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炎の血脈

3



 寝殿の垣のすきまから外にとび出すと、そこは王宮のすぐ後ろにそびえる羽咋山だった。
 寝殿と都を守護するように雄々し連なっている山の裾野だ。
 射王は山の中腹まで来ると他の、誰の気配もないのを確認してから腰をおろした。
 動きにくい包帯をはずすと、木の根もとに生えていた薬草を傷に揉み込んだ。
 昔からこうして治してきた。これが当り前なのだ。
 草地に寝転がった。とても疲れた。
 羽咋山はタタラの山と違って生きた金属の感触はしない。それでも緑の息吹きは心地よく射王を包む。風が冷たく、鼻の奥がつんとしてきた。
 「俺って、ほんと望まれなかったんだなあ」
 射王の赤い瞳が空を見上げた。
 「言ってくれるなら、誰でもよかったのに」
 ただの一言でいい。おまえは望まれて産まれたのだと、誰かの言葉が、欲しい。
 緑に溶けてしまうような儚さがあった。
 それは守ってくれるべき者がなく、安らぐところがない心細さをうつしていた。
 母という漠然としたものを想像したとき、射王はいつもこんな風になる。ひとりで、生み出してくれた者への憧れをかみしめるのだ。
 あの鵜江ですら母という名の時はあれほど優しげなのだ。射王はその存在のはなつ、甘い胸の香りも、とろけそうな笑顔も知らない。
 思い出せるのは乳母の抹梨の顔だけだった。
 もしかしたら他の人と異なるのは体だけではないのかもしれない。何か魂が変なのか。 皆が自分を見るときの毒気をもった視線。ひっそりと聞こえてくる陰口。
 呪いの声が射王の思考を埋めてゆく。
 ――あの子は穢れの子よ。
 父さえ例外ではなく、射王の出生を疑っている。
 始めは自分の容姿が誰よりも醜いのだと思っていた。それが違うとわかり、今度は愛妾の子であるからかもと思った。
 あの美しい鵜江后の怒りを買い、それで、みな母と射王が許せないのだと。
 でも違った。そうではなかった。王の愛妾はまだ他にもいた。
 「タタラの里へ、山へ帰りたいなあ」
 射王はつぶやいた。
 恋しいあのタタラの赤い山に帰りたい。けむたがられるのはどこでも変わりはしない。
 ならばあそこには自由だけでもある。
 温羅と摩釉がいて、ふたりとも射王とは考え方も行動もずいぶん違うのに理解しようとしてくれる。わかろうと努力してくれるのだ。
 射王が射王であることを責めはしない。
 「この髪と目だけでも黒かったら・・・」
 嫌な目でみんながみつめた。
 その目が威圧感と偏見で射王を怪物にする。
 猫が鳴いてすりよった。抱き上げると日向の匂いがした。
 ガサッ、と枝を踏み折る音がした。猫がうなったのに、薮が人波に動いた。
 「だれ?!」
 射王は身を固くした。足が萎えて立てそうになかった。いったん座ってしまうと身体がいうことをきかない。無理に退がろうとして力を込めた腕の傷から血が流れた。
 「誰かそこにいるのか」
 繁りがわけられた。現れた顔に射王は目を見張った。
 音がふっつり消え、時間が足をとめたように、二人は見つめあっていた。
 「射王?」
 「皇恭・・・にい、さん」
 射王は口に出してから、兄と呼んでよかったのかと戸惑ってしまった。いつも心でそう呼んでいたため意識せず出てしまった。
 皇恭はそんな射王の葛藤になど気づきもせずに駆けよってきた。
 「に、にいさん?」
 「大丈夫か。これってあの時の傷?」
 皇恭の手が触れ、射王はびくっとした。
 「痛むのか」
 首を振った。痛いのではない。
 表現できない、甘くうずくようなものが胸をしめつける。
 二人だけで会ったのは初めてだった。なんと言葉をかけていいのか少しもわからない。
 射王は自分が嫌われていると思っていた。
 誰かがかならず射王と皇恭の間にいて、それをまた、当り前だと思っていた。
 皇恭がいきなり顔をあげ、触れ合うほど間近に顔があった。目と目が合ってはなせない。
 木の枝から飛び立った鳥の声だけが、やけに大きく聞こえた。
 さきに目をそらしたのは皇恭だった。皇恭は乱暴に懐から布をだすと腕に巻きつけた。
 「あっ・・・」
 「すまない。母は、以前はこんなことする人ではなかったんだけど。この頃少し・・・」
皇恭はいい淀み、それから辛そうに言った。
 「少し変なんだ。人が違ったようになる」
 皇恭は射王の眼差しに気づき赤くなった。じれたように言った。
 「・・・・どうしてそんなに見るんだよ」
 「え?」
 そっぽを向く皇恭に、射王はやっと自分が彼をずっとみつめ続けているのに気がついた。
 「ご、ごめんなさい――」
 うつむく射王に話がとぎれる。
 鼓動の音だけが大きく耳を覆った。
 いつも遠目にみていた兄がそばにいるのだ。
 射王の欲しいものすべてを持ち、王の第一子としてなに一つ恥じることのない皇恭をずっと羨ましいと思っていた。その皇恭と同じ空間にいて同じ空気を吸っている。
 とても、信じられない。
 皇恭がそっと額に触れた。
「いたっ」
 「すこし我慢しろ。ここも血が出てる。・・・・あちこち痛むのか、まだ?」
 ためらいがちにだったが皇恭は手にしていた綺麗な布で射王の額をぬぐった。その布からはいい匂いがした。
 「そんなきれいな布、もったいないよ」
 「いいさ。どうせ母上から貰ったもんだ。どう使おうと俺の勝手さ」
 皇恭の触れた部分だけが火傷したように熱く感じる。体が震える。
 「・・・・こんな風に話すの、初めてだな」
 静かな声だった。
 「いつもおまえって逃げるからさ。話しをしようと思えば誰かの陰に隠れるし目を合わすとすぐに逸せる。そばに寄せつけもしない」
 「そ、そんなこと、そんなことないよ」
 「俺な、ごめん、本当は知ってたんだ・・・・あの猫がおまえのじゃないって」
 射王は皇恭の整った横顔を見上げた。
 「つい最近亡くなった叔母上が飼ってた猫なんだ。雪消(ゆきげ)って名で。母上があんまり怒るから言いそびれて・・・・こんな事になるなんてさ、悪かったよ」
 胸が鳴った。皇恭がこんな顔するとは思わなかった。答えあぐねている射王に、皇恭がすっくと立ち上がった。
 「もう行こう。暗くなる前に帰らなきゃ」
 「あ、はい」
 「そういえば豊島がさ、女官長が怒ってたぞ。黙っていなくなったって。あまり皆の手を煩わせないほうがいい。特にいまは忙しいみたいだから、殺気だってるだろ。王宮はタタラみたいにのんびりともしてないんだよ」
皇恭は自分の言葉になにかを思いだしたのか、表情がどことなくかわった。
 「さあいこう、ほら」
 強引にひきあげられ、射王は腕に鈍痛がはしった。立ち上がるのと同時によろめき、前にのめる。まっすぐ皇恭の中に倒れ込こんだ。
 「あっ。ご、ごめんなさ――」
 射王はあわてて身を起こそうとした。グッと強い手が抱き止めた。射王はそのまま身をかたくして彼の胸に頬をつけた。心臓の音が破裂しそうに大きく聞こえる。
 手が、背を撫でた。甘いうずきが体の芯を溶かす。震えてしまう。
 まるで雷に打たれみたいだった。息が止まった。
 皇恭はいきなり乱暴に突き離した。なにもなかったかのようにくるっと背を向けた。
 「おぶされよ」
 「えっ?」
 「おぶされ。どうせ脚も痛んでいるんだろう――面倒だからさ、はやく」
 射王はためらったが、どこか否といわせぬ気迫に押され、ゆっくりと皇恭におぶわれた。
 そっと立ち上がると皇恭は軽々と歩き出した。射王は背に揺られ、想像していた人物像とかなり違う兄の姿にひどく動揺していた。
 鵜江の名の前に皇恭の本当の姿はかきけされていた。いつも恐ろしくて縁の遠い人でしかなかった。
 なのにこうして実際には、いとも簡単に肌をよせてくれる。なぜだか他の誰とも違うような気がする。
 この感覚はなんなのだろう。温羅たちとも違う言葉にならない胸の中のあたたかさ。
 冷えた体には、そんな思いなど関係なく体温が心地よかった。安心しきって身を任せていた射王の耳に皇恭の声がぼんやり聞こえた。
 「持っていた印象と人って、違うもんだな」
 本当にそうだと思う。
 「おまえさ、もっと堂々としていろよ。一歩ひいているから他の者が図に乗ってくるんだ。やつらは誰が上かを示してやらなきゃすぐ主を忘れるような低能な輩なのだ。常に身分の差を示しておけ。でないといつ牙をむくかわからないし、なめられたらおしまいだからな」
 皇恭は幼いころから常に人の上に立つことを強要されてきた。だからそういう視点でしかものを考えられなくとも仕方がない。
 それが誰による洗脳か、それとも教育の成果かはわからないが、今の皇恭にはきっと弱者の立場は理解できない。それにきっとしたくもないのだと言うだろう。
 射王は厳しい言葉のなかにも、皇恭なりの優しさが隠れていることだけはわかった。
 「おまえをはじめて見たとき、女かと思ったんだ。こんな可愛い妹ができるのかってけっこう嬉しくてさ。母上がなんといおうと守ってやろうって思ったんだ。うんと可愛いがってやって一緒に遊ぶんだって。でもおまえは話をする間もなくタタラへ帰ってしまった。それからそんな機会もないし、・・・・色んな噂話を聞いたけどさ。でも俺にはおまえがどうして悪魔っ子っていわれているのか今でもわからない。違うところといっても、髪と目がちょっとばかり赤いぐらいじゃないか」
  射王はだまって聞いていた。
 「だから、俺、おまえは悪くないと思うんだ。父王とおまえの母上が色々あって、良くないことをしたから仕方がなく・・・・」
 皇恭の言葉はつららのように胸を刺した。
 母親を否定されることは、自分もそれ以上に否定されていることと同じなのだとは彼にはわからない。
 慰めようとしてくれる気持ちは嬉しいが、握る拳に力が入る。
 「ああ、おまえの母がどうと言っているんじゃないんだ。まあいろんな噂がとびかっているし俺の母上もなんのかんのと言っているけどさ」
 大人がどんなことを吹きこんでいるかなど、容易に想像できる。
 なのに射王はそれらのことを否定できるほど母のことを知らない。だから弁護してやることもできない。悲しいまでに。
 ふと皇恭の手が動いた。射王の尻のあたりを押し上げた。手がくすぐったくて身をもじった。
 皇恭の手がびくっとして足をとめた。
 振り返る表情に、射王は彼が何を感じたかをすぐに悟り、背中から飛び降りた。
 「おまえ、ほんとに・・・・」
 大人たちと同じ目だった。珍獣を見る、好奇な眼差しが射王をたまらない気持ちにする。
 幸福な気持ちが一挙にさめた。ただ後味わるい恐怖感だけが残った。
 射王は逃げだしていた。脚の痛みを感じないかわりに、胸の中がそれいじょうに痛んだ。
 皇恭が見えなくなった、樫の木の下までくると、途端にへたりこんだ。身体が痛みに悲鳴をあげている。さすがに限界だった。
 「どうして、こうなるんだろう」
 皇恭は追いかけては来なかった。大きな喪失感だけがしこりのように胸に残る。
 ――母様も俺をきらって山に篭ったたんだろうか。父王も俺を憎んでいるのだろうか。では・・・兄さんも?
 嫌われたくない。皇恭に、化物を見るような目で見られたくない。
 倒れ込み息をついた。
 タタラの鉄の匂いをむしょうに嗅ぎたいと思ってしまった。
 里では土と砂鉄を選別するために川はいつも赤く染まっていた。
 木炭の火が一日中燃え上がり、山から採られた真鉄が何度も何度も精錬され、まるで魔術をかけたように美しい刀へと変身してゆく。
 射王は鍛冶場で刀をうつのを見るのが好きだった。燃える炎の熱さで顔がひりひりしたが、それでも火花が飛び散っているのがとても綺麗なのだ。
 刀は魔力を得て鍛冶師の色に染まり、精魂を吹き込まれ完成する。
 できあがった刀は自ら主人を決める。最後までその主人と運命を共にするということがタタラの刀にはよく起こった。
 そういう光景を何度も見た。あそこはそういう不思議な土地なのだ。
 「なんで、俺は……」
 「こんなところで寝ていたら風邪をひくわよ」
 ひょいと、射王の顔をのぞき込んできた。びっくりして射王は跳ね起きた。にじんでいた涙を慌ててぬぐった。
 「だ、誰?!」
 にっと笑う白い歯が見えた。年は同じくらいだろうか。一目見たら忘れられないほどに美しい少女である。
 「覚えてない?讃良よ。祈りの民の巫子の」
 真っ黒く大きな瞳は神秘的なほど澄んでいる。こんなに綺麗なのに、その名は肌がざらつく嫌悪を覚える。
 「どうしたの、顔色がよくないようだけど」
 「あ、いや、……あの、どこで会ったんだろうか。俺には記憶にないんだけど」
 讃良はくすっと笑った。視線に気づき、射王は慌ててまた顔を拭った。
 「な、なんだよ、泣いてなんかないぞ」
 「あら、泣いていたの。私なにも言ってないわよ」
 ムッとした射王に讃良は声をたててにぎやかに笑った。射王もつられ思わず頬がゆるむ。
 「でも私、本当にあなたを知っているのよ」
 「そうなのかな。ああ、うん、なんとなくそんな気がしてくるよ。だって君から伝わってくる光りがとても優しいもの」
 讃良からのびる薄紅色の光が暖かく射王に向けられている。まるで心を許し合った友のように好意的であり、それは射王にとってはとても珍しい事だった。
 「見えるの、わたしのオーラ」
 「オーラ?よくわからないけど、光が見える。君には癒しの力があるんだね。すごく特別な感じがするよ」
 讃良の黒水晶の目が好奇に輝いた。
 「すごいわ!やっぱり華夜さまの子ね射王」
 「えっ?か、母様を知っているのきみ?!」
 「もちろんよ。だって華夜様は私の憧れよ。初代巫子姫、楽々森様の再来とまでいわれた偉大な方だもの。ねえ射王、もしかして他の人のオーラも見えているのかしら」
 「そうかな。この光がオーラっていうのなら、そうかもしれない。なんとなくわかるよ。でも人によって違うからさはっきりとは・・・」
 「すごいじゃない。私なんか最近になってやっと見えるようになったのよ。物心ついたときから修練しているのに。射王ったら」
 射王は、だがそう楽しげでもなくうつむく。
 「でもそれが役に立ったことなんてあまりないよ。怒られるより先に逃げ出すぐらいさ」
 だいたいにおいて、射王に対する他人の感情はあまりいいものではない。それがわかってもあまり楽しいことではない。
 「それは制御されてないからよ。それを上手く使いこなせれば人の助けができるわ。普通こういう能力は、巫子筋の家系に多いものなんだけど。巫子の仕事ってこんな風だから」
 「へえ、そうなんだ。」
 「でもあなたはやっぱり特別よ」
 「特別ってなんだよ!鬼っ子だってことかい」
 「ううん、あなたが華夜様の血を引いているってことよ。華夜様はそれほど素晴らしい巫子姫だったんだわ」
 射王は思議にたまりかねて言った。
 「ねえ、俺にはよくわからないよ。母様の何がそんなに凄いの。讃良は、母様の何を知っているの?」
 「華夜様といえば、ご誕生になる以前から我が神がお召しにと決められていた方だという話よ。そんなことって巫女のなかでも特別なことだし、華夜様と神の結びつきは楽々森様以上だっていわれていたのよ」
 讃良の言葉はいちいち耳に新しかった。
 母の話はタタラではいつもタブーであり、射王に影を落とすものでしかなかった。
 「・・・・あんまり知らないんだよ、母様のこと。陰口ならたくさん聞いているんだけどさ」
 面と向かってはっきりとは言わないが。
 讃良の濡れたような目が注視していた。
 「ねえ、射王」
 「な、なに?」
 「私ね、あなたにずっと謝りたいことがあったのよ」
声の色調がふいに沈んだ。
 「私の代わりに、あなたが暴漢に襲われて――」
 射王は思いだした。あの悪夢が甦えってきた。身体が冷たくなって行くのがわかった。
 声が、震える。
 「・・・・いいよ、そんなこと。だって讃良のせいじゃない、もの」
 「でも私は――」
 「いいんだよ!もう昔のことだ。いいんだ忘れたんだよ!!」
 女であり男である呪われたこの体。だが、あのときすでに男であることを選んだのだ。
 つねに力の下に組み伏せられるか弱い存在でいることは許せなかった。黙って奪われるのはもう、我慢できない。
 「こんどもしそんなことがあっても、絶対に讃良を守ってあげる。だからもう」
 射王はなぜかふっと笑った。透明に霞んで見えた。
 「ねえ、なんで母様は俺を産んだんだと思う。力ずくで父様に奪われたなら、絶対そんな子は産みたくないはずだよね。父様だって同じ思いだろうしさ。ずっと思っていたんだ。どうして、母様は、俺を産んだんだろうって」
 「射王・・・?」
 知らない間に自分を抱き締めていた射王を、讃良は白百合のように淋しそうに曇らせた。
 「私もよくは知らないけど、でもどうしても産みたいって言ったのは華夜様だそうよ」
 「母様が?ならなんですぐに、俺を残して山に篭ってしまったんだろう」
 ざわっと大きな樫の木が風にたわんだ。
 「――私たちの知らないことが、世界にはまだまだいっぱいあるわ。それを全部知ることはできないでしょうけど、でも聞かされるだけじゃない真実っていうのは、たくさんあるのではないかと思うわ」
 隠された真実の実は甘いのだろうか。
 「ごめんね射王」
 「えっ?」
 「だって私がいらないこと言いだしたから思いだしちゃったんでしょ、いろいろ」
 優しいオーラが射王を抱きしめる。
 「讃良が悪いことなんて何もないよ!たださ、誰もかれもが遠くから見ているだけで俺には何ひとつ教えてはくれない。いつも嫌な顔で逃げるだけで、俺を忌み嫌う。だから俺は俺のことを知らないし、母様のことはもっと知らないんだ。俺はまわりの虚言にいい返すこともできず、ただ耐えなきゃならない。だって信じるべき言葉が何一つないんだもの」
 決して近づかないくせにいつも好奇の目で見張っている。唯一慰めて庇ってくれる母の言葉は、だがもう一生聞かされることはない。
 讃良は悲しげに目を伏せた。しみいるような讃良の癒しのオーラは、なぜかこんなにも射王に近い。心の痛みに震える射王を抱いた。
 「射王、背中から血が!ちょっと、身体が熱いんじゃない。もしかして熱があるの?」
 背中ににじんだ血をみて声をあげた。あわてて額に当てる。
 「たいしたことないよ。さっき走ったからだよ。気のせいさ」
 「だってこんなに熱いじゃないの。――ねえ、もし屋敷に帰りたくないのなら、私の所へ来ればいいのよ。皇恭の成元の儀が終わるまで離れの綾綺殿に滞在しているから」
 「大丈夫だよ。ねえ讃良、それよりどうして、わざわざ祈りの民が王宮まで出向いて来たんだい」
 「なにって、王の強固な思召しのためよ。でないとこんなとこ、来るもんですか」
 迷惑で仕方がないというように言う。
 「王はなにを考えているのかしらね。今までの慣例の通りに、祈りの宮のケセド神殿で済ませばいいのに。たかが盛大な誕生日ってだけなのに生意気よ。皇恭ってまだ十五才よね。ちょっと早すぎるんじゃないかしら」
 成元の儀とは、貴族の嫡男がふつう十七か、十八の誕生日にする成人の祝いの儀式だった。
 家督の正当な跡継ぎとしてのお披露目をかね、巫子の祓いによって清められたあと、誓いをたてる。
 この日より一人前の成人として認められるようになり、公式の場においても発言が許されるようになる代わりに、その責務もまた、負うことにもなる。
 「やだ射王、腕の布にも血が浮いているじゃない。きれいな布なのにもったいないわ。早く洗わなきゃ落ちなくるわよ」
 「え、布に?」
 射王は腕を見た。皇恭の巻いてくれた萌木色の布に朱ににじんでいる。
 「どうしよ、これ、皇恭兄さんが手当してくれたんだ。返さなきゃならないのに」
 「へえ、あの皇恭がこれを?」
 意外そうな顔をして言った。
 「なに、なんかへん?」
 「いえ、別にへんではないけど。ああ、ごめんなさい。だって皇恭とあなたがそんな仲いいなんて知らなかったから。だって皇恭ってすました顔して、けっこう意地悪なこと平気で言ったりするでしょ」
 「兄さんが、ほんと?」
 「そうよ。いつも私の占いが当たらないだとか、巫子姫なんてお飾りで信用できないなんて、占わせておいて勝手なことを言うわよ」
 「親しいの、兄さんと」
 「幼なじみよ。どうしてかしらね」
 皇恭と讃良の親しげな様子が思い浮かぶ。
 「俺は、今日初めて二人だけで話したんだ」
 そういえば讃良も名家の出である。当然と言えば当然だが、羨ましさが先立ってしまう。
 「よかったじゃない仲良くなれて」
 「べつに、仲いいわけじゃないよ」
 むくれたように言った。彼の驚いたような顔が目に浮かび上がる。もう話しかけてくれないかもしれないと思うとつらくなる。
 「さあ行きましょう。きっとおばば様がお待ちだわ。私ったら、ちょっとそこまで出かけるって言ってきただけなんですもの」
 讃良の手が射王の手を握った。女性特有の柔らかな温もりがあった。
 射王と讃良は、触れた部分から意識が融合していくのを感じあっていた。
 横目に讃良を見て、射王はいまさらながらその美しさに目を大きくする。
 絹糸のような長い黒髪、すらりとした鼻梁の横には黒く濡れたような瞳が輝いている。
 「きれいだね、讃良って」
 「はあ?」
  真面目な顔で言う射王に、讃良は答えあぐね、それからふきだした。
 「なに言ってるのよ。もう、射王の方がよっぽど綺麗じゃないの。皆いっているわよ、射王は華夜様のお小さい頃にそっくりだって」
 「まさか。俺は鬼っ子だもの。こんな赤い髪に赤い瞳で、醜いに決まっているじゃないか」
 そうでなければ、嫌われているのは射王自身のせいになってしまう。内なるものの醜さで嫌われるのは耐えられない。
 「男でもなく女でもないこんな体、みんなが嫌がっても仕方がないさ」
 「そんなことない。醜くなんかない。射王が自分を恥じることなんて何にもないわ」
 きっぱりと言いきった讃良の身体が淡い銀色の光を帯びた。
 オーラの繊細な触手が射王をとりまき、彼女のけぶる睫の向こうに、未来を見透かす女神の色が、慈悲の深い思いを映しだす。
 「そんな風に考えてはだめよ。射王がそう生まれついたのなら、きっと何か訳があるからよ。だからそれはとても大切なことで、それはあなたが――」
 声が二重に重なって聞こえた。何か別の影が讃良にかぶさり、泣きたくなるような懐かしさがこみあげてくる。
 『射王、それはあなたがとても大切な役目を負っているからだわ。お願い、自分を卑下しないで。もっといたわって。その体にも心にも、こんなにもはっきりと神の・・・愛がつ・・・射王・・・』
 最後の方ははっきりと聞き取れなかった。
 だがそこから伝わる言葉からは、これ以上ない愛しさが伝わってきてしまう。 
 「射王、射王、どうしたの。ねえ」
 「あ、えっ?」
 「急にぼんやりしてどうしたの射王」
 讃良が不思議そうにのぞき込んでいた。
 もうあの声はどこにもなかった。
 「――ああ、なんでも、ないよ」
 「射王?」
 ぼんやりと生返事をする射王に、讃良は首をかしげたがそれ以上は尋ねてはこなかった。
 「私ねえ射王、小さいころから巫子姫になるのが夢だったのよ」
讃良が何かを思いだしたように言いだした。
 「みんなが華夜様のようにって期待するでしょ。私もそうなりたいって願っていたし、期待も裏切りたくなかったから、それは必死で努力したのよ。厳しい修行も中傷にも負けなかった。だから、華夜様の子供って、すごく興味があったの。――射王に会えてよかった」
 屈託ない笑みはまるで苦労など知らぬ姫君のようなのに、彼女は、その笑顔のうらでどれだけの涙を流したのだろう。
 誰よりも、大人の押し付ける無責任な期待に耐えようと歯を食いしばってきたに違いないのだ。だからこそ彼女は気高いのだ。
 「讃良だったらなれるよ、巫女姫に」
 「ほんとう、そう思う?!」
 「うん」
 笑顔がさらに輝いた。
 「嬉しい。射王にそう言ってもらえると、すごく嬉しいわ」
射王は讃良がまぶしく感じた。
 「だって、どんなに頑張っても誰もいいとは言ってくれないもの。それに一生懸命にしているからといって神が応えてくださるとは限らないし。だからずっと苦しかった。これでいいのかって今でも迷うときがある。――でも、射王にそう言ってもらうと本当に出来る気がしてくるわ。不思議、華夜様の血なら信じられる気がしてくるもの」
 敏感すぎる射王のこの力が、巫子にとっては喉から手が出るほど欲しい能力なのだろうか。普通に生活するだけならば、ただつらいだけなのに。
 「こういう能力って、普通女性の方がでやすいのよ。なのに射王って珍――あっ」
 讃良は言ってからしまったという顔をした。射王の体の半分は、彼女らと同じだったのだ。
 「ご、ごめんなさい」
 「いいよ別に、気にしなくてもさ」
 讃良はしばらく黙っていた。
 「でも私ね、ほんとに射王って綺麗だとおもうのよ。意識しないでも気が見えるっていうのも、ちょっぴり妬ましいぐらいだし。ねえ男の格好なんてもったいないわよ。もっと綺麗に着飾ればいいのに」
 真顔で言う讃良に、射王は怒るよりなぜか笑ってしまった。
 讃良に抱いていた無意識のわだかまりが、あの日の悪夢とともに消えてなくなるようだった。それは讃良のきどり隠さない素のままの心が、かえって射王を気楽にさせるからだ。
 「讃良はじゃあなんで女の格好しているのさ」
 「えっ?」
 「きっと男の格好も似合うと思うけどな」
 讃良が目をしばたき、いたずらっぽい射王の顔に気づき、二人は同時に笑いだした。
 「射王ってへんなの」
 「讃良ほどじゃないさ」
 「じゃあ私たちがへんなんじゃない」
 「そうかもね」
 笑いながら二人は手をつないだ。
 帰り道をゆったりと歩いていった。





 人々のせわしい活気が、長い渡り廊下からも伝わってきていた。
 祈りの民は手際よく準備を進めている。無駄ない躍動は美しくさえみえてくる。
 射王はめずらしげにまわりを見回していた。
 「すごい騒動だね。式までに間に合うの?」
 「どうにかってところね。念には念をいれておかなきゃならないし、不慣れなところでやるからには、倍以上の注意が必要だわ。とにかく祈りというのは、細やかに神経をつかうものでしょ。失敗は許されないもの。――射王にはこんなのって珍しいかしらね」
 「うん、すごくね」
 見たことのない出で立ち巫覡が忙しそうにとびまわっていた。
 第二の宮と呼ばれる綾綺殿へはめったなことでは入れない場所だった。儀式で使うよりほかは、静粛な場として開放されることはなかった。
 「腕、痛くない?」
 讃良は部屋に通すと手当をはじめた。
 彼女の指先からつたわる温もりに、水に溶けるように鈍痛がひいてゆく。これが癒しかと納得してしまう。
 痛みとはほんらい、体からの大切な信号であるため、むやみやたらと取り除くのはよくなかった。
 痛むことで体の異常をしらせたり、手遅れにならないうちに治療することができるのだ。
 だがある一定以上の痛みは、体の回復を遅らせるばかりであるか、心をも蝕んでしまう。
 巫子はそれらを心得たうえで、痛みを取り除き、肉体の回復を手伝ってやるのだ。
 「もう全然痛くないや。やっぱり巫子だね」
 「巫子姫になるためだけにいままで修行してきたんですもの。それ以外なにもいらないわ。それだけが私の願い」
 揺るぎもない堅い意志がのぞく。射王は少しうらやましく思った。まだ、自分が何をすべきなのかもわかっていないのだ。
 「おばば様が待ってらっしゃるわ。そろそろいかなきゃ」
 「うん」
 案内される渡り廊下の向こうに、儀式用の総桧造りの舞台がみえた。讃良は指差した。
 「これって、わざわざこのためだけに造ったのよ。祈りの里に来ればよいものを、お金と時間の無駄としか思えないわ。私たちだっていい迷惑よ。このためだけに数日つぶされるんですもの」
 讃良は納得いかないかのようにぶつぶつ言った。これまでどんな高貴な民に対しても、祈りの民がわざわざ出向くようなことは一度もなかった。それだけの自尊心が彼らにはあり、それが認められていた。
 だがそれも巫子姫不在の時間の長さには勝てず、ついに揺らぎだしていた。
 巫女が現れないこと自体が、吉備王の愚行のせいだとは誰も言わなかった。王の絶対的な強さと、独裁政権は大きすぎ、より弱者へと向かう。
 儀式にしても、ただ皇恭に対する寵愛というだけではなく、王の権力の誇示と、鵜江の虚栄心を満たす意味もまた兼ねていた。
 だが王と妃の両人ともが、それに振り回される他の者の都合など、毛頭考えてもいないことも意味している。
 「おばば様」
 小さなさ祠の前にいた老婆が、讃良の呼掛けに振り返えった。
 射王は驚く。なんと言おうか考えながらあやふやに頭を下げた。
 「傷の具合いはどうじゃな、射王よ」
 「あ、あの時は、どうも――」
 楽しそうに笑う泰幻の、皺の間からのぞく目が優しい。ついと近づくと礼を言いかけた射王に、いらぬことだと手を振った。
 「堅苦しい挨拶などよい。ふむふむ、いや、みれば見るほど見事に似てきおったのう」
 泰幻の白濁した目の威力に圧倒された。刻みこまれた歴史の長さは、射王の眼力などいくばくも太刀打ちできない。
 老女は皺ふかい手で、射王の頬に触れた。
 「ずいぶんと、つらい思いをしておるようじゃのう。だが子供には笑顔がなにより必要じゃ。人生を楽しむのが難しければ難しいほどに、笑いは大切なものでもあるのじゃぞ」
 逆らいがたい力に射王はいつのまにか膝をついていた。彼女の手に頭を垂れ額を優しく撫でられていた。
 「一生懸命に生き急ぐことはもう少しばかり早すぎる。なにごともせいてはいかん」
 「・・・はい、泰幻様」
 「なあに、おばば様と射王って親しかったの?」
 讃良がいつの間に、という顔をして言った。
 「さっき、鵜江様から助けて頂いたんだ」
 「いいや、わしはもっと以前からおまえ様を知っておるぞ、射王よ。なにせ、このわしが華夜様から取り上げたのじゃからな」
 「ええ?!」
 と、二人が驚嘆の声をあげる。
 「いまにも息絶えそうな赤子の背を何度も叩いて産声を上げさせたのじゃ。まっこと大きゅうなってからに。華夜様そっくりじゃ。金屋子の坊主が愚痴をもらすのも仕方ないわ」
 「おじい様ともお知合いなのですか」
 「わしはあやつがむつきをしておった頃から知っとる。わしにしてみれば金屋子なんぞ、ただのこわっぱよ。まだまだ尻が青いわ」
 カッカッカと威勢よく笑い飛ばした。
 「おばば様と比べたら、誰だって子供よ」
 「おうおう、おまえなどまだネンネじゃ」
 笑う二人の雰囲気がどことなく似ていた。
 泰幻は讃良の曾祖母にあたった。
 平均、百五十歳は生きるという祈りの民の中でも、彼女はさらに長寿であった。神の厚情を受けている年長者には、おのずとこうべをたれさせる威厳がそなわっている。
 人と人が出会うということは、どこかにつながりがあるのかもしれない。
 「おばば様は、母様のことをよくご存じなのですか」
 「もちろんじゃ。もっともこの祈りの民で彼女を知らぬ者はおらぬぞ。わが民以外で、はじめて巫子姫にと望まれた希有なお方じゃ」
 母の事を悪く言わない民がいる。そんなこと考えもしなかった。崇拝さえしているというのは嬉しい驚きだった。
 射王は泰幻の口から華夜の姿を聞きたいと思った。彼ら祈りの民の口から、母の本心を、真実をしりたい。そうすれば、少しは射王が聞きたかった母の姿が聞けるかもしれない。
 他人の中の像はいつもあやふやで、すぐに姿を変えてしまう。悪女になったり、哀れな女性になったり。知らないことは苦痛なのだ。
 「教えてくださいませんか、母様に起こった真実を。知りたいんです。母の真実の心を」
 射王は直感していた。この人なら答えてくれると。
 泰幻は赤い真摯な目を、静かに受け止めていた。
 「よかろう。おまえ様も、もう知ってもよい年頃じゃ。何も知らぬは辛いわの」
 「私も知りたいわおばば様」
 讃良も言った。
 「おお、讃良もそうであろうのう。かの姫君と同じゅうなるべくして、いつも過剰な修行を強いられておったからの。期待に潰されず、弱音も吐かんとよう仕えてきたわ」
 耐えてきた過去の重みが讃良を磨きあげ、さらに純粋に、強く美しくしていったのだ。
 「私、どうしても巫子姫になりたいんですもの」
 「巫子を志す者ならば、だれしもが見る夢じゃよ。わしも昔はそう思うとった」
 昔を思い出してか、泰幻の口もとが柔らいだ。少女のような笑みだ。
 「だが華夜様は誰よりも特別じゃった」
 泰幻の表情が引き締まった。
 「われら祈りの民は、神と民とをつなぐ役目を負ってきたいわば神のための民じゃ。代々にわたり、つねに神の声は我らより発せられ、神の意志を損なわぬよう施行することの責務をにのうてきた。先代の巫子姫は、わしのひいひいおばあ様じゃった。巫子姫はわれら祈りの民より選ばれ、神の花嫁になり『人』としての生を断つのじゃ。そのかわりに、非常な長寿と神の愛と祝福を受け、若さと美貌を永遠にその御姿にとどめておった」
 人から聞く華夜の姿、だからいつも娘の姿であったのだろうか。
 「華夜様はそのなかでも、いち早く神託が降りておった。生まれる以前から神自身がみそめられた貴重なお方だった」
 「生まれる以前からって?」
 「かの神は、まるで華夜様が生まれるのを知っておいでのようじゃった。華夜様が腹におられるときから、母君はしばしば夢に神を見ていたそうじゃ」
 「夢で、そんなにはやくに」
 讃良は唇を噛んでいた。彼女には今だ神託は降りていないのだ。
 「華夜様をと、正式な神託が下されたときには、金屋子はそれは喜んだものじゃよ。金屋子めが年老いてから生まれたひとり娘。幼少のおりに母君を亡くしてからというもの、不憫に思うてか、金屋子はそれはそれ見ておっても、こちらがこそばゆうなるくらい慈しみ育てた。まさに丹精込めた花じゃ。他の男のもとへ嫁ぐというならば目くじらも立てようが、それが神というならば栄誉の極み、何の異存があろうか」
 射王は、自分の姿に重ねている金屋子の気持ちを思った。彼の心の闇の深さがわかってしまう。
 その愛しい娘が孕まされた子がわが身だと考えると、恐ろしい。空虚さが広がってゆく。
 「華夜様は、巫女となる十六の誕生日をそれは楽しみに待っておった。神も気長にして成長を待たれておるようじゃった。もし華夜様が巫子姫になっておれば、吉備の国は永遠の祝福を約束されたであったろう。だが、その日がくることは永遠になかった。そう、こともあろうか、王みずからが、聖なる山へ結界を破って入り、禊途中の華夜様を欲情のままに、美しさに魅いられ――犯したのじゃ!」
 泰幻はいくら悔やんでも悔やみ切れぬように目を細め、それから残忍な笑みを浮かべた。
 「それ以来じゃ、王の男としての機能が永遠に失われたのは。当然の神罰よ。じゃが今日に至るまで神はけして答えてくださろうとはせぬ。それほどに神の怒りと悲しみは深い」
 空気が冷えていった。
 射王は硝子人形のように蒼ざめた。
 「神は誠実な神であらせられた。ゆえに厳しい神でもある。我らは望むと望まぬとにかかわらず神との契約を破った。古来、連綿と受け継がれてきた約束は王の愚かさとともに破られた。・・・神は答えてはくださらぬ。庇護されることに慣れ甘えた傲慢さが、今度はおのれの首を絞め吉備を滅ぼしてしまうのじゃ」
 泰幻はまるで呪いの言葉を、神のかわりに吐いているようだった。
 「そして射王が生まれた。その日より雨が降り続けた。一ヶ月以上たってもやみはせず、水は作物を流し、腐らせた。川は氾濫し、家が沈んだ。多くの命が流され、人も動物も死んでいった。竜巻が荒れ狂う日もあったし、氷が降る日もあった。神はそれほど深く悲しみを現されたが、わしらにはそれをお慰めする術はもはやなかった。
 神はそうして土地の豊かさもお隠しになられた。雨がようやく止んだ後には、焼けつく日照りが続いたり、凍るような寒さが襲った。虫が大量に発生しあれほど豊かだった実りは枯れていった。そして真鉄さえも採掘できぬようになった。金屋子にはほんに悲惨なことじゃて。娘を奪われただけではなく、鉄さえも奪われたのじゃからの。ゆえに今に至っても金屋子と吉備王とはうまくいってはおらぬ」
 射王は伏せていた目を開いた。睫が震えていた。
 だが、ようやく射王は受け止めた。
 誰もかれもが自分へぶつけていた感情の理由が、なんであったか。
 事実の矢は的確に心臓を貫いた。
 やはり自分が元凶だったのだ。神にさえ憎まれ疎まれる罪の子。
 「俺が・・・こんなだから母様は、俺を置いて山に入ったのですか。俺が罪――」
 「違うわ!射王は何も悪くないじゃない。悪いところなんか何もないわよ」
 讃良が鋭くさえぎった。
 「そうじゃとも、華夜殿が隠れたのは、なにもおまえ様を厭うたからなどではない。ひとえに神の怒りを和らげるためじゃ」
 「神の怒りを・・・和らげる?」
 「そう、神の狂乱を沈めるために、乳飲み子のおまえ様を置いて、ひとり出雲の山に篭られたのじゃ。華夜様は我々の代わりに贖罪の祈りを捧げてくだされ。だからこそ我々はこうしてこの地に生きていられる。真実を知らぬ愚かな輩どもが騒がしいだけで、その至高の命はみな我らのためにと使われたのじゃ。悔しいことに、華夜様の尊い犠牲を幾人が理解しておろうか。そしる者はいても、解ろうとするものはおらぬ。情けないことじゃよ」
 「じゃあ母様は俺を憎んで遠ざかったのではないの?俺を愛しんでくれたからこそ山に篭ったというの・・・・?」
 射王は揺さぶられるような怒りが、始めて湧いてきた。愚かな自分へ、愚かな民衆へ。母の思いにふれて、心が震える。
 しばらく口をつぐんでいた射王が言った。
 「・・・・俺は、やはり贖わなければならないと思う。それが血につながる罪だからというだけじゃなく、母がそうまでして俺を産んでくれたというからには、きっと何かをしなくてはならないからなんだ。・・・・まだそれがなんなのかは、はっきりわからないけど」
 そうでなければこの体はなんのためなのかわからない。どうして産まれてきた。
 答えをだそう。神の課した問いに。
 そして償わなければならない。惑い苦しむ人民と、そして誰より奪われ殺された母のために。
 射王の体がうっすらと輝いていた。闇に映える灯し火のように、儚げに淡く燃えて、泰幻と讃良は目を奪われていた。
 「・・・でも、まだ神が完全に見限ったわけではないんでしょ、おばば様」
見つめながら讃良が吐息のように言った。
 「私もね、今はまだあまり力がないかもしれないけど、でももっともっと修行して華夜様のような神の御心に添える巫子姫になるわ。私も何かをしなくてはね。本当に心の奥底から神をお慰めしたいの。神を、愛しているわ」
 「うん、讃良なら大丈夫さ。こんなに純粋な思念が、神に届かないわけないよ」
 射王が言った。讃良は初恋を知った乙女のようだった。華がこぼれるように笑っていた。
 「射王よ、おまえ様はオーラがどれほど見えておるのじゃ」
「感じる程度かな。よくわからないけど」
 「いいえ、かなり見えていると思うわよ、おばば様。人の感情まで見えるくらいですもの」
 泰幻はまじまじと射王をみつめた。
 「なかなかのようじゃの。やはり血は争えぬのか。したが射王よ、何の守りもなくそれが見えるというのは問題があろう」
 何においても見えすぎる者ほど幸はうすい。
 「射王よ、こんどおまえ様に――」
 「雪消?!」
 猫が飛びついてくるのを射王が受け止めた。巨体に似合わぬ身軽さで腕におさまる。
 「・・・・あの時の猫か」
 「うん」
 泰幻は猫を撫でる射王を見て何かいおうと口を開いたが、けっきょく言葉にしなかった。
 「俺、そろそろ帰らなきゃ」
 空はすでに濃い緋色になっていた。吉備を焼けつくしている炎のようだった。射王はふいに皇恭が思い出され、胸がきゅっとした。
 「帰りたくないのならしばらく滞在してゆけばよいぞ。鵜江殿もその方がよかろう」
 「でも、ご迷惑では」
 「遠慮などよい。それにわしにとっては、おまえ様は孫同然。尻にあるほくろまで知っとるわ」
 赤くなった射王にカラカラと笑った。
 「讃良も話し相手ができて嬉しかろう」
 「ええ。やっと同じくらいの友達ができたんですもの、まわりはみんな大人ばっかりでつまらないわ」
 「ほんにませすぎていかんわ。どうれゆくかの。一緒に夕餉をいただこうぞ」
 「はい」
 射王は素直に甘えることにした。
 王の宮には帰る気がどうしてもしなかったのでほっとしてしまう。
 「射王よ、讃良はな、ずっとおまえ様に会いたがっておったんじゃ」
 「え、俺に?」
 「謝りたいとな。ずっとそればかり言っておった」
 射王はうつむき、微笑むと首を振った。それこそ讃良にはなんの罪もない。
 射王はこの少女こそが、あんな目に合わなくてよかったと本心から思った。きっと、それでよかったのだ。
 「俺の方こそ、謝りたいよ。自分一人傷ついたふりして、俺のことを気に病んでいてくれる人がいたなんて考えもつかなかった」
 自分が傷つくより、見ているだけでなにも出来ない方がずっとつらいのだと知っている。だからこそ、男として強くなりたいのだと。
 射王を縛っていた一本の鎖が切れた。そこから他の人の空気が混ざった。正直に、それが心地よいと本心から思っていた。




 夕餉をすませると、射王は与えられた部屋でくつろいでいた。あれほど気が休まらなかった本殿とまったく違って感じる。
 祈りの民がもつ独持の気質からくるものなのであろうか。
 「変わった人たちだね、祈りの民は」
 射王はとなりで寝そべっている雪消に言った。雪消は愛想にしっぽだけふった。
 ここは誰ひとり射王に嫌な視線をおくる者はいない。心地よい配慮がいきわたっている。
 「射王?」
 小さな声がした。廊下の障子が薄く引かれ、讃良の愛くるしい顔がのぞいた。
 「いいかしら、入って」
 「おいでよ讃良」
 讃良はするりと入ってきた。
 「これ。渡すの遅くなっちゃって」
 讃良は萌木色の布を差し出した。皇恭からもらった布だった。
 「血は落ちたみたいよ。大事なんでしょ、これ」
 きれいに洗濯されている。わざわざ射王の言葉を気に止めて、洗っておいてくれたのだ。
 「うん――とても、とても大切なものなんだ。ありがとう讃良」
 讃良が甘く笑った。
 「ねえ射王、私たち昔から知合いみたいな気がしない。なんだかとても近しいような」
 「うん、ほんにどうしてかな、不思議だ」
 こんなに純粋に気を許している自分に驚いてしまう。讃良は射王を見つめた。きれいな黒耀石の瞳に射王の姿が映った。
 「射王って、人間じゃないみたい・・・」
 「えっ?」
 「綺麗。とっても綺麗だわ。きっと神も華夜様をこんな風にご覧になっていたのね」
 「でも俺が神なら讃良を選ぶな、絶対にさ」
 言って、二人はくすくす笑った。
 「やっぱりへんね、私たち」
 「へんだね」
 「でも、私たちきっと前世でも絶対知り合いだったと思うわ。兄弟だったのかも」
 「だと・・・すごく、楽しいね」
 讃良が射王の赤い髪をすいた。
 「おやすみなさい射王。いい夢を」
 「おやすみ讃良」
 甘い香りとともに讃良が消えていった。
 射王は惹かれてゆく讃良への思いに胸が温かくなった。雪消が足元に擦りよった。
 「雪消、なんか俺おかしいよ。ここにきてずっとおかしいような気がする」
 多くの人々が、祈りの民を求めてやって来るのがわかる。いたわることを知る民の慰めは、命の糧ほどに大切なものだ。
 「この布、兄さんに返さなきゃね。高価そうだもん」
 布をそっと頬に当てた。皇恭の顔が脳裏に浮かび上がり、驚いた顔に寂しさが募った。
 「俺は償わなければいけない。たとえこの身を裂かれ拒絶されようと、神に会いに行かなければ、絶対いけないんだ」
 どんなことがあっても、いつか必ず行こう。
 それが使命であり、多くの人々の運命をねじ曲げてしまったことへの代償なのだ。
 射王は誓った。肯定か否定かわからないように風が吹いた。
 そうして射王にはいまなお、行くべき所も、なすべきことも何一つわかってはいない。示して欲しい。行くべき道を教えて欲しい。
 射王は今こそ、母に生きていて欲しかったと思ったことはなかった。


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