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炎の血脈

6



 射王は服を脱いだ。胸に巻かれたさらしを解くと、なだらかに盛り上がった二つのふくらみが現れた。
 白く張りのある肌がうっすらと紅色にいろづいた。艶めかしさがただよう。
 射王は薄手の服に手を通した。体の線がはっきりと強調されてどこか淫・だった。
 髪をまとめ高く結いあげると、山鳥の青い羽の飾りをつけた。鮮やかな丹を唇に指しおえると、長い睫の奥の赤い瞳が誘惑的なまでに潤んでいる。
 絶世の美女と称されても偽りにはならない。
 金屋子翁が見たならばさぞ喜んだだろう。まさに愛娘であった華夜にうりふたつなのだ。
 なよやかな大人になりきらぬ少女の性が、青い果実のように匂っていた。姿のかよわさにくらべその目に燃える怒りは、夜・のごとく強靱である。
 琵琶を手にもち、懐に刀をしのばせた。
 丘陵からみおろす大和の地は、赤土と石ばかりしかない痩せた土地ばかりだった。一見して知りえることは、天津の神とは、かくも厳しい試練の神だとういうことだけだった。
 「なるほど、これ故に吉備が欲しいわけか」
 人々の徴税に疲れた顔も無気力な動きぶり。
 想像はしていたがこうまで病んでいたとは。
 射王はまもなくとり行われる、大和王の誕生祭に、踊り女として紛れ込むつもりだった。
 王城のなかに次々と吸い込まれてゆく芸人たちが、にぎやかに過ぎている。
 どれもこれもあでやかに着飾り、我こそはと華々しさに勇んでいる。射王はため息をつき、着慣れぬ服を着た自分の姿をかえりみる。
 「あんまり目立たないかな。もっと服を薄くした方がよかったかもしれないなあ」
 「もう充分よ。それ以上あらわな格好をしたら、兄さんが憤死しちゃうわよ」
 摩釉がにやりとし、目の前に腕組んで立っていた。
 「まっ、摩釉?! 」
 「射王、今度はついていくわよ。誰がどう止めたって無駄なんですからね。それに、ほら、みんなも、あんたを手伝いたいって」
 摩釉の後ろから男が四人転がり出てきた。
 「ひ、射王様。どうぞ我々にも手伝わせてください。足手まといにはなりません」
 「私は以前、射王様に子供の足を治して頂きました海の民の越水(こすい)と申します」
 「私は焼物師の相模(さがみ)です。笙が吹けます」
 「千歳です。鼓が、少しですが打てます。どうぞお連れ下さい」
 「あなたたちは・・・」
 たしかに見覚えのある顔だった。
 祈りの里で巫女らしきことをしていた時、射王が病や疫災を取り除いた者たちだ。
 彼らはいたく感謝し、神を拝むようにして射王を拝み帰って行ったのを覚えている。
 摩釉がびっくり眼の射王を笑っていた。
 「みんなあなたの役に少しでもたちたいって言ってるのよ。それぞれ何かしらの芸があるし、私も剣舞が踊れるわ。これで充分芸人集団に見えるんじゃない?」
 よくみると、彼らも、それぞれに劣らず奇天烈な格好をしていた。摩釉も射王に合わせ、鍛えられた隆美な肉体をあらわにしている。髪まで赤く染めている。
 「だって、危険なんだよ。みんなの命の保障はできないんだ。そんなこと」
 「はなから承知の上よ。いいこと射王、あんたはいつも自分から危険に飛び込んでいってるからわからないだろうけど、それをいつも見てなきゃならない私の気持ちがどんなだか少しはわかって。何の助けもできないってことがどれだけ辛いか。私、私ね、あなたが――」
 摩釉は言いかけて、自嘲気味に息を飲んだ。
 「とにかく、どうあってもついていくわよ」
 「我々も同じです射王様。あなたに救われるまで、私たちは自分で努力するということを忘れておりました。意のままにならぬからといって他人のせいにして頼るばかりだったのです」
 「やっと気づきました。これからは我々が行動せねばならないことに。そう気づかせてくれたのは温羅様ですけど、決心させたのは射王様、あなたです。手伝わせてください」
 白髪の相模とまだ年若い越水が前ににじりよった。射王の表情がふっと緩んだ。
 「ありがとう。そんなに言ってもらえて、すごく嬉しいよ。本当いうと、一人で乗り込むのは難しいかなって思っていたんだ。でも俺はきっと自分のことで手一杯で、自分ですら生きて帰れる保証はない。それでもよければ、ぜひ、お願いしたいです」
 本当に、生きて帰れるかどうかわからない。誰にも自分の為に死んでほしくない。
 だがみんなの意志は固かった。
 「もちろんわかっているわ。兄さんの許しも出ているんだし。でも射王、せっかくおめかししたんだから『俺』だと、ちょっとまずいんじゃない、やっぱり」
 摩釉の指摘に射王ははっと気づき、本当だと言って赤くなった。
 その様子に笑いがもれた。その場の緊張がほんの少しほぐれた。
 射王たちは派手ないでたちに身をやつし、いかにも芸人一座をきどると、にぎやかしく王宮へ連れだった。一番年輩の相模が座長を務めていた。
 相模は芸人を選別している番所へ顔をだすと、したり顔で王の祝いの口上をのべた。
 何をおいてもと思い、慌てて駆けつけたのだと語り袖の下を忍ばせることも忘れない。
 役人のもってまわった検分に、一団みんなで笑みで答えた。楽しそうに王の祝いの詩を唱うと、射王は琵琶をかきならした。
 下卑た目つきの役人が射王に目を止めた。上から下まで舐めるように眺めまわし、ほうっとうなった。
 射王は流し目で優美に微笑んだ。
 「これはわが一座の舞姫にございます。見ての通りの美貌にくわえ、この世のものとはとは思えぬ舞を披露いたします。ええっと、もちろん、あちらのほうも妙技をもっておりますので是非、ご検分を」
 相模が喉を下品に上下させると、門番は意味を解して射王を無遠慮にながめまわす。
 「おまえらちょっと待ってろ」
 いうなり席をはずし、しばらくして、髭を豊かにたくわえた、見るからに好色そうな壮年の男を伴ってきた。
 男はみるなり思惑ありげに目を細めた。
 「ほう、この娘か。ふむこれはかなりの上玉ではないか。隣の娘もなかなかよさそうだし。めずらしい髪の色だな。姉妹か?」
 「両名とも、舞がまえるそうでございますよ。それに、これ次第ではあちらのほうも」
 「なるほどこれなら王もお気に召すであろう。これほどの美形、いや、掘出し物だわ」
 満足そうに髭をたくり言った。王の夜伽の相手をみつくろうのも彼の重大な仕事なのだ。
 五百木(いほき)は射王の顎を掴みつくづく見つめた。
 「本当に赤いな。魂が吸いとられるような美々しい赤だ。そなたまこと人間であろうな」
 「はい。幼少のおりに、病にかかりまして、このような目の色になってしまいました」
 「妹の申す通りでございますわ、旦那様」
 答えた摩釉に、百木は視線で体をすみずみまで眺めると、胸の膨らみに舌を舐めずった。
 「よしいいだろう。楽しみにしておるぞ」
 「へえ、ありがとうございます」 
 相模が腰低くへつらうように手を揉んだ。射王と摩釉は笑みを浮かべやったと見交わす。
 五百木に連れられ、彼らは控えの間に行った。すでに芸人達がかなりの数で集まっており、各人、用意に専念している。
 どの娘も若者も、選りすぐられた見目よい美しい者ばかりであった。年配の者も一目でわかる妙練の楽士か技師だ。
 射王は横目で周囲を伺った。警備も祭に浮かれてか、かなり手薄そうな感じである。
 「なに?!あれは御友別じゃないか」
 低く漏らした。摩釉が射王の言葉に驚いた。
 「こんなところになんで奴がいるのよ」
 皇恭の側近であった御友別が、まるで自分の女を選るように物色している。
 「ヤツめ、大和とつながっていたのか!」
 ぐっとこらえる射王の手を、摩釉が靜めるように握る。射王は摩釉を見て自分を殺す。
 わかっている。こんなところで雑魚にかまっている暇はないのだ。
 「おまえら何をしている。こっちだ」
 五百木の声に相模が愛想笑った。
 「へえどうも。みな田舎育ちでして、見るものが珍しくって、どうも興奮しているようで」
 「まあそうだろうな。大和王の侵攻力はずばぬけているからな。土蜘蛛しかり隼人しかり、蝦夷、熊襲、国栖、筑紫、八束――国津の神を信仰している未開の野蛮人を次々に征服し、尊き天津神様への改宗を導いておるのだ。そのぶん恵みも大きい」
 そうして、あの昂然とした親しみ深い国津の神々を、愚にもつかぬ正義の名のもとに殺害し続けてきたのだ。
 「ここがおまえらの部屋だ。宵の宴には、王の御前で踊ってもらうからな。万端に用意をしておけよ。特におまえ、わかっているだろうな」
 念押しされ射王は曇りない笑顔でこたえた。
 「ふう、なんとかうまくいったわね」
 行ったのを見届けてから、摩釉が息をついた。いつのまにか汗をかいている。
 「相模のあのいやらしさ、板についていて、よかったよなあ」
 「なんだと?人の苦労もしらないで」
 「まあまあ。けどさすが射王様だったよなあ。すけべじじいが一目でころりと気に入ったんだもの」
 お互い安堵の息を漏らし歓談している。
 だがこれからが本当の勝負だ。
 ほとんど閉じ込められたような小屋の中で、半日間待たされた。日が傾くにつれて、賑やかさが増し空気が色濃くなっていった。
 「おい出番だ」
 迎えが来たときには、すっかり夜だった。射王達は装いをすませ、昼間にもまして美しさをひときわ輝かせていた。
 芸技を商うもの特有の艶さとどこか違い、美しいものなど見飽きた貴族たちの目ですら魅きよせずにはいない。
 射王達が顔をだすなり、ほう、と吐息があちこちから漏れるのが聞こえた。
 五百木の得意顔のなか、相模の口上が述べられ、ほどなく音楽が流れ出した。
 まず摩釉が躍りでた。猛々しくも美しい剣舞だった。本物の刀は握ってはいなかったが、迷いのないはつらつとした女体が雄々しく舞う。人々の歓心をかっている。
 大和王の退屈そうな目がめずらしく向けられた。ひらひらと綺麗なだけの舞いには飽き飽きしていたのだが、摩釉の力強い生命の息吹を感じる踊りに多少興じはじめている。
 音楽がいきなり止まった。
 みなハッとそれを見た。
 布にすっぽり覆われていた射王が、空を舞うように踊りでる。
 白い布が、羽のようにひるがえった。天女の降臨のごとく射王が身軽く舞いあがる。
 氷が張ったような靜けさが広がった。
 皆が沈黙し、美しさを越えて神秘的ですらある一点に、意識が集中される。
 射王の体は人とは思われぬように優美に動いた。音が跳ねているのか射王が跳ねているのかわからなかった。
 それは神への舞いだった。人々が一生のあいだに見ることが叶うかどうかわからない、吉備王の即位式のときのみに奉納される、神聖な魂振りの踊りだ。
 大和王が前ににじりよった。神技の妙なる美しさに我を忘れ、小馬鹿にしたようだった相好が崩れていった。
 射王は悠然と王の前に進みでる。見えそうで見えないところまで体をしならせ誘う。
 肩袖を脱いた。小さな胸が現れた。白い目に痛むような白さが踊りにあらわれる。
 だれしもがその美しさに息を飲んだ。人々の耳から楽の音色が消え、射王だけが残った。
 射王の赤い目が笑った。
 捕らえた。完全に王を。
 醜い我欲が射王に絡めとられた。魅いられた哀れな獲物を、後は誘うままに狩ればいい。
 漏れる勝利の笑みに、射王はなぜか異質な視線を感じ振り返った。おりなす幻想の糸に惑わされていない、ただひとつの視線。
 楽の音がとまり踊りが終わった。
 だがもう、その視線は消えていた。ただ居たであろう場所の空気だけが、周りの興奮したものとは違い、天津の民の独特の質量感を欠いて色褪せていた。
 ワッと拍手が押し寄せた。射王は我に戻った。蒼月の照返しのように微笑むと、優雅に一礼した。
「そのような美しげなる舞い始めてみたぞ」
 王の手招きに、射王は服を着ると前に進んだ。王の手の中に頭を垂れ、王は射王の顎をつまみ上げると撫でるように手を這わした。
 「このような精妙なる踊り女が埋もれておったとはな」
 五百木が満面の笑顔で隣から耳打ちをした。
 「話はついております。今宵はご存分にお楽しみくださいませ」
 王は蛇のような執念深さで射王をながめまわし、満足げに遠慮なく肌の感触を楽しんだ。
 「よい宝石じゃ。今宵は我がもとに参れ」
 「御意のままに」
 射王は頭を下げた。
 ふと目を上げた先のものに、体がこわばった。王の背後に掲げてあったのは神像だった。
 それは幼きあの日に、ジグラットで夢にみた天照とその弟の月読の顔にあまりにも似すぎていた。しかも厳しい顔をした天照像の右の手にはいくつかの首が握られ、左には紫水晶がある。
 「何を驚いておる」
王は背後の像を見て笑った。
 「ああ、これか。これはわが天津神の御神像だ。その昔の大いなる戦いで顔を焼かれ、それを修復するために邪神である国津神を狩り、復活に備えておるのじゃ」
 「国津神の、首を?」 
 「まあ言伝えだがな。我が神は奪う神だ。むろん正当なる所有物を返してもらうだけだ。なんだ怖いのか、まあおまえのようなたおやめ女にはちとこの姿は強烈であろうかのう」
 くくっと喉を鳴らし青ざめた射王の顔を、愛いやつだと撫でた。
 だが射王はその話が事実であったと知っていた。狂った女神、天照はさらに多くの血を、いまもまだ望んでいるのか。
 射王たちはそのまま座を引いた。
 「おい、おまえとおまえ。女二人は風呂に入って身繕いをしておくようにとのことだ」
 「私もか?」
 思わず摩釉が聞き返した。
 「ああ聞いてないのか?五百木様がおまえがめっぽう気に入たそうでな、せいぜい取り入っとけ。尻でもよく振っとけば、妾ぐらいにはしてもらえるかもよ」
 黄色い歯を見せて男は下品に笑った。
 だが射王をみる目にはなぜか憐憫の情がありありとうかがいしれてしまう。
 「こんなに若くて綺麗なのにな・・・可愛相に」
 射王と摩釉は顔を見合わせた。
 「とにかくだ、あっちに風呂がある。ぴかぴかに磨いてうんと綺麗に着飾っとけよ。まあ、すぐに脱がされるんだけどよお」
 男は湯浴み用の離れまで連れて来てそう言った。射王は男が行くのをみはからうと、ひらひらした服を乱暴に脱ぎ捨てた。動きやすい衣服に身を包んだ。
 華奢な少女から男の顔にかわる。
 「摩釉、俺は讃良を捜してくるから、帰るまで上手くごまかしといてくれよ」
 「わかっている。でも一人で大丈夫なの?」
 「ああ心配ない。讃良の気配なら誰よりもすぐわかる。俺のオーラとかさなるからな」
 「ふーん。誰よりも、ねえ」
 摩釉は気に入らなさそうに言った。
 「な、なんだよ」
 「べえつに。そりゃあね、あんたは祈りの里で一緒に修行した仲だろうけど、私だって小さい頃からずっとあんたと育ってきたんですからね。兄弟みたいに、ううん、もっとずっと大切に思ってきたわ。なのに、あんたときたらいつも讃良、讃良って特別みたいに言って。ねえ、射王、少しは私のこと考えてくれることがあるの?」
 「な、なにいってんだよ。当り前じゃないかそんなの。急に、どうしたんだよ」
 「じゃあ言って。私と讃良とどっちが大切なの?どっちが好き?」
 射王は目を丸くしてから、ふてくされたようにそっぽを向いた。
 「そんなの――そんなの、比べられる訳ないじゃないか。摩釉は、俺にとってはいつでも安心できる存在だ。いつも俺の側にいてくれてどんな時も味方してくれる。だから俺はいつでも甘えていられるんだ。無茶だってできてしまう。だけど讃良は、彼女は・・・・」
 讃良の存在は一言ではいいつくしがたい。
 姉でも妹でもなく、恋人でもない。母への思慕を受け入れさせてくれ、孤独から人の輪へと射王を導いてくれた初めてのひと。
 明るくきらきら光る彼女の笑顔はどんなに大きく射王を支えてくれていたことか。
 そしてこの手の中に守りきれなかった。
 母の歩んだ人生に彼女は似ていすぎる。
 「守れなかったんだ。俺が――苦しめ、追いつめた。だから俺は」
 絞り出すような声に、摩釉は辛そうに顔をよせ、そっと射王の頬にくちづけた。
 「摩釉?」
 「私が、いつも心配していることだけは忘れないで。いつも願っている。あなたの好運を、幸せをずっとずっと願っている。私は誰よりもあなたのことがす――」
 真剣な顔で言いかけたが、にっこり笑った。染み入るようなまぶしい笑顔だった。
 「早くいってらっしゃい。怪しまれるわ」
 「うん、ありがとう。摩釉、俺、摩釉のこと大好きだよ。大切な家族だと思っている」
 「ええ、もちろん、私もよ」
 摩釉の笑みが一刹那だけ曇って見えた。
 射王は何か言うべきことがあったような気がしたが、押し寄せる時間に流され、そのまま出て行った。
 辺りの人影をうかがいながら、射王は心の中で讃良の名を呼び続けた。建物の陰から陰へ走っていった。人の気配はない。
 感覚を周囲に伸ばそうとしたが、すぐに断念した。
 大和城の空気はねばつくように腐食していて、過敏な神経には耐えられない。この感覚は、そう、吉備の王宮での感覚に似ている。
 「どこなんだ、讃良・・・・」
 思った以上の空気の淀みが、過敏な射王の神経を逆立てた。
 どこかに閉じ込められているのか。それとも弱り果て気が萎えているのか。あせりが先行してくる。
 「おいおまえ!」
 鋭い呼び声に、射王はぎくりとした。胸の刀に手をやってから、振り返る。
 「何をして――おまえ!なんでこんな所に」
 「・・・・!」
 その顔、忘れもしない五十狭彦だ。
 黒媛の後ろに影のように控えていた、讃良を犯したあの時に、結界を張った。
 射王は顔をふせた。
 「あの、わたし、どこかよくないところにでも入り込んでしまったのでしょうか」
 「王の聖域だ。おまえのような者が来るところではない」
 「申し訳ございません、物珍しさに、つい」
 射王はあくまで迷ったのだとしらをきり通そうとした。長い睫を震わせうっとりするような細い首をおとす。
 だが五十狭彦は冷たく射王を見据えた。
 「俺はてっきり讃良姫の居場所でも、捜しているのかと思ったのだがな」
 グッと手を握った。いっそ騒ぎが大きくなる前に殺してしまおうか。
 だが、まだ目を潤ませ演技を続ける。
 十狭彦の顔は射王の頭の三倍は高い。上から押さえつけるように瞳を覗き込んでくる。
 「その目、大病をしたと言っていたな」
 「は、はい」
 いつ聞いていたのか。
 「俺はその目を、よく覚えているのだがな」
 「・・・・何を、申されているのか私には・・・」
 「そのような目が顔が、二つとあろうか」
 射王の首にいきなり剣がかざされた。動く間もなかった。
 「何が目的だ。王か、讃良か、それとも、黒媛様について何か――」
 黒媛?黒媛になにがあるのだ。
 「何を申されているのか私には・・・・。なれど、このような所へ迷ったのはわが身の不運。かよわき身なればあがらう術もありません」
 「――よい覚悟だ」
 五十狭彦は射王をみつめ、ふっと笑った。剣をそのままひっこめた。
 「やつなら必ずくると踏んでいたのでな」
 「まるで、来るのを待たれているような物言いでございますわね」
 「ゆけ。ここはおまえのような者のくるところではない」
 射王は頭をさげると、足早に過ぎ去った。
 建物の陰にまわりこむと、息を大きくつき、すべるように座りこんだ。
 「ふう、駄目かと思った」
 汗をぬぐった。あの殺気。本気だった。
 五十狭彦には、だが十中八九自分が射王だと感づかれていたはずだ。なのにああもあっさり放つとは何を考えているのだろうか。
 「あいつと、いつか剣を交えるときが来る」
 いままで会った大和の人間とは違って感じる。たぶん生粋の大和人ではないはずだ。
 射王はどっと疲れがでた。そろそろ引き返そうかと思ったとき、どこからともなく唄声が響いてきた。虚ろでぼやけた声色だった。
 背筋が凍るような感触がした。射王は夢中でそこへ駆けた。
 仕切られたような中庭に出た。
 派手な着物が乱れていた。帯を長く垂らしてひきずり、素足で土の上を歩き回っている。
 長い髪が木の枝に絡まるのもかまわず、そのまま歩き続けている。射王はその姿に、ふと黒媛が重なった。山中で剣を抱えて歩いていた、あの国津の巫子姫に。
 乱れた髪が風になびいた。射王は思わず叫びそうな口を押さえた。
 「さ・・・・さら?」
 声が、かすれる。まさか、そんな――。
 焦点の定まらぬ目だった。ぼんやりと歩いていた。あれほど長く艶やかだった髪に白い房がまじり、焼かれたように縮れている。
 彼女を包んでいたおだやかな気が、恐怖と嘆きに狂乱していた。
 「ささ、ら」
 返事はない。
 「讃良!」
 駆けよる歩みが進まない。讃良の肩に手を触れたとたん、悲鳴がつんざいた。
 今にも殺されるかのような形相で逃げだした。建物の隅に小さく丸まりすすり泣く。
 そこにあるのは恐怖だけだった。残酷な支配者に対する逃げ場のない絶望だけ。
 「讃良、俺だよ射王だよ。迎えにきたんだ」
 讃良は首をふりながら足を引きずって這い逃げた。よくみると手にも足にも小さな傷が無数にある。乱れた着物から覗いた体のむごさに射王は思わず目をつぶった。
 心の奥底から今までにない激昴がたぎった。
 殺意と悲しみは沸き上がる純粋な怒りに燃えたち、大和に対する憎悪が押えられない。
 讃良が何をしたというのだ。どうしてここまでのことができるのだ。
 射王の殺気に讃良が悲鳴をあげる。頭を隠し幼子のように震えて泣いている。
 「ああ讃良ごめん、ごめんよ。迎えにきたんだ。俺だよ、射王だよ。ねえ讃良」
 射王の必死の呼かけにも、讃良は逃げるだけだった。
 恐怖だけ彼女を支配している。心弱い人ではなかったはずなのに、何があったのだ。
 射王は讃良の手を強引ににぎった。たえられないような痛みが射王の中で弾けた。
 讃良の苦痛が射王に伝わり、悲痛な叫びが幾度となく繰り返し聞こえる。射王を激しくにらむと射殺すようなに言いつけた。
 「どうしてこんなところへ私を送ったの?!子までなしたというのにどうしてなの!私のところへ来たときは、いつも苦しいって言ってたじゃない。助けてくれって私の胸の中で泣いてたじゃない。それをわかってあげられるのは私だけよ。あの女じゃないわ。私なのよ。私だけなのに、なのになんであなたは、皇恭、どうして?! 」
 「讃良、きみは・・・・」
 憎んでいたのではないのか。皇恭を、恨んでいたのではないのか。
 そこには讃良と皇恭だけの時間があり、心を交わし性を交わしていた何かがあるのか。
 彼女が本当に待っていたのは皇恭だった。
 堕としめ苦しめた本人を、ずっと彼女は待っていたのだ。
 射王は讃良を抱きしめた。讃良は射王の腕の中で泣き叫んだ。
 「皇恭、皇恭皇恭!黒媛より私を――!!」
 憎み呪って嫁いだというのに、それ以上に讃良は皇恭を愛していた。肌のふれ合いが心を深くつないでいた。
 射王にはわからなかった。男でも女でもある身体で、どちらの気持ちもわかっていなかった。
 そして己が嫉妬しているのが、皇恭であるのか、それとも皇恭に抱かれている讃良なのか、それすらも、もうわからなくなっている。
 讃良の歪みが大きく膨れ上がった。
 「やめろ讃良。迎えにきたんだ。射王なんだ、わかってくれよ。それ以上、思念を放出しつづけたらは君の体が壊れてしまう」
 ものすごい力で突き飛ばされた。
 暴走し、もてる力以上を出しすぎた人間の未来には、先がない。廃人となるしかない。
 「射王。嫌い、嫌い、嫌い。私から巫子の座を奪った。私より優れていたのに、わざと隠して馬鹿にしていた。私を憎んでいた」
 「何いってんだよ、讃良どうして俺が」
 「私の代わりに犯されたわ。血のつながりだけで誰よりもあの人の心を占めていたわ。私にも入らせない部分にずっと住んでいた。憎んでいるふりして誰よりも――」
 暴れ狂う讃良の帯が解け、服がはだけた。
 黒い斑点と赤いただれが身体じゅうを覆い、醜く蹂躙していた。
 「黒死、病@あの、腐れ病の?!」
 射王の体がつと冷えた。そんな、まさ、か。
 「讃――」
 射王は讃良の手の中の銀刀をみた。
 静かな気持になった。
 それが讃良の心だった。いつも振り上げられなかった隠された答え。
 手だけが、あまりにも綺麗に、ゆっくりと射王へ動く。
 右脇に灼けるような熱さが貫いた。赤いしぶきが吹きだし服を濡らした。痛みは、ない。
 「讃良・・・・」
 傷ではなかった。胸が痛かった。
 こんなに憎まれ、嫌われていたのか。
 誰より好きだったのに、誰より、幸せになれと願い祈っていたのに。
 「いやあ――!!」
 讃良が悲鳴を上げた。
 射王はやっとそのとき、現実の痛みを受け止めた。讃良に何か言おうとして、だが唇が重く冷たく閉ざし、声を押し殺してしまう。
 人の集まる気配がした。射王はわけもわからずその場を走り逃げた。涙の代わりに血が草村に跡をこぼし、赤くひきずってゆく。
 小屋裏に隠れへたりこんだ。切れる息で蒼い静かな空を見た。
 射王は失われつつある意識の中でぼんやり考えている。見つかり殺される恐怖より、讃良に否定されてしまった事実の方が確実に命を奪いとってゆく。
 ここまで来て知ったのは、讃良の胸の内の否定と憎しみだけだった。
 人の声がする。けど、もう、いい。
 ――温羅、ごめん。結局手伝えなかったよ。
 ひどく呼ばれているような耳なりがした。
 「射王、おい、射王!」
 頬を張られ、目を開けた。
 「射王しっかりしろ」
 「えっ・・・、あっ・・・」
 懐かしい顔だった。心配げな瞳。
 弓月だ。タタラの山で会った、目の不自由な妹を連れた国津の戦士だ。
 「おい。しっかりしろよ」
 「な、んで、弓月が」
 「いったい何やらかしたんだよ。こんな傷もらって。杜璃がおまえの気配がするっていうからから来てみたれば、まさか本当に――」
 弓月はいきなり射王を抱えた。
 「ゆ、弓月?」
 「いいから黙っていろ」
 弓月はあたりをうかがいながら、射王をかかえ軽がると走った。時々のぞく射王の胸にから視線をそらせながら、宮殿の離れに建てられている質素な庵に駆け込んだ。
 「杜璃!薬だ早く。怪我をしている」
 「射王様ですの――射王様がお怪我を?!」
 杜璃が小走りに薬箱をもってきた。盲しいているはずなのに、まったく歩みに淀がない。
 横たえられた射王に手をかざし、小さく悲鳴をあげた。
 「ああ、ひどいわ」
 「いや出血ほどには傷はひどくなさそうだ」
 「いいえ傷ではなく、ここです」
 杜璃は射王の胸に手を当てた。ふっと揺れた蝋燭の薄光に、精美な盲いた顔が浮かんだ。
 目で見えない射王の心の痛みを捕らえているのか、うっすらと頬が赤く色づく。
 弓月は手早く射王の傷に布を巻きつけた。
 「こいつに何があったんだ?」
 「・・・・」
 杜璃は射王の胸に手を当てた。
 蕾のような杜璃の顔が妙に大人びていた。つぶやく蘇生の祝詞が少女の華を開かせる。
 杜璃の射王に対する熱い思いは、どこか神を敬うのに似ている。
 射王は赤い瞳をあけた。ふっと笑った。
 「杜璃、――ああ、大きくなったね。やっぱり、きみは澄んでいる、綺麗だ」
 射王はぼんやりしながら言う。
 「この気を、覚えているよ。気持ちいいや」
 「わたくしを覚えていて下さったのですか」
 杜璃はささやくように言った。
 射王は笑う。それは、寂しげな笑みでもあった。
 「射王、気がついたのか。薬だぞ。飲め」
 弓月が薬の入ったお茶を持ってきた。抱き起こし、煎じた薬を口に含ませる。射王は予想をはるかにこえたひどい苦さに咳込んだ。
 「な、なんだよ。むちゃくちゃな味だな」
 「だろ。杜璃特製の薬草茶なんだよ。さすがの俺でも飲めない」
 「それを俺に?・・・ひどいな」
 本当につらそうな顔をするのに、弓月と杜璃は笑った。弓月が安堵の息をついた。
 「かなりやばいのかと思ったぞ。ぐったりしているし、杜璃が変なこと言うからさ」
 「こんなのかすり傷さ」
 「いったい何したんだよ。ん?おまえ、なんか疲れてないか」
 「弓月こそ以前に増して身体がおおきくなって、鎧みたいだな、その筋肉」
 身体だけではなく、備えられている気もかなり大きい。温羅にどことなく似て感じる。
 「ここの空気は清浄だ。国津神の守護があるみたいだ」
 「ああ。さいわい杜璃がいるからな」
 そのとき扉が静かに叩かれた。人影がスッとのぞき入り込んだ。
 「誰だ」
 弓月が隙のない緊張を走らせた。
 射王は杜璃にかばうように抱きかかえられ、息を止める。だが出された顔にもっと驚いた。
 「温羅!」
 言おうとしたがそれより先に温羅が言った。
 「射王!なぜおまえがここに?!どうしたんだその傷は――」
 目を丸くして、飛んできた。
 わき腹に手を当て心配げに見る。
 射王はそのとき自分がまだ杜璃の腕の中にいることに気づき、赤くなる。杜璃のほっそりした腕の中から、離れた。
 「べつだん、大したことじゃないよ。それより温羅の方こそ、どうしてこんなところに」
 「それは俺が言うことだ。おまえ、なにをやたったんだ、こんな傷を負うなんて」
 「なん、でもないよ。それより温羅、俺が大和に潜りむのは渋っていたくせに、どうしておまえがここにいるんだよ。ずるくないか」
 「そりゃあ喧嘩する相手を知らねば何もできないだろ。作戦をたてるにはまず敵の懐に入らなきゃな。それが一番さ」
 だからと言って本人が乗り込んでくるような大将はいない。
「温羅、おまえは自分が思っている以上に顔を知られているんだぞ。少しは自覚あるのか」
 「おまえのほうこそ、踊り子の格好をしていたって、その目も髪も変えようがないだろうが。わかってないのはおまえだ。おまえは、タタラ軍の総大将なんだぞ。もっと考えて行動しろよ。万が一があってからじゃ遅いんだ」
 「そっくりそのまま返すよ。総指揮はおまえが執るべきなんだ。わかっているんだろ」
 「射王、温羅」
 弓月が咳ばらいをした。
 「なに喧嘩なんかしているんだよ。そんな場合じゃないだろう。なんか緊張ないな、おまえら」
 「ああっ、ご、ごめんそうだったね」
 射王がそうだったと笑う。
 「それより、弓月と温羅が知合いだとはおもわなかったよ。いつからなの」
 弓月が肩をすくめた。
 「杜璃がな、最初に温羅と知り合ったんだ」
「杜璃が?なんで」
 「温羅様から、射王様の気を感じたのです。そこから大きな安堵を感じましたゆえ、力をお貸ししたのです。温羅様には底知れぬものを感じます。陰を陽に、負を益にかえる新しい未来の予感が」
 弓月が言う。
 「だから俺たちは信じたんだ。俺は自分のカンを信じている。こいつからは俺らと同じ国津の匂いがする」 
 「ああ。それは俺も感じたよ。同類だとな」
 温羅が返事をする。
 「だから俺たちは温羅の話に腹を決めたんだ。今が起つときなんだってな。吉備が起つこの機会に、我らの土蜘蛛もともに目覚め、起たなくてはならない。同胞は俺が起つのをひたすら待ってくれていた。もはや限界だ。時は満た。動く時がきたんだ!」
 弓月の意志は最初からはっきりと決まっていた。
 思っている以上に時代の波は流れている。荒れ狂い行く先も知らぬ未来へ怒涛のように突き進んでいる。
 もう、誰も止められはしない。
 迷いあぐねているのは自分だけなのだ。だた一人迷い、ためらっている中途半端な存在でしかない。
 なぜか皇恭の姿が射王の目に浮かんだ。
 温羅がきっぱりと言った。
 「大和が吉備に攻め込むのも時間の問題だ。吉備の王都は完全に黒媛の配下におさめられている。今のままでは俺達に勝ち目はない。この大和の異様なまでの力がどこからくるのかをはっきりさせなければ。黒媛の真の目的を明かさなければ未来はない」
 温羅は弓月に言った。
 「あの尖塔形の建物はなんなんだ。中に巨大な紫色の玉があったようだが、わずかに見ただけで全身に悪寒が走ったぞ。そこにいるだけで人間の理性なんか容易に狂っちまうぜ」
 杜璃が青ざめながら答える。
 「あれが多分、この地の正常な磁場活動を狂わせている原凶だろうと思います。あの建物が建立されたときより、我が土蜘蛛の運命は傾いてゆきました。黒媛が強引に我らが王に造らせたものです。わたくしには恐ろしくてなりません」
 「ではあれが黒媛たちのエネルギーの源かもしれないのだな。・・・壊してみたらどうだ?」
 弓月がぎょっとした。
 「むりだ。あの珠には近づけない。特殊な気が巡らしてある。俺も何回かは試みたんだが、悪くすると命を落しかねないぞ」
 「だが何もしないよりはましだろう。弓月よ、どうする。俺はいくぞ」
 弓月は温羅の不敵な眼差しについ、苦く笑った。わかったと返事をした。
 それを見越していたように温羅は弓月に腰の刀を投げて渡した。
 「これは?」
 「タタラの里に代々伝わる太刀だ。名刀長船と肩を並べるといわれている摩耶刀だ」
 それはタタラの長たる継承の証であった。金屋子はすでに温羅に、その意味を込めて渡してあったのだ。
 「そんな大切な刀、俺などにいいのか?」
 「おまえなら使いこなせるよ、弓月」
 刀の魂それじたいが、おのれの主人をきめるのだと知っている。
だが温羅はためらいがない。それだけ信用しているのだ。
 「なぜ俺をそんなに?俺はいつなんどきおまえを後ろから切りつけるかもしれないんだぞ。これほどの名刀をそんな軽々とてばなしてもいいのか」
 「俺はおまえを信じている。もしそれで裏切られたのなら、別に悔いはないさ」
 二人はニヤリとした。
 「なら、覚悟しとけよ」
 「ああ」
 まるで、旧友同士が久しぶりに酒でも飲みに行くかのように出て行く。
 「おい、待てよ。温羅、弓月――」
 素早くかけだした二人を追おうとする射王を、杜璃が止めた。
 「杜璃?」
 「あの二人のことに、心配は無用です。神の特別な庇護にくわえ、時運はまさに今、彼らのもとにあるのですから」
 その言葉の意味が射王には理解できる。
 「わが神と吉備の神は、近しい存在だったのかもしれませんわね。わたくしたちがこのように親しく思われるのもそのためなのかも」
 「そうかもしれないね」
 不思議と射王もそういう気分だった。
 杜璃が射王の手を頬にあてた。杜璃から伝わる甘い感覚が、射王の傷を心のなかから癒してゆくようだった。
 優しく包まれ心地よい眠りへと誘われた。
 「わたくしはあれからずっと、射王様に感謝しておりました。人の見る世界でなく、もっと大切なことを見取る目を頂いたことに」
 杜璃の声が髪の一筋までに溶けて染みこむ。
 「俺は、なにもしてないよ。ただ君が本来持っていたものを引き出しただけさ」
 「いいえ、そのことがどれほど難しく、一等大切か。・・・・射王様、わたくし、ずっと射王様を・・・お慕い、申し上げておりました」
 熱い思いのままのささやき。
 杜璃の閉じられた瞳が開き、光彩のない光の海に射王は落ちていった。




 頭の芯がぼうっとしていた。
 抱かれた杜璃の胸にあるのは、鼓動か、それともはるか未来からの約束か。
 射王の手が杜璃を抱いていた。
 幼い唇が重ねられる。
 熱さも、たぎりもない、ただ二人の体の合わさることが、心が合わさることへの表象のように二人は抱き合っていた。
 命という流れのなかでの契約が果たされていった。
 射王は神の慈悲を、体を開いて待つ少女に愛とともに与えた。
 杜璃にひそむ命へ火をつけ、女と男でありえる事へ尊敬が返された。
 杜璃の温もりが、射王の中の孤独を薄れさせてゆくようだった。
 時がまた流れてゆき、杜璃の血が射王として流れ一体になる。宇宙を満たしてゆく。
 静かな鼓動を、腕の中で眠る杜璃の重みに聞いた。小さな少女が、あどけなく寝返り打つのをみつめ、赤い瞳から涙がこぼれるのがわかった。
 「射王様、どうして泣かれるのですか」
 杜璃が目を開いた。
 射王の涙をそっとぬぐった。
 「悔いて、おられるのですか」
 「・・・よく、わからない」
 正直な答えだった。杜璃は微笑んだ。含みも隠しもない、まっすぐなものだった。
 「わたくしとのことは、お気にとめないでくださいませ。これはわたくしの望み。いえ、もっと大いなるものの意志なのです。わたくし は射王様に抱いて頂いただけで、幸せなのですから」
 「ごめんね」
 射王は杜璃の頬にくちづけた。
 そのまま起き上がると、服を身にまとった。
 「行かれるのですね」
 杜璃は手を組んだ。
 「――どうぞ御武運を、お祈り申し上げております射王様」
 「ありがとう」
 射王は庵を出た。
 すでに月が天空の高みに昇っていた。




 「なにをしていたのよ射王。急がなきゃもう迎えがくるわよ」
 慌ててかけ込んできた射王に摩釉は服をあてがった。やきもきしていたらしい息をつく。
 「ごめん。ちょっと、手間どってね」
 摩釉ははだけた着物のしたから血のにじんだ包帯をみつけた。目を丸くした。
 「射王これは?!」
 「わるい時間がないんだ。話は後でするよ」
 着終わるか終わらないかのうちに男が迎えにやってきた。
 摩釉はしかたなく口を閉ざしたが、心配げな顔でつれてゆかれる射王を見送っている。
 射王は何事もなかったかのように長い睫を伏せ、しゃなりしゃなりと歩いていた。
 「射王」
 つぶやいた摩釉に、射王が振りかえった。安心させるように微笑んで、片目をつむった。
 「摩釉、温羅(・・)によろしく」
 「え?温羅って、射王?!」
 「おい、おまえはこっちだ、早くこい」
 摩釉はもう一人の男に腕を強引にひっぱられた。瞳だけは小さくなってゆく射王を追っている。
 射王は息を大きく吸うと、覚悟を決めた。
 もう迷ってはいない。例え醜い化物と呼ばれようとも、そんなことをかまいはしない。
 「みんな、俺が呼ばれて出て行ったらすぐに逃げてくれ」
 別れを告げた時、射王はそう言った。
 「摩釉は屋敷に火を放ってほしい。それからみなの逃亡を助けてくれ」
 「けどそんなことをしたらあなたが」
 「俺のことはいい。俺一人なら、どうとでもなる。ここにいる人たちはみんな、これからの吉備に必要な人間なんだ。吉備はこれから変わる。いや、変わらなくちゃいけないんだ。神の庇護を求めるだけじゃなく、自らの力で運命を切り開いてゆける、そんな強い人間が必要なんだ。温羅を助けてほしい。その先人となって未来を切り開いてほしい。頼むからみんな、犬死だけはしないでくれ」
 彼らの無事を心から願う。
 過去はもうもとには戻らない。だから現在を未来につなげていくしかない。
 「ここから先は一人で行け。王がお待ちだ」
 男が射王の背を突き飛ばした。部屋の前まで来ずに、転がるように走りだしてしまった。
 何かあるのだろうかと訝しげにしながら射王は部屋の都を叩いた。
 「王、お召しにより参上いたしました」
 そうっと踏み入れた部屋のなかは、薄暗く湿っぽかった。
 退廃した雰囲気にのまれるような、どろりとした香りが鼻をついた。
「王?!」
 射王はいきなり腕をつかまれ引き寄せられた。抱きかかえられ、煙草の煙を、口にうつされる。はげしく咳込む
 「催淫剤の混じった煙草じゃ。どうじゃよいであろう。身体の芯からうずいてこぬか」
 目がまわる射王の口をもう一度ふさぎ、舌を吸いつつ煙をふきこんだ。腕を後ろ手にねじ曲げられ、あらあらしい接吻を受ける。
 「可愛い顔をして何人の男をたぶらかした、この魔女めは」
 「私が――魔女なら、大和王様は大魔王にございましょう。このように乱暴なことを」
 射王は大和王の手からすりぬけ、むせる息を殺してできるだけ妖しく微笑んでみせた。
 腕にはっきりと赤い手型がついている。
 大和王は残忍な野獣のごとくぬらぬらと目を輝かせた。
 赤い瞳を潤ませる射王の美貌は、男に毒を染み込ませるように妖しい。触れるすんぜんに身をひくと、艶然と笑った。
 「お急ぎ召されるな。夜は長ごうございます。まずは一差しなりと私の舞をごらんあれ」
 視線をとらえているのを意識しながら、胸を差し開いた。小さな乳房がほんのり明りにうつり、真珠色の肌が大和王に猛りを与える。
 射王は自分にくぎづけの大和王へ、牙をつきたて毒を注ぎこむように、呪いの結界を部屋中に張った。
 誰も入らないように、王の心が痺れ麻痺するように、踊り捕らえてゆく。
 「美しい。幻想を見ておるようじゃ」
 王はとろりとした目で言った。
 「わしは美しいものが好きじゃ。それがこわれる瞬間がなにより甘美でたまらぬ。末期の叫びを聞くと、喰うてしまいたくなるほど愛しゅうなってくる。その姿はこの世のなにより美しい。快感に震えが走るほどじゃ。そなたなら、さぞ美しい極上の夢を見せてくれようのう。どの鳥よりも美しゅう鳴け、女よ」
 涎のすじが口のはたに垂れている。
 「おお、おまえのその踊り。吉備からきたあの女――讃良とかいったの、あの女の舞によう似ておるわ」
 讃良の名に射王の頬がぴくりとした。
 「ずいぶん楽ませてもろうたがの、もう終わりじゃ。よい性根をしておったぞ。弱音ひとつ吐かず、意志高い目でわしをにらみつけおってからに」
 思い出し笑いが陰にこもる。
 「さすが吉備の女であったわ。今までで一番長くわしを楽しませてくれた。だが、もういらぬ。もうすぐ吉備もわしのものとなる。タタラの鉄も瀬戸の海も、実りもみなわしのものだ。あすこは神の土地じゃ」
 「それで、ご自分が統べるにふさわしい土地だとお思いに?」
 射王は殺意を抑え声低くきく。
 「もちろんじゃ。こんな小国の王などで終わる気はもうとうない。もっと広大な、もっと豊かな土地をわしならば手に入れられる。わしは、世界の征服者となるのじゃ」
 「その資金源として、豊かな吉備を狙った。吉備王をそそのかすために黒媛を送りこみ、気まぐれの玩具として讃良を我がものとし、慰み者にして辱めた」
 「おお、よい体だった。あの美しい体に醜い墨を施し、焼きごてで皮膚を焼きもした。その体に塩をまぶし一晩ほっておいても、泣きもせなんだわ。ついにな、あまり強情ゆえ、わしは最高の仕置きをしてやったわ」
 大和王の息が荒くなった。見るからに興奮し欲情に男根が盛り上がっている。
 「野で死にかけておる乞食に、女を抱かせたのじゃ。さすがにそのときばかりは泣きわめいたわ。許してくれと懇願しおったな。なにせな、その男は黒死病であったからのう」
 残忍な笑み。射王は毛を逆立て殺気だつ。
 「ずいぶんよい声で泣きおったわ。よい眺めであった。よい座興じゃ」
 高らかに笑った大和王へ、射王は自分を止められなかった。
 迷いもなく刀を腹に差し込んだ。
 ぎりっとねじ込み、声が漏れぬように口を塞いだ。
 「おまえは生きているべき人間じゃない。冥府の王は、闇へ帰れ」
 人間の根元までもを犯し、人の恐怖心をもてあそび快楽を得るなど絶対に許せない。
 彼女の気高く清廉な魂が、どれほどの屈辱を受けたか。どれほどの恐怖で、女性のいちばん弱い部分を犯されたか。
 射王は紅蓮の炎に怒り盛っていた。
 許せない。絶対に許せない。
 自分が鬼と化すのを抑えれきれなかった。
 「おまえは楽には殺さない。人々の痛みを受け、血へどを吐きのたうち回って死ね」
 痛みと驚きに目を白黒させ、王は低くうめいた。刀を抜くとそこを容赦なく蹴りあげる。
 血の噴水を上げた。倒れこんだ。
 意地汚く食べた馳走を醜く吐いている。
 起き上がらない男の股ぐらを蹴りあげると砕けた音がして、まるで紙切れのように簡単に転がった。思いのほか軽い。
 「許さない。ぜったいにおまえを許さない」
 「だ、誰だ。何でわしを?!」
 射王は冷笑を浮かべた。
 「俺は射王。吉備王の第二王子だ」
 「射王?!貴様があの半陰陽の子――うっ!」
 射王は言い終わらぬうちに蹴り上げた。
 吉備王はうめきながら、それでも射王の足首を握った。
 足首から伝わる死人のような冷たさが、戦慄を起こさせずにはいない。
 射王は鬼神の最後の馬鹿力にひき倒された。内臓のはみ出した腹がにじりより、なま臭い血が肌にふれた。
 射王は悲鳴をかみ殺した。その血はどす黒く、どろりとしている腐水だ。
 「や、やめっ!」
 大和王を蹴りあげた。男の躰は離れず土気色の顔が射王に近づいた。
 「ひ、おう」
 「やめ――」
 射王は恐怖心に襲われた。
 王の声は地の底からするようだった。渾身の力ではねのけ、指をもぎ離そうとしたが、強い力は怨念のように食い込む。
 「射王・・・・わしは・・・。黒媛・・・・」
射王は王の息の下で彼を見た。
 「さ、逆らえなかった・・・王にしてやると、そそのかされ、わしは・・・・。黒媛は・・・・」
 流れる血の最後の一雫が、赤い鮮紅色に変わった。その血の中に、人としての彼の最後の良心が流れるのがわかった。
 射王はそのとき感じた。
 やっと呪縛から放たれた意識を。
 晴れゆく霞のむこうに、幼心の寂しさをむざんに踏みつられ、悔しさと、陰謀に操られた惨めさと後悔を。
 「天津神、だ。私に乗り移り・・・国津・・を狩った。神は・・・血を求めている。自分の、なくしてしまった顔を・・・・求めるのに、首を狩る」
 「大和王」
 射王は大和王を抱き起こした。
 大和王はやっと解き放たれたのだろうか。安らかに微笑んでいた。
 射王を見つめてい目が、徐々に光りを失い、呼吸が止まる。
 乱暴に戸が開かれた。光りが差し込み王の顔を照らす。戸口に五十狭彦が立っていた。
 「射王かやはりきさまが王を!」
 射王は立ち上がった。五十狭彦を見返した。
 五十狭彦は二刀の太刀を抜いた。射王も棚に飾られてある大和王の刀をつかみ構える。
 「やはりあのとき殺しとけばよかったな」
 射王はだが、五十狭彦から怒りは感じなかった。そこから伝わるのは、主君を殺された怒りというよりも、むしろほっとした同情のような安堵がある。
 「五十狭彦、おまえ本当は王のことを知ってたんだな。だからあの時俺を殺さなかったんだろう」
 「さあ、何のことだかな。俺が駆けつけたときはすでに王は死んでいた。ただそれだけだ」
 「違う!おまえは大和にくみしたふりをしているけど、心底ではなりきってない。おまえは国津の人間なのだろう。気配はかくせない。どうしてそちら側にいるんだ。わかっているくせに、どうして狂った道を進む」
 「俺はとっくに血を捨てている。いまさら国津もくそもない。まして、こんな狂った天津などしらぬ。俺には黒媛様だけだ。あの方の進むところへ向かう、ただそれだけだ」
 激しくいい放ち、二刀の剣が射王を襲った。
 剣をあわせるごとに、秘められていた気迫が火を吹いた。どこにこんな猛々しさを隠していたのかと思うほど力強い。
 そこにあるのはまっすぐな思慕の情だった。
 相手がどうであれ純真な心を侵す権利は、射王にさえない。
 「一族に捨てられた幼子を気まぐれとはいえ育ててくださったのは黒媛様だ。俺は媛様のためなら死ねる。鬼にも蛇にもなる。あの方がおまえの命を望むなら貴様を殺すまでだ」
 全身で飛びかかる一撃を受け止めると、わき腹が痛んだ。射王は五十狭彦のなかにひそむ情熱を、間違いだとは非難できなかった。
 誰がどう正しいかなどその人にとってみなければわからない。
 後退する射王は王の体につまづき、体勢を崩した。
 「射王、覚悟!」
 剣の風圧が射王の頬をかすめた。つぎの一振りを受けるかと思ったそのとき、五十狭彦が床にのめった。
 「大和王?!」
 王の手が五十狭彦の足をつかんでいた。最後の最後の瞬間に、与えられた魔の血によってわずかな命を吹き返したていた。
 「離せ!離すんだ!」
 射王はためらわず逃げた。敵と憎んでいた人間が、最後に自分を救うとは、なんと因果であるのだ。身が切られるような思いがする。
 ぞくぞく集まる追っ手をさけながら、本能の叫ぶままに敵陣を駆けぬけていった。
 返り血を浴びた射王はさらに赤く、この世の生から、緋色の美に彩られどんどん離れていくようだ。
 ドオンッという爆音に、火の手が上がった。どよめきが起こり、騒然とした悲鳴が続く。
 「摩釉か!それとも温羅たちか?1」
 射王は急ぎ裏庭にむかった。讃良を捜しながら、相模たちが無事逃げただろうかと思ってしまう。
 頬に流れる血をぬぐった。胸が痛みに熱くなった。
 どんなに嫌われ罵られようとも、讃良を置いて行く事だけはできない。たとえ助からぬ病でも、こんな所で、たった独りで死なせることはできない。
 「讃良!」
 射王は叫びながら捜した。
 「讃良、逃げたのか」
 射王はふと行く先に、倒れている姿をみつけ駆け寄った。
 「相模!!」
 抱き上げた。頭が二つに割られ目を見開いている。まだ暖かかった。
 「なんで?!あれほど逃げろっていったのに!」
 射王のかわりに讃良を捜し連れ逃げようとしてくれたのだ。
 殺気を感じた。一瞬にとびのけた。
 皮一枚に太刀をかわし、相模の首が砕けた。
 射王はカッとして頭の中が白くなった。
 背後の男から鮮血が吹き上がり、囲っていた数人の男が、無意識のうちに転がってゆく。
 「やろう、女が生き残ってやがるぞ!」
 叫び声がして、つぎつぎと幾人かがとび出してきた。
 たちこめる火の手に理性を欠き、荒れ狂った残忍さそのもので、血を求めているんだ。
 「殺せ犯せ!!どいつもこいつも皆殺しだ!」
 ひごろ、虐げられている人間ほど狂気にとりつかれやすい。
 その時の変貌を射王は誰より知っている。幼い頃の悪夢は何度でも繰返される。
 一斉に襲いかかってきたそれを、浄化の舞をまうように射王は倒していった。だが野獣たちが押し寄せる狂気は限りがない。
 射王のさしだす終わりへと、後をたたず群がってくる。
 射王は手の感覚がなくなっていった。
 傷口からの出血にめまってきた。背後から忍び寄る男の強打についに地に臥してしまった。
 「こんちくしょうめ。お、俺が一番だ」
 熊のように大きな男が射王に伸しかかった。
 だが、その男はそのまま射王の横へ倒れた。
 「射王に触れるな!」
 摩釉だった。木の上から矢を放ったのだ。
 矢は、男たちの心臓を見事に射抜いていった。正確にしとめる。
 木から飛び降り駆けつける摩釉に、男たちは牙を向き襲いかかる。
 仲間を殺された怒りではなかった。新たな獲物を見つけた喜びだった。
 射王は摩釉を認めるとふらつきながら立ち上がった。一刀のもとに男の喉を切り裂いた。
 「摩釉なんで逃げなかったんだ」
 「射王!」
 駆けよる摩釉の背後に、弓をしぼる男の姿をとらえた。
 「摩釉ふ伏せろ――」
 ふりむく摩釉に矢が放たれた。
 時が止まったようだった。
 矢はゆっくりと摩釉を貫き、鈍い音がする。
 抱きしめた射王の肩にまで矢先がささった。二人はつなぎとめられたまま、倒れた。
 「摩釉・・・・」
 血が、地面に広がっている。
 摩釉の見開かれた大きな瞳に涙が揺れ、射王が映って流れた。
 「摩釉!!」
 ふっと笑った。閉じられた瞼の向こうから、射王へ熱い思いが押し寄せた。
 「ひ、おう・・・大好き・・・好きっ・・・・」
 それが摩釉の最後の言葉だった。
 「………っ!!」
 射王は絶叫をほとばしらせた。
 摩釉の鼓動はぴくりともしなかった。
 暁にも似た燐光が優しく射王を包み、やがて消えてゆく。
 戻らない。
 失った命は二度と、返っては来ない。
 射王は摩釉を抱き締めた。同じ矢に貫かれた彼女の身体を、かたく抱いた。二人をつなぐ矢のみが、答えられる思いのように痛みをわけあう。
 射王のオーラが天へと立ち昇っていった。
 「摩釉――!」
 射王は立ちあがるなり矢を抜いた。
 そのまま投げると弓を射た男の眉間へと深々と突き刺さった。
 周りの人間が射王の眼光にわっと逃げる。赤く逆立った髪が、憤怒りの炎が、闘神そのものの姿だった。
 「摩釉・・・・」
 誰もいなくなったそこで、射王は摩釉を抱きしめた。摩釉に、くちづけ、胸に顔を埋めた。
 温かい。今にも笑って起き上がってきそうなほど温かいのに、なのにもう目を開けない。魂はここにいない。
 火の手がごうっと大きくなった。
 燃えつくす炎の中へと射王は摩釉の身をおいた。
 「摩釉、じきにいくから、先に行って待ってて。そう長くは、淋しい思いをさせないよ」
 そして、射王は耐えるように言い聞かす。
 「死んだものは決して生き返らない。しっかりしろ射王。讃良を捜せ!」
 涙に霞むのは煙が目に染みるからだ。
 泣いても戻らない。まして摩釉が涙など喜ぶはずがない。射王の笑顔を喜んだのは、誰より摩釉ではないか。
 煙と炎のなかで大きな爆発が起こった。瓦が砕け散った。
 「讃良!讃良どこだ―?! 」
 ただの爆発だけではなさそうだった。あまりに勢いのいい火の手。
 逃げ惑う声は、すでに消火どころではない。
 「本当に逃げたのか讃良は?」
 そうであって欲しい。願いつつも、それでもどこかにいるような気がして捜してしまう。 悲しみの巨人は赤く憤怒にたぎり、なにもかもを焼き、灰燼に帰してゆく。
 「讃良!」
 射王は讃良を見つけた。一瞬たちすくんだ。火炎の真中に、松明を手に立っている。
 讃良は射王をはっきりと見つめていた。
 「まさか讃良がこの火を?!」
 彼女がこの騒ぎを起したのか。
 射王は肌が灼かれるのも構わず、炎の中へ入ろうとした。讃良は昔のままに澄んだ表情で否定し、優しく微笑んだ。
 「讃良、どうして」
 「・・・ごめんね、射王。あなたを傷つけてばっかりだったわね。いつも助けを求めながら、いつも傷つけ、苦しめてばかりいた。こんな処まで来てくれるのもあなただけなのに、私は甘えるばっかりだった。ごめんね――ごめんね許してね、射王」
 「なに言ってるんだ!俺はいつだって讃良に助けてもらっていたじゃないか。優しさも暖かさもみんな讃良にもらったんだ。俺の方こそ苦しめるばっかりで・・・讃良、俺は――」
 讃良は微笑んだ。深く、慈愛に満ちていた。
 「逃げて射王。私はどうせ助からない。もう、誰にも、私の姿を見られたくないのよ」
 女の見せる最後の意地。
 射王に手をさしだし、拳を開いて見せる。
 紫色の水晶が砕けて落ちていた。
 「すべては私の弱い心が招いたこと。黒媛から送られたこの水晶を手にしたときから、私の運命は変わってしまった。力と引き換えに大事なものを、なくしてしまったのよ・・・」
 「ささ、ら」
 「大和にある親珠が壊れたおかげで、呪縛から放れることができたわ。でもよかった、最後の最後に射王と会えて」
 立ち上がってかぶさってくる炎のむこうに、讃良の姿は消えていった。見えなくなるその瞬間まで、彼女は、笑っていた。
 「讃良――っ!」
 ――射王お願い、伝えて。たとえどんな姿でも命は命、同じ生命にかわりはないわ。
 讃良の意識が遠のいてゆく。
 ――あなたのお母様が愛したのと同じように、愛していると・・・射王伝えて――愛していると、私の坊やに。
 笑い声が聞こえた。
 幼いの頃の讃良の思い出が、屈託ない爛漫な笑い声となって射王の周りを遊んでいた。
 射王はただ呆然とそれを見つめている。
 地面が震え地鳴りがした。
 不浄の土地は怒りと悲しみの炎に包まれ、崩れ落ちる城の断末魔が響いた。葬りさる人為の愚かさを、人には聞こえぬ声で嘆いていた。
 射王はひたすら駆けた。もう振り返らない。
 泣くことはできない。多くの命が射王の中へ流れ込んでしまったのだ。進むしかなくなってしまったのだった。


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