炎の血脈
5
讃良が皇恭の妃として王宮に入ったと聞いたのは、それからしばらくしてからだった。
赤子ができたのだという。
それはあたかも両家の合意のもとに進められたようにささやかれていたが、真実は違っているのだと知りすぎている。
何もかもが黒媛の企みどおりに進んでいる。
そんな錯覚がおきるのは気のせいだろうか。
結局、神託の件は射王と泰幻の胸の内のみに納められていた。荒れ狂いはじめた自然の猛威と、飢饉ですさんだ民衆の怒りにこれ以上油を注いでも仕方のなかったからだ。
「射王、泰幻様がお呼びだぞ」
部屋でぼんやりしていた射王は温羅が入ってくるまで気づかなかった。
「ああ泰幻様が?来てたんだ。なんだろう」
「どうした、しっかりしろよ」
心配そうに射王をみつめた。
夜更けに、しかもいきなりずぶ濡れで射王が戻って来てからとうもの、いきなり状況があわただしく動きだしはじめた。
異変がおこり、讃良の結婚が決まる。さらには讃良の腹に皇恭の子がいるらしいと聞き、温羅はだいたいは何があったかを察していた。
だがあえて聞こうとはしなかった。
射王は金屋子の部屋に顔をだすと泰幻はやわらかく微笑みかけた。
「射王よ、久しいのう。ちとみぬまに背がまた高うなったか」
「御無沙汰しております泰幻様」
射王は頭を下げた。金屋子が言った。
「讃良殿がもう臨月にはいられたそうじゃ。ぜひおまえに、ばば様について王宮へ上がってもらいたいとのことじゃがどうじゃな」
射王の顔が一瞬ひきつった。
「俺に、ですか?なんでいまさら」
「讃良殿がおまえに会いたいそうなのじゃ。皇恭殿もぜひにということだし」
「なに勝手なこと言ってるのよ。射王がどれだけ傷ついたと思ってるの。いまさら虫がいいわよ。何の用なの」
摩釉がお茶の盆を手にしたまま言った。口調を荒立てている。
「摩釉、おまえの意見など求めとらんわ」
金屋子が厳しくいうのに、摩釉は感情的ににらみつけるとそっぽを向いた。
「いや、確かにその通りなのじゃ。すまぬ射王。わしもわがままなのは重々承知の上じゃ。だがぜひそうしてほしいのじゃ。なぜかはわからんが、いやな予感がしてならぬ。おまえ様なら讃良の助けができる。頼む射王」
泰幻は頭を下げた。
射王はその手をとった。
「俺にできる事があるなら言ってください」
「射王!わざわざ辛い目をしに行くようなもんじゃないどうしてよ。だって讃良は――」
「摩釉、控えろ」
温羅がたしなめた。
「だって兄さん・・・」
「泰幻様、ぜひ俺も連れて行ってください。射王のことが心配なのもありますが、あそこがいまどういう状況になっているのか調べたいのです。全ての原凶はあそこにあります。このままでは、吉備は絶対に潰れます」
金屋子はうなずいた。
「それはわしも感じておる。王も皇恭も、あの黒媛が来てよりこの方、正気とは思えぬ」
泰幻がうなだれた。ひどく年老いて見えた。
「わかってくれぬか。だからこそわしは讃良が不憫でならぬのじゃ。あの子があのようなことにならねば、今ごろは・・・・」
「わかっています泰幻様。行きましょう。俺も讃良が呼んでいるような気がしていたんです」
射王は自分に言い聞かすように言った。避けていてもいずれは兄に会わねばならない。
「私も連れて行って!」
摩釉が言った。だが射王は首を横にふる。
「摩釉はここでタタラの里とおじい様を護ってほしい。お願いだよ」
「射王・・・」
「摩釉だから頼むんだ」
摩釉は切なそうに射王の手を握り頬に当てた。兄弟というより、摩釉の中に育まれつつある射王への感情は、もっともっと大切で大きなものとなりはじめている。
「行こうか」
温羅が言うのに一同はうなずいた。
王城までの道行は惨憺たる風景だった。
田畑は朽ちた作物の残骸がひろがり、それに群がる黒く不気味な鳥たちが争っていた。
異臭が漂う。枯れた井戸の横に精気のない子どもがぽつんと座っている。
かつて一面に広がっていた緑の海原が、見る影もなく失われている。
「ここまで酷くなっているなんて」
射王はたまらないようだった。
「民衆はこれらがすべて王家の裏切りのせいだと知っている。踏みにじられた神との契約のための怒りだと。彼らはそこまで愚かじゃない。我慢の限界はすぐそこまできている」
温羅は疲れはてた民衆の怒りを誰より肌で感じていた。
よく、民とともに意見を交わしていた。まるで農民のように馴染み、親しく心を開かせるまでになっている。貴族でありながらそんなことが出来るのは温羅だけだ。一種の特技である。
尖った石が、射王の頬をかすめた。
いつのまにか、射王たちの馬車を民たちが囲っていた。女から子供から老人から手に手に石をもち、目に憎しみと怒りをはらませていた。
射王の赤い髪と目はどこででも目についてしまう。それはそのまま、王の子であるという証となる。
「王族どもはいつも自分らの事しか考とらん。わしら弱者を苦境へ落しめ、のうのうとしとる。わしらにはもう明日食べる米もないというのに。生きる糧がないんじゃA」
腰の曲がった老人が怒鳴った。
「そうだそうだ。おまえら王族なぞしらぬ。この出来そこないがくたばってしまえ」
「祈りの民の裏切り者!王族にくみしおって」
口々に民衆の怒りの声が続き、石つぶてが飛来した。射王は石をよけようともせず立ちすくんだ。投げられる石が彼らの真実の叫びなら、受け止める方法をほかに知らない。
「やめろ!こんなことをしてなんの解決になると思っている、控えろ!」
温羅が立ちふさがるように馬で前に進みでた。民衆の石を投げる手が止まると、ざわざわというささやきにかわった。誰かが言った。
「温羅さんだ。温羅さんだよ」
「温羅さんどうしてあんな奴をかばうんだ」
温羅の面が強まると、彼らは脅えて口をつぐんだ。
「こんなことをしてもなんの解決にもならないだろう。一時は気が休まるかもしれない。だが、目に見えず踏みにじられた者はどうする。祈りの民も射王もそうだ。俺たちと同じじゃないか。血を流さないとそれは傷じゃないとでもいうのか」
温羅の毅然とした言葉に農民たちはうつむいた。彼から立ちあがる金色のオーラには、痛みも苦しみも分かちあいながら常に前へと導いて行く強さがある。
「これからの時代、王は、力ではなく人々の心を束ねてゆける者がそう呼ばれるべきだ」
射王はふとつぶやいた。泰幻が驚いたようにふりかえった。
馬車はそのまま人々の沈黙の重苦しい中を進んでいった。誰も追いかけようとも石を投げようともする者はなかった。
王城につくと、ずっしりとよどんだ空気が張りつめていた。そこに働く人々の活気は失せ、ものうげな虚脱感が蔓延している。
かつての活力は死滅し、かわりに絶望や苦しみ悲しみを植えこまれている。人間の根元を侵すものが悠然とこちら側をのぞいている。
「何があったんだ。前はこんなじゃなかったのに」
幽鬼のような男が目の前を通りすぎた。
口元に閉まらない笑みを浮かべ、垂れた涎が糸を引いている。痩けた頬が青黒い。
「王――?!」
射王がたまらず叫んだ。だが興味を示さず、吉備王であった男は通り過ぎていく。
言葉なくたちつくす射王は言葉もでない。
あの頑健な揺るぎない王者として君臨していた父が見る影もないではないか。
「よく来たな射王」
驚きに呆然としていた射王に声をかけたのは皇恭だった。皮肉げな笑みを浮かべている。
「王はご病気だ。もう俺のこともおまえのことも、わからぬ状態だ。とっくの昔にな」
「皇恭・・・・」
「まあせいぜい、讃良と腹の子供に障らぬようにしてくれ。別に欲しくもなかった女の子だが、できてしまっては仕方がない。あの女の淫乱さにはほとほと飽き果てたところだ」
「皇恭きさま!」
「おっと、おまえと口論している暇はないんだ、まあゆっくりしていけよ」
皇恭はせせら笑いながら、先に待つ黒媛へ歩みを寄せ、大事そうに肩を抱きよせた。
黒媛は振り向き、射王をねっとりと絡みつくような瞳でみつめる。内臓を生手でひっかきまわされたような不快をおぼえる。
硬直していた射王は、温羅の呼び声にようやく我をとりもどした。讃良の部屋へ向かう。
度重なる農民達の妨害に足を止められ、予定より数日のあいだ、到着が送れてしまった。
産日の日取りはかなり近づいているらしい。
讃良は射王を見ると力なく笑った。
「射王、よく来てくれたわね」
讃良はげっそりと痩せていた。ずいぶん顔色が悪い。これが妊婦かと思うほど小さなお腹が痛々しくて、射王は泣きそうに眉を寄せた。
「ごめん讃良――。もっと、早くにきてれば」
「ううん、来てくれただけで嬉しいわ。あなたをあんなに傷つけたのに――」
涙を浮かべて握る讃良の手の冷たさにすくんだ。
会いたくなかった。見たくなかった。こんな讃良の姿を、痛み苦しむ姿を見たくない。
「俺の方こそ、讃良を傷つけてばっかりで」
「射王、私は――ああっ!」
讃良がうめきに身をよじった。
出血したのか、下半身の布団が血に染まる。
陣痛が始まったのだ。
讃良を産室にはこびこんだ。大量の湯が沸かされ、泰幻と数人の女官が部屋に篭った。
射王は清めの結界を部屋のまわりに張り、祈りの祝詞を唱えだした。悪すぎる空気を少しでも清めなければ、負担がかかりすぎる。
苦しむ声がしだいに大きくなった。射王は無事産まれろと一心に願った。妊婦の体への影響が少なければいいのに。
別の部屋で讃良の苦痛を自分のなかへと移す呪文を唱えた。同調して少しでも讃良の軽減をしなければ、弱った母胎では両方ともが危ない。
讃良の苦しみが、ときおり射王へ混じった。だが、完璧な一致はない。
以前なら違和感なく混じれたものが、拒絶の皮膜に押し戻される。それは故意に張られた拒否のようでもあり、射王の生態エネルギーを奪いつくそうとするのを防ぐためのようでもあった。
「なんで混ざれないんだよ!」
射王はふとどこからともない視線を感じた。
無意識に振りかえるが誰もいない。気をちらさないようにと、また祈りを続ける。
夜半に入った。
空がやにわに雲を増し稲光りだした。冷たい気流がたちこめ刃物のように風が吹く。
空がカッと光った。ゾクリッとした。
「生まれたぞ!生まれた!!」
泰幻の声だった。射王はいそぎ駆けつけた。
「ばば様ついに!」
さしだされた泰幻の腕の中には、臍の緒を切られたばかりの赤子がいた。
射王はその子を抱こうとして一瞬固まった。
嬰児は泣きもしなかった。ただ、どんよりと反応のない表情をしていた。
小さく濁った目、穴のような口。
だが何より射王の胸をえぐったのは、両腕のない芋虫のようなその姿――。
「これ、は」
泰幻は首を振った。皆黙していた。
「ねえどうしたの?赤ちゃんは。ねえばば様、私の赤ちゃんはどこなの?」
不安に声を発したのは讃良だった。
まだ荒い息のなか、訪れるはずの歓喜の声も赤子の泣き声もないことに不安がっている。
射王は泰幻の手から赤子を受け取った。
「赤ちゃんは?ばば様、ねえ!」
赤紫のまだ洋水に濡れた小さな口が動いた。
わかっているのか射王を消え入るような目で見つめた。
射王は抱き締め笑おうとした。だがそれは口の端が少し上がっただけで失敗した。
「赤ちゃんは・・・ねえ・・・お願いどうしたの」
射王は嬰児にほうずりした。暖かかった。
微かな、泣き声がした。
「讃良」
射王は讃良にそっとみせた。宝物を見せるように優しく、そっと、これ以上ない大切なものを見せるように愛しげにみせる。
望まれない魂の行く先に自分を重ねていた。心の底からこの子の幸せを祈わずにはいられなかった。
ヒュッという短い息を飲む音がした。
次に引き裂くような讃良の悲鳴が暗い寝所を貫いた。愛しむべきわが子の無様な姿に、彼女の心は耐えきれなかった。
射王は泣きだした赤子を抱きしめた。讃良の嘆きに、己の母の嘆きをみつめたような気がした。讃良を取り押さえ、寝かしつける泰幻のそばで、射王は赤子に生湯を使っていた。
「よもや、このような思いをするとは思いもせなんだわ。二代もこのような――」
「・・・やっぱり母上もあんな風だったの」
射王は優しく赤子を布に包んだ。
「いいや。おまえ様の母上様は、驚きはしたが、おまえを抱きしめ愛しげに微笑んでおったぞ。わしはそれを見て、この子は幸せになると心から思ったものじゃ」
「なら、俺はこの子のためにここにいるんだね。だってまるでわが子のようにこの子が愛しいもの。こうして母親の代わりに抱きしめるためにここへ来たんだ」
ガラリと乱暴に戸が引かれた。
いきなり皇恭が入ってきた。
「生まれたか」
皇恭は呼ばれもしない神聖な守屋へ足を踏み込んだ。興味なさげに、射王に抱かれていた赤子を取り上げると、顔をしかめ、次の瞬間投げ飛ばすようにして射王につき返した。
「なんだこれは!この化物はいったい?!」
「皇恭!」
皇恭は顔をひきつらせていた。射王のせいだといわんばかりに怒鳴りつけた。讃良を冷たくにらみつけ言葉一つかけず去っていった。
讃良はひどく落胆してか、布団にくるまり出てこなかった。讃良の気持ちを察っし、射王は赤子を抱いて廊下へ出た。
「おい、その子をよこせ」
気の荒そうな男がいきなり、射王の手から赤子を取り上げた。とりすがる射王にすげなく言う。
「悪いな、王のご指示だ」
「待ってよ、どうする気なんだ。生まれたばかりなんだ、かえせよ!かえせ!」
もう一人の男が射王のみぞおちを遠慮なく殴りつけた。前にのめった首筋を両手でたたきつけ、射王は床につっぷした。
「待って――どうする気、なん、だよ」
「王のご命令だ。この子は里子に出す」
何事かと駆けつけた泰幻が怒鳴った。
「勝手なことを!我ら祈りの民に無断で」
男たちは泰幻にまで殴りかかろうとした。
とっさにかばった射王が殴りつけられ壁にうちつけられる。
「射王!」
射王は連れ去られる赤子を追うようにいざったが、蹴り上げられ、そのまま気を失った。
「とにかく父王の所へ行ってきます。あの父王がそのような判断を下せるとは思えない」
射王は意識をとり戻すとそのまま飛び出していった。止めようとした温羅もふりきられ、風のように走ってゆく。
射王は誰の目にも止まらずまっすぐ王の寝所にまで走った。
射王は扉を静かに叩きながら言った。
「父上、お話があります、父上」
何度か叩いてみたが、いらえはなかった。なにかしらの不安な胸騒ぎに中に入った。
「父上、入りますよ」
中は真っ暗だった。
すえた鉄錆のような臭いがただよい冷気が肌をつきさす。ぼんやりと闇に慣れた目に浮かびあがったのは、吉備王の無惨な死体だ。
口から血の泡を吹き、胸から伸びる刀によって一突にされている。
「ああっ、ひぃ――!」
悲鳴が背後にした。
お茶を運んできた女官だった。腰を抜かし這い逃げながら悲鳴をあげる。悪っ鬼でもみたかのような声に、人の集まる足音がする。
「どうした!」
「あっ、王が――!」
最初にかけつけた男が射王を見つけた。怒りの形相で叫んだ。
「きさま、なんてやつだ!父王を手にかけるなどやはり人間じゃないな。悪魔の子だ!」
次々に集まる人の群れのまえでは、射王は立ちすくんだ。絶対的に立場が悪い。
何を言っても無駄である。だがそれにしては測ったように女官がきたではないか。
人々の背後でにやりと笑う皇恭の顔をみつけた。射王はやっとはめられたことに気がついた。
「皇恭!」
「捕まえろ。逃がすな」
皇恭は悠然と笑いを浮かべていた。
「皇恭きさま――!」
「射王こっちだ」
窓の向こうから温羅の声がした。殴りかかりたい衝動をこらえ、射王は迷わず声のする方向に走った。
体を丸め二階の窓から身を翻し、草村に転がった。温羅が袖を引いた。
「こっちだ、射王」
「温羅!」
「馬をつないである。とにかく今は逃げろ」
射王は悔しく拳を握ったが、温羅の後をついて馬を駆った。背後で叫び声が幾多もこだましていた。振り返りもせずひたすら走った。
「温羅、どうしてあそこに?!」
「あちこちにちょっと探りを入れていたからな。偶然、物騒な話を小耳にはさんだんのさ」
昨夜から下働きに混じり、諜報をしていたのだ。小さい頃から温羅はどんな所へも潜り込みいつの間にか誰とでも親しくなってしまう。そして、どんな秘密でも聞き出すのだ。
「やっぱり皇恭なの、父様を・・・」
温羅は、ああ、と短く返事をした。無意識に射王は懐の萌木色の布に手をやっていた。
「これからどうする、射王」
「わからない。でもタタラの里へは帰らない。おじい様に迷惑がかかるから」
「だがどこへ?」
「山にいく。あそこは俺にとってはて家も同然だ。とりあえず温羅は帰ってよ。そしておじい様に伝えてほしいんだ。たぶん敵は――」
「本当の敵は、黒媛だと?」
「そう、そして大和だ。大和が吉備を腐らせている」
「わかった。だが射王、俺が必要なときは必ず呼べ。一人で動くんじゃないぞ、いいか」
「うん。あ、あれ、温羅あれを――!」
ゆびさす射王の手が震えている。
「なに?!」
焼けていた。山だ。
そこにはジグラットがある。照遥山だ。
馬を止めた。ぼうぜんと見入りながら温羅が低くつぶやく。
「あいつらだ、ついにやりやがった」
民衆が、ついに起ったのだ。
射王が頭を抱え馬の首に伏せているのに気づいた。脂汗が頬をつたい流れていた。
「どうした射王?!」
「神が怒っている。絶望してしまった」
「射王、おい射王!」
「消えてしまった。神の気配が、消えたたんだ。俺たちはついに・・・見限られてしまった」
馬からずり落ちるようにして気を失った。
神はいずこへか去った。それは吉備国へ黒雲をうむ前兆のようだった。
黒媛は、抱きよせようとする皇恭の手からしんなりとした細い腰をするりとかわした。
「あなたには讃良様がいらっしゃるのではありませぬか皇恭様」
「何を言のです。讃良など比べようもないと何度も申し上げているではないですか」
うかされたように黒媛を求める皇恭に、横目に見ると黒媛はつんとそっぽを向いた。
「お子までなされたというのに?」
「あ、あれはあなたが――あなたが犯せと言ったのではありませんか!しかもあの様に醜い化物が生まれるなんて!仰せの通りとっくに流しましたよ」
「あら、わたくしそのようなこと言いましたかしら。皇恭様が勝手に私の言葉をそうおとりになられてなされたのですわ」
「そんな媛――」
だが黒媛の瞳を見ていると、酔ったように目が回り、そんなことなどどうでもよくなる。
「媛、なぜそのような意地悪をいまさら」
黒媛はふっと微笑むと幼子をあやすように皇恭の腕の中に納まった。
「ならば、讃良様を遠ざけてくださいまし。あの方と同じ屋根の下にいるだけでもいや。もと巫子という同じ立場だけでも身のやつる思いですのに、これ以上嫉妬しとうございません」
「これは、気づかなかった。可愛そうなことをしてしまいました。ならば早々に処分します。毒でも含ませましょうか。おもてだっては泰幻がうるさすぎますので」
「まあ」
黒媛は目をつり上げてみせた。
「では香屋臣様はどうなされて。このように無惨にお殺しになって」
目の前に転がる哀れな男の死体をみて黒媛はころころと笑った。つと香屋臣の血を手で救って舐めた。
「やはり男はだめね。女だわ。まだ男を知らぬような柔肌の女が一番いいわ」
「あなたの望みなら讃良の血でも」
「――いいえ」
黒媛は首をふった。
「讃良様は大和王に献上なさいませ。私と同じように友好の証として。あのかたはお美しい方が大変お好きですのよ」
「ああ、そのような事ならばいつなりとでも。大和王には世話になっているのです」
黒媛は紫水晶の珠を手にもたげ、かざした。
「喜ばれますわ。新吉備王のお心使いを。ねえ皇恭様、邪魔なやつらは潰しておしまいなさい。祈りの民もタタラの民も、敵は一刻も早く殺るのが一番です。それにタタラの里は鉄の宝庫。大和王が力を貸して下さいます」
瞳が妖しく輝く。
「皇恭様、わたくしに射王を下さいまし」
「ひ、おう・・・?なん、で」
「わたくしはあれの血が欲しいのでございます。あの特殊な人間の血なればさぞかし」
口の端が耳元まで裂けたような気がした。
「ねえ、くださいまし」
「だ、だが・・・あれは、父殺しとして・・・」
黒媛の貌が怒りに歪んだ。
「なぜあの様なものにこだわるのです!あなたは世界の王となられる方。どんな富も栄誉も女も思いのままとなろうのに、射王など」
「べ、べつに、こだわっているわけでは」
水晶がどんより輝いた。皇恭の表情から膜が張ったように精気が失せた。
「わかった。あなたの望む通りにしよう」
「ありがとうございます。――これ、五十狭彦、新吉備王のお許しがでた。讃良様を大和王のもとへお送りするのじゃ」
手を叩くと
五十狭彦がどこからともなく出てきた。低く頭を下げた。
その夜のうちに、讃良は大和王のもとへと向かわされていた。
射王は山中をさまよっていた。
歩む一歩一歩に苛立ちが隠しきれなかった。
時間だけが乾いた砂のように流れ、狂いゆく時代をなす術もなく見ているしかないのだろうか。
射王は、まだ何の力も手に入れてないのだ。
山道を駆けぬけた。岩場をつたい、木々を滑って薮をこえる。母のいたという出雲へでも足を向けてみようかとも考えた。
いきなり林が切れた。滝のほとりに出た。
あの滝だった。時の移りがないように銀面だけが波うっている。
肩をいきなりたたかれ飛び上がった。
「あ、あなたは――」
「来ると思っていたよ。運命はどうしたってつながっているんだからね。そうして誰を待っているんだろう、時の流れは」
なまず髭の男だった。相変わらず飄々とした体で一人納得したげに頷いている。
「何ごとも怖がっちゃいけないよ。いつかは自分でしなくてはいけないんだからね。それに、きみはもう、大切なものはすでに手にいれていると思うんだけど」
「何を手にいれているっていうの。俺にはなんの力もないじゃないか。大切な人たちを守ることさえもできないんだよ」
「ならさあ、君の兄さんはどうなんだい。あらゆる富を手に入れ、目の前の謎もその気になったら解けるっていうのに、自分の名前をすっかり忘れているじゃないか。自分がただの人間であるということを失念して、ついには神までを無くした。君がもし求めるならそれはいつでも手に入る。常にそこにあるのさ」
「何のことを言っているの」
「きみが自身を下卑するなら、意識はそのとおりにしか働かない。けれど誇るならそれは最も高貴で最も強い武器にもなる」
射王は思わず自分の体を抱いた。
「僕はね、もう終わりたいんだ。早く見つけて欲しいんだ。目覚める気ないかなあ射王」
「何を見つけろっていうの?あなたはいつも大切なことだけを言わない。いつも俺に問いかけるだけだ。一体、何をさせたいんだよ」
男は射王の向こうを指した。
顔のただれた女が湖の淵をふらふらと歩いていた。いつものようにぼろ布を大事に抱え、淋しいとも楽しいともなく、ひとりで湖の反射光のなかをさまよっている。
射王は奇妙ななつかしさが甦えってきた。その思いは押さえられなかった。
「・・・・俺、あの人を知ってる。たぶん、あの人も俺を知っているよ。でもなぜそう思うんだろう」
なぜわかるのか。射王は不思議な感覚にひたったまま、見つめていた。
空気の調和が馬の稲鳴きにいきなり破られた。温羅が飛ぶように慌て駆けつけてきた。
「温羅、よくここがわかったね」
「射王!」
温羅は馬からとびおりた。
「大変だ射王。讃良が、讃良が大和に連れて行かれたらしい。城の者の話では黒媛との交換に、大和王へ巫女として献上されたんだ」
「まさか!彼女は王妃だぞ!」
「やつらにそんなこと関係あるか。あいつは実の子さえ流すような男だぞ。それくらいするさ」
射王の意識が重くなった。あの時奪われた小さな温もりが悔やまれてならない。
「その上、タタラの民に我が地から出てゆけと言ってきている。祈りの民には神殿をつぶし、新たなる天津の神殿にしろと難題をふっかけてきている」
「そんな!無茶苦茶じゃないか」
「まだあるんだ。間者が伝えてきたんだが」
息をいったん飲みこむ。
「王の宮には、血の海だそうだ。大和にくみするのに逆らった者どもは皆、殺されているらしい。香屋臣、
三野臣の両大臣ともに首をはねられ、大和の兵が乗り込んできているのだというぞ。皇恭は狂った。やつは本気で大和と手を結ぼうとしている。吉備を――滅ぼすつもりだ」
「そんな兄さんが吉備を?・・・そんなこと」
隠しきれない動揺が汗の珠になって浮かんだ。だが温羅のなかに虚言も嘘もない。
温羅の涼やかな目が細められた。
射王の背後の存在にやっと気づいたのだ。
「あんたは誰だ」
なまず髭の男は愛敬のある目をきょろきょろさせた。岩にすわったまま物珍しそうに温羅を観察している。髭をひっぱり言う。
「ふーむ、君の相はじつにいい。いいけど、もう少し、迷いがあるねえ」
「迷いだと?」
「各部族にはね、特有の色っていうのがあるんだ。それは一人一人の意志によってつくられるものだけど、まとまると一つのものになる。例えばタタラの民は、気性が強く、誇り高い正義感があるけどケンカっぱやい。祈りの民は忍耐力があるけど、そのぶん自尊心も高いから一度怒ったら、なかなか許さない。そんなところがある」
「ああ、確かにな。そういうところがある」
「部族は君がいなくなっても成り立つけれど、君は部族がないと困る。それと同じ様に国のない民衆も困るが民衆のない国は成り立たない。国は民衆のためにある。――そうだ、君の考えている通りなんだよ、温羅」
「・・・・あんた、いったいなに者だ。なぜそんなことを俺に言う」
温羅の顔色が変わった。用心深そうに刀に手をかけた。
だが男は緊張するでもなく、笑っている。
心配げにみている射王に手を振ってみせた。
「温羅よ、時はもう満ちている。腐ってしまうまえに、切って捨てろ」
男の目がクワッと鋭く光った。
温羅は表情を引締めた。その真意を受け取る。奥底から輝く闘志が黄金のオーラとなって燃えあがっていった。
「そうだ、俺は起たねばならない――黒媛と皇恭を討つ!」
「う、温羅?!」
「射王、俺と一緒に来い。俺たちにはおまえが必要なんだ。民とともに起ってくれ」
射王は、だが、とっさに言葉に詰まった。
「おまえだって、もう知っているんだろう。昔の皇恭はいないんだ。やつは死んだ。大和に喰われたただの傀儡だ。吉備を潰させるわけにはいかない、今がその瀬戸際なんだ」
温羅の真剣な目。
射王は思わず目を閉じた。理性でわかっても簡単には割りきれない。
「おまえは王家の正当な後継者だ。おまえさえその気ならもう一度吉備は立ち直れる」
「時間を・・・・もう少しくれないか、温羅」
どうしてなのか、まだ決心がつかない。
讃良の泣き叫ぶ姿が目に浮かんだ。おぞましい体感が、いきなり射王を襲う。
鮮明な像が体をすり抜け、耐えがたい苦痛に思わずよろめいた。
「射王どうした?! 」
「待ってくれよ。まだ、もう少し時間をくれ。讃良を助けないと、彼女を助けないとだめだ。もしおまえらが起ったら、きっと人質として連れ去られた讃良の命は」
温羅は何か言いかけて、口に出すのをやめた。
「時間はもうない。仲間は結集しつつあるんだ。どんなことになっても俺たちは戦う。皇恭と大和をやる。射王、おまえを待っている。もうあとはおまえが来るだけだ。讃良を救ったらすぐにおまえもこい!」
「うん」
温羅は男をみた。意志をかためてすっきりと壮快そうな顔だった。
「おっさん、あんたがもし敵の者だったとしても恨まないよ。俺は俺の意志で起つんだ」
「ふふん、もちろんそうさ」
男は髭を引っ張った。ごく当然とばかりだ。
温羅は射王にはやく来るように言い残すとあっというまにきびすを返し帰っていった。
「あなたは何者なんです。どうして俺達の内情まで知っている」
なまず髭の男は女をさした。
女は、射王の方にふらふら近づいてきた。そばに寄るにつれ、腐ったすえたような臭いが鼻をさした。
膿んだような悪臭は、腐れ病のためのものであった。
それはかかったが最後、治癒の方法もなく、ただ身が溶けてゆくのを見ているほかない、接触性の伝染病だった。
女は射王を見ると、皮膚の崩れた口を横にひき、白い歯を見せ笑顔らしきものを造った。
ぼろ布をだきしめていた黒く腐った手を、射王に伸ばした。
その手をとった。迷いはしなかった。
そっと手に口づける。
腐れ病になるかも知れない恐怖より、彼女にひそむ悲しみの方がずっと射王にはつらく感じる。怖くはない。
「貴女の本当の姿が見える。あなたは希有なる巫子だ。なのになぜこんな苦しみを受けねばならないんだろうか」
女の手がふるえた。つむじ風がわきあがり女の髪を舞上げた。こぼれた涙が空に昇った。
「痛かった、でしょう?苦しかった……。あなたの苦しみに比べれば、われらの苦など、なにほども――」
「射王・・・・」
女が射王にひざまずいた。こうべを垂れ、抱えていた包を恭しく差し出した。
「これは――」
恐る恐る受けとった包の中からは、一振りの刀が出てきた。
どこか神秘的な黒く濡れたような鞘から、見事な刀身を抜き出す。
吸いよせられるように妖しく美しい。天空の三日月をおもわすような弓なりにそった立派な大太刀だ。見惚れてしまう。
「それは、あなた様の刀でございます」
「あなたしゃべれるの?――こ、これが俺のだと?!」
握った刀は手に吸いつくようだった。重さといい長さといい、それは射王の為に造られたような触りである。体の一部みたいだ。
「あなたにお渡しするためために守って参りました。ずっとあなたをお待ち申し上げておりました」
女の目は月夜のように澄んでいた。正気だ。
「・・・あなたは、だれなんですか」
「この方はね、黒媛様だよ。大和国の第一位媛巫子、黒媛だ」
答えたのはなまず髭だった。
「黒媛?!では、城にいるあの黒媛は?」
「そう偽物だ。その昔、己がなりかわるために黒媛様の顔を剥ぎ、吉備国に追放した蛇女だ。しかも生きたまま苦しみを与え続けるようにと、腐れ病の呪いまでかけた」
黒媛は悲しく微笑んだ。
「私はこの刀を、正当な方にお渡しするためだけに、今日まで狂ったふりをしておりました」
「それが、俺だと?!」
「いにしえからの言伝えです。わが地に国津神のおわした遥か日、男でもなく女でもない赤い神にこの刀を渡すようにという伝承が」
「でも俺は神じゃない」
「きみはね、知らないだけなんだよ。自分がなんにでもなれるということを」
「射王様、その刀だけが、あの妖怪を殺せるのです。あれは人の精気を食らい首を狩る魔女です。人間を食べ物とだけしかみてはいない。それが故に、この刀を狂ったように闇に葬ろうとしたのです」
射王は静かに聞いた。
「いったいあの女はなんなのです」
「あ、あの女は、天津の神の――」
黒姫の躰が大きく震えた。ぐらりと揺れた。
「射王様・・・私の役目もここまでにござ・・・ど、どうぞ、ご自愛な――」
黒媛の身体が粒子のように細かくなって崩れた。湖面にむかい金の粉が流れていった。
静寂だけがあとに残った。
「媛君はやっと休息に入ることができたんだ。ずっときみを待っていたんだよ。百年ものあいだ浮遊のエネルギー体となり、刀を渡すためだけに、苦しみをそのまま負って」
射王は刀を抱き締めた。黒媛の思いが伝わる。赤い瞳が大きく見開かれた。真実を見抜くように男を見つめた。
「あなたは何者なのです。全てを知るあなたはどうしてそんなことを俺に話すんです」
「わたし?わたしか」
柔和な笑みが口の端にうかんだ。懐かしげだった。
「私はその昔に大和国を守護していた者さ。そう、まだ弥真台国に侵攻される以前、気さくな働き者の民と一緒に暮らしていた国津の」
男はいうなり、ひらりと舞い上がった。白い一羽の鳥が、紺碧の空をおおきく旋回するした。空の彼方へ消えていった。
「国津の神?彼が――?」
射王は呆然と青い虚空の果てを見上げた。
神だったのか。人よりずっと人のようで、慕わしい近親感と、捉えどころのない変わり者にも似たあの人が、神だという。
誰よりも早くこの地に降り立ち、人と共にあった、葦原の中津国の主、国津神なのだ。
――射王よ、皆の言葉が正しいからといって、それが真理だとは限らないんだよ。大切なのはそれが君にとって真実であるかどうかということだけなんだ。
「俺にとっての真実とは・・・・・にい、さん?」
空の果てから響く声は、それ以上聞こえてはこなかった。