糸の館

1


 崩れかけた壁をはうように、蔦がのびていた。
 一瞥しただけではわからないが、草や若木の間から、朽廃し崩れおちた残骸があちこちからのぞいている。
 まるでひめやかな秘めごとを楽しんでいるかのようにも見え、どこか怪しくさえある。
 繁みをわける音がした。
 樹海をおもわす黒々とした森から、忽然とひとりの女性が現れた。
 足のつけ根までありそうな草々を滑るように歩き、どこへ向かうのか、迷いもなく進んでいる。
 年のころは二十七、八才ぐらいであろうか。
 けぶるような美しさだった。
 一瞬、精霊が迷いでたのかと見間違えてしまいそうだ。
 人のものではない優麗さは、背筋を冷たくさせる魔性が存在していた。
 けれど不思議なことに、その目にはなぜか、このうえなく深い聖母の慈愛が浮かんでいた。瞳に映るすべてのものが愛しいとでもいうかのように柔らかに微笑んでいる。
 そんな瞳にみつめられたら、きっとどんな屈強な人間でさえも、自ら膝をつき、たおやかな白い手にこうべを垂れるだろう。
 女は屋敷跡とおぼしき場所に歩みをとめた。
 懐かしむように、ぐるりと辺りをみまわす。
 かなり広いと思われる範囲にわたり、黒く崩れた残骸が散らばっていた。その坪数だけでも、この家が隆盛を極めていたころの栄華を偲ばせる。
 けれど、それさえももう、いまでは無惨にこぼち、面影もわずかさえ残っていなかった。
 けれどそれはここに限った風景でもなかった。
 ここらあたり一帯を眺望できるこの丘から、広がっているすべての風景にいえることだった。
 かつては人の住まう村であったはずだろうのに、いまや緑の海に飲み込まれ、だれ一人として住む者がいない未踏の地となっている。
 それも近隣にすむ古老の話によれば、数十年のむかしに、ここら辺り全域を焼く大火災がおきたためだということだった。
 猛火はあらゆるものを焼きつくし、一切を灰燼に帰してしまったのだ。
 その時以来、荒れ地と化し、ついには人の営みさえついえてしまった。わずかに生き残った人々でさえ、なぜかその地に、二度と戻ってこようとはしなかった。
 彼らは、きっと自ら犯した罪の重さを嘆き悔いていたのだろう。
 自分たちの愚鈍で安直な行為によって、土地の守護神を怒らせてしまったのだ。そのため村の一切を懺滅させられてしまった。
 だがもうそれらのことを覚えている者もわずかしかいない。
 ――神にみすてられた土地。
 そう呼ばれ、それさえ忘れ去られた。
 どんな開発の手も受け入れず、荒れ果てた不毛の地でしかないのだと信じられていた。
 けれど自然は、人が見捨てた禍禍しい土地であってさえ、旺盛な生命力によって浄化し、息吹を甦えらせてしまっていた。
 無惨で生々しかった焼けあとに植物は芽をだし、崩れた家を糧として命を実らせた。
 そこには恐ろしいほどの気高さがあった。
 人の手などなくとも、自然は生きのび、なんどでも復活する。太古からの約束はいまだ守られているのだ。
 まるで土地の穢れを浄化しようとでもいうように、草も木も、真っ直ぐに天をあおぎ成長していた。
 樹木にのみこまれた下界を眺めていた女は、ふと頬にふれた若くしなやかな枝に手をのばした。
 朝露にぬれた葉にそっと唇をよせ、露をふくむ。
 どこか淫靡で幻想的な光景であった。
 唇がしっとりと濡れ、えもいわれぬ色香がただよう。
 彼女は一段もりあがった茂りのまえに足を止めた。
 手をふうっとかざした。
 まるで約束された呪文を聞いたように、蔓草が複雑に絡まりあっていた枝をとき、ゆっくりと道をあけた。
 緑の封印の下から、黒いやけ焦げた岩肌があらわれた。
 柔らかな朝の光をあびると、岩はガラガラと崩れおち、ポッカリと黒い道がのびていた。
 丹を差したような唇に妖しい微笑みがゆれた。
 彼女は闇の入口へ迷いもなく足を踏みいれてゆく。
 カツーンッと蹴りはねた石が、地下へすいこまた。
 階段を一段づつくだる彼女の姿が、暗闇に蒼く浮かびあがり、燐光を放っているようにみえる。
 完成された女性の輪郭であった。
 ほっそりした長い手足に、胸のなだらかな膨らみがやけに豊かで、まるで彼女の慈愛の源泉であるかのようだ。
 女は地下におりたつと、迷いもせず一隅へとむかった。
 青白いひかりの球が、幾多もそこをとびかい、彼女の来訪を歓迎しているように光を増してゆく。  巨大な繭のまえで足をとめた。  天井から床へと真っ直に張られ、ピンッと直立していた。  「兄さん――」  熱にうかされたように甘い呼びかけだった。  彼女は下腹を愛しそうに撫でると、うっとりと笑い、純白の繭に近寄る。  頬をよせ抱きしめた。  繭のまわりを飛んでいた鬼幽のような光が動きをとめた。
 どれもが膨張しはじめたかと思うと、美しい女性の姿へとかわりはじめてゆく。  光の女たちは、繭と繭を抱きしめる彼女をみつめていた。
 次に、そこに起こるだろう奇跡を心待ちにしているかのように光をひそめてゆく。
 「会いたかったわ……。この日を、ずっと待っていたわ。この子とふたりで、ずうっと待っていたのよ、あなた」
 繭は彼女の声に応えるかのように、ユラッときしんだように見えた。





 はじめてその門をくぐったとき、花菜(かな)はあまりの重厚感に圧倒されてしまていった。
 巨大とでもいうような二階建ての屋敷は、花菜が生まれてからはじめてみる、和洋折衷の荘厳な建築物だった。
 白い壁にフランス窓がつき、優美な手すりのあるベランダからはレースのカーテンがゆれている。モダンな洋館とおぼしき先には、歴史を感じさせるみごとな檜の日本家屋がつづいていた。たぶん、もとあった屋敷に洋館を増築したのであろう。
 優美なコロニアル式の建物が、和独特のおもむきと微妙なバランスでつりあい、不思議な気品さえ醸しだしている。
 表札に掲げられた『篠宮』という名が重々しく感じられた。
 そこが子爵の称号を与えられるほどの名家であり、良きにしろ悪きにしろその知名度はかなりのものであると聞いている。
 屋敷を見るだけでも、どれほどだろうと思われる資産家であり、付近一帯の土地を所有しているらしい。
 建物の敷地だけでも、二千坪はゆうにこえていた。
 手入れのゆきとどいた庭も目をうばわれるほど立派であった。そのまま裏山に続いており、どこまでが庭で、どこまでが山かわからないほどだ。
 「さあ、花菜様どうぞこちらへ」
 ためらっている花菜の背をおした。
 家にまで迎えにきた寺山という弁護士だった。
 花菜はおずおずと歩みをすすめながらも、時折、背後にいるはずの早生(はやお)をふりかえった。
 早生は、花菜の守役としてここまで一緒に付いてきており、幼い頃からいっしょに育った仲だった。
 もともと表情のとぼしい彼はこんなときですら無表情である。だがその冷たいまでの平然さは、今はかえって花菜に奇妙な安堵感をあたえてくれている。
 玄関の前にたつと、寺田はネクタイをしめなおした。
 繊細な金の呼び鈴を三回鳴らし、そのまま返事もまたずに優美な扉をあけて、歩みを進めた。
 一歩なかにはいると、真っ白な大理石を敷きつめた空間がひろがっていた。
 西洋風の優しげな円柱がたち、壁にはモダンなランプが灯されている。天井から垂れ下がっているのはガス燈のシャンデリアだ。
 周囲には、きらびやかな調度品が数々ならべられている。
 とりわけ美しいのはバラの西洋画であり、白い壁を華やかに彩っている。その手前に飾られている青磁の花瓶に、まるで切ってすぐ生けられた花のようである。
 価値のわからない花(か)菜(な)でさえ、そこにあるどれもが逸品であり、多分値段をきいたら、卒倒するほどの高価なものだとうかがえた。
 そうはいっても花菜自身も、普通の家からすればうらやまれるような裕福な大地主の家で育てられていたのではあるが。
 たとえそれが養子ではあっても、どこの家にいってもそう気後れすることはないはずである。
 だが、ここはあまりに格が違いすぎていた。
 しょせん大地主の道楽など、庶民のお遊び程度でしかないのだ。
 篠宮家は、家柄のよさにくわえて、本物の貴族だけがもつ重圧感があった。他を寄せつけない気位のたかさと気品は、血筋の正統性をそのまま表しているかのようである。
 そんなきらびやかな世界とは縁遠かった花菜にとっては、まったくの異世界であり、みるだけで体がふるえた。
 紅玉の絨毯が、廻り階段にまっすぐにのびていた。優美なアラベスク模様の手摺がひとつの芸術になっている。
 踊り場にもうけられていた飾り窓をみあげ、花菜は思わず目を細めた。
 目を射るような光線に視界をうばわれてしまう。
 「お帰りなさい、花菜さん」
 耳をくすぐるような涼やかな声だった。
 凝らして見た視界に、白光をおびた美しい女性の姿がうかびあがってきた。
 その像がはっきりと姿を結ぶ。
 花菜は見とれてしまった。
 美しいなどという言葉では、とうてい言い尽くせないほどの妖艶な貴婦人が立っていたのだ。
 漆黒のドレスに身を包み、レースに縁どられた襟元からほっそりした白い首がのぞいている。匂いたつような色気があるのだが、それは決して下品でなく、極上の女の匂いがする。
 見る者を魅了せずにはおかない美貌だった。けれどそれも度がすぎると、人の世のものとかけ離れすぎ、近寄りがたい冷酷さのようなものに変わってしまうのはなぜだろう。
 「ご足労かけましたわね、寺田さん」
 かるく頭をかたむけただけで、優雅で完璧な淑女のお辞儀となった。
 「い、いえ奥様、わたしはただ、ご命令どおり、花菜様を迎えに上がっただけでございますから」
 みとれている花菜のとなりで、寺田もまた目を奪われていたようであり、まごついて何度もハンカチで汗をぬぐっていた。
 赤い顔のまま花菜にふりかえり、彼女を紹介しはじめた。
 「花菜様、こちらが、篠宮家の当主でいらっしゃる菖子(しょうこ)様でございます。あなたの、ご祖母君にあたられる方です」
 「――えっ、お、おばあ様?」
 まさか、と花菜は驚きを隠せず声をあげ、あらためて女を見上げた。これほど美しい女性が、祖母だなんてとても信じられない。
 どう見ても、その美貌は四十代そこそこか、いやもっと若く、三十代なかばほどにしかみえない。
 ざっとみても実年齢より十才以上は若くみえているということだ。いっそ母といったほうがしっくりくるだろう。
 「それから菖子様の右横にいらっしゃるのが沙也子(さやこ)お嬢様で、そのお隣が、妹君の瑞恵(みずえ)お嬢様です」
 おどろく花菜をよそに、寺田は紹介を続けていた。
 いつのまに現れていたのか、これまた美しい二人の女性が菖子のよこに並んでいた。
 「こちらのお嬢様方はあなたの母上様の妹君でいらっしゃいまして、つまり、叔母様にあたられる方ですな」
 寺田の紹介のしかたに、瑞恵と呼ばれた女性が声をたてて笑っていた。
 姉の沙也子と呼ばれた女性も苦笑し、やわらかく言った。
 「寺田さん、いやですわお嬢様だなんて呼び方は。瑞恵さんはともかくとして、わたくしはもう三十二才になりますのよ」
 響きのいい優しい声。
 そういいながらも、彼女もまた実年齢よりかなり若くみえる。穏やかな笑みのなかには、菖子とはまったく別の秀麗さが秘められている。
 目を奪うような華やかさはないかわりに、深い慈しみがにじみでていた。それが不思議と、淋しそうに彼女をみせていて、その笑みをみていると、花菜はなぜか泣きたくなるような甘い胸の疼きを感じてしまう。
 初めて会ったはずなのに、知っているような気がするのはなぜなのだろう。
 「あら嫌だわ、まだ十分お姉様もお母様もまだ若くてお美しくていらっしゃるじゃないの」
 からかうように言ったのは瑞恵だった。
 瑞恵は小悪魔的な笑みをうかべ、緊張しきって青くなっている花菜に親しげに片目をつぶってみせた。
 二人の静的な美しさにくらべ、瑞恵には生気にみちた野生的な鮮やさがあった。
 着ている服も姉とは違い、肌の露出度のたかいモダンな洋装であり、大きく胸の開いたブラウスからは、豊かな胸の谷間がくっきりとみえている。
 相手を小馬鹿にしたような笑みをうかべる真紅の唇も、気性の荒さを秘めた漆黒の瞳も、薔薇のように華やかで、どこか媚態さえふくんでみえる。今年で二十四才になるという彼女の肢体は匂いたつように成熟されていた。
 花菜はひどく気後れのするような美しい親子をみあげ、違和感を覚えていた。
 自分の中にほんとうに彼女たちの血が入っているのだろうか。疑わずにはいられない。
 花菜はそもそも彼らとは今日が初対面であった。
 こんな大邸宅にすむ、優雅な貴族に知合いなどいなかったし、まして自分がその血筋であったとは、どうして想像できようか。
 花菜は、ずっと昔から自分がもらわれっ子であったということは知っていた。
 養い育ててくれた親とは、血のつながりなど微塵もなく、そのうえ彼らの感情が好意的でないこともわかっていた。
 本当は、自分は嫌われており、厄介者であったことも知っていた。事あるごとに思いしらされていたのだ。
 花菜に対するかれらの本音が、はっきりと表面化しだしたのは、祖父の大悟(たいご)が死んだ後からのことであった。
 それまでは自分が、大悟の実の孫ではないなどと、思いもしないほどに事にされ、可愛がられてきていた。
 実際、血のつながった孫である直次(ただつく)や咲子、今は死んでしまった長男の周一よりも、よほど大切にされ慈しまれていたし、幼いながらに、彼らの嫉妬を、どこか優越にさえ感じてもいた。
 祖父はいつでも一番に名をよび抱きあげてくれた。珍しい菓子をそっとくれたり、時には内緒で、花菜だけを街に連れていってくれたりもした。
 散歩をするとき、祭にいくとき、いつも彼の逞しい腕にだかれていた。誰もが花菜を特別な目で見たし、頭をさげた。
 それもそのはずである。
 大悟は、村のほとんどの者が頭の上がらぬ、大地主であったのだ。彼にはそれだけの威厳と風格があったし、村をおさめてゆくに相応しい手腕をもっていた。
 一緒に歩いていると、いつも人々が声をかけご機嫌をうかがってきた。
 若い人も古い人も、みんなが恭しく接してくれるのは、分別のつかない幼子にとっては、とても気分がよく、楽しいことだったのだ。
 『おまえ様がわしの一番大切な宝だぞ、花菜』
 大悟はよくそう言ってくれた。
 むろんそれらのことすべてが、養父母たちにとって、この上なく面白くないことであり、憎しみさえ覚えさせていたことでもあったのだが。
 血のつながった自分たちよりも、どこの馬の骨ともしれぬ花菜をなぜ可愛がるのかと、いつも釈然としない怒りと疑問にみちていた。
 それこそ大悟は、下にもおかぬ扱いをし、まるでどこかの姫君に仕えているかのような風情なのである。
 息子の定巳(さだみ)は、大悟にまったく頭があがらない気弱な男であった。ここいら一帯の土地を所有し、絶対的な権力をもつ頑健な父のまえに立つだけで、彼はふるえていた。身がこわばり、口ごたえさえ出来なかったほどだ。
 その代わりと言っていいほど、気のつよい妻のみさ(・・)みさ(・・)には苛立たしくあったのだろう、尻を叩かれてばかりいた。
 彼らは鬱屈した、剣呑な怒りを、しっかりと腹の底にためていった。
 だから、大悟があっけなく死んでしまったときにはそれが一気に吹き出した。
 押さえつけられていた巨大な石が、思いがけないほどいとも簡単に払われ、いきなり天下がまわってきたのだから。
 身震いしながら喜んでいる二人をみていた花菜は、ただ恐ろしく思っていた。なにか違う生き物をみているようでさえあった。花菜が八歳のときだった。
 それは本当に思いがけない事故だった。大悟は親戚の祝いの席のかえりに、うっかり足を滑らせ川に落ち、溺死したらしいということだ。
 翌朝、村の若者が川の縁にひっかかっているのを見つけたときには、すっかりふやけてしまい、誰だか判別しにくかったうえ、落ちた拍子にどこかでひどくぶつけたらしく後ろ頭がぽっかり割れていたという。
 じつのところ、定巳が、妻のみさにそそのかされ、目の上のコブである父親を殺したのではないかという噂が、村中に、まことしやかに流れていた。
 もしそれが本当であったとしても、彼らもまた新しい地主に逆らうことができなかっただろう。
 ただ深く追求されぬうちに、何もかもがうやむやに片付けられてしまっていた。
 ――それからである。花菜の生活は極端なまでに変わってしまったのは。
 大悟の遺言では、二重にも三重にも、花菜のことを大切にするようにと、しつこいほどに書きしたためられていたにもかかわらず、定巳夫婦は、昔年の恨みとばかりに、手の平をかえしたような冷たい仕打ちをはじめた。
 花菜は、日当りの一番いい眺めのよい部屋から、湿気のこもった納戸のような薄ぐらい物置部屋へ移された。
 それと一緒に、花菜のために特別にあつらえた着物や帯、洋行帰りの仕立屋にわざわざつくらせた洋服なども、ぜんぶとりあげ、同じ年である娘の咲子のものとなった。
 なにかにつけて嫌みや小言をきかされた。言いがかりをつけられては、食べるものも満足に与えらえない日が続いた。
 時には、たいした理由もなく殴られもしたし、罵声をあびせられた。
 着古した、手足の短い着物のまま学校にかよい、弁当はいつも半分しか入っていなかった。
 帰ってもすぐに、下働きのようなことを命じられ、女中たちにまざって掃除や洗濯をさせられることもままあった。
 花菜はそんな仕事がべつだん嫌いではなかったけれど、冬には赤切れた手が痛んで眠れない日がつづいた。
 そんなときには、早生がそっとやってきては、薬草を手にすりこんでくれたり、湯たんぽをあててくれた。
 彼だけが、大悟の死以降も、生前の命令をまもるかのように、花菜に仕えてくれていたのだ。
 もちろんそんな中であっても辛いことばかりではなかった。
 わずかだが、女中たちのなかには花菜を哀れに思い、かばってくれたり、優しくしてくれる者もいた。
 「お嬢さんはあたしらによくお菓子をくれなさった。それに奥様の小言からも庇うてくださいましたから」
 礼を言う花菜に、彼女らはきまって恩があると言い、食事をぬかれてお腹をすかしていると、こっそり台所からふかしたイモをもってきてくれたり、握り飯をくれたりもした。時には冷たい川の水での洗濯を代わってくることもあった。
 花菜にしてみれば、お菓子をあげることなど、子供心のきまぐれでしかなかったのに、彼女らはそれすら嬉しくてたまらないほど、辛い毎日を送っていたのだ。
 自分がこうなってみてから、ようやく人の心のあたたかさを学びはじめた気がする。
 この生活に慣れてみれば、定巳やみさ達といるほうが、ずっと気が重かった。
 はっきりと示される嫌悪と陰鬱さは、一緒にいるのをいたたまれなくした。チクチクと針のような言葉で胸を刺し、いつだって苦しくさせられるのだ。
 働いていれば何も感じないでいられる。
 早生もまた、陰からなにかと助けてくれるし、つらい水汲みや荷運びなどは、いつもこっそりかわり、助けてくれていた。  多分、それらのことが咲子の怒りを煽りっていたことは確かだが、花菜が言ったところで早生の態度はかわらなかっただろう。
 咲子は幼いころから、ずっと早生に憧れていた。彼が花菜の世話役として従っていることが我慢できず、悔しい思いをしていたのだ。
 なにかにつけ花菜に意地悪をしていたのも半分はそのせいである。もちろん、花菜はそんな咲子の気持ちをしらないでもなかったが、早生はあきれるぐらい咲子に冷たく、とりなす暇もなかったほどだった。
 立場が逆転しても自分の思い通りにならないことがわかった咲子は、かえってよけい苛立ちをまし、早生にすげなくされるたびに、花菜に当り散らしていた。
 それでも、おもてだって花菜に暴力をふるうようなことはまだなかった。
 養父母が陰でどんなに悪く言っていたとしても、死してなお、大悟の力は健在だったのである。
 だがそれも、あの事件が起こるまでは、のことである――。
 弁護士の寺田がたずねて来たのは、花菜が十五才の誕生日を迎えた朝のことであった。
 花菜の身のうえを知る者は、もはや大悟の死以後、誰もいなかった。それゆえ寺田の言葉は思いがけないものだった。
 「こちらでお世話いただいております花菜様なのですが、じつは、篠宮子爵の長女でいらっしゃる梗子(きょうこ)さまのご息女でいらっしゃいまして――ええ、故あって、十五年まえ、こちらにご養育をお願いしておりましたのですが、実に急なことに、先日、梗子様がお亡くなりになってしまわれましてね」
 いったん言葉を切った。
 「篠宮家といたしましては、これを機に、花菜様にお戻り頂こうということになりましたのです。……当主は花菜様に、ぜひ跡目を継いでいただきたいと望まれております。そういう次第でわたくしが参上したのでございますよ」
痩身の男は、神経質そうな目を笑みにほそめていた。舶来ものの眼鏡が冷たく光る。
 「梗子様は、産後の肥立ちが非常にわるくていらっしゃって、花菜様をご出産後も、ずっと体調をくずされて寝たきりでございました。子爵家のほうも何かと諸事情ございまして、花菜様を篠宮にてご養育なさるのが困難となり、こちらの小杉様にお願い申し上げたのでございます」
 台本でも読んでいるかのような単調な言葉。
 「当時、なにかとお出入りのございました小杉大悟様が、篠宮家で乳母を捜しておりましたのを聞きつけられて、こちらの若奥様に、お嬢様がお生まれになられたということで、ご養育を申し出てくださったのでございます。それからのち、今にいたるまで、お世話をお頼みしていた訳でございます」
 恭しく頭をさげる寺田以外、みな一様に顔色をなくして黙している。
 定巳すら、大悟からそのような話をきいたことがなかった。
 そうでなければ、花菜が子爵家の娘だったなどと、だれが思いつこうか。
 だが一番、その話に驚き肝を抜かれているのは、当の本人である花菜であった。
 そんな突拍子もない話をされても、にわかに信じることができない。なんと返事をしていいのか、言葉さえみつからないのだ。
 動揺をかくせない花菜に、寺田は予想していたように落ち着きはらっていた。
 わざとらしい声をあげた。
 「ああ、あの石ですよ。ほらあの棚のうえにある石」
 多分、来たときから気づいていたはずなのだろ。いまさら驚いたふりをして、神棚に飾られていた透明な紅玉石をゆびさした。
 「たしかにあの石でございますよ。あの宝玉とともに、篠宮家当主――菖子様が、花菜様をこちらにと、お預けになったのでございます」
 「あの石、ですか?」
 定巳は不思議そうにいった。
 深紅の宝玉は、リンゴよりも大きくて、光にあたるとうっとりするような色を反射していた。
 定巳がそれを降ろし手渡すのに、寺田は眼鏡をあげまじまじと鑑定するようにのぞきこむ。
 「この宝玉はこの世にふたつとない貴重なものでございます。むろん、篠宮の方といたしましては、花菜様を迎えに来られるようになるまでの養育費として、小杉様に差し上げたのでございますが、ね」
 チラリと定巳の顔をうかがい、じっと見入っている彼の表情を面白そうにみている。
 それは大悟がけっして誰にも触らせず、いつも神棚のうえに奉り、礼拝していたものであった。
 幾ばくかの価値があるだろうとは思ってはいたが、それがどれほどのものかは、わかっていなかったのだ。
 「まあこれ一つで、ここいらあたり一帯の土地は、軽く買えるでしょうな」
 唖然としている小杉家一同をよそに、寺田は大した風もなく言う。
 定巳の目の色がかわった。
 「そんな価値がこの石に……」
 「花菜様にはそれほどの価値があると、篠宮家では考えているのでございますよ。篠宮子爵といえば、その地で知らぬものはいないとうほどに、ご隆盛を極めた富豪でいらっしゃいますからね。近隣の山林はほぼご所有のうえ、全国でも有数の銅山鉱をおもちですから」
 それがどれほどのものか、想像さえできないほどの金持ちである、というのだ。
 寺田は、ふと表情をかえ花菜をみつめた。
 まるで深く詫びているかのように言った。
 「菖子様も、梗子様も、けっして花菜様を粗末におもい、家から出したのではないのでございますよ。どうかそれだけはおわかりくださいませね」
 頭を深々とさげられ、花菜はどう言っていいものかわからず、ひどくまごついた。
 あまりに自分の世界とかけ離れすぎていて、どう思えばいいのかわからないのだ。
 それは、いままで花菜を厄介者としか見ていなかった養父母たちにとっても同然だった。声もかけられずただ呆然として花菜をみている。
 「そうそう花菜様、赤い宝玉のついた指輪をお持ちではございませんか」
 花菜はその声に我にかえり、はっとした。
 「え、ええ、持っていますけど」
 クサリに通し、首にかけていた指輪をあわてて出した。あの石によく似た赤い石が光っている。
 「これがどうかしましたか?」
 生前、大悟から大切にするようにといって渡されたものだった。
 幼いころの花菜には大きすぎたため、大悟にクサリを買ってもらい、首飾りのようにして身につけていたのだ。
 指に合うようになった今でもはめないのは、ただたんに炊事をするのに邪魔なためである。お守りのようにいつも身につけていたのだ。
 「そうですこの指輪です。これが花菜様の身分をしめす証拠なのです」
 「この指輪が?」
 「その赤い稀石は、じつは篠宮の家宝でして、わたくしなどには及びもつかぬほど、高価な物であると聞いております。好事家たちのあいだでは垂涎の的でして、それこそどのくらいの値がつくかは、想像だに出来ません・・・・」
 花菜の手に、突き刺さるような視線が集まった。それこそどれも涎をださんばかりの顔だ。
 てっきりただのガラスかと思っていたのに、あらためてその指輪をみつめた花菜は、紅玉のなんともいえぬ色合いに目眩がするようだった。
 太陽が沈んでしまう、その一刹那にみせる、秘められた情熱の色に似ている。
 「菖子様より、篠宮家の後継者としてぜひ花菜様にお戻りいただくようにとの言葉を承りお迎えに上がりました。いらしてくださいますね、花菜様」
 「こ、後継者だなんて……。だって、わたしにはそんな大変なこと」
 なにも知らぬ田舎娘に、いきなりそんなご大層なことを言われても困るだけである。
 事の重大さだけはわかるが、返事をしかねる。
 花菜はおずおずと不安げに尋ねた。
 「もっとほかに・・・わたし以外でほかに相応しい方はいらっしゃらないのですか?」
 「――まあ、いらっしゃらないことはないのですが、なにぶん、どなた様にもご事情がおありでございまして」
「で、でも、たとえご事情がおありでも、わたしなんかよりはその方たちのほうがずっと・・・・」
 「いえいえ、それはもちろん花菜様より相応しい方などいらっしゃいませんよ。叔母にあたられるかたがお二方と、二つ違いの兄上様がいらっしゃいますが、なにぶん篠宮家は、代々の女系家族でございまして。ええ、非常にめずらしい話ではありますが、家督の相続は女性――しかも、健康で、穢れのない方、ということが決まっているのです」
 穢れのない?
 その言葉がやけに鋭く胸にひっかかる。
 「でも・・・」
 花菜はなにか言わねばと口をひらいた。自分などどうしたって身分不相応なのだ。
 迷いあぐね言葉が出てこない。とっさに早生をみた。
 だが彼は、まるでそれらのことを予期していたかのように、まったく動じる様子もなければ、いつもどおり、整った顔を歪めもせず平然としていた。
 花菜は不意に、不安にかられた。
 なにかとてつもない運命の歯車が回りはじめたような気がしたのだ。
 孤独の風が地の底から吹きあげてくる。
 「一カ月後、お迎えに参ります。それまでに身の回りの整理をしておいてくださいませ」
 寺田は柔らかな笑みを浮かべて、強い言葉をのこして帰っていった。
 花菜にわかることといえば、それらのことに否定はありえないということだけだった。
 それから、周囲の様子がにわかに慌ただしくなってしまった。
 現実のものとも信じかねて茫然としている花菜をよそに、小杉家一同で、いままでの非礼をとりつくろおうと、必死で機嫌をとりはじめだしたのだ。
 寺田がいくばくかの礼金を置いていったこともあるが、子爵家の令嬢――しかもかなりの富豪である――ということになれば、親しくしておいて決して損はない。
 どうにかして養父母としての恩を着せておきたいところでもあろう。
 みえみえだとわかっていても、恥も外聞もなく必死でご機嫌をうかがってくるのに、花菜はひどく辟易してしまった。
 彼らとて、花菜の身の上を知っていれば、それほどの扱いはしなかったであろうということはわかる。いままで行ってきたことは、金を産む宝石に、泥をぬりつけ、踏みにじってきたのも同じなのである。
 同じ年の咲子だけが、ずいぶん面白くなさそうだった。
 それまで花菜をいいように扱ってきたのだ。いまさらご機嫌とりなどできるはずがない。けれどかえって素直な咲子の態度のほうが、ずっと安心できてしまう。
 それでも母のみさに言い含められたのか、彼女さえも、しぶしぶ愛想笑いをうかべていた。兄の直次もおなじであり、なんとか花菜の気をひこうとつきまとってきた。
 直次は、これまでもなにかにつけ、花菜にいいよっていた。すぐに体に触れようとするし、人気のない場所を選んであらわれる。
 時には力ずくで言うことをきかそうとしたこともあった。そのたびごとに早生に救われてきたのだ。
 いまの直次は、色欲だけでなく物欲がまじっているため、側によるだけで花菜の気分をひどく悪くしていた。
 花菜はこれから先のことを思いため息をついた。
 どうしたって、自分に選択権が無いことはわかっていた。すべてのことが、いつも花菜の意志など無視して決まってしまう。大きな波に飲み込まれてしまう。
 なぜか、それらのことでさえ、もはやいまの花菜には大したことではないように思われていた。どこにいても彼女には居場所はないのだ。
 場所が変わるだけ。
 そう思い、訪れる運命を花菜は甘受するしかなかったのである。

 
 そうして引き取られ、肉親と名乗る者たちと、いま初めて対面していたのだった。
 いつのまにいたのか、瑞恵の黒曜石の瞳がめのまえにあった。
 自分の思いのなかにひたりきっていた花菜はそのあまりの美しさに我を失いそうになった。
 「きれいな髪だわ」
 そっと前髪に触った。
 「梗子お姉様にそっくりね」
 ふたつにわけた三編みに、そっと瑞恵はくちづけた。びっくりして花菜は何か言おうとしたが、喉が焼けつくようで言葉がでてこない。
 ふと自分のみすぼらしさに気づきはずかしくなった。
 服も髪も格好も、彼らのなかにいると、まるで異邦人であるかのように場違いであり、ひどく惨めである。
 きっとそんな感情は、彼女らのなかにいる誰もがもつものであろう。けれど、血のつながりがあるだけに、よけいみじめに感じる。
 造花のように硬直している花菜に、瑞恵は鮮やかにわらった。
 「大丈夫、とって喰いはしないから。ねえ、こんなにきれいな髪をしているのに、結わえてしまうなんてもったいないわよ。ほら、こうすると横浜にいる異国の貴婦人みたいじゃない」
 いたずらするように髪を解かれ、髪がふわりとひろがった。蜘蛛の糸のように細く柔らかな光をうけて波打つようにさざめく。
 とたんに花菜の印象がガラリと変わった。
 栗毛色の髪が、地味だった少女にひそむ華をくっきりと際立たせた。
 まだ完成されていない青い美貌が、あと数年もすれば美しく開花し、ここにいる貴婦人たちの誰にも劣っていないだろうことを物語っている。
 ただ、花菜のもつひっそりとした表情だけが、彼女の美しさに霞をかけ押し隠そうとしているかにみえる。
 「あ、あの、わたしは……」
 「だって、こんなに可愛いのにもったいないわよ。ねえ花菜ちゃん、もう誰にも遠慮することはないのよ」
 大きな目をさらに見開く花菜に、瑞恵はふくみのある笑みを口にうかべた。そんな表情すら小悪魔的で魅力がある。
 「瑞恵さん、あまりいたずらするものじゃないわよ。ほら、花菜さんがびっくりなさっているじゃないの」
 沙也子が笑いながら階段をおりてきた。花菜に微笑むと
 「ごめんなさいね。瑞恵さんたらいつもこうなのよ。いたずらばかりして驚かせるんですもの」
 首をかたむけのぞきこむ彼女にも、また花菜は魅せられた。その笑みひとつで、痛いほどはりつめた緊張がやわらいでゆくようだ。
 瑞恵は肩をすくめ悪びれる風もなくいった。
 「わたしって新しいものを見るとどうしても突きたくなるのよ。どうせわたしはお姉様と違って、いつまでたっても落ちつきのない子供ですからね」
 冗談めかしていう瑞恵の背後に、菖子の陶器のような顔が浮かびあがって見えた。花菜はその冷たさにゾクッとふるえた。
 彼女のもつ峻厳な雰囲気にくらべれば、この娘たちがどれほど人間的で温かみがあるかがわかる。美貌も迫力も人離れしすぎて怖い。
 「なんで帰ってきたんだ」
 階上からの声だった。
 声の冷たさに花菜はビクッとしてみあげた。
 階上からむけられた、トゲのような視線にぶつかって息を飲んだ。
 「なんで――いまさら、帰ってきたんだ」
 優美な手刷りにもたれかかり、怒ったように厳しく見つめている青年がいた。
 なぜそんなに苛立っているのかわからないが、まるで花菜のことを憎んでいるような目をしていると思った。
 双眸が蒼く光ったような気がして、瞬きをする。
 彼もまた、この一族である証であるような、くっきりとした美貌をしていた。研ぎ澄まされた妖刀の鋭さがある。
 きっとその視線ひとつで、相手を意のままに動かすことのできる、数少ない人種であろう。
 「靱也(ゆきや)さん」
 菖子が嘆息するように声をかけた。
 靱也はあごをそらせた姿勢で花菜をみすえたまま、踊り場までゆっくり足をはこんだ。
 たしか、靱也という名は、兄にあたる人のものではなかっただろうか。
 「なんで帰ってきたんだ、花菜」
 『花菜』、と呼ばれゾクリとふるえた。
 まったく歓迎していないことは嫌でもわかる。隠しも含みもしていない。
 まわりの人間皆に緊張がはしった。
 「靱也さん、そのことでしたらもうよろしいでしょう。何度もお話したはずです」
 菖子がやんわり言った。
 靱也はまだおさまり切らぬとばかりに睨みつけたが、すぐに顔を横にむけた。
 花菜は視線の呪縛から放たれたように息をついた。彼の怒りはあきらかに自分のせいだ。
 きっと、花菜が帰ってきたことで、彼は正当な後継者としての立場を追われたのだろう。そのため花菜を厭い敵意を浮かべているのだ。
 いうべき言葉もなく、うつむいた。
 花菜は、けれども彼のなかにあるのは、何か他の――もっと、別の意味での苛立ちを感じられた。
 せっぱ詰まったような、それでいて悲しみにも似た切なさのようなものがある。そう感じるのは花菜だけであろうか。
 そしてなぜか自分のなかにもまた、かれの期待を裏切ってしまったような訳のわからない罪悪感が溢れだしていた。
 瑞恵があきれたように言った。
 「靱也、まだ言っているの。仕方がないでしょ、『祭り』には巫女が必要なんですもの」
 花菜は弾かれたように顔をむけた。
 「祭りって?」
 はじめてきく言葉だった。瑞恵はああ、と頷くと、
 「土地神様を祀るお祭りのことよ。その巫女は清らかなる乙女、そう、処女じゃなければならないのよ」
 言いながら、自嘲ぎみにクッと喉を震わせた。
 「わたしはこんなアバズレだし、お姉様は出戻り。どうしたって巫女にはなれないもの。花菜ちゃんが純潔だってことは早生が証明してくれているし、それに、膚の色をみればわかるわ、処女かどうかなんてね」
 見つめる目が妖しく細まるのに、花菜はカッと赤くなり後ずさった。背後に控えていた早生をおもわず振り返える。
 早生は頭をさげ、けして花菜を見ようとしなかった。ただその仕草は、花菜の純潔をあたかも承認しているようであった。
 花菜は一斉にそそがれている彼らの視線に、不意に、得体のしれない恐ろしさを覚えた。
 もうもうずっと昔から、このことはすでに決まっていて、ただ時を待っていた――そんな恐ろしい考えが浮かびあがってきた。
 ならば、早生がずっとそばにいた意味もわかる。
 花菜を守るためだけに存在し、彼らに引き渡す準備をしていただけなのでは・・・・。
 そこまで考えブルリと震えた。
 いや、もうそれ以上考えてはいけない。これからここで暮らしていくには、たぶん、それらのことは、きっと余計なことなのだ。
 「大丈夫よ。巫女なんて、なにも変わったことする訳じゃないわ」
 不安げに顔を青ざめさせた花菜に、瑞恵がどうということもなさそうに言った。
 「でも、わたしなにも知らないですし・・・・」
 「いいのですよ、なにも知らなくとも。ただわたくしたちのなかに流れる血が、それらのことを、すべて知っているのですから」
 言ったのは、菖子だった。
 謎めいた笑みに何もかもを覆い隠されてしまう。
「わたしの血・・・・?」
 「どうもごくろうさまでしたわね、寺田さん。今日のところはもうよろしくてよ」
 「はい、奥様」
 控えていた寺田は、うっとりとみあげていた顔を、小羊のように深々と腰までまげると、そのまま出ていった。その表情だけで、彼がどれほど菖子に心酔しているかがわかる。
 「早生もご苦労さまでした」
 早生もまた、頭をさげた。
 それをみたとき、花菜はああやっぱり、と思ってしまった。
 ほんとうに彼は篠宮家から遣わされてきた者だったのだ。ほんとうにそれだけの人間なのだ。
 寺田があらわれてから、彼は一度も話をしようとはしなかった。役目は、終わった、といっているかのように。
 退出しかけた早生がほんのわずかな間だけ、沙也子に目をやるのを見た。表情がわずかにゆるみ、能面のような顔が人間にもどったようにみえた。
 そんな彼の顔を、花菜ははじめて見た。
 そばにいて面倒をみてくれはしても、いつもどこかよそよそしく親しみを持てなかった。遠慮があって、頼りにしてはいても、甘えはできなかったのだ。
 その早生にあれほど優しい表情ができるのかと思うと、花菜は深い空虚さに襲われた。
 やはり自分は一人だったのだ。
 今度もまた、この広大な屋敷のなかでたった独りなのだろう。
 では昔となに一つかわらない。
 「さあ花菜さんもお疲れでしょう。お部屋にご案内するわね」
 沙也子がほっとするような笑みをむけた。
 花菜はその微笑みのうちにひそむ寂寥癇のようなものが、肌に染みいるように感じた。彼女からは、自分と同じ、孤独の匂いがする。
 ふいに屋敷中に響きわたるような咆哮があがった。
 空気がふたたび緊張し、切れるように冷たくなった。
 花菜は繰り返される野獣の猛り声に、そっと沙也子に身をよせた。
 その声は、薄暗い、どこまでも続いているかのような廊下の向こうからだった。なにかの呪いの言葉のようにさえ聞こえてくる。
 沙也子に肩をだかれ、花菜はすがりついている自分にきづいた。
 「やだわ、きっと花菜ちゃんの匂いを嗅ぎつけたのね。さすが、野生のカンだわ」
 瑞恵が茶化すように言った。
 気がつくと、菖子も靱也も平然としているではないか。おびえているのは花菜だけだ。
 「私の、匂い?」
 「気にすることはないわ。今のところ声だけで、害はないから」
 瑞恵はそういうと、もう花菜に興味を失ったというように階上にあがってしまった。
 靱也も冷たい視線をのこしたまま消え、菖子もいつのまにかいなくなっていた。
 花菜はなにもいわない沙也子にすがりついたままだった。闇の向こうに金色にひかる光をみたような気がした。

 
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