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炎の血脈

7



 ときおり吹く風が小枝を揺らすより他は、物音ひとつしなかった。
 泰幻はうつむいたままだった。
 「そう、か。讃良を解放してくれたか」
 ぽつりとそう言った。その顔は、弱々しい孫を失った老婆の顔だった。
 射王は聖剣長船を携えて立ち上がった。
 「では、行きます」
 「皇恭を、いや吉備王を倒しに行くのかえ」
 「はい。大和が混乱している今こそが最大の機会です。弓月のかけ声に、すでに各地から国津の民も結集しつつあります。我ら吉備の民が意志を固くし何よりも強く束ならねばなりません。ここが正念場なのです」
 「では本当に、おまえ様は、それでよいと申すのじゃな」
 歯切れの悪いものいいに、射王はキッして顔を上げた。
 「もういいんだ。やらなければならなんだ。黒媛を――吉備王を倒さなければ」
 「したが射王、おまえ様が一番迷うておっては、どうして民がついてこようか。大将の迷いは皆の迷いじゃ。己でわかっておろうが」
 「でも誰かが導かねばならないのです。俺に人を率いてゆく力がないのは知っている。温羅がいればこその人々だとも。けどもう退く訳にはいかないんだ。俺のために死んでいった摩釉や相模や、みんなのために、俺は退けない。皇恭をやらねばならない」
 「・・・・本当に、後悔せぬというのじゃな」
 部屋を出ようとする射王に、泰幻の再び静かに問うた。
 射王は激しくさけんだ。
 「俺にどうしろって言うんだ!俺にはもう、兄さんを永遠に解放してやることぐらいしかできない。讃良だって死んだ。摩釉だって殺された。道は残されてないA」
 泰幻は射王の震える小さな肩を痛わしそうに見ると、すまなそうに目を伏せた。
 「ならば、わしにはもう言うことはない。だが、あえて一つだけ言わせてもらいたい。どうぞ射王、おまえ様の悔いることだけはせぬでおくれよ。讃良のことも摩釉のことも、皆人間の心あってのゆえじゃ。皇恭とておまえ様への心あればこそ、讃良は嫉妬したのじゃ。人の心をなくした人間に何が出来ようか」
 射王は目をつぶり、長船を力強く握った。
 「でももう決めたのです、ばば様」
 もう、方法は残されていない。
 ならばせめて、自分の手で逝かせたい。
 すでに吉備に――タタラの地に新興の勢力が起こりはじめていた。
 温羅と弓月を中心に、潜っていた国津の民たちが集いはじめている。
 吉備の民は本気で起ちはじめていた。虐げられ、心と信仰の自由を奪われようとして、ようやく彼らは、自らを奮いたたせようとしていた。
 時は満ちた。
 押さえつけられた怒りが臨海点に達したとき、その秘められた力は過去の遺物も圧制も跡形なくおし潰す。
 もの言わぬ労働者など押さえつけて当然、搾取せねばならぬという支配者に、その怒りを理解させねばならない。吉備の国は、加護を失い、自力に目覚めようとしていた。
 「金屋子翁殿、出雲に身をよせていた早総伯父もすでに準備を整えて向かっているとのことです」
 弓月の言に、金屋子翁が重く頷いた。
 「それはかなり心強いことじゃ。かの出雲が味方となれば戦力は倍増する。もう後へは引けぬ。我らが同じ意志のもとに集わねばならぬ」
 金屋子をはじめとした各地の長や首領、将軍がのきなみ顔を連ねていた。
 対大和への戦いにむけて策を練ろうと、円卓を囲み、話し合っている。
 そのうちの一人、吉備の四道将軍であった浦凝別(うらごりべつ)が気にいらぬげな顔で言った。
 「その意志のもとである総大将がおらぬでは話にならぬではないのかな。射王殿の不在は士気にも関わるというものだ」
 「その通り。吉備王が子息とはいえど、射王殿のような方に、民がついてゆくかどうか心配ですな。やはりあの様な方には――」
 合の手を入れるように鴨別(かものべつ)が言った。
 温羅が峻厳な面もちできっぱりと答えた。
 「射王は泰幻様のところだと申し伝えたはずです。それ以上の何か疑問でもありますか」
 「先ほどから、吉備の方々は何をこだわっているのです。射王はまだ大和での傷も癒えてないというのに闘っているんだ。結局はあなたたちはどうあっても彼が気に入らないのでしょう」
 弓月のはっきりした指摘に、浦凝別と鴨別は黒い顔ひきつらせる。両者はにらみ合った。
 「仲間同士で諍いをおこしても仕方がない。――温羅も弓月殿も少しは言を控えよ」
 金屋子の厳しい言葉に温羅と弓月が頭を下げた。
 にやりとした浦凝別と鴨別にもぴしゃりと言った。
 「お二方も、射王が大将ということは最初に申し伝えたはず。これ以上、同じ事を申させますな」
 射王は入ろうとした手をそっと戸から離した。その場から離れた。
 受け入れられていないことは最初からわかっていた。当り前であろう事だろうし、戦陣をきって闘うのが怖いわけでもない。
 ただ、そこに集う人々の譲らぬ意志に、自分が是が非でも大将で戦いたいと思う心持ちがないことがなんとなく後ろめたかった。
 必死で戦おうという彼らに申し訳なく感じてしまうのだ。
 「なぜ、俺だけがいつまでもこんなに煮えきらないんだろう。刀だってまったく答えようとはしてくれない。俺は・・・・」
 どうすればいいのだろう。
 この迷いを、どうすれば断ち切れる。
 刀の黒く光る鞘が、重かった。刀を抜き、刀身に映る己をみる。
 会いたい。もう一度だけ、皇恭に会いたい。
 そこから始まらなければ一歩も進めない。 後のことはもう考えられなかった。
 射王は、ただひたすらに、王宮を目指し馬を走らせていた。
 



 吉備宮は瘴気に包まれていた。
 ネバつく空気の中を、射王は忍び込みひた走っていた。ただひたすら皇恭のことを考えている。その気持ちは、まるで恋人との甘い逢瀬に向かう乙女である。
 魔物に魅入られたような、不思議とあがらいきれない。力に吸いよせられてゆく。
 王族のみ使い得る抜け道をつかい、闇に紛れる。
 なぜこんなに引き寄せられるのだろうか。
 憎もうと思うのに、強い力が心を束縛してしまう。
 永遠の約束のように、惹きよせて離さず誘惑する。
 もしこれが、黒媛の巧妙な罠であったとしても、ほとばしるこの激烈な思いはとめられはしない。
 ――!逢いたい。
 逢ってどうするかも考えられないのにそれだけが、熱に浮かされたように頭の中を占める。
 同じ父の子として偶然兄弟に生まれついた。
 まして疎まれているだろうのにこれほどまでに慕わしい感情をもつことが自分でも理解できない。
 何度裏切られ、絶望させられても、身を切り開いて出てくるのは思慕の情だ。
 射王は闇に沈む迷路の中に、自分の息に重なる荒い息使いを感じた。
 苦しげで、身体の中の流れを逆流させるような引きずりこむ力強さである。
 「だ、れ?!」
 走る射王をいきなりものすごい力が掴んだ。
 悲鳴の上がりそうになった唇を手でふさがれ、そのまま部屋へひき入れた。
 薄ぐらい闇の中だった。
 懐かしい匂いがした。冷たい唇が射王の唇に重なり、奪う荒いくちづけが激情のように射王をとらえた。
 「わざわざ捕まりに来たか、射王よ」
 皇恭がまるで待ってでもいたかのように射王を抱きしめていた。首筋に息がかかり、背筋がぞくりとする。皇恭の声が耳をくすぐる。
 「ああっ」
 皇恭は射王の背中にある長船を奪った。忌まわしげに投げた。
 驚き見つめる赤い瞳にいきなり指を突き入れた。
 「いっ――!」
 「この悪魔の赤い瞳が、俺を毎夜苦しめるのだ。この瞳、おまえのこの顔、私になんの呪いをかけたのだ射王」
 頬に流れる血を舐めた。愛を語るように甘く射王にくちづけた。
 「どのように殺されたい。そのために我がもとへ来たのだろう」
 みみたぶを噛み首筋にくちづける。
 思わず震え、息を漏らす射王に忍び笑う。
 欲情と狂乱にみちた皇恭の手が射王の髪をくっと引き首の線があらわなる。
 「黒媛がおまえの血を欲しがっていたが、こんな細い首など一握りで終わってしまうな」
 「なぜ俺の血なんかを?!」
 「おまえのその半陰陽の体を喰えば、常人の何百倍以上の力を得るんだそうだ」
 爪で射王のあごの輪郭をなどった。
 「きれいな肌だ。赤子のように柔らかで透明だ。この肌を被った黒媛を抱くのもよいか」
 「やめっ!」
 首を絞められた。唇から息を吸い取られた。
 絞めあげる手が緩まると、皇恭の手が射王を這い、衣服がすべりおちる。
 「そういえば、おまえも女でもあったな」
 「皇恭っ!」
 思わぬ皇恭の手の動きに、射王は震えた。
 彼の手が下半身の両方へ触れたかと思うと、いきなり何のまえぶれもなく、皇恭の男根が射王へ熱く突き入れられた。
 射王は気が遠くなった。漏れる悲鳴が唇に奪われ、荒々しい舌の先から、なぜか皇恭の深層に眠る苦痛のあえぎを感じていた。
 黒く染まり、再生のおよばぬ細胞のきしみ。聞こえぬ声で悲鳴にわなないている。闇に塗込められた魂が朽ち果てようとしているのは、彼の体なのか。
 「み、皇恭・・・・・にい、さん」
 皇恭の中に、溶けそうだった。
 愛が――もっと違う出会いであったなら二人の歴史を違うものに変えたかもしれない。
 だがもう遅い。道は遠すぎてしまった。
 「ちがう、よ。・・・兄弟だったから・・・兄弟だから、こそ、誰より・・・近くにいられ・・・」
 深く魂をわけ合った。
 だからこそ、誰よりも魅かれあい、求めあったのだ。
 ――ああそうなんだ。
 射王は、皇恭のなかの闇に同化していった。
 牙をむき出した野獣の果てには、硝子の格子のなかで、手足をもがれ血を流し叫んでいる少年が残っていた。それは大和の王の姿とおなじである。
 「射王・・・・貴様など!」
 皇恭の表情が激変した。暴走し、壊れる寸前の狂気が彼を翻弄している。
 射王の首を絞める手がもがくように射王を求めて抱きしめた。
 真っ直で、真っ直すぎるからこそ、皇恭の魂は、闇に深く捕らわれてしまった。
 射王の胸に巻かれている布を切り裂き、長く伸びた鋼鉄の爪が、肌に血の筋をつけた。
 白い布が四方に舞いおち、それに混じって、萌木色の布切れが散っていった。
 「これ、は・・・・・」
 お守りかわりにしていた、それは幼い日にもらった皇恭の布だった。
 「にい、さんのだよ。ずっと、ずっと返そうと思って持ってた。いま、返すよ」
 皇恭の荒れ狂った気がピタリと凪いだ。
 射王は布を見つめながら、動かない皇恭の体のしたで我知らず微笑んでいた。
 「もう一度、兄さんに逢いたかった」
 「ひ、おう・・・・?」
 見つめる皇恭の顔がみるみる二重に歪んで崩れていった。右面が鬼のようにひきつり半面は泣きそうにしかめられた。
 「ひっ、おう、俺は、俺は?!」
 皇恭は射王から身を離すと、狂ったように暴れて転がった。どんな凶暴な呪縛にさいなまれているのか、苦悶の形相でのたうち回る。
 絶句してただ見守るしかない射王に、皇恭が這いよった。死んだ魚のような白濁した目だ。骨ばった手が射王をつかみ、泥のような唇が射王の唇をふさいだ。
 射王は払い退けられなかった。いや、払い退けなかった。
 なぜなら自分の上にいるのは、死そのものだから。
 死にむかう情人の、最後の包みない激情は、肉を斬り裂く疼痛と、嘆きの吐息だった。
 射王は皇恭の痛みを、与えられる痛みを体深く感じていた。最後の別れだった。
 「ひお・・・・っ」
 まさぐっていた手がとまった。
 「皇恭!」
 震えだした。顔が痙攣して泣いて見えた。
 「ご、め・・・ん。もう・・俺はだめ・・・だ。俺はも、死ん――殺してっ!」
 ゴフッという音とともに口からどす黒い血を吹いた。思わず皇恭を抱きしめた。
 「兄さん兄さん――皇恭しっかりして!!」
 「おまえが目覚めさせるからじゃ。おまえがこいつに思い出させるから、死が肉体に追いついたのじゃ」
 冷たい声だった。艶然と笑い戸口に現れた。黒媛だ。
 前にも増して精気にあふれて美しい。
 かつての情人の醜い姿を高らかに笑い、それが合図のように、皇恭がのたうちだす。頬の肉がただれて骨が浮きあがる。
 「もう形も保てぬわ。まあいたしかたなかろう。取れるだけの精気を、たっぷりと吸い取ってやったからのう」
 淫猥にぬらぬらと唇をなめた。
 「きさま!」
 「まあ、まだ形なりと必要なれば生かしもしようが、しょせん妾なしでは生きて行かれぬ人形よ。おまえら吉備の人間などいずれは皆、妾の餌じゃ。火倶土の子孫など生かしはせぬ。苦しめ、じっくりといたぶり殺してやる。妾の焼かれた顔の痛み、ただではおかぬ」
 黒媛の顔の皮膚が、鋭い一瞥にずるりとさけた。皮膚が赤黒くひきつった、醜い鬼女の妖面があらわれ出る。眼窩に盛り上がる目の玉が血走っていて、異様な姿だった。
 「そなたの肉は良き香りがするぞ射王。大月と同じ匂い、同じ白玉のような肌じゃ」
 射王はにらみつけていた鬼女の姿に、神話はいまだに終りなく続いていることを知る。
 明けぬ夜は遠々と、呪いの声をあげている。
 「あと千人じゃ。千人で我が背の君、月読の尊様が復活めされる。そなたの血で妾は美しゅう昔のままに甦り、月読様をお迎えできる」
 黒媛の見えざる手が射王をとり囲んだ。精気を吸い取ろうと間合いをよせていた。
 射王は後ろに跳ねた。その手が掴むまえに、一回転し、投げられていた長船を手にとった。
 「こざかしい!そのような玩具で妾を切れると思うてか。痴れ者が!」
 邪悪さを隠そうともせずに牙をみせたが、長船に目を止め大きく歪んだ。
 「ど、どこでそれを!」
 「とある媛君がくれたのさ。おまえを斬るために、百年間俺を待っていてくれたんだ」
 射王は刀をかざしながらゆっくりと近づいた。焼けただれた凄惨な顔が怒りに乱れる。
 うしろから不意にはがい締められた。刀が手から落ちた。
 「皇恭!」
 「忘れおったか、それは妾の人形じゃ」
 「はなせっ皇恭、はなせ!」
 黒媛がにやりと奇面を歪めた。
 長く黒い爪が、射王の白い頬の肉を切った。
 「よい皮じゃ。よい匂いじゃ」
 射王の髪からひらりと萌木色の布が落ちた。はがい締めていた皇恭の手の力が弱まった。
 射王はふりきった。逃れた。
 刀を手にすると黒媛に切りつけた。
 黒媛の絶叫がほとばしった。聞くに耐えない声が奈落の底から響き渡った。
 射王はかまわず走った。全力で走りながら、一度だけ振り返った。
 だが、そこにはもう皇恭の形をした人形が、ただ意志もなく立ちすくんでいるだけだ。
 射王はもう、何も考えなかった。ひたすら走った。
 もはや皇恭を助ける方法は、死のみだ。死でしか、愛情を示してやれぬのだ。
 射王を捜す躍起になった兵達の声がしていた。射王は地下へくだる階段を抜けた。
 下生えの茂りにかくされて見えなかったが、地下への道が、実は裏山につながっているらしいのだ。
 そこはたぶん、遠い昔に、重要な犯罪者が捕らえ拷問されていた極秘の牢に違いない。
 かび臭い階段は湿気に苔むしていた。錆びと、血の臭いはいまだにこびりついていて、恨みの声のように消えていない。鼻をつく。
 ここで殺されていった怨念が逆巻いている。空気がピリピリしていて、思わず吐き気がこみあげる。
 射王は薄闇に浮かぶそれを見たとき、悲鳴を飲み込んだ。
 「これは――!」
 生首だった。
 かつての重臣たちの首が岩屋に点々と並べられていた。最後まで大和にくみした愚かな者どもの、あわれな末路が、まるで幽玄な装飾のように浮かんでいる。どれもこれもが恨みに目をむき出して皺に枯れていた。
 「むごいことを」
 射王は寒気をおぼえつつ、その場にたむろっている怨霊を振り切り、小さな裂け目から地上へでた。
 射王は辺りをうかがいながら鎮守の森へ身をひそめた。
 我が目を疑ってしまった。
 かつての緑豊かな羽咋山は目に痛いような変わりようだった。木も草も枯れて焼き払われ、赤土が広がっている。
 死の王が我がもの顔で居座っているのだ。
 背後からの追い立ててくる声に、感傷にひたるまもなく走り続けた。殺気が森の怨霊に姿をかえて射王を襲いくるようだ。
 岩肌のむき出された池のほとりに来た。
 黒ずんだ藻に覆われ異界への入口のような面もちになっていた。
 そこから見えた王宮は、死の海に飲み込まれていた。うらびれた孤島のようだった。
 微風がすりぬけた。
 いっせいに狼の吠え声がしはじめた。
 切り立った岩屋から射王を見おろす幾つもの影に、肌が粟だってゆく。
 黄金の瞳が射王を囲み、そのどれもが積み重ねられた死を悼むように悲しい目の色をしていた。射王は彼らもがまた、自分達と同じ犠牲者なのだということを理解した。
 一頭が鋭く鳴くと、それに合わせるようにみなが鳴いた。
 これからの戦いを鼓舞するような叫びは、我らの受けた傷は忘れぬぞと語っていた。
 「おまえらも、わかっているのか・・・・」
 吉備はいま忍従の時を向かえている。
 かつての栄光をとり戻すか、大和国の従属として苦渋をなめるか。
 自らの心と信仰を神に試されている。
 そしてそれは人間だけではない。この誇り高い美しい生き物たちまでも運命を共にしているのだ。
 射王は長船を抜いた。
 「俺はやつらを誓って倒す!」
断ち切れない皇恭への思いのために、多くの命が流れて消えた。
 射王は髪を切って、心を切り捨てた。
 風に髪がながれてゆき、長船がまるでその赤を吸い込んだように緋色に色づいた。
 「黒媛を殺すんだ」
 多くの人民を虐げ殺め、天津神は復活しようとしている。黒媛の力を借り、この世を再び己の意のままの、暗黒の世界に造り変えようとしている。
 彼女を放逐しておけば人間はいずれ神という、尊大で傲慢な存在のもとに家畜となり果ててしまう。食され皮を剥がれる道具となり、殺されてしまう。
 家畜として、黙って享受しろというのか。
 ならば、なぜ神は始めからそのように人間を造らなかったのか。地上にいきるすべての頂点に立ったかのような錯覚を与え、奢り誇ることを教えておいて、どうしてもう一度地へ落ちろという。
 人はもう従順な、己自身を捧げてまで喜びをみつけられるだけの、純粋な生命ではなくなってしまっているのだ。そうまで寛大で心優しい生き物ではない。
 戦うしかない。生きるために。
 歩まなくてはならない。神の手から離れて。
 そのためには黒媛を殺さなくてはならない。
 だがそう思えば思うほど胸が苦しくて涙が流れるのはなぜなのかわからない。
 大切な何かが、どうしても欠けているようなのに、どうしても見あたらない。
 長船が手に熱く感じた。
 生き物のように鼓動が跳ねた。
 射王は刀の振動に重ねて無我のままに振るった。
 刀から放たれた光の帯は、吉備城に一直線に向って落ちた。白い閃光が一面をうめつくした。
 光の柱が立ち上がった。不浄の霊が清めの炎に焼かれながら天の深みへと昇っていった。
 射王は茫然とそれを見ていた。
 たった一振りで起こってしまったことの激しさに、脱力しきったように長船によりかかり、膝をついた。恐ろしさにふるえ、荒く肩で息をしながら刀を見た。
 「この神剣・・・まだ、使いこなせない。俺のように未熟な者には、重すぎる、あまりにも」
 まるで体中の精気を奪い吸いつくされたかのように疲れきって体に力が入らない。
 『人を救うも、殺すも己しだいだ』
 白くなってゆく意識の中へ、誰かのささやきが通りすぎた。射王は、それが己の声なのか、死せるもののつぶやきなのかは、わからなかった。
 



 タタラ軍には赤い鬼神がついている。
 いつの間にか、敵陣だけでなく味方の陣内にまでも、そうささやかれはじめていた。
 鎧もつけず、赤い髪をなびかせて戦場を疾駆する射王の姿は、敵味方なく誰もの目を惹いていた。
 たしかに神刀長船を振るう雄姿は兵達の士気を鼓舞する。だがかえって女性のごとく見える華奢な容姿が、痛々しくもあり繊細な美貌がはかなく感じられた。
 連日の、激戦をきわめる戦いに、兵たちの疲労も色濃くなってきていた。それでも誰一人、弱音をはかないのは、先陣をきって戦う射王の姿に心を奪われているからだ。
 疲弊してきた長期の戦いで、射王は自分の中の鬼を見つめ続けていた。
 「もしかしたら刀の使い方を誤っているのかもしれない。魂を闇に帰すのではなく、呪縛から開放するために使わなくてはならないのかも」
 ふとそんな思いが沸き立ちはじめていた。
 累々とした屍を築くだけで何一つ変わりはしなかった。命が無駄に流れているだけで、事態がどう変われるというのだろうか。
 人を殺したとう重荷だけがのしかかり、心に暗雲をかけているだけではないか。
 射王はゆっくりとだが、そのことに気づきはじめていた。
 「射王様、五十狭彦の侵軍がすぐそこまで来ております」
 先見にでていた兵の報告を聞くと、射王は伏せていた顔をあげた。毅然として命令を下す。
 「浦凝別、援軍を送れ。私も行く」
 控えていた老将軍は即座に返事をした。
 それでもまだ、いまは進むしかないのだ。
 浦凝別は一礼すると、勇むように自分の軍下へ戻っていった。射王を最後まで拒んでいた白髪の大将は、今では誰より忠実な部下となり射王につくすようになっていた。
 「射王前に出すぎだぞ!」
 温羅が馬の首を寄せてきた。部隊の先頭を切っている射王の横に並ぶ。
 「まだ大丈夫だ。それより浦凝別の援護してくれ。五十狭彦が出てきているはずだ」
 「五十狭彦か。なるほど、やつなら」
 温羅は不敵な笑みを浮かべた。
 どうやら温羅と五十狭彦の間には、奇妙な友情にも似た関係が生まれているようだった。
 戦いの質が同じなのか、戦術も実力も差異がなく、今までの戦いのすべてが互角。両者は戦いそのものを楽しんでいるようである。
 それは五十狭彦の方でも同じらしく、二人は剣を何度か交わしながら、思う存分に闘いあっていた。
 タタラ軍の事実上の総指揮は、やはり温羅と金屋子がとっていた。
 兵たちの信望は温羅に集まっており、勇ましい雄姿で闘う温羅のなかには絶対負ける気がしない力強さがあった。
 そこには真実、吉備のための戦いだという強靱さがあり、どんな苦戦でも乗り切ってしまえるという確信のようなものが生まれつつあった。いつの間にか、温羅はタタラにはなくてはならない存在となっているのだ。
 吉備の地外では、弓月によって率いられている国津軍が勇猛を馳せていた。
 国津の神を崇める国々の中で、土蜘蛛国は最も高貴な血筋の信頼にあつい国だった。
 その王家の血をひき、権威ある斎の宮の長子ならばおのずと人心も集まろう。
 ましてやそれに見合う風貌と智慧を有していればなおさらである。
 射王は、自分の立場が道化であるとよく理解していた。だがそれこそが役目であるのだ。
 「射王様、五十狭彦の軍勢がそこに!」
 遠目にもわかる土煙が見えた。
 五十狭彦の軍が待ち伏せしていたとでもいうように射王を取り巻いていった。
 大和軍の中においても、五十狭彦の軍は精鋭だった。まさに神出鬼没で、機敏なタタラの軍にさえ、予測をつけさせない。
 五十狭彦は、なぜか黒媛に与えられた闇の力を使うことがなかった。陰術を平気で使う大和のなかにあってさえも決して卑怯ではない、『まとも』さがあった。
 射王は刀を抜いた。
 「あいつの狙いはあくまで俺だ。黒媛が俺の命を欲している限り、俺のいるところがあいつの現れるところだ」
「射王、よせっ」
 温羅が止めようとするのにも構わず切り込んで行った。国津も天津もなく、黒媛のためにだけに戦うことのみが、五十狭彦の正義だった。
 射王は五十狭彦を憎むことができなかった。
 根底に持っているものが同じだからかもしれない。
 けれども、あまりにも違いすぎる。認めることができぬほど、二人の進むべき道は分かれている。
 射王にできることは戦うことのみだった。
 五十狭彦が単身で馬を馳せてきた。
 剣が触れ合い、にらみ合いながら、刀が熱くなるのを感じた。弾かれるような衝撃が全身に走り、なんども剣が交わる。
 晴れわった蒼天に、雷鳴がとつじょ鳴り響いた。
 落雷が空を覆うように光った。
 射王は、圧倒的な脳髄が灼かるような力を受け、視界が真っ白になった。
 「射王!」
 温羅の声にも射王は動かなかった。
 五十狭彦の刀を温羅がかわりに受けていた。
 「射王、何をぼけっとしているんだ!」
 だが、射王はただ空を仰ぎ見るだけで、その顔はみるみる青ざめた。生温い風が足元を通りぬけ、松明の灯りがふうっと消えた。
 闇がいきなり落ちてきた。
 なんの前触れもなく太陽が消え去ってしまった。
 戦場に沈黙がおちた。刀のふれあう音が消え、嵐が通りすぎたような静けさが訪れた。
 「太陽が・・・どこにも、ない・・・?」
 天空の輝ける中心物がいきなり姿を隠した。
 闇に喰われたように地上から光が消えた。
 射王も温羅も、五十狭彦でさえただ茫然として空を見つめるだけで、だれ一人口をきくこともなくたたずんでいる。
 「何がいったい起こったんだ・・・」
 温羅がかすれた声でつぶやいた。
 ドオッという地鳴りがした。かと思うと、いきなり大きな揺れが襲い射王たちはなぎ倒された。大地の怒りの声を聞いた。
 地面が大きく裂けた。馬も人も吸い込まれるように飲み込まれていった。馬上の人間は地に殴りつけられ、刀を喜々として振り回していた者は己の刃で傷つきうめいていた。
 恐怖と混乱に騒然となった。
 みな悲鳴をあげ這いまわり逃げ惑った。
 天災による神の裁きはいとも簡単に人間の弱さを露呈させる。
 少しでも他人を押し退け安全な処へと向かおうとしはじめた。誰も彼もが祈り声をあげ泣き狂って神を求め叫んだ。
 「人は、神をこうまで深く失望させておいて、なぜそう簡単に神に祈れるのだろう。神はもう、完全に消え去られたというのに」
 射王はただ静かに地獄絵を見つめながら言った。温羅が不安げに射王を見た。
 「神は我々が悔い改めるのをどれだけ待ってくだされたか。慈しみが深いぶんだけ、我々への絶望は大きい。ずっとだ、苦しまれたんだ。・・・・互いが互いを憎み、殺しあっている俺たちの未来に、何があるというんだろうか」
 射王は手にしていた刀をおさめた。誰よりこの天災が意味することを理解していた。
 射王には解ってしまう。神の心を、嘆きを。
 眠りについたのだ。
 最後の守りが完全に去り、明りという明りが消え、太陽の恵みが神の、火倶土の心とともに岩屋の内に消え去ってしまった。
 それは怒りではなく大いなる悲しみだった。
 葦原中津国はいま火具土の去った瞬間に、この世でもっとも根の死国に近づいてしまった。射王はここまできて、やっと、自分が進もうとする方向をみつけたような気がした。
 「違っていたんだ。憎しみだけじゃ、やっぱり駄目だったんだ。同じことの繰り返しだ」
 「射王・・・」
 「戦うことがこの国を救うことだと思った。兄さんを憎み黒媛を憎むことで、本心を遠ざけようとしていた。でも、本当はもうとっくに知っていたんだ。誰も悪くないって、そして誰もが間違っているって」
射王は目をつぶった。表情が柔らかくなった。
 「救いの手を自分だけへ向けるから、寂しさがよけい募るんだ。憎んでいる相手にこそさしのべ抱きしめることが大切だったんだ。それこそが自らを癒すことだったんだ。みながみな、苦みに悶え、情に渇え愛に狂っている。だから諍いが終わらない」
 目から険がとれていた。昔のままの優しくて素直な、少し寂しげな顔だった。
 少年とも少女ともつかぬ、不思議な雰囲気の笑顔をみせて言った。
 「忘れようとしていたけれど、やっぱり自分は男でもあり女でもあったんだよ。男である部分は、この国の未来を憂慮し、民と土地を慈しんでいた。讃良を摩釉を杜璃を、愛しいと思っていた。そして女の僕は豊かな緑の息吹と自然の生命を愛でていた。温羅を弓月を、そして皇恭を愛していた。この体に宿る思いこそが、物の本質のすべてだったんだ。本当にしなければならいことは神の愛を癒すことだ。僕を愛執の念で縛っていたのは、僕自身だったんだ」
 温羅は射王を見た。万物の叡智を理解したような透明さに、かける言葉を失った。
 温羅は射王の肩に手を伸ばした。射王は影のように霞むとあわく白銀に発光しはじめた。
 赤い髪がさらに赤味を増していった。
 「温羅・・・・ずっとありがとう。深い度量と見識でずっと守ってきてくれた。感謝しているよ。結局、僕は皆の役には立たなかったね」
 「いや、これはもともと俺の戦いだったんだろう。それをおまえに無理矢理押しつけようとしていたんだ」
 「温羅にはこの地の未来を切り開く能力が誰よりもある。未来を信じて」
 光りが一層激しくなった。
 叫び逃げ惑っていたはずの人々が動きを止めた。光りの珠となってゆくその人を見つめていた。
 「射王、俺はこの道を行く。人の理の中で血と泥にまみれもがきながら進んで行く。俺にはその方法しかわからないし、それを信じている。人として、未来を自らの手で勝ち取るために戦うんだ。そしてゆっくりとでも必ず前進する。それが俺にできる最善、与えられた使命だと思っている」
 「わかっている。温羅には人を導き、惹き寄せる力がある。それはこの時のこのためのものなのかもしれないね。もっといい、もっと自由な時代をつくるために人地の歴史を切り開いていく力だ」
 黙って聞いていた五十狭彦が、射王にすげなく言った。
 「射王、天照神と月読神がもうすぐ復活するぞ。黒媛様のその準備はほぼ整えられているからな」
 「天照が――!天津神がついに復活するというのか?!」
 「かの神々は火倶土神に滅ぼされてより恨みの心を焼き付けているからな。だから恨みに思いながら死んで逝った人魂が、その鍵となるのだ」
 「・・・・五十狭彦、なぜ、それを?」
 五十狭彦は応えなかった。だが、彼もまた、同じ人間であったのだ。
 射王は温羅に言った。
 「温羅、できることなら憎しみの心を持たずに敵を倒して欲しい。たぶん俺たちの放つ憎しみの心が、天津神に力を与えているんだ。温羅ならできると思う。闇にとらわれている人々の魂を解放してやってほしいんだ。人の世は、けして神に関与させてはならない」
 「憎まずに敵を殺れと?――だが、やつらは余りにも多くを殺している。実りも土地も踏みにじり人の生を侮辱しすぎた」
 「うん、わかっている。けど、そうして踏みにじっている者ですら傷ついているんだ。黒媛にしても、その根底にあるのは孤独だ。愛する人の死を認めきれず、自分を失っているからこその暴走だ。どうしてその愛までもを非難することができるだろうか」
 「だが、人民の心までは自由に変えられないぞ」
 「まずは人々を率いるおまえが、許す心を受け入れてくれ。幼い五十狭彦を育てることができる心の持ち主なら、黒媛だってどこかに共感できるものがあるかもしれない。一時の憎しみに流されてはだめだ。温羅、彼女の魂の昇華を願ってくれ。そして皇恭の魂を――」
 すがるような表情で温羅を見た。泣きそうに見える。心の底からの叫びだとわかった。
 「兄さんを、おまえのその刀によって永遠に解放してやってくれ」
 「射王・・・・・・」
 温羅は、射王を見つめた。
 「皇恭を、愛しているのか、本当に」
 「愛しているよ。ずっと、初めて会ったときからずっとずっと愛していた」
 そう、運命のように愛していた。
 言いたかった。誰かにこの心を聞いてほしかった。ずっと隠し続けていた気持なのだ。
 そう、あの人にも伝えたかった。だれはばかることなく、そう胸の思いを言葉に出し、抱きしめたかった。
 射王の心が軽くなるように、身体が光に溶けてゆきはじめた。
 「射王、俺もおまえを愛していた。大切だったんだぞ」
 「・・・・うん」
 地の揺れが、いつの間にか止まっていた。
 射王の姿は光りの中に消えた。
 温羅と五十狭彦は動かなかった。
 目の前で起こった神の秘技に、ただ、いつまでも見入り、たたずんでいた。
 人々は、射王の消えた場所を、いつまでも見つめ、何かを待ち続けていた。
 




 射王はぼんやりした頭のなかで、懐かしい顔を見ていた。
 それはなまずの髭の国津神だった。
 「あなたは・・・・」
 「射王、やっと路を見つけたようだねえ」
 「でも、どうやって行けばいいのかわかららないんだ。僕はどこにいるの」
 問いかける射王に国津神はあきれ顔をした。
 「おやおやなんと間の抜けたことを言うもんだ。きみのまわりには大切な手掛かりがいくつもあるじゃないか。もっとも至近でいえばその刀。長船が特殊な力を持っていることは知っているだろう」
 「え、ええ」
 「火倶土の鍛えた神刀があって、空を飛ぶ浮き船が神殿にある。二つを組み合わせたらどうなる」
 「まさかこの刀が船の動力源なの?!」
 正解だと、と笑い声をあげると、国津神は光の珠となって旋回しはじめた。
 高次のエネルギーをもつ玉は、気がつくと無数の星々として、宇宙空間に瞬いていた。
 いくつかが忙しく光の線を描き、射王のまわりを浮遊していた。
 「これがみな国津の神々?」
 「我ら国津は生命すべてに渡って存在している。だが、もはや一族は少なくなった。皆で眠ることにするよ。ちょっと疲れたからね。百万神の闊歩するべき時は過ぎたのだ」
 「わが神と同じように逝ってしまわれるのですか」
 「なあに。我ら国津の過ごしてきた時に比べれば、火倶土など子供も同然の若輩よ。――まあおまえらからすれば途方もなく長寿ではあろうがな。やつはまだ幼く、ゆえに繊細すぎた。心につりあわぬ巨大な力をもてあましているのさ。いまだ亡くした者たちを思うて泣いておるのよ。だが、天界を出てきたわしらにさえ、彼の嘆きはちとこたえておる」
 珠という珠が、射王に語りかけはじめる。
 「おまえならば慰めることができるぞ射王」
 「おお、かの姫によう似とる。よい相じゃ」
 「導き手もちゃんとおるようじゃからの」
 それらは暖かい一つの光となり、射王を囲った。まばゆさのなかで、射王の疲れ果てていた身体が癒されてゆくのがわかった。
 「射王よ、わしらはの、ただおまえらより長寿で、多少の能力をも持ち合わせただけじゃ。ただの人間なのじゃ。おまえらと同じ生命体なのだよ」
 「神が――間?!」
 「そうよ射王。だからね、我々とあなたたちはいつだって同等なのよ。傷つけられれば悲しむし、血だって流す。己の業ゆえに傷つき悲しむ」
 急速に光の群れが遠ざかった。永遠の別れのように思えた。
 「射王」
 「我らの、もっとも恵み深く生まれた子よ」
 射王は鳴きそうだった。
 地上に生まれでた魂のひとつひとつが、どれほど多くの祝福を受け、守られているか。
 彼らはいつでもそこにいて、いつでも呼ばれるのを待っている。見返りも、愛されることも望まず、ずっとそこにいてくれたのだ。
 一つの魂が光の中から離れた。射王に一直線にはしり、光の手で抱きしめた。
 射王はその手のあたたかさを肌に覚えていた。
 深みで触れあってくる魂が、幸福な名残を心に落とす。涙が、こぼれる。
 この光は――
 「・・・・兄さん」
 射王は目を覚ました。
 自分が異次元の世界に落ちていたことを知った。
 そして触れ合った最後の手が、皇恭の温もりが射王の体にはっきりと残っているのをこんなにも感じてしまう。
 残酷な夢だった。
 でも会えたのだ。やっと、深淵な宇宙の果てで、わかりあえたのだ。
 目の前に大きな帆が揺れているのに気がついた。鉄の心地いい感触。
 射王は浮き船に乗っていた。ジグラットの神殿に奉られていた御神船が、暗い海をひた走っている。
 目を覚ました射王に、覚醒を待っていたかのような声がした。
 「気がついたか射王よ」
 「えっ・・・?」
 船の辺先へ、白い塊が現れた。青い片目でじっと見ていた。
 「ゆ、雪消?!」
 猫の形をした、何か畏れおおい神聖なものだとわかった。大いなる、白い意志だ。
 ある日雪消はふっつり消えた。猫特有の気まぐれかと思い、気に止めていなかった。それがこんな。
 「おまえがここに来るのはわかっていたよ、射王。それが我らの願いであり、道だったのだ」
「道って、ここへ来ることが決まっていたというの?」
 「そうだともいえるし、そうでないともいえる。私はそう望んではいたが、おまえが正しく応えるかどうかは誰にもわからなかった」
 その声は人のものではなかった。射王はその見た目よりずっと大きい存在に息を飲んだ。
 「雪消・・・君はいったい何者なの。人よりはるか高みでものを見る者の言葉を語る君は、誰なんだい」
 「私はね射王、ただの布石だよ。いつの時代にもいたし、いつの時代も示してきた。私は、永号に、未来を見定める時間であり滅びか前進かを選択する契約なのだ」
 「では、神、以上の存在だと?」
 神を見おろすものが遥かにまだいるという。
 強大な神の御力の前でさえ、人間はちっぽけな存在でしかないというのに。天はどこまでも高いのだ。
 「国津はおまえに示したはず、神もおまえらと同じ人間であるのだと。我々からみればこの世の中で生きるものはみな小さく等しい。己の力に絶望し、それでもどうにかしようともがいている愛しい生き物だ。だが、私はただの流れ。それ以上でもそれ以下でもない」
雪消の白い体が、猫の輪郭からはみ出した。
 「もう、終わるか、太初に戻るか人の子よ」
 射王はその言葉にひそむ真意に気づき、身震いをした。
 「まだです!まだ、人は己と戦っている。まだ、心を失ってはいない。――確かに人間はいとも易く増長し我を見失ってしまう未熟な生物かもしれないけれど、でもまだ、生きているんです。今日を愛し一生懸命に生きようとしているんです」
 生きることを愛している。必死で進もうとしている。
 もし憎む人がいたなら、愛すべき人はもっといるのだ。
 雪消であった白いものがにやりと笑った。
 「その昔、おまえと同じことを言った少女がいた。射王、おまえは火倶土に会うだろう。おまえだけがやつの孤独を救える唯一人だ。光りを取り戻せ。人の力で太陽を、人の心を取り戻すがいい」
 船が大きく揺れた。波をかき分けるように空気のすべり速度を増した。
 帆柱が光りはじめた。船を包んだ。長船がぴったりと納められているのがわかった。帆が開き比翼が両脇からでてくる。
 「これは?!」
 「長船の威力が増幅してきたのだ。あれは刀の形をした結晶石だ。使い方を間違えればこの地球さえ壊してしまいかねない原子の力を秘めている。だがこうして次空を歪めて飛ぶこともできるのだぞ」
 「そんな恐ろしいものを持っていたのか?」
 「愛しているわ」
 「えっ、母さん?」
 白い光りが一瞬間だけ、射王によく似た美しい女性の姿となり、消えた。
 それっきりだった。
懐かしい塩の香りだった。瀬戸の海だった。
 太陽はやはりなく、夜でもない昼でもない薄闇がひたひたとどこまでも続いている。
 本来ならば、朝焼けの七色の光のなか、漁船が行き交っているはずの時刻なのに、一舟の船もいない。
 浮き船は、海の上を水に触れるか触れないかに浮きあがり走行してた。
 完全に自己制御されて、どこへ行くか、意志をはっきり持っているように進んでゆく。
 射王はぼんやりとしていた。
 生まれてこの方こんなに静かな気持ちになったことはなかった。もしかしたら、人間がこのまま太陽の顔も見ずに終わるかも知れないことも、残してきた吉備の民が温羅のことも、過去のことのように忘れ、穏かに海をみつめていた。
 海神の御手にこのまま眠ってしまいたい。
 ――射王。
 風がそっと呼びかけた。
 ――射王、あの子を捜して。心を伝えて。
 悲しげな声。
 「讃良?」
 讃良であった残留がいまにも消えそうにゆらぎながら、前方の児島を指差している。
 影が泣いているように思われるのは、彼女が後悔に満ち溢れてるからだ。
 ――まだ、あの子を抱いてやってないの。まだ言ってやってないのよ、愛してるって。ごめんなさいっ。ごめんなさい坊や。……お願い、射王、お願い伝えて。
 生まれてすぐ、連れ去られた、幸薄き小さな嬰児が思いだされる。反応の薄い目、腕のない両の肩。
 「讃良、わかっよた」
 射王がうなずくと、讃良は微笑み煙のように散り消えていった。
 船は舵をかたむけた。讃良の心に触れたように児島へ向って滑った。
 人影の少ない痩せた孤島まではすぐだった。
 目前に広がった痩せた土地は、塩の含まれた緑の恵みが薄そうなところだった。
 射王は海岸線間までくると、砂浜へ降りたった。
 淋しい風景は、児島で生きる人々の生活がどれほど苦しいか語っている。
 略奪で賄わなければ生きることもできない。だから彼らはいやがおうでも、行き交う船から糧を得ているのだ。
 射王はかすかに聞こえてくる子供たちの声の方へ足をむけた。
 近くまでいかなくとも、大岩の向ではやし立てているそれが、口卑しい罵る言葉であるとわかった。
 その言葉は、射王の幼い頃を思い起こさせるようで、たまらなくさせてしまう。
 「おまえが来てからろくなことがねえって、父ちゃんたちも言ってるぞ。太陽が隠れちまったのも、水蛭子(ひるこ)、おまえのせいだってな」
 「そうだよ。おまえは生まれる前にとんでもなく悪いことをしたからそんな醜く生まれたんだ。ババ様が言ってたぞ。神に呪われた厄介者なんだ」
 言いながら手に棒や石を持ち、うずくまった子へむけて何度もふり下ろされている。
 「酉坂(とさか)のおっちゃんだって水蛭子みたいな養い子、死んでくれればいいって言ってるぞ」
 「ごくつぶし、ごくつぶし。両の手がなきゃ畑も耕せない、漁にも出れない疫病神のできそこない」
 やんやと囲って殴りつける。
 殴られるその子は抵抗しようとさえせず、ただ淋しそうな小さな目を、憐れむように向けている。嵐が通り過ぎるのを待っている。
 息がつまった。一目でわかる。あの子だ!
 「やめろ、おまえらやめろよ!」
 射王は飛び出した。水蛭子を抱えた。
 子供たちはわっと逃げた。
 だが中の一人の少年は引き返すと不平の表情で、射王に怒鳴るように叫んだ。
 「なんだよてめえ。よそ者じゃねえか。よそ者が俺達の島ででかい口たたくな。あっちいけよ。こいつがいるから、俺たちの島がおかしくなったんだ。こいつは鬼なんだよ」
 「それはちが――あっ!」
 少年が石を投げた。射王の頬をかすめた。
 彼の苛立った顔がきつく歪んでいる。
 「神はもういなくなったんだ!島の巫子様がもうおしまいだって言ってた。だからなにしようと俺らの勝手なんだ」
 「それは違う!神は、いるよ。今は隠れてしまっているかもしれないけど、必ず出てきてくださる。こんなことをしていたら、本当に神が消えてしまうんだ」
 「うるさい!おまえらみたいな身成りのいい都もんに俺らの暮しの何がわかる。お天道様もいない。作物も魚もとれない。俺らは死ぬしかないんだ。どうせ水蛭子なんか役に立たないんだ。こんな奴、最初に死ねばいい!」
 射王の胸に言葉のつぶてがつきたつ。彼らの側には常に死がある。
 「そんなこと言っちゃ駄目だよ。人が人を思いやる心を忘れてたらだめなんだ。どんな姿をしていてもどんな醜いと思われる心の持ち主でも、必ず生きている意味はあるんだよ」
 少年たちの中にあるのは深い絶望。ひそんでいるのは飢えと貧困。
 あす死ぬかもしれない海賊家業は、未来の中に死が含まれている。
 うずくまっていた水蛭子がやっと動いた。
 手のない体をよじり、いも虫みたいに這う。その少年の足を頭でつついた。
 じっと見上げた小さな目は、視力があるのかないのか不思議な色合いがあった。
 怒りでもなく憎しみでもない、穏やかで深い慈悲の色。
 「な、なんだようるせえ。そばに寄るな」
 少年は水蛭子を力に任せて蹴った。転がる子水蛭子に、射王はおもわず駆けより抱き起こした。
 一緒に少年を見るのに、少年はにわかに脅えたような表情をした。
 化物を見るように二人を見て、泣きそうになりながら走って逃げた。
 射王は紫色に晴れ上がった水蛭子を抱きしめた。ぐったりとはしていたが、知的な表情で射王を見返した。
 姿が異なって生まれたばかりに、両親にも抱かれることもなく、喜びの声も聞かずに連れさられてしまった。
 この子が、こうして、やはり皆に疎まれながら生きてきたことに絶えられないほどの痛みを覚える。
 水蛭子はあの少年を見たのと同じ瞳で射王を見ていた。哀れみではない慈み包み込む目だった。幼い命が乗り越えてきたのは、痛みと汚れではなく、浄化だったのか。
 「もっと早くに来てればよっ――ごめんね」
 水蛭子は首を振る。声もまた、彼は持っていなかった。顎で射王の頭をつつく。慰めるように。
 「一緒にいこう。神に逢いに船に乗ろう」
 射王は水蛭子を抱え、船に戻った。
 癒しのオーラを与えながら、水蛭子の痛むであろう体をみて射王は目をそらせた。
 いたるところ、幼いころから受けてきた傷跡がくっきりと残っている。
 「おまえの母様がな、ごめんって。抱いてやれなくってごめん、愛しているって」
 射王は水蛭子の髪を撫でた。
 「みんな、あの時は狂っていたんだ。心が病んでいたんだ。本当はおまえの母様は誰より美しく気高く心根の優しい方だったんだ。父様も本当にいい人だったんだ・・・だけど」
 射王がうつむいた。
 何を言っても言訳にしかならない。どう伝えていいのかもわからない。言葉ほど心が伝えにくいものはないのだ。
 水蛭子の唇が動く。ゆっくりと言葉をかたちどる。それでも、生きて会えたから、と。よかったのだと。
 水蛭子は笑っているように見えた。射王は泣きそうな顔を水・子の小さな胸に押し当てた。許しの神はこんなに近くにいた。
 「ありがとう」
 射王は水蛭子から伝わる優しさに讃良を感じた。よく似た波動をしていた。澄んだ彼の中の意識に潜り、楽しかった過去を、讃良の心を水蛭子にあけ渡した。
 船は滑るように進んでいた。
 船と水蛭子は同体であるかのようだった。船は水蛭子という一部分を取り戻し、流れに乗ったようだった。
 次第に海の色が青に混じって緋色を帯び、海の磁場が赤銅色に強まっていった。
 穴がぽっかりと浮いていた。ぽっかり、としか表現しようのない開き方だった。
 エネルギーの流れがまっすぐ吸い込まれていた。勢いをとめることなく、船は穴へと向かってゆく。
 「瀬戸の穴海とは、本当に存在しているものだったのか」
 幼い頃、温羅の家で乳母が語る昔話りがおもしろく何度も聞いていた。その中に、瀬戸の穴海の話もあった。
 瀬戸の海には、神の国にいたる穴がどこかへ開いていて、それを見つけられるのはとても好運な者か、神の導きのある者だけだとういう。何千年かに一度、その扉は開かれ、神の国へ招かれるのだ。
 たいていの人間は時の経つのも忘れてそこで暮し、ふと戻りたくなったときには時間に置き忘れられてしまっているという。
 船は開いた穴の中へ淀みなく滑っていった。
 湿ったような柔らかな空間だった。人間世界の秩序から船を切り離していった。
 空気が薄くなり、骨がばらばらになりそうな痛みに背骨がきしんだ。理性も感情も奪われ、ひたすら無が浸してくる。
 その空間にただよっていた人々の気配が、射王の中を通り過ぎていった。
 光陰を残し、矢のように先へ進んでいった。
 複数の声が射王を呼んでいた。女性のまろやかな声を射王はぼんやり聞いていた。
 ――射王。
 初代の巫子姫、楽々森だった。
 原初、神と交わり神の子を産んだ彼女の横には讃良が立っていた。
 歴代の巫子姫たちが見守り、そのなかには摩釉の姿もある。
 ふっと消えた。次の瞬間、息を飲むような美しい姫神の姿が現れた。
 火倶土神の姉であり、恋人であり、たった一人きりの理解者だった大月姫。
 射王を見つめる瞳があまりにも綺麗なので灼かれるようだった。射王は息が止まる。
 赤い、射王と同じ紅玉石の目がふたつ、淋しさに揺らいでいた。
 「どうしてそんな悲しそう顔をなさるのですか大月姫」
 姫の瞳の向こうに、小さくなって膝を抱いている少年をみつけた。
 初め射王は自分かと思った。だがその少年が発する大きな力は大きすぎる。エネルギーから特別なものを感じる。
 力は孤独を呼んだ。理をはずれた火と光の威力が、母を亡くした。父といわず兄弟、側近部下までもを遠ざけた。
 射王はその少年が誰だかわかった。
 自分に似ている後ろ姿。吸い込まれてゆく。
 愛している。心が、大月姫とかさなる。
 そこにいるのは深い心根をもった、人一倍傷つき痛んでいる少年――火倶土なのだ。
 天津の神にも恐れられ国津の神にも混じれず、人としても生きてゆけない孤独の神。
 乱れてゆく民をみつめていた。
 愛し守ってきた己の末が、醜く争い、互いに剣を合わせて同胞の命をその手で奪ってゆく。
 神はいつも問うていた。これでいいのか、与え守ることは本当に正しいのかと。
 大月姫の瞳が閉じられた。少年の姿が消え、射王が戻った。
 月姫の麗稟とした姿が二重にぼやけた。姫のうえにもう一人の女性の顔。
 同じ相貌。同じ魂――華夜の顔だ。
 「母さん?・・・どうして?」
 華夜は射王を抱きしめた。
 小さいときから望んでいた母の温もりを、いま、射王は与えられている。
 だがその温もりをすでに、自分は知っていた。与えられ、抱きしめられていた。
 讃良のぬくもり、摩釉の抱擁、そして杜璃の柔らかい手。
 抱きしめるすべての手の中に、母の抱擁は存在していたのだ。いつだって、彼らに包まれていた。
 「母さん。母さんがそうだったの?大月姫の生れ変りだったの?」
 すべてはそこで成就されるはずだったのに、たった一人の人間のために、運命は狂った。
 ――いいえ射王。私はおまえを産むためにあった一つの運命の流れにすぎないのです。
 「僕を産むために?」
 ――多くのものが火倶土を、おまえを愛している。おまえが半陰陽であったのも、最も神に近い神聖な体をもつ証。雌雄同体は、男と女の気持ちを受け取ることのできる完璧な身体。地球と時間のいたみを感じ取れるただ一つの大切な受容体。
 そして、もう一つの布石。
 大月が射王に流れた。射王の中に全ての真実がはいりこみ、射王の魂と一つになった。
 火倶土への愛が、彼女たちから射王のものへとなっていった。それ自身が射王だった。
 射王は目を覚ました。
 そこは森だった。
 滝が流れていた。大きな岩が切り立って、岩棚を造っている。
 人の、生き者の存在をなに一つ感じさせないひそやかな時のうつろい。
 息の濁りさえなくただひっそりと木草や鉱石たちが永遠をむさぼっているかのようだ。
 「ここに、神がいる・・・?」
 滝のほとりの岩屋からもれてきている巨大な力。射王はなにより愛しいと感じていた。
 誰よりも近くにあり、より親しく思われる。
 閉じられた岩戸がどのように大きくあっても、火倶土の宇宙をしのぐ膨大な力を隠しきれない。
 岩屋の前まで来て、射王は脇の大きな一枚岩の上に倒れている水蛭子を見つけた。
 「水蛭子!」
 駆けつけた時にはもう、水蛭子はもう、息はなかった。
 穴海の空間で、次元を越える圧力に、水蛭子の弱った体では耐えきることができなかったのだ。
 「なんで・・・こんな・・・」
 こんなところに来てまで、運命は彼を救ってくれなかった。
 なぜ最後まで苦しみは彼を離さない。
 誰より幸せになってほしかった。
 幸せという意味が、本人にとってなにをさすかはわかりはしなかったが、それでも誰よりも幸福に笑っていてほしかった。
 「連れて、こなければ、よかった?」
 ――違うよ、射王。
 「水蛭子?!」
 ――僕はこうなるためにここへきたんだ。あなたとこの地を訪れるとは決まっていた。
 でも選んだのは僕だ。僕は自分の意志で、人々の罪業をこの身に受けて死んでゆく。清めるために死んでゆけるんだ。
 ――ああ、僕はやっと父さまと母さまの御許へゆけるんだ。やっと母様に会える。落ち着くことができるよ。
 ねえ、だから悲しまないで射王。みんなの役に立てたのだから。僕は嬉しいんだよ、泣かないで。
 ――射王、神の心を救ってね。時間を進めてね。愛を、ありがとう。あなたの優しさを忘れないよ。
 「水蛭子!」
 水蛭子の意識であったものが射王にくちづけた。暖かさだけを唇に残し人々の犠牲になることも厭わず、魂の帰るべき場所へ戻っていった。
 射王はしばらく水蛭子の骸を抱きしめうずくまっていた。
 すっと立ち上がるとおもむろに服を脱いだ。
 一糸まとわぬ、産まれたときそのままの姿となり、ためらいもなく、岩屋の前に躍りでた。内からわきあがってくる音楽とともに舞いはじめた。
 思いがとめどなく溢れた。豊かで尽きることのない永遠が、熱い情熱と化しほとばしっていった。
 憑かれたように体を動かし、雌雄の結合した神々しくも、あられもない姿がしなやかに岩間を躍動する。
 神を愛していた。
 人々を愛していた。
 何もかもが、愛おしい。
 射王にはもう悲しみも苦しみもなかった。
 踊りが自分であった。体を動かし祈り歌い、射王はやっと神に対峙することができるのだ。
 産まれ出た。
 ようやく、いま長い長い時間をかけて産まれ出てきた。
 何度も迷い、これでいいのかこれで本当によかったのかと、孤独に狂いそうになりながら問続けた。
 ときには愛を忘れ、ときには止まりのつかぬ激情に翻弄されながら、やっとここまでたどりついた。
 狭く苦しい産道を終え、やっと産まれ出た。
 いつのまにか、そばに踊るものの気配を感じていた。
 それは神の姿であった。
 射王は驚いた。神が現れたことではなく、神が自分に似すぎていることに。
 赤い髪も瞳も、そしてその体までも、彼らは似すぎている。
 神は射王の踊りに会わせ、自らも服を脱ぎ裸になっていた。二人はやっとめぐり会えた半身のように身を寄せあった。
 男と女と半分ずつ持ちあわせた彼らは、男でも女でもなく、ましてや神でもなく人でもなかった。二人で一つの輪のように円くなり、肌と肌をよせあった。
 射王は火倶土の腕の中に抱かれ、時の支配を断ち切った。
 やっと探り当てた居場所だった。
 火倶土は、射王の中に大月姫や華夜を、彼を愛した多くの巫子姫たちを感じた。
 射王は火倶土に皇恭や温羅そして愛してくれた、はかなく散った少女たちの純粋な夢を見た。
 ――ここに、いたんだ。
 どちらが言ったのか。
 幸せそうなため息がもれた。
 射王は火倶土のくちづけを受けた。
 そして言った。
 「憎しみや孤独からは何も産まれなかった。造り与えられたもので残ったのは、すべて愛によって生産されたものだけだ。どんな豪華な生活も、まばゆいばかりの宝石も、どれもがほんとうの自分じゃない。それは自分のものと錯覚しているにすぎない大いなるものからの借り物だったんだ。それを人間は誤解し、間違えてしまった」
 「そう。そして我らが種族もだ。この力さえ我がものではないというのに、奢り高ぶり、人の命の末までにも手につけてしまった。私はそのときに終わりを感じたのだ。だが射王よ、それらは息を吹き返すほどの執念をもって甦えりつつある」
 射王にはわかっている。
 「あれらは、まだ我らよりもっと大きな存在に操られている。人間がこのままの醜い心で増長し、自分たちのことしか考えられなくなったなら、きっとそれらは終わりへの頂点に達するだろう。人の世はそのときに終末を迎えるのだ」
 射王は起き上がった。真剣なまなざしで火倶土に言った。
 「それを食い止める方法はもはやないのですか。人は、どうすればいいのです」
 「今はまだだ。まだ、私の力は、破壊する力しか持っていない。時の流れは、破壊の後に再生を運命づけた。再生の力を得るにはあと三千年、眠らねばならない」
 火倶土の赤い目が射王の赤い目を見つめた
 「私が眠っているその間、人間は自分たちの力で邪神の復活を食い止めねばならない。心を清くして、互いが互いを助け合い、和合することで進まねばならない。吉備とも大和とも手を取り合え。今のようにいがみあっていては邪神どもの思うつぼだ」
 ふと火倶土の表情が和らいだ。
 「射王よ」
 「はい」
 「――おまえの中には、きっと私の命が宿っているはず」
 射王ははっとして自分の腹を撫でた。
 「私はおまえたち人間を本当に救うべきかどうか迷っていた。だから眠りにつくことをためらっていた。だが、私の子が宿ったいま、私は覚醒のための眠りにつくことを決めた。私の子孫が次の世でも、この世界をより一層善くしてくれることを信じて、いまひとたびの眠りつこう」
 「火具土・・・様」
 射王は火倶土の暖かい抱擁を受けながら、これが今世での最後だと知った。
 「射王、次の世でも必ずそなたと出会う。そのときは、必ず我がもとに来い」
 「はい必ず――必ず馳せ参じます」
 神のまわりに白い繭が紡がれていた。
 白銀の艶やかな光の中にその姿は消えていった。
 射王は立上がり腹を撫でた。帰らなくては。
 船はいつのまにか待っていた。準備はすでに整っている。
 乗り込みながら、射王は一度だけ、その繭を振り返った。
 「さあ行こう。――未来へと!」
 射王を乗せた船はゆっくり前進をはじめる。
 彼を産んだ吉備の里へ、瀬戸の穴海にむけて、快走に進みだした。


                                                      おわり
 
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