糸の館

2



 浅い眠りに目を覚ました花菜は、そのまま部屋にいるのも落着かず、早朝の散歩にでかけていた。
 朝の光はすがすがしく、生命のみなもとから力を与えるような躍動感があった。
 花菜のなかに染みこんだ、家自体から発せられている邪気のような陰鬱さが、すっかり洗い流されていく気がする。体が軽くなる。
 案内された部屋は花菜にはとまどうような広い西洋風の造りだった。
 南に窓があり、庭を一望できる。
 ひと通りの家具が備えられていたが、小杉家からもたされた着物など、恥ずかしくて仕舞えないような、瀟洒な西洋箪笥(たんす)であり、高価な蒔絵仕立ての棚が無造作にならべられていた。
 花菜ははじめてベッドというもので眠った。
 外国の絵本にでも出てきそうな華奢なもので、レースがふんだんに使われ、やけにフワフワしていた。柔らかすぎたため返って寝にくく、安眠することができないのだ。
 それでもいたるところに、女の子の好きそうな小物や手芸品がおかれていて、細やかな気配りもあった。
 嬉しかったのだが、どれもちょっと綺麗すぎて気後れしてしまう。
 夕食にだされた料理もそうで、みなれぬ肉料理やスープは、専用の料理人を雇っているというだけあって美味しいはずなのに、喉を通らない。
 花菜はこれからの生活を考えると気が重かった。何もかもが今までの生活と違いすぎている。
 靱也の――兄の、あのかたくななまでの拒絶もまた、こたえるものがあった。彼は花菜に会いたくないためか夕食にも現れなかった。
 父も母も死に、たった二人きりの兄弟だというのに、つれなさすぎはしないか。離れた年月が長すぎてもう寄り添うこともできないのか。
 ここに来る前までは、花菜は多少なりとも、兄という存在に希望をいだいていた。
 兄弟ならば、もしかして親しくなれるかもしれない。
 そうしたら、顔も知らぬ父や母のことも聞ける。自分だけがどうして離されたのか、なぜ今更戻され、跡継ぎにされたのか。
 いや、それより母はどんな人であったのだろう。兄さんはどんな風に育てられ、この家の土地はどんなところで、ここに住んでいるひとはどんな人なのか、いろんな事を聞いてみたかった。
 そして出来ることなら、後継者という重荷を譲ってしまいたかった。
 こんな家の家督など、とても一人で背負いきれるわけがない。
 だがその淡い夢もまた、出会ってすぐ、破れさってしまった。
 兄には話しかけるどころか近寄ることさえかないそうにないではないか。
 花菜は重苦しいため息をついた。
 あらためて見上げた豪邸は、死んだようにひっそりしていて、人の匂いというものがまったくない。
 白い壁がしずかな庭にとけこみ、圧迫感をあたえる母屋ですら、一枚の絵のように、背後にそびえる山に同化してみえる。
 花菜は逃げだしたいという思いにかられていた。無意識のうちに、どんどん庭の奥へと入ってしまっていた。
 どこまできたのか、気がつくと風景がいつのまにか変わっていた。
 そこはすでに庭ではなく、森林であった。
 ここの庭は、たしかにどこからが庭で、どこから山なのか、境目がはっきりしてはいなかった。
 人気のないうっそうとした木立の中にまでやってきて、花菜は心底ほっとしていた。
 どれほど今まで緊張していたのかようやくわかる。
 いそいでいた歩調をゆるめ、下薮に足を取られないようのんびり歩く。
 多分この山も、篠宮のものなのであろう。手入れされた巨木が累々とたちならび、その隙間をぬうように、光がやわらかく筋になって差し込んでいる。
 どこに迷いこんだのか、いきなりポッカリとした空間が目の前に広がった。
 水溜りのような池があり、ほとりには、なにかの石碑が祀られている。
 注意してみなければ、ただの磐としかおもえないが、崩れかけているそこに花が飾られているので、ようやくそれが石碑だとわかる。
 池は半分枯れかけてはいたが、人工的につくられたらしい面影がわずかに残っていた。
 花菜はその石碑に、自分がひどく惹かれていることに気がついた。池に映りゆれている影が、無性に懐かしい。
 「どこかで、こんな景色みたのかしら・・・」
 池の底に、人型をした白いものがしずみ、形もそこなわれず、苔をやどして揺れている。
 花菜は胸がしめつけられるような息苦しさをおぼえていた。
 涙が盛りあがりってきて、視界がゆらぐ。
 どのくらいそこに立っていたのだろうか。
 すっかり太陽が昇ってしまっていることに気がついた。どうやら朝食をすっぽかしてしまったようである。
 ふうっ、と息をついた。
 なんだかもう、何もかもがどうでもよくなってきた。最初の食事をすっぽかしたことで、かえって度胸がついたのかもしれない。
 池のむこうに、お堂のような建物があった。
 なんとはなしに近寄り、なかをのぞいた。
 ぼんやりと像らしき影が浮かび上がってみえた。
 いったいなにを象徴しているのだろうか。人型とは思われない奇妙な形をしている。手足が何本もあり、動物的な匂いが漂っている。
 そこだけ霊気がたちこめているように思われた。ユラリと、それが動いたようにみえた。
 花菜はたまらない恐怖にかられ走り逃げだした。
 もしかしたら見てはいけないものを見たのかもしれない。
 どこをどう走ったのか、不意に涼しい風の流れをほほに感じた。
 荒い息をつきながら足をとめ、足元にながれる小川の上流に、洞窟の口がひらいているのに気がついた。
 冷たい風が噴き出している。湿り気をおび、肌が痺れてくるようだ。
 川の水に、青白いにごりが交じっていた。まるで洞窟から膿が流れだしているように思われる。
 茂みが大きくゆれた。
 ガサッという分ける音とともに柴犬が飛び出してきた。
 犬は花菜をみつけると、一直線にむかってきたかと思うと、気負いよく飛びかかる。
 支えきれず一緒にたおれた。
 「キャアっ!」
 犬は尻尾を切れるほどふりながら、キュウキュウ甘えた声をだし花菜を舐めていた。不思議なほどに喜んでいる。
 「な、なに?どうしたのおまえっ」
 花菜は手荒い歓迎におどろきながら言った。
 動物は嫌いではなかったが、こんなに熱烈でいきなりの喜び表現ははじめてだった。
 「そんなに舐めないで、ねえわかったから」
 くすぐったさに笑いながら、花菜はのしかかってくる犬の背を軽く叩いた。直接かんじる肌のあたたかさが心地よくて、つよく抱きしめてしまいそうだ。
 「――巫女様だ」
 「ああ、巫女様だ」
 地を這うような声にゾクリとした。
 「巫女様がやっとこの村にお戻りになった」
 くぐもった声に、花菜は頭上をふりあおぐ。
 繁みのむこうに農夫らしき二人が立っていた。
 こちらを見てはボソボソと話していた。
 犬は、主人を見つけたのか、走り戻っていった。犬が飛びよるのも無視し、男たちはひたすら花菜をみつめている。
 その目にある光は、妖しい歓喜のようでもあり、また戦慄させる狂気のようでもあった。
 彼らは、花菜が自分たちの視線におびえ青ざめていえるのに気づくと、卑屈なほどに低く腰をおり、頭をさげた。
 だが爛々とした目だけはけして花菜から離そうとしない。
 「巫女様が祈ってくだされば、神のお怒りもきっと解ける」
 「わしら、これでようやく救われる。巫女様がやっとこの地にお戻りくだされた」
 呪文を唱えるようにつぶやきあうだけで、それ以上なにかするでもなく、陰鬱な表情に不気味な笑みをのせたまま去っていった。
 きっと女の帰還が村中にしれわたるのは時間の問題であろう。
 花菜は金縛りにあったように体が動けなくなっていた。『巫女』という言葉のもつ意味が、この村ではどれほどの重さなのかが、それだけでわかったような気がした。
 村中が待ち望んでいるのだ。
 それほど重要な役をになう巫女とはいったい何なのか。
 「みんなはわたしに何を望んでいるの?」
 何をさせるために連れ戻されたのか。わからないぶんだけ、荷が肩に食い込んでくる。
 たちすくむ花菜の髪を、洞窟からの冷たい風が、吐息のように胸を吹きあげていった。




 花菜はのろのろと歩みすすめ、沈みがちな気をせきたてながら家へと帰ってきた。
 アヤメの咲き乱れている池の石橋をわたり、母屋から離れたところにある土蔵の海鼠壁のまえでふと足をとめる。
 裏庭にある花壇の花を手入れしている沙也子の姿があった。
 手にハサミをもち、一枝一枝ていねいに純白のアジサイを摘んでいる。
 左腕にかかえ、なにげなく唇をよせた仕草はあまりに美しかった。同性ですら、見とれてしまう。
 沙也子は見られていることにも気づかず、小さなハナビラを一枚口にふくんだ。赤い唇とハナビラの白さがあいまって強烈な印象を与えている。
 沙也子の向こうに早生がたたずんでいた。
 わずかな空気のかげりからでも守ろうというかのように、密やかにみつめている。それはひとつの風景画ででもあるかのような、完璧な構図をもっていた。
 花菜は息苦しくなってきた。
 自分だけがこの世界の空気に馴染めない気がした。どこにいっても孤独感がつきまとってしまう。本当に、どこかに自分の居場所はあるのだろうか。
 ゆっくりと逃げるように歩いた。正門ちかくの鉄条門のそばまできていた。花菜は疲れたようにもたれかかり屋敷をみあげる。
 ここの空気は、どことなく異質な感じを与える。
 あれほど居心地が悪かった小杉の家でさえ、生活の匂いといおうか、人の醸し出す活気のようなものがあったのに、ここには少しもしない。人形の家に迷い込んでしまったような息苦しさだけである。
 「巫女って、なにをするのかしら」
 小杉家に帰りたいわけではないのだが、無性に、大悟の生きていたあの頃がなつかしい。
 皺深いザラついた手で頭を撫でてもらうのが好きだった。白いものが交じった髭のあごでジョリジョリ頬ずりするのが痛かったが、嬉しくもあったのだ。
 右の薬指にはめていた指輪を思わず握っていた。
 ジャリッという石を踏みしめる音がして、反射的に振りむいた。
 鉄条をはさんだむこうに男が立っていた。
 なにか意図のあるような視線でじっと花菜をみている。いや、その視線が追っているのは、花菜の『指輪』ではないか。
 背の高い男だった。整った顔だちなのに、眼にひそむ剣呑とした邪悪さのせいで、油断のならない種類の人間のように見えていた。
 男は、何かいおうと近寄ってきた。花菜は逃げるようにうしろに退がる。男の目の下にあるほくろがやけに印象的だった。
 玄関の扉がひらく音がした。
 人の声とともに何人かが姿をあらわした。
 男は舌打ちをすると、そのまま逃げるように去っていった。
 花菜はホッとして、そのまま植え込みに尻餅をつくように隠れてしまった。
 「奥様、いつもいつも、おありがとうございます。おかげで助かっとります」
 「ほんとにお世話になります。篠宮様は我らの守り神ですだ。どうぞ、祭のほうもくれぐれもよろしくお願いします――」
 「菖子様ありがとうございます」
 口々に礼をのべているのは、村人のようである。彼らを見送るためか、漆黒のドレスをまとった菖子が玄関のそとにまで珍しく姿をみせていた。
 彼女の白い肌が陽光にかがやき、強烈なまでの美貌は、人々にしばし言葉を忘れさせている。
 菖子は婉然と微笑んだ。
 「どうぞ皆様、祭りのことは心配なきように。それよりも、お体の方を、大切になさってくださいませね」
 しつこく祭りのことを口にする村人たちにそう言うと、そのまま部屋に入ってしまった。
 中年の男に、老人、それに年若い嫁らしき娘をつれた女は、閉じられた扉に、何度もお辞儀をしていた。
 花菜の目のまえをとおりすぎる顔はどれもうろんな様子であり、手にはそれぞれ、白い包をもっている。
 「薬だよ、あれは」
 何だろうと、口には出さずに考えていた花菜は、そのことばに驚いた。
 すぐとなりに靱也が立っていた。
 のろのろと立ちあがった花菜より、靱也は頭ひとつぶん高かった。木の枝に片手をかけ、見おろしている。
 花菜は声をかけられるまで気づきもしなかった。いつからそこにいたのだろうか。
 ガラス玉みたいなつややかな瞳だった。目の底に光が明滅しているようにみえ、まるで魂が引き込まれそうだ。
 みつめあったまま、言葉がでてこない。
 「……薬をもらいにきているんだあいつら」
 「薬って、なんの、ですか?」
 声がふるえる。
 「痛み止めさ。あいつらの家族のだれかが病にかかっているんだ。体のあちこちが痛むらしくって、ひどいやつは関節が曲がったり、節がもりあがったりしている。まあ簡単にいえば、リュウマチみたいなもんかな。このへんの人間には、そうめずらしくない病気だ」
 そんな病人をみるのに慣れているのかこともなげに言う。
 「原因は不明だが、最近になってけっこう増えてきているみたいだな。ここのところの不作による、栄養の偏りかもしれない」
 「不作、なんですか?」
 花菜は、ふとここに来る道中でみた田畑が、かなり荒れていたことを思いだしていた。
 稲の生育も不十分だったし、花菜の育った村にくらべれば、格段に劣っていた気がする。
 それに、やたら池や川が濁っているのが目についた。
 それでもたいした問題にならないのは、農業に従事する人間が、この村にはそう多くないせいであろう。
 村人の大半は、篠宮家所有の銅山と、林業のおかげで、生計をたてているのである。
 「でも、なんで、菖子……様のところへ、薬を取りに来ているんです?」
 さすがにあの壮麗な女性をおばあ様とは呼べない。
 「あの人だけが薬を作れるのさ。医者の薬が効かなくても、あの人の薬だけは痛みを和らげてくれるらしい」
 あの貴婦人の菖子様が、ほんとうにわざわざ村人のために薬を煎じているのだろうか。
 「ここでしかとれない特殊な薬草があるんだよ。その煎じ方を知っているのが母様だけなんだ」
 「えっ、母様って――」
 「僕はあの人に育てられたんだ。母と呼んでもおかしくはないだろう」
 十分、母でとおる美貌である。
 靱也の表情がかわった。
 「なぜ、おまえは戻ってきたんだ」
 彼のせつなそうな声音に胸が締めつけられた。息のかかるほど顔をよせられ、花菜はビクッとした。
 「もしおまえが財産目当てとか、篠宮家の名や権力が欲しくてここへ来たのなら、いますぐここを立ち去れ。この家はもう死んでいる。何もない。もう、呪われた暗黒の血の・・・・」
 冷たい風が二人のあいだを吹き抜けた。
「なに、を――?」
 「花菜、もしおまえが欲に駆られているのであれば、今すぐ荷物をまとめて家を出るんだ。寺田に何を吹き込まれたかは知らないが、ここはおまえのいるところじゃない。金が欲しいなら、いるだけ送ってやるし、欲しい物があるなら買ってやる。だからおまえは……」
 「欲しい物なんてなんもないわっ!」
 おもわず叫び、花菜は声の強さに自分で驚き口をとじた。
 靱也もまさか花菜がそんなに激するとは思っていなかったらしく、目を大きく瞠っている。
 花菜はあえぐように言った。
 「私には、居る場所がなかった。ここにくる他には、もう、選択権はなかったの・・・・」
 「花菜」
 みつめる靱也から視線をはずした。
 自分はこの人になにを言っているのだろう。苦いものが口のなかにひろがる。
 誰がどうみても、自分がきたのは財産めあてか、地位や名誉を欲してのことだと思うだろう。
 けれどなぜだか、このひとにだけは、誤解されたくなかった。金の亡者と思われるのは、我慢できない。
 「・・・・ごめん」
 靱也がいった。気まずそうな言葉に顔をあげる。靱也は恥じているかのようにみえた。
 「ごめん。おまえのこと、何も知らないくせに勝手なことを言ってしまった。――ただ、ここには来て欲しくなかったんだ。ここはおまえのいるべき場所じゃない。できるならいますぐにでもこの家から出て、この家には近づかないほうが・・・・」
 「まあ、花菜さんこんな所にいらっしゃったの」
 靱也の言葉をかき消すように菖子の声が重なった。
 「朝食にでてこられないから、心配しましたわ。散歩にでも出られていたの?」
 にこやかに笑いながら歩いてくる。
 靱也はとたんにムッとしたように口をとざしてしまった。それ以上なにもいわない。
 「しょ、菖子様、あのわたし……」
 「靱也さんと二人、なにを話してらしたの?」
 「なんでもないさ」
 靱也がつっぱねるように言うと、そのまま苛立つように菖子を睨み、離れていった。
 花菜はあわてて頭をさげた。
 「あの、すいません。わたし朝食をすっぽかしてしまって……」
 「まあ、そんなことよろしいのよ。誰だって欲しくないときはありますわ。――ここは日差しがきつすぎるようね。さあお屋敷のなかにお入りになって」
 菖子は、恐縮している花菜を慈愛にみちた眼差しでみつめながら、屋敷へとうながした。
「こちらの生活はいかが、なじめそう?」
 「は、はい。あの・・・・ここのお庭、ずいぶんと広いんですね。山との境目がわかりにくくって・・・・」
 「まあ、それで山のほうに出てしまわれたのね。山には、なにかありまして」
 菖子の目が妖しくゆれる。
 「は、はい。お堂のようなものが」
 「この山はね、殿方の立ち入りを許されぬ禁足地ですのよ。でも、巫女ならば出入りは自由だわ」
 「禁足地って・・・?」
 「靱也さんはなにもおっしゃらなかった?」
 「はい」
 「そう。あの子も難しいところがあるから。でもね、花菜さん。兄弟といえど、あまり人目を忍んで、お会いになるべきではありませんわね。とくにあなたがたは、長きのあいだ離れて暮らしてらした身。あらぬ誤解は、受けたくないでしょう」
 一瞬、意味をはかりかねた花菜は、ふいにカッと顔を赤くした。
 そんなふうにたしなめられると、なぜか悪いことをしたような気がして、必要以上に恥ずかしくなってしまう。
 「わたしはべつに――」
 「ええ、わかっていますわ。ただ人の口には、戸はたてられぬもの。どこで誰が見ているかわからないでしょう」
 意味ありげに笑う。
 「靱也さんはもちろんそこいらの、理性の欠如した殿方とはちがいます。あの方は聡明なかた。わが一族、ただひとりの男子ですもの」
 どこか男という存在を嫌悪しているようにすら聞こえる。
 花菜はブルリと震えた。むりやり記憶の片隅に追いやっていた恐ろしい記憶が、突然よみがえってしまった。
 首筋にかかる生臭い息、荒々しく服をさく乱暴な手、血に飢えたまなざしは狂人の――。
 「・・・・すみません、気をつけます」
 いくぶん青ざめ、花菜は素直に返事をした。菖子はほんのり口元に笑みをさした。
 「ごめんなさいね、こんな言いかたをして」
 そっと花菜の手をとり、指輪ごとなでた。
 「花菜さん、ほんとうによくお帰りになってくださったわ。たとえ、わたくしたちにどんな事情があろうとも、一度はあなたを手放してしまったんですものね。きっとお腹立ちだったことでしょう。ごめんなさいね、許してね」
滑らかなビロードのような触りの手が何度も何度も繰りかえし花菜の指をなでている。
 「そんなこと……っ」
 花菜は首を横にふるのが精一杯だった。鼓動の音が激しくて、何も考えられない。
 「篠宮は、女でしか跡を継ぐことができない家系。あなたは、我が一族のたったひとりの後継者」
 呪文をささやくように、そっと耳に唇をよせる。
 「一族の宝が、やっと帰ってきたわ」
 意味がわからず見上げるのに菖子が微笑む。
 「この指輪はね、『女の涙』と呼ばれる、わが家の宝なの。大切な大切なものなのよ、花菜さん」
 菖子の視線が、一瞬、門の外にただよう。
 「指輪の赤い宝玉はね、『女の像』という彫像の額に埋まっていたものを、わざわざ指輪に造りかえたものなの。あなたが必ず帰って来ることを願って」
 そういった菖子は、まるでなにかを誘うように花菜の指輪を光にきらめかせた。
 そのまま手をひかれ、家の中へと入りながら、花菜はこの指輪は、きっとこの家にとってそうとう大切なものだろうと思った。
 一族の宝といわれるほどのものである。だがなぜそんな家宝を、花菜などに持たせたのか。
 花菜はだれかの視線を感じてふりかえった。
 菖子が視線をやった先の薮が、不自然に揺れているような気がした。



 
 花菜はふと美しい蒔絵(まきえ)棚のうえに、ブロンズの像がおいてあるのに目がとまった。
 客室の一室が開いていたのだ。
 それは可愛らしい少女の像だった。
 誘われるままに花菜は部屋へ入った。久しく使われていない乾いた空気の匂いがする。
 皮張りの椅子がおかれ、大理石のテーブルのうえには、無造作に江戸切子の花瓶があった。豪奢な仕立ての調度品がずらりと並べられているが、どれも日の目をみることもなく眠らされている。
 少女の彫像は、桐と鳳凰がえがかれた螺鈿(らでん)の蒔絵棚にかざられていた。
 赤いなめらかな布を敷かれ、琥珀の台座のうえに、髪の長い少女の像が、なにかを祈るように手をあわせてたたずんでいる。
 少女はどこか悲しそうな顔をしていた。
 透哲な瞳がまるで心の中を射抜くかのようであり、奇妙な生々しさがそこにはある。
 その表情はなにを物語っているのだろうか。
 花菜は像の額に穴が開いていることに気がついた。
 「もしかして、これが、『女の像』?」
 好奇心から、指輪を穴にあてがおうと手をのばした。
 廊下から人の話声が聞こえた。ビクッとして、あわてて手をひっこめる。
 にぎやかな男女の話声だった。
 この屋敷に来てからしばらくたつが、聞きなれない声がまじっている。
 時折、だれか見知らぬ若い男性が出入りしていることは知っていた。けれど花菜は極力詮索しないようにして、顔をあわさないよう心がけてきた。
 彼らが出入りするのはほぼ夜中であり、花菜の部屋から遠くはなれた棟でだけのことだったからだ。
 扉の隙間から、菖子の姿が過ぎてゆくのがみえた。それにつづき、よれた背広すがたの、頬骨のとびでた痩せた男が歩いてゆく。
 男はなにかを一生懸命に話していた。難しい話なのか、内容はよくわからなかったが、彼の様子はまるで幼子が、母親の興味をひこうと必死になるっているかのようである。
 彼らの実年齢からすれば、それもそうおかしい話ではないのだが、男からはそれ以外の、いやな粘りみたいなものを感じてしまった。
 話声が遠くになってから、花菜は部屋からぬけだした。
 べつに悪いことをしていたわけではないので、コソコソする必要はないのだが、やはり自分の部屋以外の場所にいるのは、どうも居心地がわるい。
 本当は部屋ですら、まだなじめずにまごついているのだ。広くて優美すぎてどうしても落着かない。
 男ののこした騒々しさが、屋敷の霊妙な空気をかき乱しているかのようだった。
 「誰なのかしらあのひと」
 花菜は薄ぐらい廊下をゆっくり歩きながらつぶやいた。
 かどを曲がったさきにある通用口に、瑞恵が立っているのが見えた。
 うんざりした、少し険のある声が聞こえてきた。
 「もういい加減に帰ってくださらないかしら。わたし、つきまとわれるのって、大嫌いなの。――二度といらっしゃらないで。ちょっと寝たからっていい気になってもらっては困るわ」
 瑞恵はとりつくしまもないほど冷たくいい放ち、モダンに肩口で切りそろえた黒髪をかきあげる。
 「そうそう、一言いっておくけど、あなたのことはお母様もお姉様もとっくにご存じでしてよ。あの方たちはわたしと違って、ずいぶん潔癖でいらっしゃるから」
 男はギクッとするように瑞恵をみた。
 悔しそうに唇をかみ、だが、迫力負けしていることは明白である。そのまま無言で走り去ってゆく。
 立ち尽くしたまま、その様子をすっかり見てしまっていた花菜に、瑞恵は笑い顔をむけた。さきほどの厳しさはどこにもない。
 よくみると彼女はまだネグリジェのままだった。
 薄絹の光沢がからだの線を光にうつしだしていてやけに艶めかしい。女として成熟しきった肉体が、はちきれそうな曲線をえがき、芳しい熟れた匂いを漂わせる。
 昼まえにしては、刺激的すぎる格好だ。男との関係が一目でわかってしまう。
 「驚いた?こんな場面て、はじめてかしら」
 「えっ、あ、あの・・・・」
 どう返事をしていいのかわからずもじもじしているのに、猫の眼のような切れ長の瞳をほそめる。
 「わたしってね、男の人がいないと我慢できないタチなのよね。こうしていつも男をとっかえひっかえしてるの。お母様もお姉様も知ってらっしゃるし、花菜ちゃんもそのうちきっと慣れるわ」
 自分で自分の胸をなでながら、どこかなげやりで、けだるそうに言う。
 「まともそうに見えても、この家って、もうめちゃくちゃなのよ。だからあなたも気を使うことはないわ。気にせず自由になさい」
 もしかして、靱也の言おうとしていたことは、このことだろろうか。
 「わたしなんてさぁ、どうせ欠陥品だし価値もないのよ。・・・・あら、ねえちょっと、なんでそんな地味な服を着ているの。わたしのみたてたお洋服があったはずでしょう。ほら髪だってまた三編みなんかにして」
 平凡な開襟のブラウスに紺のプリーツのスカートをはいている花菜にあきれ顔をする。
 たしかに箪笥のなかには華々しい洋服がいくつも並べられていた。
 だが慣れぬ身としては、容易に手がだせないし、それらを着たら、自分のなにかが変わってしまいそうで、どうしても手を通す勇気がなかったのだ。
 洋物の香水のかおりが鼻をかすめたかと思うと、いきなり髪がほどかれた。
 髪をゆびですき、彼女の唇についていた紅を指にうつすと、花菜の唇に塗った。
 「ほらこれでいいわ。とても可愛い」
 「あ、あのっ・・・」
 あまりのことに赤らんで硬直している花菜に、瑞恵は見たことのないほど明るく笑った。人形遊びをしている少女のようだ。
 「なんだか、お腹すいちゃったわねえ。わたし昨日から食べていないのよ。ねえ、なにか残ってなかったかしら」
 瑞恵はちいさくあくびをした。
 彼女はめったに朝食に現れることはない。ここにきてから、食堂で顔を会わせたことのほうが少なかった。
 「瑞恵さんがきっとそう言われるのじゃないかって、沙也子さんがサンドイッチを作ってもらってましたけど」
 「あら、やっぱりお姉様だわ、気がきくわね。ねえ、花菜ちゃんもちょっとつきあってよ」
 有無をいわせず引っ張ってゆく。
 こんな風に、気さくに接してきたのははじめてだった。
 友達のように腕を組んで歩いているだけなのに、なぜか嬉しくさえある。そんな些細なぬくもりさえ、花菜は飢えていたのだ。
 顔をあわせる機会がなかったのでわからなかったのだが、もしかして瑞恵が一番、親しみやすい人物なのかもしれない。
 玄関先の広間から、所かまわず話す大きな声が聞こえてきた。
 ソファーに身をもたせかけた菖子に、手振り身振りでおおげさに話しているのは、先ほど会った男だった。ヒョロ長い顔を朱に染め、まだ話を続けているらしい。
 瑞恵はそれを見るなり、またかというように鼻白んだ。軽蔑を隠そうともしない。
 「あのエセ学者、また来ているのね。最近みかけなくなったと思っていたのに」
 「あの人、だれなんですか?」
 「うちに入り浸ってる男よ。自称、民族学者だそうよ。なんでもある古い文献を研究してるうちに、篠宮家にたどりついたんですって。でもお母様ったら、なんであんな得体の知れないやつを相手にするのか、わからないわ」
 見ている花菜たちに気づかず、高澤と名乗る青白い学者は、丸い眼鏡をゆびの腹でおしあげる。じっとりとした視線で菖子をみつめ、絹のような触りの手をにぎった。
 「まったく、何の研究をしているんだか。きっと自分の研究より、お母様への取りいり方か、もしくは財産の入手方法のほうが詳しいわよ。どちらにしてもまともなヤツじゃあないわね」
 呆れたように言うと、そのまま興味を失ったように背をむけた。
 花菜はどうすればいいのかわからず、振り返りながら、瑞恵のあとをついていった。
 高澤が菖子の両手をとって顔をよせ、興奮したように話に興じているのが見えた。
 「気にすることはないわ。あのての輩は、お母様だって慣れてらっしゃるもの。そうそう相手になさらないし、まあ、するとしてもね――」
 クッと小さく笑った。
 「あなたも、ちょっとはわかるでしょう。うちみたいな女ばかりの家には、どうしたって、男の出入りが多くなるのよ。靱也もまだ一人前とはいえないしね。まあもっともあの子は、他人のことなんて気にするような子じゃないでしょうけど」
 それに、みんな女盛りですもの。
 そういって、黒髪を指にからめながら妖しく微笑んだ。
 「男なんてみんな同じだわ。本当のことを言ったら逃げるくせに、少しでも甘い蜜を吸おうと甘い言葉で必死で追いかけてくるんだから」
 「瑞恵さん?」
 瑞恵の手がそっと頬にあてられた。花菜はその冷たさに体の芯からゾクリとふるえた。柔らかな胸に抱き寄せられてしまう。
 「みんな、篠宮の名前か財産が欲しいの。だから沙也子お姉様かお母様を手に入れたがるわ。馬鹿よね、私たちの正体もしらずに。ほんと馬鹿な男たち」
 まるで憎しみでも抱いているような嘲り笑いが浮ぶ。その強さがやわらぐと、当惑するほどの甘やかな視線を花菜にむけてきた。
 「かわいい子。どうしてあなたは一族の娘になんか産まれきてしまったの」
「瑞恵さん・・・?」
 「普通の家に生まれれば幸せになれたのに。ねえ、わたしはどちらかというとあなたのように、素直できれいな瞳を持った女の子のほうが好きなのよ」
 「あ、あの・・・」
 「男なんて、裏切るだけ」
 顎にかかった手にクイッと力がはいり、美しい顔が近寄ってきた。わけがわからず、大きな眼を見開く花菜の唇に、甘い息がかかる。
 「巫女なんてやめておきなさい。呪われた魂にできることは、悲しみを残すことだけよ」
 「瑞恵、いいかげんにしろよ」
 なにを言って――と、花菜が問うよりもはやく、厳しい声がした。
 入口に靱也が立っていた。
 靱也は燃えるような眼をしてにらんでいる。
 瑞恵は知っていたらしく、クスッと笑うと、顔をはなした。だが花菜を胸に抱いたままだ。
 「いいかげんにしろ。からかうにも限度があるぞ」
 「いやねえ、ちょっとした冗談じゃない。花菜ちゃん、あなたのお兄様は怖いひとよ。ねえ、そんなに妹が大事なの、靱也?」
 「瑞恵!」
 声を荒立てる靱也に、瑞恵はからかうような華やかな笑い声をあげた。
 足取り軽やかに、テーブルの上のサンドイッチを手にすると、彼の横を通りすぎていく。
 「思いは言葉にしなければ通じないものよ」
 すれちがいざまに耳打ちをするのに、靱也は何かを言おうと口をひらいた。
 だがその間もあたえず、笑って逃げてしまった。
 「靱也さん・・・?」
 不審そうに声をかけた花菜に靱也はきつい目をむけた。
 「あいつに構うな。おまえはどうしてそう無防備で危ない――っ」
 いいかけたのに、言葉に詰まったのか悔しそうにだまりこみ、目をそらした。
 そのままフイッと行ってしまった
 花菜は靱也がなにを怒ったのかもわからず、ただ呆然として、食堂に取り残されていたままだった。



 
 「巫女って、いったい何をするのかしら」
 花菜は窓の外をながめながらつぶやいた。
 ずっとそのことが気になっていた。
 巫女についてなにか特別なことを教えられることもなく、身を清めたり、食べ物の制限をするようなことも一切なかった。
 それどころか、村人たちがあれほど心待ちにしているにもかかわらず、日取りさえ決められていないらしく、教えてもくれない。
 菖子は、そのことに関しては、来た日以来、口にしなかった。
 学者が日参するのにもかまわず、なにを思ってか、嫌な顔もしないで話を聞いているだけだ。
 暇のなぐさみだとしても、趣味のいい相手だとは、とてもいえそうにない。
 瑞恵に関しても、彼女は放任しているようであった。
 彼女はあいもかわらず派手に遊んでいるようであり、ひっきりなしに違う男が訪ねてきては、何日か泊まっていっているようである。
 そうかと思えば、無情なまでの冷淡さで追い返していたりもする。ひとりの相手と長続きすることはほとんどなかった。
 靱也といえば、学校に行っているようではあるが、あまり皆のまえに顔をださなかった。何をしているのか得体がしれない。
 そんな中で、花菜が親しみのもてるのは、唯一沙也子だけだった。
 彼女がいちばん普通の生活をしているように思われた。
 彼女自身、みずから結婚に失敗した出戻りだといっては、ひっそりとした陰者のような生活をおくっていた。
 外出したり、人と会ったりすることをあまり好まないらしく、いつも庭の手入れをしたり、手芸で小物をつくったりして、花菜に声をかけてくれることが多かった。
 沙也子と庭でお茶を飲んだり、ときには西洋のキレイな本を読んでくれることもあった。裁縫を一緒にして、色々教えてもらうこともあった。
 それでも、花菜は一日の大半をひとりで過ごすことのほうが多かった。
 この家では十分な空間があるうえ、慣れない習慣や言葉づかいに気を張らないでいいだけ、かえって楽な気がした。
 一人には慣れているのだ。
 ぼんやりと裏山を散歩して自然のなかに紛れ込んでいると、煩わしいことがきえてゆくように思われる。
 庭を歩いていた花菜は、カエデの枝に、蜘蛛がりっぱな巣をはってあるのをぼんやりみていた。
 朝露に濡れてキラキラと輝きをはなつ巣の中央で、蜘蛛はただじっと、獲物がかかるのを辛抱強くまっている。
 「ここら辺の気候って、蜘蛛に適しているのかしら」
 ここにきてから、偶然なのだろうか、よく蜘蛛の姿をみかける気がする。
 庭だけでなく、森のなかや、手入れの届いていない日本家屋のほうにも、けっこう巣がはられてあるし、ときには窓硝子に蜘蛛がはりついていたりすることもある。これだけ手入れをされているのに、珍しい気がする。
 向こうの方で、沙也子たちが庭の手入れをはじめたようだった。
 早生が鍬で土を掘りかえしたそこに、丁寧に花の苗を植えていっている。
 こんな光景をよく目にした。
 帰ってきてからというもの、早生はずっと沙也子のそばにおり、まるでずっと昔からそうしてきていたかのように控え、したがっている。沙也子もまた、早生の存在を許している。
 ふたりのそんな様子があまりに自然なので、早生と一緒に過ごしてきた花菜ですら、彼がここにずっといたような錯覚をおぼえてしまう。
 自分にはけして見せることのなかった笑顔を、こうもあっさり沙也子にむけるのを見るだけで、彼の気持ちがわかってしまう。
 寂しい――。
 口に出してしまうと、きっとその重みに耐えられない。
 ずっとそれが当り前なのだと、自分にいいきかせてきた。いまさらどうしようもない。気づかないふりをするのには慣れている。
 「大丈夫。まだ、大丈夫よ」
 目の前に垂れてきた小さな蜘蛛にフッと息を吹きかけつぶやく。花菜はそんな自分に気づき、苦笑してしまう。
 「まあ花菜さん、いつからそんなところにいらっしゃったの」
 沙也子が、潅木のなかにたたずんでいた花菜に気づき、日溜りのように笑いかけてきた。
 両手に香りのきつい、くちなしの花をだき、小走りによって来た。
 「どうぞ、部屋にでもかざってちょうだい」
 花を花菜に手渡してくる。
 あまい芳香にいきなり包まれ、頭がボウッとしてきてしまう。
 「……いつもすいません」
 「いいえ、だってわたしったら、こんなことしか花菜さんにしてさしあげられないんですもの」
 はにかむように笑う。彼女こそ、花のような人であると思う。
 「こちらの環境に慣れなくて戸惑っていらっしゃるんでしょう。だから花でもみれば、少しは落ち着かれるかと思って」
 彼女なりに、気を使ってくれているのだ。
 くちなしの甘い香りが、沙也子自身にもうつっているのか、やさしい匂いのする手が髪の毛をなでた。
 「葉っぱがいっぱいついているわ。どこを歩いてきたの?」
 とろけるような眼差しだった。
 この人の前では無条件に身をなげだしたくなってしまう。
 慈愛にみちた瞳の優しさが、もしかしたら孤独な魂を癒してくれるのではないかと思ってしまう。沙也子をみていると、だからいつも泣きたくなってしまうのだ。
 そんな花菜の心をしってか、沙也子は独りごとのように言った。
 「つらいことがあったら、あまり心に溜めておいてはいけないわ。そのうちに、歪みがかならず現れてしまうものよ」
 「つらいこと、ですか?」
 「ええ。でも、きっと誰にだって、心に閉じ込めているものがあるものよね。人にいえない――いいたくないようなことが」
 自分のことを言っているのか、果てしなく遠い目だった。
 この穏やかな優しいひとにも、多分なにかががあったのだろう。だからこそ、一度嫁した家から戻らなければならないという屈辱を味わったのだ。
 「何があなたにあったのですか?」
 そう、聞いてみたかったが、この人の傷口を開くような気がして言葉にできなかった。切ないほどの優しさは、いつも悲しみを帯びているのだから。
 裏のくぐり戸のひらく音がして、何度か見たことのある男が入ってきた。
 庭の片隅にいた花菜と沙也子に気づかず通りすぎ、勝手口に吸い込まれてゆく。瑞恵の新しい男だ。
 沙也子は妹の乱行をどう思っているのだろう。けぶるような秀麗な顔を曇らせる。
 「花菜さん、誤解しないでね。瑞恵ちゃんも本当は、とても素直でいい子なのよ。ただ、晋一郎さんが亡くなられてから……」
 初めて聞く名前だった。
 問うように見つめる花菜に、思わず口についてしまったといいたげに沙也子は重く息をついた。
 言いにくそうに淑やかに目をつぶる。
 「人には、目に見えない傷がたくさんあるものだわ。瑞恵ちゃんの心の傷はとても深くて大きいの。わたしのような出戻りとはちがう傷がね……」
 「沙也子さん?」
 誰にいうでもなく、沙也子はしばらく空をあおいでいた。
 「わたしはね、子供が生まれなかったの。十九才で嫁いでから六年ただの一度も妊娠しなかった。お義母様も旦那様も、ついに見切りをつけてわたしを帰してしまわれたのよ。それっきり人に会うのが億劫になってしまって、もうずっとこの家に閉じ込もっているわ。わたしはせっかく家に帰ってきたっていっても、もう巫女にもなれないし、本当になんの役にたつでもないままにね」
 自分を卑下するふうでもなく言う。
 それは、花菜にはわからない世界であった。
 彼女が嫁ぎ先の義母にどれほど責められ、どれほど肩身のせまい思いをしてきたか。
 いびられながら、子供の出来るというお守りをもたされたり、体にいいと得体の知れないものを食べさせられ、外国の薬草を飲まされては、何度も吐いた。
 水凝りがいいといって、真冬に冷水をかけられもした。誰にもいわなかったが、どんな思いで耐えてきただろうか。夫でさえ、みてみぬふりをしていたのだ。
 「愛していたから産まなかったのに――」
 あえぐような声だった。
 「沙也子さん・・・・」
 悲しみの感情にのみこまれてしまったのか、それっきり沙也子は何もいわなかった。
 早生がそっと沙也子の肩をだき、いたわるように連れていった。
 そんなふたりに花菜はいたたまれなくなり、その場をたち去った。
 くちなしの花の匂いに、気が遠くなってしまうようだった。


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