炎の血脈
1
射王はすっかりあきていた。
神殿の建物のなかはくまなく探検し終わっていたし、ジグラットと呼ばれる祈りの宮に入れられて二日がたとうとしていた。
それは吉備国に昔からあるしきたりで、七才になると、神の子から人間になったことを神に報告するというものだった。
たいていの貴族の子弟は各部族の磐境で執り行うのだが、射王はなぜか特別に、
照遥山の奥深くにある斎場まで来ていた。しかも他の部族、祈りの民の斎場である。
「あーあ、退屈だなあ」
つまらなそうにあくびをひとつした。目を擦りながら祭殿の神鏡に映った自分にハッとする。
腰にまで届きそうな赤い髪に、同じ色の大きな瞳。白い肌に妖しいほどよくうつる。
「なんで僕だけこんなに赤いのかなあ」
フワフワしたきれいな髪をさもいやそうにつまんだ。
黒髪系民族の吉備国では、その色はかなり目立った。
たしかにタタラ族は他の民にくらべて多少赤い色合いをした髪をもつ者は多くいたが、射王のそれより赤い者はいない。
少年にしては優しすぎる顔をかたむけると、愛らしさがよけいましてみえる。
祖父である
金屋子に言われてしぶしぶきていた。吉備国のなかでもかなりの勢力を持つ五大貴族のなかの、鉄を扱うタタラ族の長である。彼の命令には誰も逆らえない。
「おじい様も、わざわざこんな山奥のジグラットまでこささなくってもいいのに」
後一日もここにいなくてはならないのかと思うとぞっとする。
禊のための純白な衣装はなぜか丈も裾も長く、まるで巫女の衣装みたいだった。祈りの民から贈られたものというが、この七つの祝いと祈りの民はなにか関係があるのだろうか。
射王は邪魔な袖をくくり引きずるような丈をたくしあげると、子供らしい好奇心から一段高くなった御座所にあるという御神体のもとまで昇っていった。
御簾のむこうにあるのは、弓形をしたかなり大きな鉄の船だった。
火と鉄の神といわれる
火倶土神の御姿は畏れおおいというので、彼が造ったといわれる船を代わりに奉っていた。浮き船という。
鍛えぬかれた鋼鉄は美しかった。薄くかなり大きなものだった。これほどの純度の高い極上の鉄は、いまのタタラの里ではまず採れない。
火倶土神が高天原の天上界からこの葦原の中津国に降臨されたときに使われたという。
よくみるとあちこちに焦げ痕や傷が残されていた。
射王は軽く指で叩いてみた。キンッといいう澄んだいい音が返ってきた。
「この鉄、まだ生きている音がする。もしかしたらこの船ってまだ動くかもしれない」
射王は語り部の伝える神話をふと思いだし、夢みがちな目を輝かせた。
突然、ガクンッと足元が揺れた。よろめきながら辺りを見回すと、なぜか景色が後ろに流れている。
浮き船に乗っていた。しかもかなりの速さで走っているではないか。
「な、なにがどうなったの。なんで僕が船に乗っているんだ?」
手摺りにつかまりながら呆然としていた。
ふと帆柱の根元が赤く光っているのが見えた。光は船全体を包んでいるようにみえる。
近づいてみると、握り拳ほどの水晶が埋め込まれ、中央で鮮紅色の炎が燃えている。
「これが船の原動力なのかな?」
射王は風になびく髪をおさえ、眼下にひろがる街並みに不思議な感覚を覚えた。以前、どこかで見たような気がするのだ。
整然と区画されていた。吉備の都ともタタラの里とも違い、奇妙とも思える四角い形の建物が連なっている。
街の中心部には正三角形の建造物がそびえていた。その頂点に微妙な均衡で、巨大な丸石がのっている。それを取り囲むように放射線状に配置された紫色の水晶が機械の中で発光している。街に送られるエネルギーの発信源のようだ。
鳥のような形の船が空を往来していた。浮き船ほど精密ではないが、同じ構造のようだった。
どこを見ても不思議な光景。不思議な街並。
まるで神話の中に紛れこんでしまったかのようなのに、懐かしさすら思えてしまう。
目の前を船が高速で潜航していった。若い男女の姿が見えた。
青年が振り向く。緋色の髪。どこか射王に似ている。
かたわらでうつむいていた女性が目をあげた。夜の輝きを思わせるような清麗な美貌だ。
射王は自分が青年の中にいるのがわかった。
「これからどこへ向かおうというのですか
火倶土」
「姉上、やはり俺と来たことを、後悔しているのですか」
ひどく胸がくるしくなった。甘くてやるせない思いが走る。
大月と呼ばれた女性は首をゆっくりふった。
「いいえ。けして後悔などいたしませぬ。あなたのゆく処なら、どこへでも参ります」
「大月・・・・」
悲しいほどの愛しさが溢れた。たまらなく
なってその華奢な肩を抱きしめる。
射干玉の黒髪が頬を撫でた。
「葦原の中津国に降りようと思っている。・・・・須佐の兄上のところへ身をよせようかと思っている」
「須佐の兄上たちのところへ?! でも、あそこは」
大月の声はかすかにふるえていた。
「ああ。いまの俺たちには、もうあそこしか行くところはない。それに、今になってか
らわかるんだけど、須佐の兄上は
天照と月読にはめられたんだよ。やつらの汚い計略で父王をそそのかして。だっていまの俺たちとまるで同じじゃないか」
「でも、そんなまさか・・・」
数千年のその昔、第三皇子の須佐尊は反乱分子として葦原の中津国に流刑されたのだ。
正義感の強かった彼は、腐りきった政治に我慢できず、父王の
伊邪那岐の手から政権を奪おうとしたのだ。
国の半分ほどを焼き、それは鎮圧された。伊邪那岐の厳命がくだり、長女の天照と長男の月読の手によって、同志とともに下界に落とされている。
「何があろうとも、大月姉上だけは守ってみせる。あいつらなんかに指一本触らせない」
「ああ・・・」
いつの間にか入っていた力の大きさに大月が息をもらした。火倶土は慌てて手を緩める。
「ご、ごめんつい。・・・でも、俺は後悔していないよ。このままいたら奴らに無惨に踏みにじられて殺されるに決まっている。俺は、だって姉上さえいてくれたら何もいらない」
「火倶土」
「富も権力も長寿も、この超常の力だっていらない。ただ、今までのように二人だけで静かに暮らしたいだけなのに、どうして奴らにはわからないんだろう」
大月はそっと弟の背をなでた。彼の心は痛いほどわかる。彼女も同じ気持ちだからだ。
火倶土と大月には、数え切れないほど多くの兄弟がいた。
だがそこに情の通った関係を持つものはいなかった。誰もが冷たく、関わりを持たぬよう振舞った。
なぜなら、母神の
伊邪那美は、火倶土を産んだその産褥の床で死んでしまったのだ。
伊邪那岐は怒り狂い母神を殺したとひどく火倶土を憎んだ。
兄弟たちは父王を恐れて決して近寄らなかった。時を同じくして産まれた火倶土と大月は、ひっそりと支え合って生きてきたのだ。
「なるほど、貴様らの企み、しかと聞かせてもらったわ火倶土よ」
「なに?誰だ?!」
高圧的な独特の物言いに驚き振り返った。
黄金の甲冑を身にまとった目も眩まんばかりの美女がたっている。天照だ。
いつのまに来ていたのか。黄金の船がいく手を阻んでいる。
「反逆罪だ。須佐の馬鹿に同調して葦原の地に降り、この高天原を奪う腹づもりとはな」
その隣に白銀の船にのった月読がいる。小馬鹿にしたように薄く笑う顔が白銀の甲冑に映っている。
二人はよく似ていた。冷血な面もちが双子のようだった。
「なぜおまえたちがっ?!――いや、どうして我らが反逆罪なんだ」
天照はククッと喉を鳴らした。
「火倶土、悪いが罪名などどうでもいいのだ。ただ貴様を殺すのに何か名がいるまでのことよ」
「なに?!」
「父神はな、どうあってもおまえらの命が欲いのだとさ。
鳥船とおなじように」
月読が言う。
火倶土の深紅の瞳がカッと怒りに光った。冷たく燃え上がったオーラで、天空に稲妻が大きく走った。
ただ火倶土と同じ時に産まれたと言うだけで、鳥船は父神によって凌辱され、切り刻まれて殺されたのだ。そのことがあって、はじめて火倶土は彼らのもとから本気で逃げる決心をしたのだ。
産まれるとき、火倶土が放った灼熱のオーラが伊耶那美のホトをひどく灼き、そのために母神はひどく苦しみ死んでしまった。
気の遠くなるような昔の話だ。しかも大月や鳥船には関係がない。なのに父王は同じくして産まれた彼らを恨みに思い、いまだに隙あらば命を狙い続けている。
さすがに鳥船の死は、火倶土の我慢の限界を越えた。
「おまえらも伊邪那岐も狂っている。権力と長寿に執着した哀れな亡者だ」
「何とでも言うがいい。私はおまえの首級を取って帰ればいいだけの話。伊邪那岐のもうろくジジイは気がおかしいんだ。どんな些細な危険分子でも、完璧に排除せねば気がすまぬのさ」
天照がせせら笑った。その異常なまでの命への執着と猜疑心が、現在の地位を守ってきたことも確かだと知っている。
「そしてその後を継ぐのは自分だというわけか天照。どうせ父神を焚きつけているのはおまえだろう」
「そうだ。長女の私が父の後を継ぐのに何の支障があろう。火倶土、おまえの過ぎた能力は誰にとっても恐怖としか映らない。父王はおまえの死を望んでいる。すべてはおまえ自身のせい、おまえは不幸の源だ」
「なんだと?!」
「その超常の力さえなければな。我々とてかまいはせぬのに」
火倶土の超常の能力は、高天原の一族のなかでも稀有のものだった。特異なまでの力は未知数であり、限界は数の上では現れてこない。それは次元を歪めることも、もしかしたら星をひとつ創造することも可能であったかもしれない。
だが同時に、それは伊邪那岐にとっては脅威な得体のしれない存在でしかなかった。
危うい変動率に満ちた異分子は、わが子であろうと排除せねばならぬ。もちろん、天照たちも煽ってはいたが。
火倶土は自分が彼らの計略にまんまと乗せられたことに気づきギリッと唇をかんだ。
「火倶土、だめです」
大月がそっと手を重ねた。怒気のオーラが彼女の静かすぎる眼差しに凪いだ。
「きさまらの挑発にのせられるところだった」
「馬鹿が、そうやって二人揃って仲良く死ね。二人なら寂しくもなかろう。――それが父王のせめても心遣いだ」
冷やかに言った月読は、火倶土の眼光で船が傾くのにふらついた。
「伊邪那岐に心などあるものか!貴様らのような外道が統治する国になんの価値がある。他人の命を食いものにしてまで生きる権利はない。高天原こそ滅んでしかるべきものだ」
天照があからさまな侮蔑の表情を浮かべた。
「弱者は強者の食い物となるのがいにしえよりの習わしよ。きやつら葦原の人間たちも我らが長寿の糧となれて、さぞ本望だろうさ」
「生命を平然と奪うその高慢さこそが罪だ」
「我らは高貴なる神なのだ。人間などくさるほどいる。神のための供物になれて喜んでおるというに。そんなに人間どもが大切ならば、貴様らも同じように殺してくれるわ!」
天照は手を振りあげた。
いつのまにか彼らの私兵がぐるりと火倶土の船を取り囲んでいる。
「言い残すこともなかろう。死ぬがいいこの下衆めが」
「ま、待ってください天照のお姉様」
いままで火倶土の背後に隠れていた大月が言った。面は青ざめていたが、勇気を振り絞り前に進みでた。
「どうぞ我らをお見逃しください。二度とはここに戻ってまいりませぬ。わたくしたちはただ二人でひっそりと暮らしたいだけなのでございます。どうぞおわかりくださいませ」
「きけぬな。きさまらは死すべき運命だ」
無情にも、たった一言いい終ると、手は振り降ろされた。
「天照!」
いっせいに光の矢が火倶土たちの船を襲った。各船からの砲撃が開始され炎が炸裂する。
激しい熱だった。すべてを焼き払っていった。天と言わず、地といわずひろがっていった。地上に住む人々の命は紅焔の中に消えていった。
熱と光は悲しみをうみだし、死の無意味な行進だけになっていった。
永遠ともいえる悠久の時が過ぎていった。
それはまさにたった一人と、一国の戦いであった。
もし火倶土が、全霊で超常の力をふるったなら、勝利は一瞬にして彼に味方しだろう。
だがその壮烈なまでのエネルギーは、きっと大月の命をも奪ってしまう。それどころか、生ある者すべての命を消しかねない。
誰よりもその力を恐れているのは火倶土なのだ。
だれも味方する者はいなかった。火倶土には、産まれ出たときと同じように、ただ大月がよりそうだけだった。
たいした攻撃もせずに、被弾膜を張りつづけるだけの彼らには、時間だけが無意味にすぎた。長すぎる緊張に、火倶土の意識が一瞬だけ、フッと白く霞んでしまった。
「火倶土、顔色がすぐれない――」
大月は言いかけ驚きの眼をあげた。そのまま押し退けるように抱きしめた。それと同時にザクリッ、という鈍い音が耳にこだました。
「えっ・・・?」
肌になま暖かいものが伝った。
大月の背後には、弓矢を射たままの姿の天照がいた。彼女は火倶土の一瞬の気のゆるみを見逃さなかった。火倶土の動きがとまった。
大月の小さな体がぐらりと揺れ、矢尻が左の胸から突き出ていた。
倒れゆく大月の背から、赤い翼が生えているように見えた。
火倶土は何が起こったのか、とっさに理解できなかった。悪夢をみるように大月を見つめ、か細い体を腕に支えた。
「火倶土、生きて・・・を愛し――」
彼女は薄く微笑んでいた。冷たい手で頬に触れた手が落ちる。頬に血の線が残る。
「大月・・・?・・・・・大月、大月――?!」
火倶土は絶叫した。
大月を抱きしめ声のあらんかぎり叫び、天が揺れた。
「チッ、雑魚が邪魔をしおって」
天照から憎々しげな言葉が小さく漏れた。
「私の矢をうけるなどと身のほど知らずな。何の能力ももたぬ血筋の恥が」
火倶土の怒りが弾けた。炎の柱が黄金の船に走った。
嘲るように矢を振り払っていた天照の顔が、一瞬にして炎に包まれた。
それと同時に、周囲に莫大な光と熱が走った。みるみる一面に広がっていった。
火倶土は大月の二度とは動かぬ体をかかえ、無言のまま船を炎の中へ進めていった。赤い帳に消えていった。
「火倶土、きさま許さ――」
悪鬼の形相で天照が断末魔の悲鳴をあげた。
その横ではすでに月読が灼けて火柱となっている。それをひとりの女が必死で消そうと躍起になり、狂ったように泣き叫んでいる。
閃光が走った。
爆裂音が空間をひきさいた。
椀のような雲が浮かび上がると、何もかもが瞬時に蒸発してしまった。
そして――。
後に残るのは闇だけだった。
闇と孤独だけが、ひしひしと身におしよせていた。
取り返しのつかない消失感が身体も心も凍らせてしまい、生きることへの息苦しさが、優しく抱擁して離そうとしなかった。心を蝕んでいくのをとめられない。
「どうぞ神よ、そのようにお嘆きにならないでくださいませ」
少女の声が一筋の光のように差し込んできた。伏せていた顔をあげ、まぶしげに見た。
少女は心配げな顔をしていた。のぞきこむ大きな美しい瞳は赤子のように無心だった。
「神よ、どうぞお嘆きくださいますな。悲しみが過ぎれば命が枯れてしまいます。感情の激しさに体が傷んでしまいますれば、なにとぞ――」
そっと手をとった。恭しく胸に当てた。
「あまりご自分を責めないでくださいませ。さきに逝かれた高貴なお方がひどく憂いてございます」
「えっ?」
「お心を強くお生き下さいませと、それが姫君の切なる願いにございます」
「――大月が、俺に?」
「はい」
トクンッ、と鼓動が鳴った。
温かさが、急激に手からながれこんでくるのがわかった。火倶土は我知らず震えていた。
少女は笑っていた。美しく聡明な顔には優しさに満ちた笑みが浮かんでいた。
そっと頬をなでると、少女が頷いた。まるで大月が笑っているように思われた。
「そなた、名は、なんと申す」
「
楽々森と申します。斎の巫女姫にございます」
「楽々森――」
火倶土は愛しそうにその名を呼んだ。ふわりと抱きしめた。
――楽々森姫?
それは初代巫女姫の名だった。
射王は急速に自分の意識が戻るのがわかった。
初代巫女姫である楽々森は、この後、神と契りをかわし子を産む。それが現在の吉備の国王の祖となるのだ。
火と鉄の神である火倶土は、自分の末裔である吉備の王が統治する吉備国を、その偉大な力によって守護し、永遠の富と繁栄を約束したのだった。
射王は目を醒ました。いつの間にか眠っていたようだった。船首をみあげ、ゆっくりと起き上がる。
「夢ー?なんだかすごく生々しかったなあ」
射王は頭をふると船大に手を触れた。
指先がじんっとして、まるでさっきのことが夢ではないのだと言っているようだった。
「不思議な夢。まるで神話の世界みたい。天照とか月読っていうのは、たしか大和の方の神様の名じゃなかったっけ。でも――」
クスリと笑った。
「こんな話、
温羅 にしたら笑われるかな、不敬だって怒られるかな」
八つはなれた乳兄弟のことを思い出していた。温羅とその妹の
摩釉とはほ、ほとんdo
家族同然だった。ずっと一緒に暮らしてきたのだ。
射王の母、
華夜は、射王を産むとすぐに山に篭ってしまった。それから一度も射王を抱くこともなく、山にはいったままだった。
だから華夜の記憶はない。母といえば、乳母の抹理を思い出してしまう。
ぼんやりとした疲労感が残っていた。まだ体のどこかに火倶土がいるような気がする。
神の思念は残り香のように魂の中にくすもっている。全身で感じた神の愛は深すぎて、幼い身の上には強烈な悲しみを残す。
優しさゆえに苦しみ、力ゆえに愛を失った。
それを救ったのが楽々森姫との愛だ。だが時は流れすぎた。そのゆるぎない神の守護さえ、吉備の国は失いかけているのだ。
長年にわたる豊かな実りは国を繁栄させた。繁栄は国を富ませ、人を豊かにした。
大きな災害もなく、温暖な風土と気候とに育まれた民は、いつしか守られることに馴れすぎ、それを当り前のように思ってしまった。
人々は祈るだけで望みが叶うと思い、巫女姫にすがることばかりを覚えた。
自ら動くことを忘れてしまった。
「なんだか、神の気持ちもわかっちゃうな」
そしてついに思い上がった人民により、神との契約は破られた。人々は神を裏切った。
たとえ、それが望んだことではなかったにせよだ。
八年前、こともあろうか、神に最も近い人間であるはずの王が、神の花嫁となるはずの巫女姫を奪い汚す、という事件が起こった。
古来から連綿と受け継がれてきた契約はやぶられた。民を裏切ったはずの王は罰っせられもせず、今なお君臨している。人々は影でそしりながらも、仕えかしずいているのだ。
王の自惚れが民を苦しめ、民の怠慢が王を増長させた。それ以来、神はひたすらに沈黙を守り、どんな祈りにも答えようとしなかったのだ。
人々はやっと、自分たちに下された罰の重さに気がつきはじめた。そして守護を失った脆く愚かな民は騒ぎはじめた。
射王は深々とため息をついた。重苦しい気分になった。なぜなら、それらすべてのことが、射王と無関係ではなかったからだ。
この身に流れる血は、誰より二人の――王と巫女姫の血を濃く受け継いでいた。
「僕が、不幸の元凶なのかもしれないな」
言って、船を見上げた。
射王はびくりと扉の方を見た。
外の気配に異種のものが混じったのがわかった。精妙だった神殿の空気がやけに熱をおびてきている。
射王は敏感に邪悪なものを感じとった。まるで怒りのようだ。
金属音がして、厚い白木の扉に切れ目がはしった。薄ぐらい室内に、いきなり直射光が差し込み目がくらんだ。
「な、なに――?!」
鳥肌がたっていた。本能的に船の後ろに身を隠そうとした。
ふいに背筋に激痛が走った。前につんのめって膝をつく。切られたような痛みと熱がして、赤く一直線に腫れあがっていた。
「な、なんなの、これは――」
射王は震える手で背を押さえた。
そのとき男たちが入ってきた。
人相の悪い――というより、狂気にとりつかれ、激情に我を忘れたかのような凶暴な面構えの男たちだった。まるで野獣のような。
「ここが巫女姫がいる聖堂かよ」
「どこだぁ?いねえじゃねえか」
粗野な声が響く。三人の悪鬼たちだ。
ぎょろりと目を剥いた。
身をひそめていた射王をめざとくみつけると、牙のような黄色い歯を見せ、ニヤリと笑った。
「へへへ、こんなところに隠れてやがった」
獲物をえたりと見おろす彼らの手には、血に汚れた刀が握られている。
「だ、誰だよ、あんたたち」
「おいおい、なんだまだ子供じゃねえか。こんなガキが本当に巫女姫なのかよ」
「巫女姫に大人も子供もねえさ。祈りの民なら同じさ。だいたいこいつらがまともに祈らねえから、神が怒ったんだ。ぜんぶこいつらのせいだ」
「そうさ。貴族のやつらばかりがいい思いして。腐った豚だ。狼にでも喰われてくたばっちまえばいいんだ」
ちがう、自分は巫女姫ではないと必死で射王は首をふる。
だが男たちの目はすでに正気ではなかった。
脅え震えている射王の襟首をもちあげ、間近でみる彼らの顔は、どれももう、射王の言葉など届きそうにはない。
声もでない射王の細い首を、男の手が締めあげた。怒りが、土仕事でカサカサした手から伝わてくる。
「神と心話が結べない巫女なんざいらねえ
んだ。
讃良姫、おまえが悪いんだよ」
床に激しくたたきつけられ、痛みにせき込んだ。
「俺の娘なんざ、こんな上物の服、一度だって手を通さずに売られていっちまったんだ」
「おふくろも女房も働くだけ働かされて死んじまった」
「きさまなんか!」
「おまえなんかっ!」
「やめーっ」
服があらあらしく裂かれていった。射王の悲鳴が男たちの狂乱に火をつけた。
逃げようとした長い髪をつかまれ引き戻された。男たちは理性をかなぐりすてて襲いかかった。
自分は讃良ではないと、首を締める手からもがいた。かわりに暴れる体をひどく殴りつけられ、恐怖と驚きに体が金縛られた。
これは悪夢だ。
射王は赤い瞳を見開いた。
どうしてこんなことが起きているのだろう。何があったのだ。もう、訳がわからない。
男たちの乱暴な手がはたと止まった。
息を飲むような沈黙が落ちた。
「こいつは……っ」
好奇に満ちた視線が射王の体に注がれていた。射王はビクリとした。男たちの目には、新たな狂気が沸き起こっていた。
「こいつ、半陰陽じゃないか」
誰かが吐息をもらした。
「まさか、ほんとうにいるとはな。男と女がついてやがる」
「は、はじめて見た」
射王は恥ずかしさに身が焦げるようだった。目尻から涙がこぼれおちた。
「半陰陽といえば、たしか王と華夜の子供がふたなりだって話、聞いたことがないか」
「そういえばたしか――」
ごくりと唾を飲み下す音が響いて聞こえた。
「か、神の仕置だ。裏切り者は粛正されねばならぬ」
「――われわれは民を裏切った王と巫女に天罰をくわえなければならない。さもなくば天変地異は終らぬのだ」
地鳴りのような声が響いた。
「犯ってしまえ」
女のような細い声がした。男たちの背後に陰が走った気がした。
男たちはいっせいに射王に飛びかかってきた。それは嵐のような出来事だった。
再びはじまった暴力は、今度は目的をかえ、一層激しく射王を犯し蹂躙していった。
白い絹の肌が削られ、弱く敏感な部分がえぐられた。心を体とともにゆっくり殺していった。
男たちは狂っていた。
幼さも純粋さもふみにじり、緋に染められた粛正の儀式をよそおって、野獣の本能のままに射王を犯していった。
「おまえが、悪いんだ。神の怒りに触れたから、おまえらが俺たちを苦しめるから」
――ちがう!なにもしていない。
「王も貴族も自分のことしか考えてないんだ。どんなに俺たちが苦しんだか奴らはわかっていない」
――だって、僕は母様の顔さえ知らないんだ。父様に抱かれたこともない
「死ね、おまえらなんかみんな死んじまえ」
――ああ、神よ!
「――?!」
虐げられた弱者の怒りは、怒涛の爆発となって駆け巡った。さらにか弱い子供や女へむかい全てを踏みにじってゆく。
人間の愚かな歴史の中で、幾度となく方向を間違えたかしれない。怒りが産んだ悲劇は数えられない。
「このできそこないが!おまえのせいだ、おまえのせいなんだ!」
男の目に溜った涙のなかに、射王は幼子の死にゆく影を見た。
飢えに苦しみ、薬さえ飲ますことなく逝ってしまった儚い命。
彼をつき動かす憎悪はこれなのだろうか。
――罪?これが、僕の罪なのだろうか。僕が背負っている業?
射王の中の幼い純白が砕かれた。
静かな涙がこぼれ、頬を伝って床に流れた。
意識がゆっくりと閉じられた。
体内に散っていたそれが、ゆっくりと思いのひだに潜りこんだ。別のものへと取って変わる。
額が疼いた。割れるようだった。
射王のぼんやりした赤い目がいきなり切れ上がった。
男達の体が弾けとび、電流が走ったように動けなくなった。いきなりの豹変に今度は男たちが脅え、動けなくなっている。
射王は焦点の合わぬ瞳で男たちを見た。そこには、なにかがいた。
「な、なんだこいつ!化けもっー!」
叫び終らぬうちに、その絶叫は断ち切られていた。
「射王!」
飛び込んで来た温羅が見たものは、一面の血の海に座っている射王の姿だけだった。
射王は惚けたようにそのただ中で座っていた。肉塊となりはてた男たちの死骸は無残としかいいようのない末路をたどっていた。
その静寂のなかに射王ただひとりが美しいほどに白い肌をさらし、焦点の定まらぬ瞳で空をみていた。
不思議なほどに射王は血に汚されていなかった。ついているのは、ただ射王が流した血のみだ。
温羅は肩で大きく息をしていたが、刀をしまった。手が震えていた。
何が起こったか、一目瞭然である射王に何と言っていいのかわからない。おそるおそる近づく。
涙の伝ったあとがまだのこる頬に、そっとふれた。たまらず抱きしめた。
射王からかすかに発せられていたオーラがふっつりと消えた。
射王は温羅の腕の中に崩れこんだ。
「射王!」
温羅は抱きしめた。押さえきれない怒りが沸き起こり、わななく唇を噛みしめる。
「ちきしょう!こんな事になるなんて――すまない、射王」
言葉が続かなかった。
殺気のこもった目で焼きただれた男たちの肉塊を睨みすえた。怒りが周囲の惨状のすさまじさを忘れさせ、奇怪にねじ曲がった死体から目を背けると、射王を抱きあげ外へでた。
射王の倍はありそうな長身がうなだれた。
若く均整のとれた鋼ような筋肉が、己の怒りを処理しきれず精旱さにわなないている。
「兄さん!兄さん射王は――?!」
馬からひらりと飛び降りると駆け寄った。摩釉は温羅の上着に包まれた射王をみて、美しい面をサッとあおざめさせた。
何が起こったか彼女もまた、すぐに知った。燃えるような引き締まった相貌がギリッとつり上がった。炎のような少女だった。
「どうしてよ!兄さんがついていながらなんでこんなことに!!」
「すまない俺がもう少し早くに・・・」
怒りは摩釉のなかに鮮やかな殺気となってほとばしった。てらいもなく言う。
「そいつらはもちろん殺したんでしょうね」
誇り高いタタラ族の女として許しがたいことである。
温羅はどう言おうかと眉根を寄せた。確かに彼らは死んではいる。だが、殺したのは自分ではない。もちろん、自分の手で殺したいほどの憎悪が残っているが。
「どうしたのよ!とどめを刺してないなら今からでも私の手で――!」
「いやそうじゃない。そうじゃないんだ。もう死んでいる。ただ、それは俺がやったことではないんだ。俺がきたときには、やつらはもう死んでいた」
「死んで?まさか。射王がやったとでも言うの」
ほんの小さな射王が、武器も持たずに大の大人を殺せるとはとうてい思えない。
「わからない。死体が普通じゃない。ほとんど肉片で・・・・」
「射王がそんなこと――」
二人とも沈黙した。それ以上言葉を継ぐことが出来なかった。射王が目を覚ました。
「射王だいじょうぶ@」
怒っていたはずの摩釉の面がにわかに曇った。いざとなると何と言葉をかけていいのかわからないのだ。
タタラの備前刀の帯刀を許されているほどの気丈な戦士であっても、まだまだ彼女も多感な少女である。
だが射王の赤い目は誰もみていなかった。
温羅の腕からそっと彼方の方角にある山を指さした。
涙が一筋ほほを伝った。
そのまままた、意識を失った。
「では、華夜は、殺されたのだな」
温羅と摩釉はうなだれたまま、返事をすることはできなかった。金屋子は白い髭をなで、しばらく考え込んでいたようだった。
「私たちが駆けつけたときにはもう、華夜様のお命はなく、背なを一刀のもとに切りつけられておりました。・・・あまり苦しまれたご様子はなく、手を合わされたまま、眠るように穏やかな面もちのままに・・・・」
摩釉が顔をあげずに言った。
金屋子のふかい皺の片襞がかすかに震えているようだった。
「ならば、あれは、自分の死を悟っておったのかもしれぬな。昔からそういうところがあった。神の神託を受けたときも、さも平然として・・・・」
怒りが静かに浸透したのか、語調が微妙に強くなっていった。
「あれは特別な娘だった。妻が命を懸けてまで産んでくれた最愛の娘じゃ。なににつけても、誰よりも優れた資質をておった。美しい姫でああった。――そう、神にも選ばれるほどに。なのに、なんの因果で、王の子なぞを、孕まされねばならなんのであろう。あげく山奥に篭り、民の愚かさのために許しを神に乞うておったのじゃ。そしての民衆が、とうとう華夜を殺してしまうとは――」
ぐっと堪えた。白い眉がこわばった。
「・・・この事を、射王になんと言えばよいか」
温羅のつぶやきを聞きつけた金屋子は、怒りに血走った目を見開いた。
「あれこそが元凶じゃ!我がタタラ族一族の恥よ!しかも七つの祝いにあの様なことが起きるなどと。不吉きわまる。呪われた血縁ゆえとしか思えぬ」
「それではあんまりです。今回の事は、射王にはなにも罪がないではありませんか」
温羅が言った。金屋子は苛立ったように、
「だが讃良と間違われたなど、呪われているとしか言えぬではないか。こんなことなら、せめて、せめて華夜の代わりに射王が逝ってくれたならどんなにか――」
「翁っ?!」
温羅と摩釉が語気強く言葉をさえぎった。あんまりだと二人の目が言っている。
「わかっておるわ。ただわしは、あの様な体に生まれついたあの子が哀れなだけじゃ」
金屋子翁の白濁した目が赤いのは、怒りのせいだけではなかった。彼が、ひとり娘である華夜をどれほど溺愛していたかを知らぬ者はいない。
華夜は巫子姫として、ひとり山に篭り、泉で身を清めるための禊を行っていた。
神の花嫁となるはずのその日が、呪いの日に変わってしまおうとは、誰が考えられただろう。たった一人の男の愚かさのために。
華夜は吉備王に犯されてしまった。たった一度の契りのために子まで宿した。
そしてなぜか華夜はその子を水に流そうとはせず、周囲の反対をおしきってまで産み落とした。なのにそれほどの情念で産みながらも、彼女は産後の養生もせぬうちに、人知れぬ山奥へと篭ってしまったのだ。
それが神に対する贖罪だったと気づいたのは、ずいぶん後になってからだった。
だからといって、それが金屋子の心を慰めはしなかった。何もかもがすべて悲しませるだけ。剣牢無比であった彼はいっきに老け込んでしまった。
悪夢は追いついた。今日、ついに華夜の命まで奪ってしまった。それも暴徒の手による無惨な死によって。
「射王はまだ目覚めんのか」
どこか嫌悪の残る無表情な声だった。温羅も摩釉もただ頷くしかなかった。
金屋子にとってのさらなる悲劇は、生まれたその子が半陰陽であることだった。
神の呪いをみごとに体現しているようで、幸薄い命が、さらに異形の子として肉親の情まで殺してしまう。げんに実の父でさえ、我が子を見向きもせず遠ざけているではないか。
金屋子にしてもまた、その子を引き取ったからといって、愛せというのは苛酷であろう。
だが皮肉なことにその子はそれらすべてを素直に承諾してしまうほど聡明だということだった。華夜の血を色濃く受け継いでいる。
幼い子供は、だからけして愛情を欲しがってこなかった。自分がそれだけの立場にないことを、口さがない人の噂からでなく、自分を見る祖父の目の冷たさから実感として知っていた。鋭くもあり、年寄りの心を思いはかるだけの優しさを持っていた。
そしてそれをまた、金屋子も知ってはいたが、どうしようもなく思っていた。
「わしは正直、あれのことがよくわからぬ。可愛いと思えぬのじゃ。おまえたちはわしを冷たいと思うかも知れぬが、わしにはあれは、娘の幸せを奪うた男の子にしか見えん」
哀れな老人の気持ちがわからぬでもなかった。それでも生まれてきたのは射王のせいではないのだ。
肉親にさえ愛してもらえぬ命では憐れすぎる。摩釉が耐えきれず言おうと口をひらいたが、先に言ったのは温羅のほうだった。
「金屋子翁、でも、射王はあなたの孫です。俺たちの母が命がけて守った大切な御子です」
静かな声に、そこはかとない怒りが含まれているのがわかった。日頃の自制した彼からはうかがい知れぬ感情の色だった。
「わかっておる」
金屋子はひくく言い捨てた。
「射王は、俺たちにとっては兄弟も同然。同じ家で生活をし、同じ家族として育ちました」
華夜が山に篭ってからというもの、ずっと
射王の面倒をみたのは彼らの母の
抹梨だった。
抹梨と華夜は昔から姉妹のように仲が良かった。彼女は射王をわが子のように可愛がってくれた。
そして殺されたのだ。
皇后、
鵜江のさしむけた刺客の手により、射王の身代りとして。
「抹梨には感謝してもしきれぬ。射王はそなたらにとっては兄弟と同じか」
「はい。血のつながりはなくとも射王は我らの命と同じです。けれど翁、祖父のあなたが射王を愛してやらねば意味はないのです」
金屋子はむっつり黙った。
疲れがよけい年老いたように見えた。
扉が音もなく開かれた。入ってきたのは射王だった。
三人は息を飲んだ。あまりの面がわりに驚いてしまう。鬼幽のようにやつれ目だけがさらに赤さを増し、意志を秘めて光っている。
「おじい様、お願いがあります」
「・・・・何事じゃ」
射王は金屋子の前に進みでると真っ直に顔をむけた。ただならぬ気迫があった。
「今日、このときより、射王を男として扱ってください。射王はこれから男として生きて参ります」
「射王?!」
射王は言い放つといきなり、小刀を手にとった。髪につきつけると、止める間もなく切り落とした。
長いみごとな髪は空をまいながら畳にひろがった。射王はひと束を握りしめると、胸元から取り出した和紙に包み、金屋子に差しだした。
「誓いの証です」
金屋子は気おとされたように呆然と見ていた。
それを震える手で受け取った。射王の目に浮かんでいる涙に彼は気がついた。
やっとわかった。この幼子に負わされた運命がどれほど平坦な道のりではないということを。魂の高潔さがよけいにもの悲しい。
金屋子は感情を押さえるように目を伏せた。
「……好きなようにするがいい」
「はい」
金屋子はそのまま部屋から出ていった。きっと彼の目には、子を産むと言ったときの華夜が映っていたに違いない。そっくりだった。
「温羅、お願いがあるんだ。僕を、僕を誰よりも強くしてよ」
射王はふりむくと、真剣な目をして温羅にすがった。
「剣も弓も武術も教えて。どんなに厳しくっても絶対に弱音なんか吐かない。僕は早く、一人前の戦士にならなければいけないんだ。はやく僕は――」
温羅は床に散った鮮やかな緋色の髪を見つめていた。何をその幼い体で理解したのだろうか。まるで追いつめられているような射王はどこか鞭うつように、生き急いでみえる。
温羅にすがりつく。その手の熱さに驚く。
グラリとゆれた射王の体を摩釉が支えた。
「射王!あんたまだ熱が高いじゃないの。こんな無理して、なんて馬鹿なの」
「摩釉・・・?」
摩釉は射王を抱いた。悔しそうに言い、肩までになった赤い髪を指で撫でる。
「綺麗な髪だったのに。・・・・なんて馬鹿なのよ。私たちが、守ってあげるじゃない。今度こそ、絶対に守ってあげるのに」
声がいつしか涙にくすんでいた。
いつも誰に対しても厳しい摩釉が、射王にだけは甘過ぎるほど甘かった。はた目から見てもわかるほどに愛情をかけていた。
昔から摩釉は母親のように射王をかばい慈しんできた。家族以上の愛情を持っている。
守りきれなかったという自分の無力さに耐えるように、彼女は射王を抱きしめた。
「僕はね摩釉、自分の力でみんなを守りたいんだ。守られるだけじゃなく、みんなと一緒に戦いたいんだ。――きっと、僕はしなきゃならないことがあるんだと思う」
「射王?」
もし、この身に起こったことに意味があるのならば、それを考えなくてはならない。
神の怒りならば、その怒りを解かなくてはならない。民衆に負目があるなら、それを償わねばならぬ。
摩釉はいぶかしそうに緋色の瞳をのぞきこんだ。その赤い闇に浮かんでいたのは、人のものでない、光だった。
「摩釉、どうしんただ」
温羅が肩を叩くまで、摩釉は動けなかった鳥肌がたっている。
「な、なんでもないわ別に――」
「ねえ温羅、お願いだよ。僕を鍛えてよ」
温羅はふっとため息をついた。
「俺は厳しいぞ。どんなことがあっても死なないように鍛えてやる。そのかわり、いいか射王、必ず生きぬくんだ。何があっても駄目だと思っても諦めず生き抜くんだ。――誰にも負けるなよ」
「うん!摩釉も教えてくれるよね」
「え、ええ。もちろんよ」
やつれた顔の射王をじっと見つめていた温羅は、言いにくそうに口を開いた。
「射王、まだ言ってなかったんだが華夜さまはな、実は――」
「知っている」
射王は静かに言った。二人のまえで着物の衿をはだけ、背中の朱の線を見せた。華夜が切りつけられたのと同じ傷痕だった。
「それは?!」
「母様の声が聞こえたよ。だから知っている」
「聞こえたって、どうしてどんな風に?」
問いかけた摩釉は、不意に気を失ったように倒れた射王を慌てて支えた。
「ひ、射王大丈夫?!」
「あれ、へんだ。目が、回るよ」
冷たい汗で着物がぐっしょり濡れていた。
「当り前だ。さっきまで高熱で寝こんでいたんだからな。いきなり動いたりして」
「ああ・・・温羅、引っ張られるよ。誰かが僕を連れて行ってしまう――やだ、引っ張らないで、助けて――」
「摩釉、早く先生を呼んで来い!」
「す、すぐ呼んでくるわ。待ってて」
摩釉はとびだしていった。
温羅に抱きかかえられた射王の体はしばらくして痙攣をはじめた。目まぐるしく赤い闇と黒い闇が交互に射王を襲った。
目尻からついっと一筋涙がこぼれた。
失いつつある意識の中で、射王は母の死がどうしても悲しめない自分がいることに、気づいていた。
射王は山の中を歩いていた。
そこは人の通うような路ではなく、けものが行き交う下生えの茂った急な斜面だった。
静かだった。
ときおりする鳥の声と小動物が葉をかすめて動めく音だけの世界だった。
射王は森の中を循環するエネルギーの巡りを幾筋も見分けられるようになっていた。
人界とはまったく異なる力で満たされたそこは、それはいつでも抱きこむような大きな力が存在していた。
射王は目をつぶって歩いていた。
肉体の目を通してみるよりはっきりとした、もう一つの森の姿が浮き上がって見えた。
木や花は手で触れる以上に大きいのだとわかった。エネルギーの輪を広げている。
年経た木になればなるほどエネルギーは巨大になっていった。目で見えることがどれだけ小さくつまらぬものであるか。そしてどんな微細な命でも、生体系のなかでは完全につながり、なくてはならないものなのだ。
生命の循環の大切さに気がついたのは、つい最近のことだった。温羅に武術を習いだしてから五年の月日が流れようとしていた。
最初の二、三年はただ無我夢中だった。力だけを求めていた。
だが射王は、そうしているうちに、これ以上の力を求めるには、自分の中に大切な何かが足りないことに気がついてきていた。
それが何なのかははっきりとは言えなかったが、自分が生まれてきた意味を知るには欠かせない大事なことだとわかっていた。
射王はみずから森に入るようになっていた。
人の入らぬ森で瞑想をし、路なき路を進み岩陰で休んでは小川の水を飲んだ。木の実をかじって自分の力だけで自然と触れ合った。
雄大な自然の時は射王に、急ぎすぎ、焦ることの愚かさを教えてくれた。
無理な成長を望むことは、いつ切れるともしれぬ綱を渡っているようなものだった。 肉体の構造にあわない努力は何の実にもなりはしない。体を痛めることが修行とはいわないのだ。
それらがあさはかな行為にすぎないのだと認めることができて、やっと初めて、射王は自分の未熟さを知ったのだった。
自分を受け入れてから、不思議なほどに、事が進み、淀みなく過ぎるようになった。
奪うのではなく、与えられたものをいかに最大限に活かせるかが、能力なのだった。
温羅ならばそのことの重要さをわかってくれたにちがいない。
そして射王には、剣よりも気を読む能力にたけていると断言したことだろう。
木の下で瞑想をしていた射王は、大気の流れの中に違和感を感じ目を開けた。
「誰かが呼んでいる?」
助けを呼ぶような甲高い響きだった。それに導かれるようにまっすぐ走った。
泥の池が目の前にぽっかり口を開らいていた。不気味な沼に荒立った波紋が広がっていた。子狼が溺れてもがき苦しんでいるのだ。
すぐそばの岸では、母狼と子狼がせわしくうろつき回っていた。どうすることもできぬ歯がゆさか、今にも飛び込まんばかりだ。
見る間に子狼の体は泥のなかに沈んでいった。射王は沼に張りだした大木の枝にとびつき、太い幹に宙釣りになり、消えかけた子狼の前足をつかみ引き上げた。
もがく体は思いのほか重い。木がしなる。
射王は泥まみれの子狼を抱くと、枝をけり沼の草縁に転がった。
息をほっとつき仰向けに倒れた。
母狼が慌ててかけより泥まみれの我が子を舐めていた。無事を確認するように細く鳴いている。
子狼はよろよろと起き上がるやいなや、全身の毛を思いきり逆立てた。泥は正面をむいていた射王の頭から爪先まで飛び散っていた。
「ひ、ひどいなあ。もう」
射王は泥を吐きながら袖口で顔をぬぐった。汚れの筋が広がった。
無事だった方の兄弟の狼が、無事を喜んでか母狼の周りを跳ねだした。泥にまみれた狼も一緒になって飛び回りだす。
「おまえらいい加減にしとけよな」
射王はため息をついた。どうせふざけ合って落ちたのだろう。
ざらりとした舌がいきなり射王の頬を舐めた。視線と同じ位置に、母狼の黄金の瞳があるのに一瞬間だけ、凍りついた。射王はだがすぐに優しい眼差しにきづいた。微笑した。
「大丈夫だよ。ありがとう」
いきなり泥まみれの小狼たちが背中に飛びついてくるので倒れてしまった。くすぐるように射王を嘗めまわし押し倒され転がる。
「やめろよ、いいよ汚いって。もうわかってるからさ」
二匹はあごから鼻から首から、そこらあたりを舐めまわした。お礼のつもりらしいが、泥がべっとり服を汚し、よけいに汚している。
「いいって、やめてよ」
転がりあいながら、いつの間にか射王は二匹の狼とじゃれあって遊んでいた。
肌を柔らかく噛んで服を引っ張るのに、黄金の毛並をクイクイと歯で引っ張りかえす。
遠い昔に人間がなくしてしまった毛の豊かな感触は、懐かしさを感じさせる。
射王の魂は、遠慮することなくおもいっきり遊ぶことによって、ゆったりとくつろぎ解放されていった。受け入れられている。
母狼は寝そべっていた。我が子たちを悠然と眺めていた。
しばらくして風が一陣吹いた。
母狼はすっくと立ち上がった。射王たちはぴたりと遊びをやめ、彼女を見る。
母狼は鼻をくいと崖の方に向けると駈け出した。遊んでいた彼らもまた、当然のように走りだした。
岩肌がむきだしされた丘を小気味よく跳ね登っていった。
いつのまにか月が昇り、月光に照らされてかれらは金色に光っていた。
夜という別の顔をした世界があらわれると、時の流れが変ってしまう。自然界と人間界つながりが忽然と消えうせてしまう。
射王は普通ならためらわれる岩場も、母狼についてなんなく飛び越えていた。
目に見えない力が射王を満たしたかのようで、身が軽く息一つきれない。
迷いなく駆ける母狼の姿は美しく射王を夢中にさせる。
――あれっ、あんなところに人が?
人影がすっと大木を横切った。女性のように見えた。
だが射王はすぐにこんな山奥に人間がいるわけがないと思い直し、振り向いて視線を寄せる母狼に追いつこうとして負けじと走った。
巣穴は岩場に隠されるようにして作られていた。洞が大岩の影のしたになるように口を開けているのだ。
入った中は、思ったよりずいぶん広くて暖かかった。射王が体を起こしてもじゅうぶん楽に座れ、臭いもなく清潔そのものだった。
月明りが岩の間から一条さしこむ。瞳は不思議と闇の濃淡まではっきりと捕らえる。
射王は寝転んだ。足元で遊ぶ子狼たちが嘗め合って射王を鼻でつついた。優しい目で見つめる母狼の瞳に安心して背伸びをした。
射王は舐められた。母狼はわが子のように射王を毛づくろい、そばに引き寄せてくれる。
射王は胸がちくちくしていた。とても気持ちがいいのに、なぜだか同じだけ息苦しい。
――変だな。なんかおかしいや。
嫌な苦しさではなかった。味わったことのない温かさに、本当の家族に囲まれているような切なさを覚えてしまうのだ。
これが幸せというのだろうかとふと思う。
どこにいても陰鬱で荒涼感がぬぐえなかった。他者の好奇な視線が射王を落ちつかなくさせ、早く何かせねばと、せきたてられた。
それはともに育った温羅や摩釉といても消えなかった。優しいだけに、つらくもある。
だがここは違っていた。悪意でも同情でもなかった。ただ当り前な公平さと温もりがあるだけなのだ。
傷つき疲れたものを受け入れるだけではなく、時にはつき放すかもしれないであろう厳しさがある。これが自然で生きてゆかねばならない緊張感なのだ。
「かあ、さん」
射王は母狼の胸の毛に顔をよせた。羽毛のようにふさふさとして柔らかかった。
母狼は黙って射王を受け入れた。黄金の瞳が眠気と安心感を誘うようで、射王は兄弟狼と母狼にくるまれ至福感を味わっていた。
なぜか温羅の心配げな顔が頭をもたげた。だがすぐさまそれは消えた。
母狼が身体を起こした。すでに月の光りが垂直に差し込まれていた。夜が一番深い時間だった。
巣穴からでると蒼く静かな世界が広がっていた。射王は力が熱くみなぎるのがわかった。
森を覆うように大きな月が浮かび上がっていた。紺碧の空が澄みわたり、草原が山の起伏にそって銀色にどこまでも続いていた。
合図のように、いっせいに遠吠えが響き渡った。肌がちりちりしてきて、射王もみなに合わせて吠えずにいられなかった。
言葉などいらない。目も耳も鼻も、思考さえ無用だった。五感で捕らえる以上のものを、体はすでに知っている。感じているのだ。
――あっちに行こうよ。
子狼が言った。射王はすぐさま後を追った。
言語などなくとも通じあえる。
射王は何かを思い出しかけたように眉間が熱くなった。もどかしいような、心地いいような。
射王は感じずにはいられない。
そこにいるのだ。それは、常にそこに『ある』のだということを。
――誰か、いる。
射王は目をつぶった。人の匂いを『感じ』た。遊んでいた子狼たちの輪からはずれて、射王はその感覚に惹かれるように走っていた。
滝の音が聞こえてきた。
月を映したまばゆい湖面のほとりへ出た。
白い水しぶきがはねてあがり、虹がほんのりと月光に輝いている。
幻想的だった。虹の下を歩いていた。
女性だった。だがひどく黒ずみ摺り切れた服を着ていた。まるで塵のようなくしゃくしゃな髪をひきずって素足でふらついている。
髪にかくされ顔こそ見えなかったが、手には何か大きなボロを大事そうに抱えている。
射王はふらりと彼女のほうへ歩みよろうとした。服の裾がクイと引かれた。いつの間にか来ていた母狼が射王の歩みを止めている。
――なぜ?
射王は彼女に問うた。母狼は否、とだけその瞳に告げて、まるで聖域にでも踏み込もうとするのを咎めるように、厳しくみつめた。
射王は後を振り返りながら彼女について帰った。
いつまでも彼女の姿が目に焼きついていた。