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炎の血脈

4

 鵜江の声はめずらしくはしゃいでいた。部屋一面に、瀟洒で絢爛な布が並べられていた。
 「黒媛殿これはどうじゃ。おお、こちらもよう似合うわ。それは嫌いかえ」
 「お方様、そのように高価なものばかりをもったいのうございますわ」
 あてがわれる服に黒媛ははにかんでみせた。
 「ほんに、黒媛殿は大和の巫子様だけあって何を着せてもよう似合う。垢抜けておいでなのじゃ。吉備の田舎者ではこうはゆかぬ」
 「お方様のお見立てがよろしいからですわ。優れた美眼には感服いたしまする。それに吉備だからこそ、このように数々の逸品が揃うというものですわ」
 生きた着せ変え人形に、鵜江は夢中になっていた。屋敷じゅう、明りが灯ったような笑い声が響き華やいでいた。
 鵜江は黒媛をずっとそばに侍らし、片時も離そうとはしなかった。
 大和と弥真台国をなにより信奉している鵜江にとって黒媛の美しさと洗練された立ち振舞いは何より魅力だった。
 大国の匂いは、憧れをますます助長させ、吉備王の声がかかるよりほかは、周りの者が辟易するほど都の話をさせていたが、不思議と黒媛の方も嫌な顔もせずつきあっていた。
 「母上、お呼びですか――」
 障子戸を開けたままの格好で、皇恭はほうっと立ちすくんだ。黒媛に目を奪われていた。
 「皇恭。何をつっ立っておる。早よう入らぬか」
 鵜江の声にぎくしゃくとしながら入った。
 黒媛のその美しさには、なんど会っても慣れるということはない。会えば会うほど夢中になるような魅力があった。あれほど美しいと思っていた鵜江が霞んで見えるのだ。
 その美はただ美しいというだけではなかった。禁断の園の危険な香りがする。毒花の魔の手にかかれるなら命など惜しくはない。
 「ほんに吉備育ちの無作法者ゆえ、黒媛殿の前には、恥ずかしいわ」
 「とんでもございませぬ。皇恭様の勇ましい若武者ぶりは大和の者など比ではございませんわ。このようにご利発で麗しいお世継ぎとなれば、さぞ吉備王も鼻が高いことでございましょうに」
 「お、恐れいります」
 皇恭はぎこちなく頭を下げた。黒媛の艶めかしい笑みから目が離せないでいる。
 父王から紹介を受け、はじめて目通りしたときから痺れるような感覚が皇恭を縛りつけていた。彼にとって、女を意識させたはじめての大人の女性であった。
 「こうしてお二人をご覧になっておりますと一対の人形のようでいらっしゃいますわね」
 侍女がため息混じりに言うのに、鵜江が満足げにうなずく。並んで座っている皇恭のほうが赤らんでいた。
 「そうなってくれれば楽しいのにのう」
 周りのしゃべっている声が遠くなっていた。皇恭の視界はいつしか黒媛だけになっていた。
 「黒媛殿は並々ならぬ教養の持ち主じゃ。ただ美しいだけの飾りとはちがうわえのう」
 「こちらの姫巫子様もかなり優れた方とお聞きしておりますわ。遠目にございましたが、先が楽しみな女御様でいらっしゃいました」
 「なに、あのような鄙びた娘、黒媛殿の足元にも及びませぬわ。いっそ黒媛殿がこの国の巫子姫になってくださればよろしいのに」
 鵜江の口調は本気ともしれぬものがあった。
 「讃良もなかなかにはよい巫子ですよ母上。わたくしの病を薄めてくれました」
 「それはそなたの身びいきというものじゃ。ただの偶然にきまっておる」
 皇恭は讃良のきっぱりとした気性が気に入っていた。飾りけがなく、実直で一緒にいても気取らずにすむ。
 黒媛がころころと笑った。
 「お方様は、巫子姫様が近くにいらっしゃるので、かえって良さが見えないのですわ」
 「鵜江様、失礼します」
 ひょろりと細い色白の神経質そうな男が入ってきた。鵜江は、目を険しく細めた。
 「御友別(みともべつ)か、なに用じゃ」
 「吉備王が黒媛様をお召しでございます」
 「ただ今は、妾が黒媛殿と話をしておる」
「むろん、承知しております」
 鵜江のつり上がった目にもひるまず、薄い一重の目を伏せて、無表情に頭を下げた。
 「――よい、わかった。御友別、この事よう覚えておきや」
 「王の仰せなればお許し下さいませ」
 「黒媛殿、王との話が終わったらすぐに妾のもとに参ってたもれ。アトランより美味しい果物が入っておるのじゃ。一緒に食そうぞ」
 「はい。きっとそのように」
 黒媛は皇恭の前を、音もなく過ぎて出ていった。皇恭は衣擦れの音に胸が高鳴った。
 振り返った黒媛の目が合い、優しくほほえまれて真っ赤になる。黒媛は純粋な皇恭の反応を楽しむように妖しく舌舐めずると、吉備王の寝室に音もなく忍び込んだ。
 入るなり黒媛は後ろから抱きかかえられた。
 吉備王の隆々ともりあがった腕が黒媛のほっそりとした腰に手を回された。無遠慮に背筋を撫でると、衣をはぎはじめる。
 なめらかな肌が指がなどるたびに反応し、動物的な動きに乳房をまさぐられてわなないている。
 吉備王は触りを楽しみつつ、喘ぐ唇を荒々しくふさいだ。
 「あの鵜江の相手などよくしておられるな」
 「あら、ご気性の素直な方ですわ。わたくし好きでしてよ、あの方。子息の皇恭様も、見目麗しい若君でいらっしゃいますし」
 「ふん。そなたの口から聞くと、息子とてなにやら妬けるものがあるのう」
 黒媛は熱をもった手が下半身にわけいると、熱く身悶えた。妖しい赤い唇が再びおおわれ、吉備王の舌が白い喉を舐めあげる。乳房のとがりに歯をたていやらしげな音で吸われだす。
 「そなたは悪いやつじゃ。わしをこのように夢中にさせる」
 「それは王のせいですわ。わたくしを巫子と知りながらこのようなことを平気でなさる」
 「このようなこととは、こういうことか」
 吉備王の手の動きに合わせてあえぎが大きくなった。鵜江の見立てた華やかな着物の上になだれこむと、白く熟れた見事な肉体が王の赤銅色の肌の下で、大きくしなる。
 髭のはえた口元に高慢な笑みがうかんだ。
 どのような望みも必ず我がものとしてきた自信が、アクの強さに歪んでいる。
 「そなたは毒じゃ。なにもかもを狂わす」
 「ああ、それは王の――」
 吉備王は、脇においてあった白い果実を口に含むと、黒媛に口移しで与えた。唾液と一緒に黒媛は嚥下した。
 「アトランとかいう地からの果物だ。なかなか旨いぞ。あちらの方にもかなりよいらしいし」
 紫煙の香が淫靡に薫っている。
 「吉備王様」
 黒媛が解かれた衣服のたもとから、紫色のふくさをとり出してみせた。
 「こちらの巫子姫様にお使い頂ければと」
 「それは?」
 紫色の水晶だった。真中に赤黒い混ざりがうかび、炎のように揺れている。
 「これはわが国の聖球と、同じ石の珠にございますわ。吉備国のように豊かな国には何ほどのものでもありませぬが、ぜひあの愛らしい姫巫子様にと思いまして」
 「あの小娘にはもったいないような品じゃ」
 「いいえぜひ、あの汚れない巫子姫様に納めて頂きとうございます。次代の巫子様に、微力なりともお力添えをいたしましょう」
 含まれる陰に吉備王は気づいてない。
 「先日お会いした射王様も、なかなか面白いものがおありでしたわね。特殊な、意図が潜んでいるような」
 「射王か――」
 「どうかなさいまして」
鼻を不平に鳴らす王に、からかうように言った。
 「あの方、今はまだ気づいておられませぬが、じき、我に目覚められますわ。お美しい方ゆえ、それこそ人心を惑わすことなど、造作もないことでございましょうね。皇恭様もうかうかしておれませぬわ」
 「射王になにが出来よう。――そういえば大和の新王殿もたしか四男であったの。兄君たちを押し退け、王位に就くにはそれなりの画策があったとみえる。先代の大王はまだまだ元気であったと聞いておったしのう」
 「前大王は・・・急な御病気にございましたわ。それに、大国には何かと事情があるもの。ですからわたくしが大和と吉備の親善のために参りましたのよ。これからの未来のために、身も心もともにお尽くしするのがわたくしの役目。どうぞお気持ちお察しくだされ」
 「ならば新王殿の心尽しには感謝せねばならぬな」
 秘処への愛撫に、ああ、と甘い声を漏らす。
 「なかなかの策士のようじゃ、大和王も」
 「それでも吉備王さまの足元にはまだまだ及びませぬわ。まだ若すぎます・・・ああ・・」
 荒く息を継ぐ。
 「き、吉備の国とて例外ではありませぬわ。射王様の外戚様は、な、なかなかの名家とお聞きしております、ああ王っ!」
 「金屋子か。ふん、あのようなもうろくジジイ、好きにはさせぬわ。射王にしてもふたなりのできそこないじゃ、誰が認めよう」
 王は口角を吊上げると、愛撫の手を止めた。黒媛はよつんばいにさせられた。
 「でも、巫子姫様となる方を無理やり犯してつくられた御子でございましょう。そのためにこちらの方が萎えてしまわれたのでは?」
 力のこもらぬそれを握り舌を這わす。
 「吉備の神の呪いなら、わが神の御力で復活して差し上げましょう。天津神は懐の広い御方。巫子は愛をもってお慰めするのが仕事」
 黒媛は鮮やかに微笑み、それをすっぽりと口に含んだ。熱い舌さばきの絶妙さが、王の過去を呼び覚ます。与えられる快感へ、それが固さで応えてゆく。
 「王、皇恭様の成元の儀でわたくし一差し舞を捧げとうございますわ。よろしいかしら」
 「願ってもないよい余興じゃ、よいぞ、よいぞ、おおよい、そうじゃもっとじゃ――」
 湿った笑みで黒媛が笑った。邪悪な蛇を思わせた。
 「心を込めて舞わせていただきます」
 黒媛は王の起立したそれを、自分のひだにくわえこむときつく締めあげた。激しく自らの腰を揺さぶり、歓喜の声を上げた。
 精気を食べている花のごとくに、美しさが増す。王の青ざめ痩けた体との対照が生々しい。
 黒媛の高まった妖しい瞳が、隙間からのぞいた皇恭を捕らえた。呆として目を離せずにいる皇恭へ、見せつけるように体をくねらし、熱い体の高ぶりまで吸いつくすように、辺りのすべての熱を飲み込んでいった。
1
   


 山から引いた清水が、堀の中に流れていた。
 その中央に、真白い桧の舞台が一段高く浮かんでいる。
 舞台の上では、典雅な、楽の音のなかで讃良が舞っていた。しなやかな踊りは奉納の舞であった。
 ひとひらの花びらのように真白い衣が揺れていた。人のもちうる最上の美が、足音ひとつなく舞いおり、あたりを魅了している。
 額を飾る蒼い玉石がさらに輝きを放つ。
 「讃良もなかなかやるのう」
 吉備王が、何杯目かの酒の杯を飲み干しながらいった。皇恭は讃良に釘付けになっていた。頬に赤味がさし、若さに芳しい。
 誰もが盛大な儀式に陶酔していた。
 何もかもが華美であり、器の一つに至るまで贅をこらされている。どれもが鵜江の嗜好によって取り寄せられたものだ。
 皇恭は、吉備王と鵜江とともに、蘇芳色の、一段高くなった宴席に座していた。
 舞台を囲むように、祝宴に駆けつけた貴族が顔を連らねている。
 吉備王のとなりにはタタラ一族。金屋子王を中心に貴族が席を埋めている。なかには温羅の顔もある。
 その隣には農作物をつかさどる緑の民がすわり、順に焼物と織物の工芸の民、海上を統べる海の民とならび、タタラ族と反対の座に五芒の星を描くように祈りの民がいた。
 祝儀をとり仕切っている祈りの民の横には、祭壇があった。
 各国から寄せられた祝いの品々が絢爛に飾られ、大国への機嫌うかがいだけでなく、国の勢力を競っている。
 なかでも人目を引くのは、やはり大和国であり、珠も鏡も剣も、そのどれもがすばらしい名工の手による逸品であった。
 皇恭は讃良の巫子舞いを見るのはじめだった。優妙に舞い、祝詞をあげて仕切る幼馴染みの姿は、まったくべつの女性に見えた。
 まだ完全な巫子体ではないがゆえに、すがすがしいものがあり、幼さは清廉さとして尊くさえうつしだされていた。
 いつもの讃良にはない、秘められたような力が、彼女の背後にゆらめいていたるようだった。誰かがそばにいて支え、一緒に踊っているような気配すら感じる。
 敏感な人ならば感じただろう。誰かの苦しげな息を。
 微細にゆれる違和感は、他者のなかへ潜りこんでいる恐怖感だった。
 祝宴の席から離れた裏庭で、射王は足を組んで座っていた。
 苦しげな細い糸の息に意識を一点に集中している。木々の間に隠された祈りの祠の中だ。
 どよめきが遠くに聞こえてきた。
 体が自然の胎動に合わせ揺れ、合わされた手の中で青い貴石が高速で回っている。
 讃良の額飾りの宝珠と同じ石だ。
 射王のオーラが光に溶け、塚の先端から流れていた。讃良の波動に合わせ念を送っているのだ。大粒の汗が額をいくども滑っていた。
 祈る人々の念をみずからの体に通過させ、浄化へと導く巫子の神経は敏感で繊細だ。
 それへ波動を同化させ、呪力を補っているのだ。
 射王は祈りの民のもとで過ごしているあいだ、暇のなぐさみでしばしば讃良につき合い、巫女の仕事を手伝っていた。
 祭殿の造営や清めの儀式を見ていた射王は、自分が讃良の気と簡単に合わせることができるのに気がついた。
 讃良のオーラは心地よく、簡単に調和できた。しばらくすると容易に彼女の気を増幅していることもわかった。
 射王はそれが楽しく、おもしろかった。遊びのようなものだった。
 讃良にとってもそれは決していやなことではなく、でしゃばらない気は、体細胞を活発化させ、いらぬ緊張をほぐしてくれる。まるで潤滑油そのものだったのだ。
 「射王よ、このたびの成元の儀、讃良の補助をしてやってくれぬか」
 そう言ってきたのは泰幻だった。
 「おまえ様もわかっておろうが、讃良の力はまだ目覚めきっておらん。目覚めれば必ずや歴代の巫子姫に引けをとらんことは間違いないのじゃが、その才は惜しいかな、いまだ熟しておらん。我ら祈りの民のため、また讃良のために頼まれてくれんか。この儀、我らは絶対に失敗できん。王よりの挑戦状なのじゃ」
 手を握り、頭を下げた。祈りの民はそこまで追いつめられていたのだ。
 「俺なんかにそんな力があるわけないじゃないですか。頭なんか下げないでください」
 「いいや、すでにおまえ様はしておるではないか。讃良の気を害さず増長させている。讃良は知らぬともわしにはわかっておる。おまえ様の気と讃良とは何より親しいであろう」
 射王はなんと答えていいかわからなかった。
 正直迷った。だが泰幻にも讃良にも借りがあったし、それよりも、断わるにはあまりにも二人に好意をもちすぎていた。
 「俺に、できることがあるならば」
 射王はうなずいた。
 そして、射王はひとり祠に座し、讃良にむけて気を放っていた。
 祠のには、はっする気を増幅させる機能がそなわっていた。塚自体が特殊磁場だった。
 射王は讃良に同調した。彼女の双眸から見る風景をその眼でみていた。
 そこには温羅の顔があり、そして見惚れるようなりりしい皇恭の姿が見える。
 皇恭たちの席のうしろに、特別にこしらえた座が設けられていた。黒媛が座っている。
 黒媛の横には、背の高い武将が控えていた。見慣れぬ特異感が彼の上で引っかかる。
 黒媛の周りだけが、重く感じられた。
 深く黒い霧が会うごとに大きくなっている。
 父王の顔が病的に感じられた。
 目だけが爛爛として、死の闇に浮かんでいるような不気味さすら与えた。
 鵜江の頭上にも黒い渦がとりまき、もはや全身に及んでいる。
 射王は背筋が寒くなった。
 皇恭だけがどうにか清浄さを保ってはいたが、それも時間の問題に見える。周囲の狂いに、脆弱な精気が燃え尽きんばかりだ。
 射王は讃良に、オーラで膜を張った。
 この塚に助けられてはいるものの、慣れぬ接触に体力はみるみる消耗されていた。
 雪消がかたわらで、青い瞳から野生の呪力で荷担してくれいた。だがどんどん力は抜けてゆく。
 舞いが終わったかと思うと、息継ぐまもなく今度は、聖剣の祝福が始まった。
 タタラの里の名流が、一年がかりで鍛えた崇高な刀だ。王家の嗣ぎ人に渡すのに、巫子が祝福をさずけるのだ。
 それは伝説の刀、備前長船を模していた。
 備前長船は神みずからが鍛えたものだった。
 神を守り継ぐ人々、つまりは王家に伝えられていたのだが、人々の知らぬ間に忽然と姿を消してしまった。いまだ消息は不明なのだ。
 祠のなかを懐かしい顔がのぞいた。
 射王はほっと緊張を解き外へ這出た。
 「やはり射王か」
 大きな手が頬を、治りかけた額の傷を撫でた。射王は嬉しそうに抱きついた。
 「温羅!どうしてここに」
 「泰幻様に聞いた。よく頑張っているな」
 「ううん。祈りの一族が、とてもよくしてくれたから少しでも手伝えたらって――」
 言葉の途中で、わっと歓声が上がった。
 「なんだろう」
 温羅と射王は目を見交わしあうと、同時に祭壇の方へ走っていった。
 先ほどまで、讃良が祝詞を吟じていた舞台で黒媛が舞っていた。
 周囲の歓喜は膨れ上がっていた。讃良と対をなすような肉惑的で官能な妖しさがある。
 かき鳴らす弦の音は、魔的な韻を踏んでいた。視覚的にも聴覚的にも人間の五感を狂わせ魅惑しながら魂魄を喰い荒していくようだ。
 「どうしてあの女が踊っているんだ」
 温羅の首筋に鳥肌が逆立っていた。
 「こ、こんなこと聞いてないよ、俺」
 射王は黒媛からまき散らされる冷気がはっきりと見えた。気が遠くなり草地に手をつく。
 あがらえないほど強力な魔の手だった。生体エネルギーが奪われてゆく。
 「見ちゃ・・・だめだ。体の力が・・・」
 生きとし生ける者の生命の火が黒媛へと吸いよせられていた。悪夢が押し寄せた。
 鵜江が高く笑いだした。女官達が、同じように笑いながら、黒媛に合わせ踊りだした。
 誰もがすでに幻惑されていた。平然としながら皆倒れこんでゆく。
 「ひ、お・・・・・」
 温羅も同じように草むらで体を震わせていた。強固な意志力で魔的な力と戦っている。
 五臓六腑に染みこんでくる冷たく痺れるような香りがこの場を包んでいた。後ろに控えていたあの従者が香を焚いていた。
 止めなければ。
 この場のエネルギーがすべて吸い取られてしまうまえに、とめなければ。皆が発狂してしまう。
 射王は懐にいれていた萌木色の布で口を覆った。皇恭を思い出すと、意識がはっきりしてくるようだった。
 「せっかくの祝いの宴が!ちくしょう!」
 人影が射王の上に落ちた。
 見上げる目に鵜江の夜・の形相がうつった。
 赤い殺意が燃え上がっている。
 「そなたは許さぬぞ華夜。何くびり殺してもあきたらぬ、憎い賣女めが!呪うてくれる、何度でも暴徒を焚きつけ切り刻ませてくれる。妾の怒りを思い知れ!」
 射王は見ていた。鵜江を黒く闇が包むのを。
 「母様を・・・あなたが殺した?」
 「その目が気にいらぬ。王の寵愛を奪う永遠の若さと美貌が許せぬ。王の心だけが頼りな妾を馬鹿にしたように見下しおって。タタラという後ろ盾を持つおまえに妾の心細さなぞわかるまい。高慢で破廉恥でいつもいつも妾を――ええい!その皮はぎ取ってくれる。何度でもくびり殺してやる!」
 振り下ろされようとする白銀の刀に、射王は鵜江の悲痛な叫びを見ていた。
 誇り高い彼女が、どれほど母と自分の存在に苦しめられていたのだろうか。
 そんなことを考えつきもしなかった。
 射王は瞼を閉じた。
 熱い刀が頬をかすめたかと思うと、鵜江の悲鳴がした。
 雪消が鵜江の手にかみついている。
 「う、鵜江様?!」
 射王はぱったりと倒れた鵜江にかけよった。抱き上げる体は冷えきっており虫の息だった。
 射王が黒媛をにらみつけた。雪消がうなった。
 舞台の上から黒媛は射王を見据えた。艶然と笑った。霞んだ座のなか、ひとり神の化身のように舞っている。
 炎が立ち上がるように睨みあった。
 黒媛の目が残忍につり上がる。射王はその顔をなぜか知っていた。そう、神話の中で見た女の顔と同じだったのだ。
 射王は力の均衡に耐えきれず草村に倒れた。
 黒媛がふっと口元を緩め舞いをやめた。
 「つたない舞でございました」
 吉備王が蒼い顔をヒクつかせると、急に息がふき返った。人形のように満足げな笑みを浮かべた。
 「見事であった。かような素晴らしい踊りは見たことがないぞ」
 その言葉に、止まっていた時間が人々の上に戻った。全身に残る不明の疲れをまぎらわすようにほめたたえはじめた。
 温羅がよろよろと頭をふりながら立ち上がった。倒れている射王と鵜江をみつけると、血相をかえて抱き起こした。
 「射王どうした?!なんで鵜江様がこんなところに――おい!」
 温羅は、転がっている刀に目を止めた。目を丸くするのに、射王が力なく首をふった。
 「温羅・・・・お願いだよ、このことは誰にも言わないで。お願い・・・温羅」
 「射王――」
 温羅は射王の憔悴しきった様子をしばらく見つめていたが、ため息をついた。
 「何があったかぐらいは話せよ、いいな」
 射王を木陰に座らせると、鵜江を抱えて走っていった。
 射王は息をついた。残された刀を手にとった。それは皇恭の祝いの聖剣だった。
 たまらなかった。自分を殺そうとした刀が、祝いの聖剣刀だとは。皇恭の刀が穢されたのが不思議なほどに悔しかった。
 「黒媛のやつ・・・・!」
 射王は圧倒的な強さを持つ魔女に、何の力もなく倒された自分がひどくみじめだった。
 射王は気をとりもどすと、刀を膝の上に置いた。讃良がやっていたように見まねで呪文を唱え、情熱に近い思いをのせて刀にくちづけた。祝福を与える唇が熱くなる。
 清めの処女のくちづけが、自分のものでは申し訳ないと思った。射王は祈りに皇恭の武運と、陰篭る吉備の未来を祈らずにいられない。刀をそっと、抱きしめた。




 「なかなかおもしろい座興だったな」
 人影のない岩間から忍び笑いがもれた。
 「だがあまり油断するでないぞ。この吉備の国、用心に用心を重ねても足りぬぐらいだ」
 「心得ておりますわ。ここには特殊な気がいくつも巡っておりますもの。ですがわが王、吉備はもはや我が手中にございましてよ」
 「まことそなたは恐ろしい魔物じゃ」
 「大和がわたくしを裏切らぬかぎりには、決っして悪いようにはいたしませぬわ。わたくしは大和の守護巫子。この吉備の国の富を、すべてあなた様に」
 「私はこの世界の王となる者だ。吉備とてその一駒よ。私について間違いはないぞ」
 「むろんですわ。それ故にわたくしはここにいるのですから」
 「富も鉄も、これからの私にはすべて必要なものだ。この国の富を手中におさめれば夢も現実となる。――ところで黒媛よ、あの巫子姫はなかなか面白かったな」
 「まだ子供ですけれど。でも、はやめに摘まれた方がよろしいかもしれませんわね」
 「巫子姫は国の要か?なれど、摘むには惜しい美貌だな。あの舞いも悪くはなかった。なかなか気に入ったぞ」
 淫猥な笑い声がひびく。
 「お気に召したのなら、王のみ心のままに」
 「しばらく遊べような。それから、あまり楽しみにすぎぬようにな。前回の土蜘蛛国では派手にやりすぎた。始末が厄介だったぞ」
 黒媛はゆっくり首をかしげてみせた。
 紫水晶からの光りがすいっと引いた。
 妖しく微笑む黒媛の瞳が揺らめく。
 これから起こる波乱を予言しているように不気味だ。それは讃良に送られた宝石とまったく同じ石であった。





 祈りの里にひときわ高くそびえる神殿に射王はいた。
 皇恭の成元の儀が終わるとそのまま、祈りの民のもとへ来ていた。
 気の統率を訓練することを射王が強く望んだことと、泰幻もその必要性を認めたのだ。
 黒媛の力を目の当たりにして、今の自分では太刀打ちできないのだと痛感させられた。
 ならば少しでも意のままに気を統べる術を学ばなければ。
 黒媛への生理的嫌悪は隠しようがなかった。
 だが、それに似た不安を讃良にも感じるのはどうしてだろうか。彼女のそばにいなければならない、そんな気がする。
 それは恋だ、と温羅が言った。
 だが射王にとってはなにが本当に恋なのかはわからなかった。
 ただ強く思うこと。それが恋というならば、讃良にたいする気持ちもそうだともいえる。
 けれど讃良とはもっと違う、特別な何かによって結ばれている絆のようなものを感じていた。それが何に由来するかはわからない。
 射王は儀式が終わってからまもなくして、鵜江の訃報を聞いた。
 急な病に倒れたという話であったが、本当の原因を、射王はなんとなく知っていた。
 喰われてしまったのだ。闇に殺された。
 執着にも似た望郷の念を利用され、彼女はもてあそばれるように命を奪われた。
 皇恭の嘆きはどれほどだろうか。それを思うと、自分のことのように胸が傷む。葬送に顔を出す勇気がなかった。
 鵜江もまた射王には、送られたくないだろう。悲しいまでの孤独の狂気が、鵜江の正体だったのかもしれない。それに正直に言えば皇恭の嘆きを見たくなかったのだ。
 あれから三年の月日が経とうとしていた。
 射王の髪はさらに伸び、女体として嫌っていた部分がいくぶんと膨らみをみせていた。
 女の血が勝っているのか。祈りの民の優雅さが射王に気品と色気を醸しださせ、見る者の心を騒がせずにはいない存在になっていた。
 「射王、おばばさまがお呼よ」
 重い鉄の戸が音なく開かれた。
 讃良が顔をだすのをまぶしそうに見つめた。
 「すごい光量ね射王。なんで、あなたなのかしら。祈りの民じゃないのに、皮肉よね」
 讃良の唇がきりっと引き締まった。射王の淋しそうな瞳と合うとフイッとそらした。
 讃良は研ぎ澄まされた大人の女性へとすっかり変貌していた。幼さが抜け、引き締まった張りのある美貌がはちきれんばかりに輝いている。
 「讃良、おばば様が帰ってこられたの?」
 「つい先ほどね。王宮のほうは、かなりもめているみたいよ。王がまた金屋子様に絡んでいるんですって、鉄をもっとだせって。最近の騒動っていっつもそう」
 そうして祈りの民をわずらわせるのだと讃良が言外に言っている。
 射王は肩をすくめる。讃良は近頃よくイライラしているようだった。疲れたようにため息をついている。自分でも持て余しているようだ。
 二人は並んで歩いた。
 「ねえ射王、私、あなたとはじめて会った時のこと思いだしたわ。射王って泣きべそかいていたくせに、あのころから私なんかよりずっとすごかったんだわよねえ、優れてて・・・」
 「なに言ってんだよ。俺は優れているんじゃないよ。この特殊な身体に因っているだけだって、おばば様も言っていたじゃないか」
 「でも、優れていることは事実だわ」
 讃良はまた、自信なさげにため息をついた。
 「なんだかすごく自分が無意味に感じられるわ。黒媛様の舞を見てから自信なんて、なくしてしまったわ。ほんとうに私なんかが巫子姫になれるのかしら」
 「讃良はうまくやったじゃないか」
 「あの時はなにもかもが嘘みたいに進んだんだけど、年を重ねるごとに駄目ね。あのときの私どこいっちゃったんだろう」
 「だ、大丈夫さ。ちょっと疲れてんだよ」
 「そうかしら・・・そうね、そうだといいわね」
 沈んだ讃良を見ると胸がチクリとした。
 「そういえば吉備王様の体調も、あんまりよくないっていっていたわよ。皇恭ともよく衝突しているみたいだし。そう思うと王宮の雰囲気もずいぶん変わったわね。鵜江様が亡くなってから皇恭の立場も激変しているし」
 「黒媛のせいだ…」
 「えっ」
 「根元をのぞかなきゃ、だめになる。兄さんも父王も、このままじゃ絶対いけない――」
 だが射王には、黒媛の呪縛をとりのぞくだけの力をまだ持っていない。どんなに急いてみても、時間には追いつけず、無為に過ぎ去ってゆくばかりだ。
 「でも不調にしたって、王の方が私たちを近づかせてくれないじゃない。いつも黒媛様を侍らせて、治療もさせないわ。一部じゃ、そのせいで皇恭との仲がこじれているって話よ」
「まさか、兄さんと黒媛だなんて」
 「あらそうかしら。皇恭だって男よ。あれほどの美女ならいやな気はしないでしょ」
 「そんな、でも・・・ただの噂だろ?」
 むきになる射王に讃良は肩をすくめた。
 「どうしてそう皇恭のことになるとむきになるのかしらね。感情の統制が崩れてるわよ。どこがいいの、皇恭なんて?」
 「ど、どこってそんなこと・・・。だって、兄さんだし、世継ぎの君だし・・・・」
 射王は自分でもわからない。思い出した皇恭の笑顔が、胸に苦しいことだけが真実だ。
「なにを考え込んでいるの」
 「えっ、ああ別になにも――」
 「射王このごろ変よ。ぼんやりすることが多くなったみたい」
 「ホッホッ。そりゃあ、力が目覚めてきとる証拠じゃわい」
 皺ばかりの笑顔がひょいと現れた。
 「おばば様!」
 「あまりに遅いでな、わしのほうから出向いてきたぞ」
 「あらごめんなさい」
 「ふうむ。さて、どこまで伸びるのじゃろうのう射王は。ぬしの能力には驚くべきものがあるわい。我らとは根本が違うようじゃ」
 讃良の顔が心なしか白らんだようだった。
 「おばば様今回の呼び出しは何だったの」
 「おお、それなんじゃが、今回は王の不調もさることながら、ここ二、三年ばかり続いておる変死体のことじゃよ。どれもこれも首を切り取られたうえ、萎びたようになっておるらしい。まったく、吉備にもおかしなことが起こるようになったもんじゃわい」
 「射王にだったら、わかるんじゃない」
 「讃良?」
 「だって射王は何でも私より上手にこなすじゃない。オーラだってよく見えるんだし、行ってもらえば?まだまだ伸び続けているんでしょ」
 泰幻が諭すように讃良をいさめた。
 「人にはな讃良、それぞれに合わせた時間の流れというものがあるのじゃ。おまえと射王とでは根本の立場が違うておる。それに各人、成すべきことも異なるしな。巫子姫となる者がなんとした口のききようじゃな讃良」
讃良はカッと赤くなり、ぐっと唇を噛むと、泣きそうな顔をしてかけだして行った。
 「讃良――」
 「よい、追うな射王。わかっておる。あれも多少の焦りを感じてきておるのじゃ。じきに十八の祝いじゃからのう」
 歴代の巫子姫が選ばれる限度の年齢である。
 「それにおまえ様の気が尋常でないことにも苛ついておるのじゃ。あれももうちっと周りの気配を学べば楽になるのじゃがのう。なんとも可愛いいことじゃ、青い青い」
 快活に笑う。
 泰幻のような女怪には、讃良ぐらいの娘では何をしても可愛いとしか映らない。
 だが、当の本人の苦しみは、いつの時代も変わらない。
 「俺、そんなつもりじゃなかったのに」
 自分の持てるすべての力を使えるようになりたい。敵に対抗する力をつけたい。ただそれだけだったのだ。
 そしてそれもまた、いつか会わなければならない神への一歩にすぎない。
 「わかっとる。だが今はそっとしておやり」
 射王はためらったが、やはりじっとしていられなかった。讃良を追った。
 後ろで泰幻の笑いがした。
 




 讃良は納戸にいた。薄暗く湿り気を帯びている。神具を納めてある棚に手を伸ばそうとしていた。
 「讃良」
 讃良はギクリとしてふりむいた。背後の射王に表情を険しくした。
 「讃良、それに触っちゃいけないよ。おばば様に止められているだろ」
 「これはもともと私が黒媛様に頂いたものよ。あなたには関係ないでしょ」
 讃良のまなざしに敵対心が浮かんでいた。 「でも讃良、それはよくないんだよ」
 射王から顔をそむけ悔しげに言った。
 「だってしかたないじゃない!できないのよ、私、射王のように上手くいかないんだから。わかっているわ。こんなの八つ当りだって。でもつい考えてしまうわ。あの日、暴漢に襲われたのがあなたじゃなくて、私だったらって。神は、本当はあなたを選ぶはずでは――」
 「讃良!・・・・俺は、確かに女でもあるけど、男でもあるんだ。神がそんな人間を巫女に選ぶわけないじゃないか。神に、憎まれていても仕方がないんだ」
 「うそ。じゃあなんであなたにそんな力があるの、どうして私より神のことがわかるのよ」
 「俺は他にすることがあるんだ。ずっと以前に讃良が言ったじゃないか。俺がこんな体なのは、きっと意味があるんだって」
 讃良の瞳にみるみる涙がにじみ、こぼれた。
 「私にはもうわからないのよ。だんだん神のお心もお声も聞こえなくなってきて。頭の中で誰かがささやくわ、おまえはだめだって」
 「そんなことないよ。よくないことばかり考るからさ。讃良は優しいし、誰より神のことを思っている。人の心の痛みがわかるからよけい苦しいんだ。大丈夫、讃良なら」
 讃良をそっと抱いた。背を撫でた。
 「できるよ巫女姫に、なれるよ」
 「私おかしいの。あの晩から、黒媛様の舞をみてから頭の中がぼうっとしているの。それまでは、呼吸するぐらい簡単にわかっていたことも、あの方の踊りをみてから、頭に膜が張ったようになって、急に怖くなって。『ああかなわない、こんなに踊れない』って思ったら、もうどんどん気が萎縮されるように縮んじゃって、自分じゃどうにもならなくなって」
 射王にはわかっていた。黒媛の舞いのあと、強引にオーラを吸い取られたのだ。そのときに肉体の制御まで壊されたにちがいない。
 それは半分射王のせいでもあった。かばいきれなかったのだから。
 「あのもらった珠から力を感じる。一度だけ触ったあの感触が忘れられない。別人になったように力が湧いてくる気がする。あれが欲しいわ」
 「だめだ!そんなのまやかしだ。だまされちゃいけない。あいつは、黒媛は――」
 「あなた、黒媛様の何を知っているの?どうしてあの方のこになるとむきになるの?」
 「そ、それは」
 「何か隠しているわね射王」
 声音が変わった。
 「射王、――私ね、私ずっと気になっていたことがあったんだけど、ねえ、あなた成元の儀の時どこにいっていたの?なんで儀式に出てもいないのにあんなに疲れていたの?」
 厳しい目。一部の嘘も見抜いてしまう。
「ずっと疑問に思っていたわ。聞くのが怖くてどうしても聞けなかった。でも、だけど、もしかしてあなたが本当は私に・・・」
 「讃良!俺は……っ」
 讃良は射王の頬を思いきりひっぱたいた。
 「やっぱりあなただったんだ。私の後ろにいた影、私に力を貸した気配、神ではなく、射王だったんだ。だから、だからあんなにうまくいったのね。だから神と対話できたんだわ。あなたがいたからだからみんな――!」
 「違う!それは違う。俺は讃良の気を制御しただけで、なんの力も与えてない。神の声を聞くなんて、俺にそんなこと――」
 もう一度鋭い音が頬をならした。叫んだ。
 「いまさらそんな嘘を!もういいわ!どうでもいい!あなたは私を騙した。ばば様と二人で私のことを裏切った。それだけで充分!!」
 切れ上がった目が涙に濡れている。ねめつける呪いの視線が、射王の心が砕き、失った信頼が鋭い刃物となり臓腑をえぐった。
 「やっぱり私を憎んでいた。私の代わりに犯されたことを、巫子姫になれなかったことを恨んでいたんだ!なら私も憎む!射王を恨むわ!!」
 「讃良!」 
 讃良は飛び出した。大粒の涙が彼女の切り裂かれた心のように讃良から流れて散った。
 「・・・俺は、俺はただ、讃良の助けがしたかったんだ。あれは本当に、君の力だったんだよ、讃良」
 柱を殴りつけた。拳から血が出た。
 傷つけるつもりはなかったのだ。本当なのだ。
 箱の中からが鈍い光りがもれ出た。不和の気配を喜ぶように、鈍くどんより光っていた。




 「ねえ知っているかい。美音ちゃんの姿がこの間から見えないんだってさあ」
 飯炊き役の女が声をひそめて言った。
 「やっぱりあれかねえ。例の――」
 「シッ。めったなことをお言いでないよ。もし旦那様方のお耳にでも入ったらひどいよ」
 「だってさあ、もっぱらの噂じゃないか。大和の巫子様が、娘を引っ張り込んじゃあ喰っているって。声をかけられて姿を消したのは美音ちゃんでもう十三人目だろ」
 「だってまさか、あんないい子がそんなことには」
 「ねえねえおばちゃんたち、それって、いつから起きるようになったんだい」
 ひょいと若い男が顔をのぞけた。人なつっこそうな笑顔をしている――温羅だ。
 飯焚き女は無邪気な笑顔につられ微笑んだ。
 「あんた見ない顔だねえ。どこから来たんだい」
 「美作のほうさ。三太の代わりに雑用係で入ったんだ、よろしく頼むよ。それよりさあ、どうなってんだい、ここんとこ女の子ばかりがいなくなっているってさあ」
 「ああこの二、三年ばかり頻繁にね、娘が忽然と姿を消すんだよ。そうかと思うと何日目かに首なしの干からびた死体が現れるんだ」
 「美音ちゃんも消えちゃってさあ。嫁入りが決まってたのにだよ。あと三カ月で辞めるはずだったんだ」
 「それがね、見たって者がいるんだよ。言いにくいんだけど、ほらあの黒媛様がさ、娘を部屋に引き込んでるっていうのを。部屋に血が残ってたんだって。だってあの方、ほんとうはもう百歳が近いってんだろ。なのにあの美貌と若さだ」
 「娘の血を飲んでるんじゃないかって――」
 「それに王と皇恭様が黒媛様をめぐって仲違いされてるのは周知のことだろ。まったく、このところの吉備は、ほんとおかしすぎるよ。ところであんた三太のかわりって、三太みかけないけど、どうしてるん・・・あれ、ちょっと?!」
 話しかけた先に、すでに温羅の姿はなかった。
 顔を見合わす二人の目に、離れの廊下を歩く皇恭の姿がうつり、慌てて仕事に戻った。
 宮中に不穏な空気が流れだしてからずいぶんと久しくなっていた。
 誰の目からもわかる吉備王と皇恭の不仲なせいでもあるが、若い女が時々いなくなるという奇怪な事件が人々の心をさらに不安にさせていた。
 人々はそれを本気で追求しようとせぬ吉備王を快く思っていなかった。
 特に皇恭は、吉備王のあいまいな態度そのものを嫌っていた。
 鵜江の死後、王は人がかわったようだった。
 誰はばかることなく黒媛をそばに置き、それまではどんなに女遊びをしようとも怠らなかった政務にまで、関心がなくなっていた。
 それをよいことに宰相の香屋臣(かやおみ)が、政権を牛耳ろうとしていた。老獪な手腕をつかい吉備を欲しいがままにしようと画していたのだ。
 それは外戚のない皇恭には厳しいものであった。香屋臣は四道将軍の一人でもあり、名声も信望も厚かった。
 わが子を庇うべくした王が腑抜けでは、皇恭も嫡子としても、ずいぶん悔しい思いを味あわされている。
 「父はまた取り継がないのか御友別。先日からずっと面会を申し出ているのだぞ」
 「そうお伝え申してはいるのですが」
 「どうせ黒媛殿のもとだろう。まったく――あの好色爺ぃは!」
 いまいましげにギリッと噛みしめる。
 「それにまた使い女が消えたというではないか。凶作も相変わらずだし、これといった対策も講じず父王は吉備を潰してしまう気か」
 それもこれもみな父王の乱行のせいだといわんばかりの物言いだ。
 皇恭は苛立っていた。成すべきことを放任しているばかりか、自分の言う事などまるで相手にせぬという態度がよけい腹がたった。
 鵜江の死によって、親に押し付けられていた価値観から脱した皇恭は、今までの疑念が自我の芽生えとなって現れていた。
 母という強固な殻の外には父親という一番厄介な障害があったのだ。
 「いつまでも私を子供扱するのだ」
 皇恭は御友別に再度取り次ぐよう申しつけると、鵜江のいた殿舎に足をむけた。
 「父王は何を考えているのだ。香屋臣のようなやつなどを、のさばらせて」
 だが皇恭の深い怒りの真実はそこではない。
 いま彼の心を占めているのは一人の女。
 「皇恭様」
 甘いじゃ香の香りがした。
 黒媛がいつの間にかそこにたたずんでいた。
 「お邪魔してもよろしゅうございますか」
 皇恭は思うより先に体が動いたとでもいうように黒媛を抱きしめ、唇をあわした。
 「やっと王の所から抜けでることができました。お会いしとうございましたわ、皇恭様」
 こうして、二人が人目を忍んで会うのは初めてのことではなかった。
 引き裂かれた恋人同士のように、なんども抱きあい唇を重ねあわす。
 黒媛は甘い声を出しながら、皇恭の胸になだれ込んだ。皇恭が細い腰に手を回した。
 「媛、私もずっとお会いしたかった」
 「ほんとうに?ああお優しい方。でも、きっとあなたはわたくしのことを軽蔑なさっているのでしょうね。だって吉備王様はわたくしを・・・・」
 「そんなことはない!あなたが悪いわけではないのだ。私に力がないから、あなたは仕方なく父に――」
 「あなた様との出会いがもっと早かったならば、わたくしは今ごろは」
 赤い唇が妖しく笑む。
 「口惜しゅうございますわ、皇恭様」
 「せめて外戚がいたらと思うと、わが身が呪わしい。射王のように、金屋子のような強力な外戚がいたならば!」
 「なにをおっしゃいます。あなたは偉大な弥真台国の姫君を母にもつ、高貴なお方。大和の王にもなれるお血筋でございましょうに」
 黒媛の言葉が、皇恭のなかへ、弥真台国の血筋だという自尊心を起こさせる。やはり自分こそが吉備を治めるのにふさわしいのだと。
 「わたくしをお救い下さいませ。あのいやらしい吉備王の手から奪ってくださいさせ。あなたのものなりたい、ねえ、皇恭様」
 「黒媛」
 皇恭は荒々しく抱いた。その場に倒し、抑えきれぬ激情で、父王の犯した肌を清め、新たな命を吹き込むように揉みしごいた。
 「皇恭様。吉備の王におなりください。高貴な血でもってこの国を治め、大和と手を結び、世界を治める王とおなりください」
 「世界の王?――私が?!」
 「はい。大和王が力添えいたしますわ。かの大王は、皇恭様に、ご自分の幼きおりの姿を重ねていらっしゃいます。あの方も母君が庶民の出ゆえ、大変苦労なされて今の座に就いたのです。ですからあなた様にはぜひ吉備の王となり友好を結んで頂きたいと望んでおります。王におなりなさいませ。私のために、栄光を手にお掴みください」
 「私は・・・」
 黒媛は歌うように笑った。
 溺れる女の中で皇恭は悪夢と抱きあった。己を狂わす呪祖でさえ、愛しいと感じていた。




 もう何ヵ月になるのであろうか。
 讃良は射王と口を聞こうとはしなかった。会っても目を反らし、声をかけても知らぬふりをしていた。
 皮肉なことにも、それから讃良の力は増してきていた。かわりに彼女の美しさはやつれに犯され、笑顔が青ざめていた。無理をしているのがありありとわかった。
 射王はそんな姿を見るたびに自分を責めていた。追いつめたのは自分なのだ。
 きっと讃良は射王を見るのがつらいのだろう。
 鬼気せまる讃良のなかに、彼女の苦しみの涙が見えるようだった。
 射王は山に入っていた。
 森に慰めを求めていた。
 木々の空気が射王を優しくいたわり、吸う息のなかに命が染みわたった。
 まるで苦しみが軽減してゆくようだ。
 寝転んだ射王の顔を狐の子がのぞいた。頬に冷たい鼻をあて匂いを嗅いだ。
 「止めろよ、髪をひっぱるなって」
 狐の子は噛んでいた赤い髪をはなした。開かれた硝子のような射王の赤い瞳に驚きながら、そこに映る自分を不思議そうにみている。
 「ふむ、まったくめずらしい。これも自然の一つの現象か。自然はこのように多様性に富んでいるものなのだ。種を同じゅうしているはずなのに、これは異種の生物か」
 「だれ?」
 跳び起きた。子狐が驚き走り逃げた。
 岩の上に座り、なまず髭を引っ張って、男が射王を珍しげにみていた。
 「これはこれは。狐の子供と思いきや、狼の子供であるかな。いや、この魂の形は、なんとも傷つきやすい兎の子かもしれないぞ」
 「はあ?」
 「ねえきみ知っているかい。人間と動物の発生って同じなんだよ。命が誕生した直後の胎児っていうのは、人間も動物もほぼ同じなんだ。どこに違いがあるんだろうね、私たちに」
 訳がわからないとばかりに返事に窮している射王を、男は愉快そうに見つめる。
「ではそこで問題だ。だったらどうして人間は空を飛べないんだろうねえ。もしかしたら、飛べないと思っているのは、人間のほうかも知れないよ」
 「あ、あのあなたは――」
 射王にかまわず、男はひとりうんうんと頷いている。
 「きみはいいねえ。きみならできるかも知れないよ。大地を敵にまわさずよく交わっている。生命の始まりと終わりはいつもここだ。大地なんだ。きみが思うのと同時に自然がきみを思ってくれているよ。わかっているね」
 「あの、俺は――」
 「人間は間違いを犯しながら進む。だけど、行きすぎてはいけない。もとへ戻れなくなってしまう。この土地はまだ生きている。けれども、あの国はもうだめだ。もう死んでいる。自ら実りを拒否しているんだものね。だから奪わなくては生きてゆけない。それに気づかず、他の地の富ばかりを欲っしているんだ」
 男はしみじみと、遠くを仰いで言った。
 「媛のいうことを聞いておけばよかったんだがねえ。だがもう遅いよ。吉備の国も、もう危ないよ。親殺しか子殺しか。美しいものには刺があるもんだ」
 「あなた何を言いたいんですか?」
 「おお少年、ん、少女?ああなるほど」
 わかったと手を打った。
 射王の視線を軽く流しふらふらと歩いて行いった。
 「私は自由。どこにも属さない道化。美しき媛君にお仕えするくるくる狂った道化だよ」
 射王はの後に男について行った。
 あの女性がいた。湖のほとりだった。手に大きな黒い包を持っている。
 そして忘れるはずがない。狼たちと過ごしたあの時も、こんなふうにフラフラと歩いていた。
 少しも変わっていない。汚れに縮れた髪の毛。そしてその半面は醜く燗れ――。
 射王は目をつぶった。顔をそらした。
 男は女にうやうやしくかしずき、あてもなくさまよう彼女の後ろをついて歩いている。
 まるで敬愛してやまない姫君に使える騎士のようだ。
 射王は怖くなった。そしてなぜか泣きたくなった。見てはならない神聖な何かを見てしまったような気がする。
 額が熱くなった。
 とつじょ落雷が落ちたかのような衝撃が全身に走った。
 体が痺れた。なにかが細胞を喰い破り、愛撫をするように浸食してくる。
 声は直接射王の脳に響いた。
 ――讃良を巫子姫に・・・わが・・・よ。
 その言葉は繰り返し聞こえた。眉間に割れるような圧痛がした。
 その声は、来たときと同じように、いきなり聞こえなくなった。
 「讃良を巫子姫に・・・?」
 射王はふらふらと立ち上がった。
 「讃良を巫子姫に――!神託だ!神託が降りたんだ!」
 言葉を口にして、はじめて降った言葉の意味を理解した。
 ついに来たのだ。この日を、この瞬間をどんなに待ち望んでいたか。
 射王はそのまま急いで山を駆けおりた。心にはただ、讃良の喜ぶ顔がだけが浮かんだ。
 巫女になることだけを、神だけを一途に思ってきたのだ。ひたすら身を清め待っていた。
 その心がやっと報われる。やっと神が御心を開き許してくださったのだ。
 姉のように家族のように慕っていた。そして恋人のように、彼女を愛していた。
 早く知らせたい。
 この時間はいつも神殿で祈っているはずだ。
 射王は息が切れるのもかまわずに、神殿に飛び込んだ。
 「讃良!讃良聞いて神託が降りた――」
 「見ないで!!」 
 讃良の悲痛な叫びが神殿に大きくこだました。
 「見ないで、お願い、見ないで――これは、何かの間違いよっ」
 ちぎれた衣服が散らばっていた。
 その布きれの中に讃良が茫然と座っている。
 ――真裸だ。
 その純白の裸身のそばから男の影が離れた。
 振り向いたその顔が残忍に笑っている。
 「み、たか?」
 讃良の肉体に加えられた暴力が、なんであったかを理解するには残酷すぎた。それがけして愛情ゆえの行為だとはとても言えない。
 射王は信じられなかった。足がすくんで動けない。
 自分でもわけのわからない絶叫びが喉をつきあげ押さえられなかった。
 「なぜだー!なぜこんなことを、嘘だろう兄さん!」
 「うるさい。兄などと気安く呼んでほしくないな。おまえと私とでは天と地ほどの差があるんだ、射王」
 皇恭は冷たく鼻で笑った。良心の呵責などなにほども感じていないように讃良を突き放した。
 射王はやっと気づいた。
 その顔はもはや昔の皇恭とはちがう、全然知らない別人のものだ。
 もともと正端だった顔が、いまは怜悧に切れ上がり、他人を見下したような高慢さがはばかることなく浮かんでいる。
 「初めてにしていい体だった。男好きする体だな。ほら射王、おまえも試してみろよ。おまえも、男でもあるんだろう」
 くりっと熟れた乳房を手にとってみせる。
 「やめろ!」
 射王は知らぬ間に腰の短剣に手をかけていた。目の前が怒りに真っ赤になった。
 「なんでこんなことをしたんだ!なんで、どうして今なんだよ。やっと神託がおりたんだぞ。やっと神に許されたんだ。待っていたんだ。ずっとこの日を、讃良はずっと――!!」
 声にならない讃良の悲鳴があたりを貫いた。
 射王はたまらなくなって刀を抜いた。
 皇恭も待ちかまえたように刀を抜くと身構えた。射王が祝福を与えた聖剣である。
 射王は幼いころの兄の笑顔が目に痛かった。涙がにじみ、いっしょに流れ頬を濡らした。
 刀が激しく火花を散らした。受け止めた衝撃で射王の衣が裂けた。
 さらに次の攻撃に突き飛ばされて、壁に強く頭を打ちつけられた。
 射王の護身用の短剣が砕け散った。
 「タタラの刀が?!」
 たとえ短剣でも、たった一、二回の衝撃でこうも簡単に壊れるはずがない。
 ぴりぴりと厭な感覚が体をめぐる。
 「その刀!黒呪術を施したな。おまえの後ろにいる影はのは誰だ!黒媛か?!」
 皇恭はニヤリとした。血を好む冥府の王が顔をのぞけ、刀をふりかぶった。
 「やめんかたわけが!」
 厳しい声が神殿中を震わせた。
 入口に泰幻が立っていた。
 皺に隠されている目がカッと見開き、放たれた閃光が、二人のあいだを凍りつかせた。
 「なんとういことを――なんと…っ!」
 激昂にうち震えた鬼面が蒼白に歪んだ。
 泰幻は我を忘れたように怒鳴りあげた。
 「なぜじゃ!きさまら王族はなぜこのような仕打ちをするのじゃ。悲劇を繰り返し、何が満足じゃ。ようやく、ようやく神の許しを得たというのになぜ――」
 泰幻の血を吐くようなうめきに、射王は言葉を失った。向けられた言葉は皇恭へだけではなく、射王のなかにも刺を刺した。
 皇恭は舌うちして戸外へ躍りでた。
 外に待っていたいさせりひこ五十狭彦がすばやく馬を寄せた。黒媛の従者である。
 皇恭は飛びのると鞭をうち早駆けていく。射王はそれをどうすることもなく見送っていた。
 降ってきた雨に射王は打たれていた。
 風は冷たく雹にかわった。
 「おお、おお讃良・・・・」
 ときどき泰幻の声が聞こえてきた。
 涙だけを流しながら人形のように座り込んでいる讃良に、泰幻はふるえる手で抱きながら我慢し切れぬ鳴咽をもらしていた。
 「なんというなんという、やっと神託が降りたというのに、なにゆえにこのようなことを、なにゆえに。おまえに何の罪があろうか」
 射王は着ていた上着を讃良にかけた。
 讃良はそれを荒くはねのけ、射王を睨みつけた。
 射王が全ての原凶だといわんばかりの激しさで叫び、暴れ狂った。
 「外に出ていてくれんか射王よ、今はもう」
 最期の言葉まできかず、射王は外に走りでた。抑えきれない彼女らの怒りは王族すべてを呪うものだった。
 黒雲に一条のイカズチが走った。神の放つ怒りの光りの矢。
 射王は神殿の周りに赤い粉が、撒かれていることに気がついた。それは結界だった。神殿での気配を隠すために張られたのだ。
 射王は皇恭と逃げた男を思い出した。黒媛の後ろに控えているのを見たことがある。成元の儀のときにただならぬ鋭さを感じた。
 これだけの結界を張れるのはなみ大抵の者ではない。
 「黒媛かやはり?!」
 神託が下るのをみはからったように、これだけうまく事をなしえるのは彼女しかいない。
 皇恭はならば狂ったのか。讃良に思いを寄せていたとも思えない。今の彼はおよそ皇恭らしくなかったではないか。
 射王はその目を知っている。父王と同じ冷たい侮蔑の瞳。
 すざまじい落雷が目の前に落ちた。樹齢千五百年の御神木がまっぷたつに折れた。
 神は怒っている。
 怒りが荒々しい大粒の雨となって地上に注いだ。射王は豪雨のなかを馬を駆って出た。
 祈りの里に、まるで自分が悲劇を連れてきたようでたまらない。
 讃良の嘆きの叫びを聞いたようなきがした。射王は振り返らず、一心にタタラの里へ向かった。赤い鉄分を含んだ火の川が、射王の涙のように渦巻いて流れていた。


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