遊戯?」
 「あら、じゃあ少しはわたしに本気だったのかしら?」
 揶揄するように嗤う瑞恵に、男は以外にも傷ついたような顔した。
 しょせん世間の荒波もしらずに、親の権力に庇護されてきた、愚かな貴族のご令息なのだ。
 「だって瑞恵さんと僕はもう他人じゃないじゃないか。あんなに、毎夜愛し合ったっていうのに、き、きみは本気じゃなかったのかい」
 「なら、わたしと結婚してくださる?こんな男をとっかえひっかえするような女でもあなたはいいの?」
 「それは――」
 男は言葉に詰まった。だが勢いにおされて、強気に返事をする。
 「も、もちろん。結婚、しよう」
 真面目な男の鼻っ面をくじくように、瑞恵は大きく笑った。
 あきれたように息をつく。
 「もういいわ、さっさとお帰りなさい坊や。帰りが遅いとお父様とお母様に叱られるわよ」
 なにかいいかけた男に口をはさませず、瑞恵は馬鹿にしたように目を細め、わかりきった答を聞くためだけに言った。
 「子宮がね、わたしにはないのよ。それでもよければよろこんで嫁いでさしあげてよ」
 ギラリと目がひかる。
 男は青ざめた。そのときやっと、彼は瑞恵のなかにひそんでいる、本当の意味での情熱と、誇りの高さに気がついたのだ。
 瑞恵を心の底から怒らせたことに気づき、よろよろと出てゆく。ひどく哀れな後姿だった。
 瑞恵がふりかえった。
 「盗み聞きは面白くって?お二人さん」
 「その大声じゃあ、盗み聞きなんてしなくても、いやでも聞こえてくるさ」
 靱也が肩をすくめ、あきれたように言う。
 「あらそう、悪かったわね。でも今度の男はつまらなかったわぁ。もうちょっと気骨があると思ったんだけど・・・。お姉様とわたしに二股かけようとするぐらいなら、もっといい男か、図太さがなきゃあね。あっけなかったわ」
 彼女にとっては一つの遊びが終わったにすぎないのか。
 だが、多少は自嘲ぎみに笑う。
 「もっとも、子宮のない女に結婚を迫られたら、大抵の男は逃げだすでしょうけどね」
 まるで自分で自分の心臓をえぐっていような言い方に聞こえた。
 花菜にはわかる。
 同性として、子を産めないという事実が、どれほどの重みをもっているか。笑って言う彼女の心の傷はきっとはてしなく深いのだ。
 「そんな顔しなくたっていいのよ花菜ちゃん。いまとなっては、かえってよかったと思っているんですもの。あのひとがいないのに子供なんて――」
 すうっと彼女の影がうすくなった。
 「男と遊んでいなくても、こんな身体のわたしでは巫女にはなれなかったわ。まあ、どうせだから、うんと男遊びでもして、適当に楽しんどくわ」
 伸びをすると、疲れたといわんばかりにあくびをする。
 「少し寝るわ。ちょっとここのところお遊びがすぎたものね」
 「体をこわさない程度にしておくんだな」
 そんな瑞恵を表情なくみつめていた靱也がぶっきらぼうに言った。
 瑞恵がわらう。
 彼女が部屋に入ってしまうと、靱也もまた、そのまま二階にあがってしまった。
 花菜はひとりとり残され、行き場を失ってしまいたたずむ。どっと疲れがでる。
 「瑞恵さんに、子宮がないなんて・・・」
 あれほど美しい人なのに。もし普通に生まれていたなら、どれほど幸せで、光に満ちた人生を送っていたことだろうか。彼女の絢爛ではなやかな笑みは、男達を虜にし、思うままの栄華をあたえただろう。
 だが神は、彼女に、女としては最大の欠点であろうものもまた、与えていた。
 子供を産めないばかりに、沙也子や菖子を、男からまもる防波堤となり、魔の手からかばっているのだ。
 時に、彼女はどこか切れたように陽気になったり、自暴自棄なほど遊びまくっていたのもわかる。きっと自分が抑えきれなくなるのだろう。
 だから誰も何もいわないし、止めない。彼女の心の闇を不憫におもい、好きにさせている。
 玄関先から大勢の話声が響いてきた。花菜は、その人たちが誰なのかわかっていた。
 村の者たちである。
 毎月きまった日に、菖子のもとに薬をもらいにきているのだ。
 花菜は、彼らのおとす陰鬱とした気が、あまり得意ではなかった。
 闇の世界にいる亡者のようにジメついた気を放つくせに、それでいて花菜を見るときの目だけは、やけに生彩にみちていてギラギラしている。
 何かを期待している目。
 彼らはなにを求めているのだろうか。
 わからないだけなおさらに恐ろしい。出来るかどうかわからない事を期待されるのは、つらい。
 年老いた男が膝まずき、礼をひつこく述べていた。黒いドレスをまとった菖子を、まるで女神でも崇めるように拝んでいる。骸骨のようにやせた顔が異様に輝いている。
 薄気味悪さにその場を離れようとした花菜の姿を、とりまきの中のひとりの老人がめざとくみつけた。
 皓々(こうこう)と光をはなつ双眸が恐ろしくて、会釈もろくにせず花菜は逃げだした。
 「巫女様が現れてくだされた!巫女様がわれらの病いを治しに来てくださったぞ」
 年寄りとも思えぬ速さで駆け寄ってきたかとおもうと、花菜のまえに伏し、黒褐色に変色した手ですがりついてくる。
 「は、はなしてください・・・っ」
 「おお巫女様どうぞ、なにとぞ息子の足を治してくだせえまし。巫女様の力でどうぞ」
 足に額をこすりつけられて、鳥肌がたつ。
 「ほんに働き者のよい子でごぜぇました。それが土地神様の病にかかってからというもの、毎日苦しんでおりますだ。どうぞ治してやってくだせえまし。あの子には、七人の子供とわしら年寄りがおります。どうぞご慈悲をくだされませっ!」
 つよく足をにぎられ花菜は苦痛と恐怖にうめく。
 「わ、わたしには、どうしていいかなんて全然、わからない・・・っ」
 男が顔をあげたとき、花菜は蒼白になった。目の玉が盲いたように乳白色に濁り、死んだ魚のようであったのだ。
 花菜はあらんかぎりの力でその手をふりほどくと、夢中で走り逃げた。
 凄さまじい恐ろしさだ。追いかけて来る気配はなかったのに、恐怖のあまりに振り返ることもできない。
 花菜は、庭に飛び出した。
 土蔵のあたりにまできて、やっと足をとめ、力つきへたりこんでしまった。
 荒く息を肩でしながら体の震えをどうにかおさめた。
 花菜は無性に泣きたくなった。
 彼らになにが起こっているのだろう。ひどく病は根深く残酷で、憐れになってしまう。
 そして落ち着いてくるにしたがい、必死ですがってきた老人の手をふりはらった自分の心のなさに胸が痛んだ。
 けれどあの異様な雰囲気にどうしても耐えられなかったのだ。
 「どうしたんですか、気分でも悪いのですか?――えっと花菜さん、でしたっけねぇ」
 いきなり声をかけられビクッと跳ね顔をあげた。
 そこにいたのは学者――高澤であった。
 「預けられていた家からお戻りになったお嬢さんですよねえ。大丈夫ですか」
 「あ、はい・・・あの、なにか?」
 高澤はめずらしそうに眼鏡を上下させ、舐めるように花菜を見ていた。
 目つきがじっとりしていて、まるで商品を値踏みされているような気分になってしまう。
 「なるほどなあ。遠目じゃよくわからなかったけど、やっぱり一族の女性だねえ」
 「えっ?な、なにがですか?」
 「いやあ、篠宮の血統は本当に美しい人ばかりなんだなあと思って。他人の血が入っても濁ることはないのかなあ。きみの顔立ちからいくと、沙也子さんの筋だなあぁ」
 ペロリと下舐めずりをする。
 「でもちょっと違うかな。もっている雰囲気がここの人と異なっているもんな。ああ、だから似てないって思ったんだ。育った環境によっても、毛並が違ってくるのかもしれないな」
 独り言のようにつぶやき、何度も、自分の意見に頷いている。
 いったいこの男はなんなのだろうか。視線が不躾すぎる。
 花菜は、学者だとしか聞いてはいなかった。
 よくわがもの顔で、屋敷を自由に歩き回りいつもブツブツ言っているのは見かけていた。いつも薄気味悪くて、近よらなかった。
 訝しむようにみている花菜に気づいたのか、高澤は失敬と言うと、またニヤニヤ笑った。
 「いやあ、あなた方は本当に興味のつきない人たちだ。ついつい悪いクセがでてしまう」
 なにやらポケットから手帳を取り出しかきつけた。小さな字でなにやらびっしりかき込まれている。
 「ああ僕はね、帝国大学の研究生で、民族学を専攻しているんだよ。ここ一年ばかり、この家を研究するために、出入りさせてもらってたんだけど、本当にお美しい方たちばかりだ。菖子さんの血筋かなあ、やっぱり」
 菖子さん、とやけに慣れなれしくよぶのが、いやらしく聞こえる。
 「この家の・・・なにをお調べになっているんですか」
 「んっ?ああ、そうか、きみはこの家に住んでなかったから、なにも知らないんだよね。いやあ、まったくこの家は大変な家系なんだよ。歴史も古いし、資料も数多くのこっている。この倉のものなんて、ほとんどが国宝級なんだからね。世に出せば、それこそ歴史がかわるかもしれない」
 うっとりとしている。きっとそれを発表している自分の姿でも想像しているのだろう。
 「かなり古い伝承なんだけど、完全な形で残ってたんだよ」  「伝承って・・・昔語りのようなものですか?」  「そうそう。じつは僕の専門はそれなんだよね。古事記や日本書紀みたいな中央の役人が編纂したものじゃなくてね、地方地方で編まれた、古代文献をしらべてたんだ。そしたらここの家の名がでてきてね――。それによると、ここいら辺りは、昔からそうとう豊かな土地だったらしいよ。それも強大な力をもつ産土神の守護によるためだったらしくてさ、村人も温和で従順で、信心もあつくって、強い絆でむすばれていたんだそうだよ」
 高澤の目が序々に熱をおび、興奮に声が大きくなる。
 「あるときさ、中央から派遣された役人がやってきて、得体の知れぬ神様を祀るのはけしからん、と言って、勝手に中央の神の社を建てようとしんだ。当時としては、中央政権を強めようとしてのことで、政策の一部のことだったんだろうけどさ」
 つばきを飛ばすのに花菜は顔をしかめわきによける。
 「役人どもは無造作に土地神の社を壊しまくっていったんだ。それまでおだやかに奉られていた神も、あまりの無礼さに目を醒まし、突然やってきて無礼をはたらく異国の者たちに怒りの雷ちをおとした。つまり、天変地異だね。――大地震がおこり土地が割れ、山が崩れた。その崩れた聖なる山から『大蜘蛛』が現れるんだ。その『大蜘蛛』こそが土地神の化人なんだよ。で、神は守護してきた民の浅はかさと裏切りに激しく怒った。あわてたのは役人どもで、いそいで中央から兵を派遣してきたんだ。ついでに大陸から呼び寄せた陰陽師もいっしょに送りこみ、大蜘蛛と対峙させたんだよ。――激しい戦いの末、けっきょく『大蜘蛛』は、陰陽師の呪が懸かった矢に射られ、倒されるんだけど、勝敗がついたとおもったとたん、背中がパックリわれて、中からごまんと子蜘蛛が溢れ出てきてね、そのまま兵や陰陽師らを喰い殺してしまったそうだ」
 いったん言葉をきると、ふっと息をついた。
 「でも、『大蜘蛛』から流れる赤い血が川をにごし、何年にもわたって農作物はできなくなってしまったんだ。人々の暮しは年々悪くなってしまって、けっきょく土地神を鎮めようというので、篠宮の巫女が呼ばれた。まあ蜘蛛だって、高貴な身分の姫君に祈られたら、鎮まるほかないだろうからね。それ以来、篠宮家はこの土地の守り神そのものとして敬われてきている――ということなんだよね」
 何度も読んだのだろう。すっかり暗記しているらしい。
 花菜はそれらのことが、なぜか真実だったと信じている自分に気がついた。
 聞いたこともないはずの話なのに、知っている気がする。もしかしたら、大悟がそれとなく昔語りに聞かせてくれたのかもしれない。
 花菜はようやく巫女の存在がどういうものかわかった気がした。
 人々はまだ神の呪いのなかに生きており、怒りを信じているのだ。
 「ここの家系は代々美形らしいね。しかも女系家族だ。男子は生まれても、なぜか長生きをしないみたいだよ。菖子さんの旦那さん、たしか嗣哉(つぐや)さんかな、彼も長女の梗子さんが産まれてからすぐに亡くなってるはずだ」
 「えっ、でもだったら――」
 沙也子や瑞恵の父親はだれなのだろう。
 「菖子さんは結婚せずに子供を産んだのさ。まあそれでも、相手の男は死んでいるんだけどね」
 呪われている。言外にそういっているように聞こえる。
 その美しさゆえに、菖子にとりいる男は多くいた。
 だが結婚したがる者は、めったにいない。誰も死にたくはないのだろう。だからこそ、菖子は、黒い服しか着ないのだ。
 呪われた血のつぐないとでもいうように喪服を着続ける。
 「菖子さんのお姉さんも同じみたいだよ。貴美子さんといって、菱川伯爵の家に嫁いだんだけど、そのご主人武則さんも死んでいるみたいだね。息子の晋一郎さんも若くして死んだみたいだし。菱川家はこれで終わりだ。篠宮の血は、よほど男が嫌いとみえるよ」
 「晋一郎さん・・・?」
 その名前はどこかで聞いたような気がする。
 ふと別のことに気づいた。
 「あの、でもそれじゃあ靱也さんは――」
 「ああ?いや、なにもべつに死ぬって決まっているわけじゃないからさ、そんなに気にしなくてもいいんじゃないかな。靱也くんだって、いまのところ元気そうだし」
 慰めにならない高澤の言葉に、花菜は心配げに顔をくもらせている。
 あまりに素直な感情表現に、高澤はあらためて花菜が、この家の人間と違うのに驚いているようだった。
 花菜も、おなじ年頃の娘に比べれば、それほど表情を出す方ではなかったが、やはり菖子たちにくらべると格段にちがう。
 「巫女に、なるんだよね」
 「え、ええ」
 「大変だね。最近さ、ワケのわからない病気が流行っているみたいだからさ、それでどうしても巫女が必要になったんだよ」
 高澤はなにを思ったのか、急に花菜に話だした。とはいっても、さすがに詳しいことまでは、菖子も口を開いていないらしい。
「僕も、きみがなんで預けられていたのかは知らないけど、でも迎えにゆくのを、ひどく靱也君が反対していたことは覚えているよ」
 その言葉に、花菜は悄然としてしまう。
 やはり靱也は戻ってほしくなかったのだ。
 花菜は高澤の言葉などもはや聞いていなかった。ただ孤独が、染みるような寒さとなって背後に押し寄せてきていた。
 西の空を紅にやき、不快な夜がまた訪れてきているのだ。花菜はただ黙って歯を噛みしめ耐えていた。




 花菜は寝苦しさのあまり、目を覚ましてしまった。
 外はひどい嵐だった。
 雨が横殴りにふきつけ、ときおり雷鳴がとどろいては、空を白くてらし暗雲を浮きたたせている。
 花菜はぐっしょりと汗をかいていた。
 なにか恐ろしい夢を見ていた気がする。
 雷の音がして、何度も稲妻が閃光した。
 そのたびにベッドの向こうがわに黒い影がはしり、こちらを見ているような視線を感じてしまう。
 恐怖にすくみ、自分を抱きしめてひざに顔をふせた。
 朝がくるのをひたすら祈っている気がする。
 こんな夜に、たったひとりでいることは、なににも勝る苦痛であった。
 重苦しい胸を撫でると、さっきまで何かが乗っていたようなザラつきがある。
 雨音にまざり、微かに歌声が聞こえてきた。
 花菜は吸いよせられるようにその歌に全身をかたむけた。優しい旋律がしっとりと闇を溶かし毛羽だった心をなだめてゆくようである。
 この歌声をしっていた。
 どこで、聞いたのだろうか。
 花菜はその声の優しさにたまらなくなり、思わず扉をあけた。
 廊下を歩く姿が、稲光に浮かび上がって見えた。
 沙也子である。
 彼女はネグリジェ姿のままだった。
 歩くたびに裾がゆれてドレスのようにもみえていた。いつもまとめている髪がふわりとひろがり、少女のように、踊りながら歩いている。
 「沙也子さん――?!」
 花菜はその姿に呆然としながら声をかけた。
 沙也子はまったく花菜に目を止めようともせず、歌っている。
 彼女は、彼女にしかわからない遠い世界にいて、もしかして帰ってこないのでは、という恐怖をそこにふくんでいる。
 素直すぎる目を花菜にむけた。
 「ねえ、わたしの赤ちゃんは、どこ?」
 口ずさんでいた子守歌をとめ、問いかけた。
 「赤ちゃんどこなの?ねえ、どこにいるの?」
 視点はあっていない。
 花菜は言うべきことばもみつけられず、ただみつめている。
 にっこりと、幼子にわらいかけるような笑みをつくり、沙也子は空中にむかって言う。
 「わたしの赤ちゃん知らないかしら?可愛いのよ。あの子とても可愛いの。どこにいっちゃったのかしら」
 「沙也子さん!」
 たしかに正気ではない。沙也子の手を握る。
 どうしたというのだ。なにがあった。
 いや、それより本当に、この人に子供がいたのか。たしか子供が産まれないために家に帰されたのだと、言いはしなかったか。
 彼女は、花菜の動揺などかまいもせず、子供を捜してさまよっていた。
 現実の子か、空想の子かわからないけれど、でも、こんな姿はあまりにも憐れである。あんなに物静かで優しい沙也子がどうしてこんなことに――。
 涙が出そうになった。顔をおおった手を、沙也子は不思議そうにみつめていた。花菜の指をなどり、指輪をつるりと撫でた。
 「……これ、私のだわ」
 「沙也子さん?」
 「これ、わたしがあの人からもらった指輪よ。ねえわたしの指輪、どうしてあなたがもっているの?」
 ぐっと、白い指が花菜の指をにぎる。狂気の一歩手前にいる双眸が、花菜まで闇に誘うように凝視する。
 瑞恵が沙也子の肩をだいた。
 「お姉様、赤ちゃんはお部屋でぐっすり眠っているわよ。帰りましょう、いまごろ寂しがって泣いているかもしれないわよ」
 ゆっくりと子供にでもいうように言う。
 沙也子は安心したように笑った。
 「なんだ、お部屋にいたのね赤ちゃん!」
 「そうよ。だから早く帰ってあげなきゃね」
 沙也子は嬉しそうにうなずいた。
 いつからそこにいたのか、背後にいた早生が、沙也子をつれて、部屋へと戻ってゆく。無言で見送る花菜に瑞恵が言った。
 「ごめんなさいね。起こしちゃったわね。いつものことなのよ、こんな嵐の夜は、特にね。あまり気にしないでちょうだい」
 「沙也子さんに赤ちゃんって――」
 「ああ」
 短く言って、疲れたように髪をかきあげた。
 「お姉様ね、結婚するまえに婚約者がいたのよ。でもそのひと、自殺しちゃって」
 「自殺?!」
 「そう。その人とお姉様はずいぶん愛し合っていたんだけれど、結局は結婚できなかったのよ。だからそのことでひどく心を痛めてね、まるでその人との間に子供がいたような錯覚を起こしてしまうみたいなのよ」
 はじめて聞く話だった。
 「愛していても、しょせん別れなければならないんですもの。だったらいっそ愛し合わない方がいいわ」
 つぶやくようにいった。 
 「人間はいつだってね、愛しているだの、すべておまえに与えるだのと言っておいて、最後にはけっきょく逃げだすんだわ」
 花菜をじっとみつめていた。きっと彼女もたくさんの別れを通りこえてきたのだ。
 「愛していたからこそ、子供を産まない――。そういう愛し方もあったのに。でも、あの男にはそれがわからなかった。お姉様の心も知らずに、平気で家に突き返してきたのよ。ほんとに人間て身勝手で残酷な生き物よね」
 瑞恵の目が怒りに妖しくゆれた。
 稲妻を照りかえした双眸は、どこか魔性を感じさせる。
 「人間は、いつも裏切るわ。わたしたちはいつも裏切られているのよ」
 「瑞恵さん・・・?」
 「お母様もお姉様も、そしてわたしも。いつも失望させられている。そして・・・・わたしには子宮がない。だからこそ、薄情な男どもから彼女らを守らなければならないの。奴らを食らい、二度と近づけさせないために、わたしの存在がある」
 そのためだけに生まれてきたのかもしれない、そう悲しく笑う。
 どれほどの苦しみを通り過ぎれば、そんな風に笑えるのだろうと思った。あまりにも残酷な話である。幸せが薄すぎて、哀れになる。
 瑞恵の相貌がふっとゆるんだ。
 「あなたも、幸せそうには見えないわね」
 驚くようにみつめる花菜の頬にそっとキスをする。
 「本当にその人のことを好きになってしまったら、愛しあわないほうがいいわ」
 瑞恵を見つめる花菜に謎めいて笑うと、そのまま疑問だけを残して闇に消えてしまった。
 頬におちたキスは、痺れるように痛かった。




 洞窟からふき降ろすかぜが心地よく感じた。
 花菜は墓地に来ていた。
 こちらに来てからはじめて、先祖に挨拶するようにと、菖子に言われたのだ。
 墓は、森のはずれにあったあの窟のすぐ手前にあるという。
 「この森は、神の森と呼ばれて、畏れられている神聖な場所なんだ。めったな者が近づける所ではないからね」
 案内をしてくれている靱也が言った。
 花菜はあらためて山をみあげ、緑の息吹の力強さに吸い込まれるような気がした。
 そんなこともしらずに散歩をしていのたが、たしかにそれ一個で生命体のようにみえる。
 だから靱也はここに来るのに、山を通り抜けたりしなかった。
 わざわざ山すそを迂回して歩いてきた。
 ここにむかう途中も、あまり話をしてはくれなかったが、それでも時々、花菜に注意をむけてくれているのだけはわかった。
 靱也のつくる沈黙はけして不快ではない。
 ただ一緒にいると、鼓動がやけに速くなってしまう。みつめられるだけで指の先まで疼くようにピリピリしてしまう。
 兄弟だとわかっているのに、不思議な感情だ。
 墓はずいぶん立派であったが、屋敷の大きさからすると、こじんまりしていた。
 花菜が墓参りをおえるのを靱也は待ってくれていた。けれど彼自身、墓地にはいることはなかった。
 まるで森に入るのを禁じられているのと同じでように、墓に入ることもまたしない。
 二人は山裾の道を、ならんで静かに歩いた。
 森からおりてくる風が柔らかく肌をなぶっていった。
 めずらしく靱也が口をひらいた。
 「もともと動物や植物たちは、そのままにしておきさえすれば、じぶんたちで均衡を保って生きてゆくものなんだ。目に見えない調和をはかり、天地の道理にそって正しく生きてゆく。なのに人間が勝手にはいりこみ、手を加えようとするから、歪み、病となるんだよ」
 花菜は彼の端正な横顔をじっとみつめた。
 「ひとは自然に逆らうものではない。自然と一緒に生きることが出来ていれば、この村だって、巫女など必要なかったんだ」
 靱也は、なぜそれほど花菜を巫女にしたくないのだろう。
 ただ単に花菜が嫌いだとかということではなく、なにかに対して、ひどく危惧しているのだと、なんとなくわかってくる。
 目のまえに大きな蜘蛛の巣がゆれていた。
 まるで伝説の大蜘蛛からとき放たれた、小蜘蛛たちの末裔のようだ。
 黄色と黒のながい手足が、狩ったばかりの獲物を捕らえ、糸でグルグルに巻きこんでいる。
 すっかり獲物を繭にくるむと、それに尻の針を差込んでいった。どうやら、卵を産みつけているらしい。
 命が命をうみ、生きるためにそれが繰り返される。残酷なようだがこれもまた自然の理の一部である。
 「すべてのことに偶然はない。こんな蜘蛛や、足元に落ちている石ですら語るというのに、人間だけがなにもわかっていない」
 「靱也さん?」
 靱也はまばたきもせず花菜をみつめていた。
 なにを語りたいのか。そんな風にみつめる靱也は人ではないもののように思えてくる。
 靱也は花菜の手をとって歩きだした。洞窟のまえまでくると、そのまま背をむけた。
 「俺はここまでだ。ここから先は男の場所ではない。洞窟は、女の世界だからな」
 「女の世界?」
 「そう、大地の子宮であり、最初に命をはぐくむ神聖な場所。男の立ち入る処ではない」
 問い返すことも許さず、不可思議な言葉だけのこし、花菜をおいて帰ってしまった。
 この森は、巫女の杜とも呼ばれているらしく、もともと森そのものが、神霊や魔物や鬼などのいる異界とされていた。
 古来より、精神的な世界のことは、女が司ってきたのだ。
 神秘的な森の空気を満喫しながら、歩みをすすめていった。
 いつのまにか、お堂のある、あの場所にまできていた。
 崩れかけた道祖神があり、ひっそりとした空気がはりつめている。
 ここが巫女の杜ならば、きっとこの池は、巫女が禊をするためのものであり、あのお堂は土地神を祀るためにこもって精進する、清めの場所なのだ。
 水には穢れをながし傷を癒す力がある。男を知らぬ体だけが、この水に体を浸すことを許されてきた。川底の人形をした紙きれが水流にはためき、水の底にだけあるべつの世界がうつっている。
 ここは古霊地だった。
 日本が、日本と呼ばれるだけの意味を持つ、宗教のようなものが、まだ存在している。
 誰にも犯すことはできない誇り高さがあり、きっとそれを感じることができるのも、すべてこの身に流れる血のせいであろう。
 スイッとなにかが目の前を横切った。
 青いとんぼだった。
 池の浮草にとまり、しなやかな長い羽を休めている。
 支脈のある薄青い羽がゆっくり動くのにあわせ、水滴を美味しそうにのんでいる。
 銀色をおびた青い胴体をきらめかせたかと思うと、フワッと飛んでいってしまった。
 花菜はふいに歓喜に包まれた。
 たまらない高揚感に胸がおどってきた。
 そしてすぐに、森に横たわっているなにかの気配を感じる。鮮明になった感覚が、それをとらえる。
 「だれ・・・?」
 ――誰かが、見ている。
 花菜は急にこわくなった。
 気がつくと、いつも誰かが自分を見ている気がする。
 家のなかでも、庭にいても。
 そして、この森のなかでさえ、それがぬぐえない。
 ただじっと花菜を待っているのだ。
 帰ろうとして、慌てて走りだした。
 「キャッ」
 慌てたために花菜は滑って尻餅をついた。
 恐怖に煽られ、なにを迷ったのか家とは反対方向へと走ってしまった。
 もといた墓の所に帰ってきてから、やっとそれに気がついた。
 花菜は目を細めた。墓の前に男が立っているではないか。薮から姿をあらわした花菜に、男が目をあげる。
 「きみは――」
 驚いたように花菜をみあげた。
 目の下にほくろがあった。それはたしか、門の向こうにいたあの男のものではないか。
 何か話かけようと近づいてきたのに、花菜は転がるようにして、森へ走り逃げていった。




 菖子の目の前に、岩のような大男が立っていた。
 「ですから奥様、何度もいうようですが、一度あの洞窟に入らせて下さりさえすれば――」
 先ほどから何度も同じことばを繰り返している。
 「いいえ、それだけは駄目ですわ」
 菖子はきっぱりと言った。しつこくくいさがろうとしても、少しもひるまない。
 「何度おっしゃられても無駄でしてよ。あそこは神聖な場所。一族でもない方が、まして殿方がお入りになるなんて、とてもとても」
 菖子は妖しく微笑みながらも首をふる。それ以上言葉をつがさぬ強さがどこかある。
 村長の佐野倉につれられ、桑月となのる、大手製薬会社の社長が、菖子の許を訪れていた。
 桑月はどこから嗅ぎつけてきたのか、この村によくわからない病が蔓延し、しかもそれに唯一効く薬をつくれるのが、篠宮夫人だけだと聞きつけ、やってきたのだ。
 しかもその薬が、どうやらあの洞窟に生息している、特殊な植物から作られるということまで知っているらしく、その製造方法をききだそうと、菖子にずっとねばっているのだ。
 菖子はまったく折れそうにない桑月にあきれたのか、村長に鉾先をむけた。
 「ねえ佐野倉さん、わたくしは別段、村のかたに二度と薬を差しあげないとは言っておりませんのよ。それに、その薬をお持ちになって調べていただけばよろしいことでしょう。でもあなた方が、もしあの洞窟を荒すとなれば、話はべつでしてよ。祭りにもさし障りがありますしね、それに、病のことでしたら、今度きちんとした祭りを行いますのでご心配に及びませんわ。佐野倉さんも、そうお思いになりますわよね」
 「そ、それはもう奥様」
 ご機嫌を損ねてはたまらないと、おもねるように腰を低くして佐野倉は返事をする。
 その様子に、桑月の狸顔がヒクつくのにもかまわず、菖子はすげなくいった。
 「もうよろしいでしょう、このお話は」
 桑月はそれでも言いつのった。
 「奥様、なにも私どもの会社といたしましても、苦しんでいる方々から儲けようという、そんなあさましい心根で申しているのではないのでございますよ。ただ、もっとよく研究をして、今後このような病が発生した時のためによりよい薬をと思い――」
 「感心なお志しですこと。でも、それならばなおのことですわ。わたくしの行っているのはただの民間療法。立派な会社の方がお気になさらないでもよろしいではございませんか」
 うっすらと嘲るように微笑まれると、男達はもう何も言えなくなってしまう。
 「わかってましてよ。佐野倉さんも、なにか村の利益になるものをとのお考えになってのことでしょう。村を繁栄させたいお気持ちもご理解いたしましてよ。素晴らしいですわ」
 「い、いえ、そんな」
 お世辞だとわかっていても、面とむかって言われると佐野倉は真っ赤にゆだってしまう。
 「でも、ようやく巫女も宝石も還えってきましたし、何も心配することはございませんわ。きっとよい方にむかいます」
 「巫女様と、宝石ですか?」
 「ええ。以前盗まれましたわが家の家宝、『男の像』の対で、『女の像』というものがございましたの。でも『女の像』には、額にあるはずの宝玉が抜けておりましてね、不完全な状態でしたわ。でもようやく巫女と一緒に戻りました。正式な祭りには、像の力がどうしても必要ですからね。これで一安心だわ」
 「そうでしたか、それはよかったよかった」
 「ええ、ですから安心なさって、お帰りくださいませ」
 それっきり黙ってしまった菖子に、とうとういたたまれなくなり佐野倉たちは席をたった。ひっそりと控えていた秘書らしき男もまた、桑月の巨大に隠れるように立ちあがる。
 「洞窟に薬草があるだなんて、だれがそんなことをおっしゃいましたの?」
 菖子が背をむけた桑月に聞いた。
 「・・・・この男ですよ。以前こちらにいたことがあるらしく、偶然、洞窟の近くで珍しい薬草をみつけたことがあると申しましてね」
 となりにいる秘書を指した。背広姿の、やけに背の高い男が頭をさげた。顔をあげた目の下には、印象的なほくろがあった。
 「あなたこちらに来られたことがあるの」
 「はい」
 「ぜひ、その時の話を聞きたいわね。今度、あらためて遊びにいらして頂戴ね」
 菖子は、無言で頭をさげるその男を、舐めるような淫猥な視線でみつめていた。

 
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